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中東断章

中東問題よこにらみ

アラブ人とユダヤ人

2010年12月26日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・
11) アラブ人とユダヤ人は、大昔は、ひとつであった。同じひとつのことばを話し、同じひとりの神を戴いていた。今、原セム人と呼ばれる人たちのことである。そうであるとして、では彼らがいつごろどこにいたのかということになるとよく分っていない。場所は、恐らくアラビア半島の紅海に沿ってのびる山地のどこかであろうが、半島先端のイェメンのあたりかも知れない。人類の生活の好適地で古い遺跡もある。そのほぼ中間地点にメッカ、メジナと港町ジェダがある。この山地は、東アフリカの地溝帯に生まれた新人が出アフリカを遂げた後の恐らく最初の宿営地であろうところに興味を引かれる。原セム人の滞在がいつごろかとなると、起源は雲の中のこととして、故地からの出発と分化の時期は、いくら古くとも1万年前とか、そのような数字で、これは学問の進歩につれていずれ判明してくる性質のものである。言語からの探求は手詰まりのようであるが、DNA分析のような新たな手段が現われてきた。セム人には、アラブ人とユダヤ人のほか、イエス・キリストが話したとされるアラム語を話すアラム人とか十幾つ数えられているが、ここではおいておく。

 1万年前、セム人全体が、核分裂を起こして一挙に十幾つに別れたというストーリーは考えにくい。ある日ある時、後にユダヤ人と呼ばれることになる一群の原セム人が、おそらく新天地の開拓という人間の本性に突き動かされて、原郷を後にした。数十人がせいぜいであったであろう。勿論、残留した人たちと同様、当初は原セム語を話し、自分たちだけが選ばれて神の恩寵を受けることができるというセム人の強烈な一神教を奉じていた。

 故地を出たユダヤ人は、どこをどう辿ったのか。彼ら民族の記憶を書きとどめた旧約聖書によれば、途中からメソポタミアの地へ行ったのは確かなようである。そこには既に高度な文明があった。次にファラオの君臨するエジプトへ行った。どこへ行ってもその土地の主人となることはなく、常に異端者、お客様であった。おそらく彼らの宗教がそうさせたのであろう。そうして前1500年ごろパレスチナの地に現われることによって歴史に登場する。そこで初めて自前の王国を建設するが、それも間もなく瓦解し、更にさまざまな苦難に直面しながら、ついに紀元前後にローマ軍によってパレスチナの地を追われ、北アフリカや欧州大陸をはじめとする各地に離散を余儀なくされることになった。

 一方、原郷に残ったであろうアラブ人の動静はどうかと言えば、これがさっぱり分からないのである。アラブ人が、長い長い沈黙の時を経て、初めて歴史に登場するのは実に7世紀のことで、それまでどこでどうしていたのかは分からない。完全な空白である。ユダヤ人がエルサレムに王国を作ってからでも2000年が経過しているのである。7世紀と言えば、辺境の日本人ですら、中国人から文字を習い始めて四五百年、次の世紀のはじめにまとめられることになる記紀万葉を準備していた頃である。中東のものは何でも古いと思いがちであるが、アラブ人の歴史への登場はその程度に新しく、それまでのアラブ人についてはほとんど何の痕跡も残されていないのである。ところが、アラブ人は、預言者マホメット(ムハンマド)の出現とともに歴史に登場するや否や、地上の超新星爆発のように、それまでに溜まりに溜まった民族のエネルギーを一挙に解き放ったのである。まことに謎の民族というほかない。

 それにもかかわらず、ユダヤ人が原郷を飛び出してアラブ人が居残ったという想定は、彼らの言葉のありようにもとづいている。コーランとして書きとめられた7世紀のアラビア語と恐らくそれをさかのぼること2000年以上と考えられるユダヤ人の言葉である旧約聖書のヘブライ語を比べて見るとき、衆目の一致するところ、アラビア語の方が断然古形を保っているのである。それはちょうど、原セム語という山から流れ出た川に転がり落ちた石ころが、一方のアラビア語は川の中流にとどまったまま原石のゴツゴツした角を残しているのに対し、ヘブライ語の方は、長い川を流れ下って海岸に打ち上げられた石ころのように角をすり減らして丸くなっているのである。旧約聖書が書き留められてからおそらく2000年も下った時点で、両者の間にはそれほどの違いがある。そのことは、ユダヤ人が実に広く激しく動き回って、多くの異民族と接触したことを物語っていると考えられる。反対に、アラブ人は、1万年になんなんとする期間を隔絶した砂漠でラクダに乗って・・・
 また、アラビア語の文字も、その類似性から、コーランを書きとめるに際してヘブライ文字をもとに作られたと見るのが自然である。

 宗教の方はと言えば、イスラムの伝承によれば、622年、多神教徒の町メッカを追われた預言者の一行七十数名がメジナに移り住んだが、その時メジナにはユダヤ人の集団が住んでいた。7世紀には、既に殆どのユダヤ人はパレスチナの地を追われて離散状態にあったので、メジナのユダヤ人もそうした孤立した数少ない一群であったであろう。成立期のイスラムとユダヤ教徒の接触は、あったとしても、この程度の極めて限定的なものであったと考えられる。このユダヤ人たちはイスラムを受け入れることを拒否し、そのためイスラムはユダヤ教と袂を分かち、礼拝の方向もそれまでのエルサレムからメッカへと変えたという。(それにしてもメッカを支配していたという多神教徒とはどこのだれであろうか。)

 このことから考えられるのは、アラブ人とユダヤ人に共通する強烈な一神教は、これが別々に徐々に形成されたものではなく、イスラムがユダヤ教を真似たのでもなく、彼らの言語と同様に、原セム人としてもっていたものであろうということである。原セム人の段階では多神教か何か別の形の宗教であって、ユダヤ人が流浪を続けるうちに自らの神ヤハウェを形成していったとするのは当らないように思われる。それが証拠に(なるかどうか)、イスラムは、自らの民族の遠い記憶を頼りにユダヤ人の旧約聖書を自らの聖典として受け入れ、アダムに始まり、アブラハムやモーセからイエスキリストまで、多くのユダヤ教の預言者を自らの預言者としているのである。


 アラブ人とユダヤ人をめぐる歴史は、7世紀以降のことについてはほとんど語り尽くされており、上記の空想物語と合せて首尾一貫したしたことになる。テロ問題を考えるにしては、随分遠回りをしてしまったが、テロ問題に戻る前に、ひとつ、アラブ人とユダヤ人をめぐる不思議な現象に触れておきたい。そのことを念頭に上記を綴ったようなものであるが、それは両者のノーベル賞受賞者の数の違いである。

 周知のように、これまでノーベル賞の自然科学各賞を授与されたのは欧米諸国の科学者がほとんどであるが、国籍は別として、その中で人種或いは民族としてのユダヤ人の占める割合が非常に高いということである。逆に言えば、ユダヤ人がノーベル賞をとりまくってきた。どれほど多いかということは次の文章がよく説明している。

 『1901年から始まるノーベル賞受賞者の統計を見ると、自然科学分野におけるユダヤ人の突出ぶりがわかる。2005年度までの医学生理学賞のユダヤ人受賞者は48名(182名中)、物理学賞は44名(178名中)、化学賞は26名(147名中)。それぞれ26パーセント、25パーセント、18パーセントに相当する。ユダヤ人は世界人口の0.2パーセントを占めるに過ぎないのであるから、これはどう考えても「異常な」数値である。』(内田樹「私家版・ユダヤ文化論」文春新書2006年)

 対するに、セム人のもう一方の雄、アラブ人の受賞者は、フェムト秒化学を開いたエジプト人でカリフォルニア工科大学教授アハマド・ズウェイル博士ただ1人である。この研究は留学先のアメリカでなされたが、同氏がアレクサンドリア大学を卒業していることで、エジプト人の誇りとなっている。

 ユダヤ人受賞者の数が「異常な」数値であるとすれば、アラブ人1人という数値は、ユダヤ人との対比の上でも、異常さを通り越して、考慮の域を越えているとでも言わなければならない。言葉を失うのである。これは、ヨーロッパ大陸にあって先住かつ先進のインドヨーロッパ民族に長年いじめられ揉みに揉まれてきたユダヤ人と故地にあってトルコ人支配のもとで長い間平安の生活を送ってきたアラブ人の違いによるのであろうという妄想から逃れることができない。もちろん、ユダヤ人の立場に置かれれば、どの人種あるいは民族でもノーベル賞をたくさん取ることができるかと言えば、それは別問題である。しかしアラブ人とユダヤ人の資質に違いがあるとは思われない。このことは、オリンピックにおけるアラブ国の甚だしい成績不振という現象とあいまって、アラブ・イスラム世界を考える上でのひとつの鍵となるであろう。


 また、「アラブ人とユダヤ人」という括り方をするとき、ユダヤ人がポグロムやホロコーストといったヨーロッパにおけるユダヤ人虐待に対して激しいテロをもって答えることをしなかったことや、イスラムのテロ活動が当面の敵であるユダヤ人やイスラエルに向かわず、欧米諸国に向けられていることをどう理解すればよいかという疑問が自ずから湧いてくる。

 さらに、ヨーロッパにおけるユダヤ人排斥を受けてアメリカへ逃れたユダヤ人が、そこを永住の地とすることができるのかどうかという疑問がある。アメリカ人の主体はヨーロッパ人である。在米ユダヤ人の強力なイスラエル支援は、同胞に対する単純な同情や援助ではなく、自らの安息の地を確保するための保険料であり前金のつもりではないかと考えられる。

 さらに、また、戦後移民労働者としてヨーロッパに入ったアラブ・イスラム教徒は新たなユダヤ人ではないのか。欧州へうかうか入っていくアラブ人イスラム教徒も、それを受け入れる欧州人も、つい最近の歴史から何も学んでいないのではないだろうか。ヨーロッパ人は、使えるだけ使って、またいつでも追い出してやると傲慢に構えているのかも知れないが。歴史は繰り返すと言うが、将来に禍根を残さなければさいわいである。

 ところで、イスラエル国内で国の将来の根本にかかわる議論が始まっているという。(ル・モンド・ディプロマティーク「パレスチナ、単一の国家、二つの夢」Oct.2010)。この国が今のような形で将来にわたって国として存続していくことができるかどうかはイスラエル人自身が最も心配しているところであるはずだ。だが、こうした議論も現下のイスラム・テロ活動を鎮静化させる方向に働きそうにないことが残念である。
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アラブ・イスラム社会と近代化

2010年12月03日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・
10) 「アラブ・イスラム社会の近代化は可能か」といった類の設問を見かけることがあり、さまざまな議論があるようである。そうあってくれれば、バランスのとれた安定した世界の形成のために望ましいことであるが、こればかりはありそうにない。もしアラブ・イスラム社会が近代化できるのであれば、たとえかすかであってもこれまでに何かそのような兆し、胎動が見られてもよさそうなところである。だが、この社会に近代化に向かっての新しい動きはない。パレスチナ戦争からすでに60年、パレスチナとアラブ世界にとっての岐路となったヨルダン内戦からでも40年が経過し、その間アラブ・イスラム社会の動きをちらちらと横目で眺めてきたものの目には、この社会がこれから大きく変身して、欧米や日本のような整備された高度な産業社会に脱皮することができるとはほとんど考えることができない。

 近代化と言うとき、ここでは現在中国で進行中のもののような、単純ないわゆる「経済発展」型のものを言っている。とりあえずは、がむしゃらに技術を導入し、工場を建てて、豊富な安い労働力を使って出来てきた製品を輸出して金を稼ぐというものである。新技術の開発は後回しにして、必要な人材はは世界中から人攫いをしてでも連れてくる。企業家は、間違っても共産党の統治制度に触れるような言動は許されないし、考えもしない。

 中東でも同様で、もし近代化があったとしても、それは我が国が辿った明治維新以来の「文明開化」型の近代化ではあり得ない。アラブ世界には、経済開発も取り込んだ包括的な文明開化は到底ないであろう。それはまったく当てはまらない。アラブ人は、イスラムこそ最高の文明であると信じている。イスラムやイスラムに基づいた統治制度に触る部分があることは許されるわけもなく、ただ経済発展だけを志向するものであるはずだ。

 偶然であるが、中国でも、1949年の中華人民共和国の成立からちょうど60年である。中国人は、お山の大将で、よく知られているように、周囲の人々を北狄(ほくてき)・東夷・南蛮・西戎(せいじゅう)と蔑んで憚らない。同様に、アラブ人も、いつまでたってもイスラムの本家意識は強烈である。アラブ世界と中国は、人口の面でも、広い領域でも歴史的にも、選挙と議会に基づかない(現在では)特異な政治が行われているところも含めて、ユーラシア・アフリカ大陸の東西に分かれていながら、どこか相似たものを感じさせる。

 さて、アラブ世界は、今や経済大国となった中国や走り始めたインドを見据え、これまでにせめて追随を試みるようでなければならなかったであろう。アラブ世界全体の近代化は現実的ではないとしても、最も可能性がありそうだったのは言うまでもなくエジプトであり、エジプト以外にない。70年代のソ連の支援によるアスワン・ダム建設の頃は、そこから生まれる電力を利用して工業化を達成するというバラ色の夢が盛んに語られた。以来エジプトはどのように前進を遂げたのだろうか。いろいろ数字を並べてもむなしく、もう多言を要しないだろう。相も変わらぬピラミッドとスエズ運河頼みである。国内消費をまかなう石油とガスが見つかったのは朗報であったが、どれひとつとしてエジプト人が作り上げたものではない。


 オスマン帝国支配のもとにあった中東アラブのイスラム教徒は、数百年という本当に長い間、平安の眠りを眠ってきた。その間、人々はすべての想念を神に捧げ、神の徳を賛美しつつ、まさにイスラム教徒として理想の生活を送ってきたのである。民衆はイスラム教徒として純粋培養された。社会的には、一切の矛盾も問題もなく、言わば過不足のないイスラム社会が実現していたと考えられる。個々人としては、イスラム教徒として至福の人生を送っていたものと考えられる。彼らは、外界の出来ごとにはまったく関心をもたなかった。どうして神以外のことを思い煩う必要があろうか。地中海の対岸の18世紀末に始まる産業革命も学問の進展も目に入らなかった。

 こうした状況は、長い年月を通して、次の世代に対する教育によって固定されるところが大きかったであろう。教育として行われていたのはコーランに基づく宗教教育のみであり、それも、おそらく、ひたすらコーランを暗誦させるものであったであろう。コーランの丸暗記である。しかもそれは男子のみが対象で、女子には教育らしい教育は何も行われなかった。また、算数や理科や社会といった世俗的な科目の教育は行われなかった。天界も人間も神が作られたとおりにここにある以上、その原因や理由や将来を問う必要がどこにあるだろうか。

 そこへ近代産業の成果物で武装し、征服欲に燃える欧州帝国主義列強の軍隊が進軍してきた。これにはイスラム教徒側は全くなすすべがなかったのである。武力で対抗できなかったのはもちろんであるが、それ以前に、教育、学問、産業、社会制度等々、ヨーロッパ社会と中東アラブ・イスラム社会との大きな落差の存在が理解できなかったであろう。外界で何が起こっているのかが理解できなかったであろう。なぜ攻撃を受けるのかも理解できなかったと思われる。


 ここで、日本的な感覚では、近代産業を背景としたヨーロッパの圧倒的な脅威に直面して、国王なり大統領なりが「これはいかん」と気づき、大悟一番「ヨーロッパに習え!」と号令をかけ、国の近代化に向けて大きく舵を切ることが期待される。どこかの国のように、ヨーロッパから先生を呼んできて学校を建て、選挙制度を導入して政治体制を組み替え、産業を興して朝から晩まで牛馬の如く働くように国民にはっぱをかける指導者が出現し、眠りから醒めた国民も一体になって燃え上がるであろうと期待される。しかし、アラブ・イスラム社会からはそのような開明君主が登場する見込みはないのである。なぜなら、そこは、イスラム社会として開明され尽くした成熟社会であり、それ以上の開明はあり得ないからである。同じように、福沢諭吉タイプの思想家が現われる見込みもない。そのような人物は、現われるや否や即座に抹殺されてしまうであろうし、そもそも現われる土壌がない。

 では、文明開化と言わないまでも、せめて鉄鋼業を興し軍艦や戦車を作る近代産業だけを導入することに挑戦はできないのだろうか。殖産興業である。政治制度や法律や宗教教育などには一切さわらずに、中国のように「経済発展」だけを取り入れたらいいではないか。そうすればイスラエルとも互角に戦うことができるようになるであろう。実のところ、そうはならないところがアラブ・イスラム国のアラブ・イスラム国たる所以なのである。


 社会の産業化を進めるには、初等教育から大学に至るまでの学校教育が決定的に重要であるはずだ。近代産業は、高い国民教育を前提として成り立っている。国民は、教育を通じて身につけた科学技術を応用して高い価値をもつ製品なりサービスなりを生み出していくことになる。現在のところは会社と言う企業体を作って、そこで仕事をすることがはやりとなっている。

 ところが、まず、産業化の前に避けては通れない学校教育がうまく行かないのである。いい例が理科教育であるが、理科では、例えば宇宙の生成や生物の進化のように、コーランの記述と背馳することを子どもたちに教えることになる。コーランは、宇宙も人も神が作ったとしているのに対し、現代の科学はそうとは教えない。これは、ほんの一例であるが、イスラム社会の根幹を揺るがすところのまことに深刻な解決不能の問題であり、教師も生徒も身動きがとれない困った状態に置かれることになる。つまり、神のことばであるコーランは絶対無謬である。一方、科学上の発見は、観察と実験と推論により(少なくとも今のところは)疑問の余地はない。
 結論的に、イスラム教徒としては近代科学に従うわけにはいかない、ということになる。


 難しいことには目をつむって、ともかく卒業したとしよう。そうした青年が一人で農業や漁業に従事する段には問題は少ないが、役所や企業体に入って大勢の人と共同で仕事をするとなると、さまざまな問題が出てくるのである。

 アラブ・イスラム人は、多くの人間が一か所に集まって、オーケストラのように、監督者の指揮のもとに一糸乱れずさまざまな作業を分担して遂行するということが大変へたである。これは、やってみたがダメだったというのではなく、やる前からこういう状況を忌避しているようなところがある。「お前はお前、オレはオレ」である。
 この社会では、家内工業がせいぜいであるであろう。そこでは父親の権威でともかく統制をとることができるし、女性も邪魔なベールをつけなくてすむ。これが村内あげての工場となると、おそらく、もう収拾がつかなくなるであろうし、女性は隔離されることになる。近代産業の標語である「効率的」も「能率的」もどこかに飛んでしまうのである。

 しかし、アラブ・イスラム社会における産業化に対する最大の制約条件は、女性の力をうまく活用できないことである。妻や娘を近い親族以外の男性には見せないという女性隔離の原則があり、外部世界にあるような形で男性と女性が立ち交じって仕事をするこができないのである。このことはきちんとコーランに書かれてある。そのため、外部世界からの刺激を受けて、いかなる形の女性解放運動が起ころうともその影響は限定的であり、原理をもち出されれば対抗できない。純粋に内発的な女性解放運動はあり得ない。


 これでは近代的な産業社会を作り上げることは難しい。細かいことを言い出せばキリがないのであるが、単純に「経済発展」に突き進むことができない背景にはこのような事情があるであろう。

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アラブの人と社会

2010年11月19日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・
9) パレスチナは、イスラエルとの戦争で負け続けた。しかし、これは、ある意味で仕方がないことだったのである。戦力について見ると、48年のパレスチナ戦争の頃こそ両者は似たようなものだったであろう。いやむしろ土着のアラブ側の方が優っていたかもしれない。兵数においては断然優っていた。それでも負けた。その後は、欧米の同胞や支援国から大量の最新式の武器や物資の補給を受けるようになったイスラエルの方が急速に戦力を向上させ、以後はパレスチナ側が武力で勝てる状況では全くなくなったのである。

 だが、もしそうであれば、パレスチナ人、アラブ人は、然るべく状況を判断して、イスラエル軍に対して後生大事のカラシニコフ銃を手に立ち向かうようなことはやめて、別の方法で対抗することを考えなければならないところである。烏合の衆の抵抗組織がちゃちな爆弾ロケットをイスラエルに打ちこみ、それを口実にした過剰な報復攻撃を招くような愚は早々と止めなければならないところである。

 一方のアラブ連盟も、今は、欧州連合の力強い試みを見ていないわけでもないであろうから、またアジアの新しい動きに気づいていないわけでもないであろうから、迷走と言うも愚かな茶番劇を演じ続けることはやめて、ここ一番、何らかの実効ある動きをしなければならないところである。アラブ産油国に溜まる資産にたかるのではなく、相応の配当を払ってやっていける事業を構想し、それに対して資本として拠出させるようにしなければならないところである。サウジやアブダビやドバイのつまらないビル道楽をいい加減に押しとどめ、アデンを中東のシンガポールとするような議論があってもいいところである。

 だが、パレスチナにしろアラブ連盟にしろ、これまでの軌道が修正される見込みはない。

 どうやら、アラブ社会は、冷静に議論して戦略を練り、しっかりした目標を立て、それに向かって足並みを揃えて進んで行くということができるようにはなっていないように見える。もしそういうことが出来るなら遠の昔にやっているはずだ。アラブ社会は、欧米諸国とは異なり、日本や他のアジア諸国とも違って、はなはだ特異な作りになっているに違いない。

 パレスチナ戦争とアラブ連盟を同列に論じられるかどうか分からないが、それらがうまく行かない根はひとつと見る誘惑に勝つことが出来ない。そのよって来たる由縁を考えたいのだが、とてもではないが手に負える問題ではない。ここでは、本意ではないが、アラブ・イスラム社会の悪口を並べ立てながら、思いつくところを記して見たい。


◎ 四分五裂

 アラブ・イスラム社会では、個人のレベルでも組織どうしでも国と国の間でも、本当にまとまりが悪い。アラブ・イスラム社会は、そこでは建設的な議論は成り立たない。議論が収斂してこないのである。解決すべき問題が生じるたびに、直ちに口論が始まり、口論からから抗争へ、抗争から分裂へと進んでいく。アラブ世界では、官庁でも企業でも何かの団体でも、大組織が整然と稼働する姿は想像することができない。事実、伝えられるところでは、どの国の政府組織も非効率きわまりなく、製造業であれサービス業であれ、世界に通用する大企業体がアラブ世界に存在するとは寡聞にして知らない。

 そのことは軍隊についても言えるであろう。軍隊は、司令官の命令一下、一兵卒に至るまで機械のように正確に動かないことには勝利はおぼつかないはずである。しかし、上記のようなアラブ人の性向からして、そうしたことが実現しているとは考えにくい。千年前はいざ知らず、今のアラブの軍隊が戦争に勝つことはできそうにない。

 抗争と分裂には憎悪がつきものである。アラブ社会では、憎悪が先にあって、それが原因で抗争と分裂が起こるのか、分裂を重ねた結果個人や小組織どうしの間に憎悪が醸成されてくるのか、その辺のところはよくわからないが、ともかく、彼の地では、個人や群小組織がそれぞれ何かに向けての憎悪の念に駆られて渦を巻いている。


◎ 無関心

 アラブ諸国の国民が、口で言うほどに、パレスチナの土地やパレスチナ人、パレスチナ難民のことを心配しているわけではないし、事実、十分な或いは心からの支援の手を差し伸べているとは言えない。「他人ごと」である。アラブ人はパレスチナ問題に真剣に対処していない。軍事的な面でも、周囲のアラブ軍はほとんど傍観していた。実際にイスラエル軍と死力を尽くして戦火を交え、全滅するといった場面は一度もなかった。第三次中東戦争におけるゴラン高地の攻防戦もあったが、執念に乏しいシリア軍はあっさり後退している。要するに、アラブ連盟のアラブのことに対する対応ぶりが全てである。

 それ以前に、当のパレスチナ人自身が本気でイスラエルと戦争をしているようには見えないのである。同情的に見れば、48年の最初のパレスチナ戦争では、パレスチナ人は、ヨーロッパ人と戦うという自分たちの置かれた厳しい事態に、またこの戦争に負けることの深刻な意味に想像力が及ばず、力を出し切る前に敗北に追い込まれたようなところがある。しかし、惨めな敗戦を経た後の数知れない戦いでも、パレスチナ人が決死の戦いを挑んだような形跡はない。そのことは、今日まで彼らがだらだらと無益な戦いを続けていることでも知れるのである。

 さらに、アラブ国を挙げての対イスラエル戦争のさ中に自他ともにアラブの盟主と認めるエジプトが涼しい顔でさっさと敵と手を握るなどということが起こる社会である。「アラブの大義」とか「アラブはひとつ」などは、そら言もいいところであり、またそれを承知でぬけぬけと言うところがアラブ人のアラブ人たる所以なのだ。


◎ 低い倫理観

 これはもちろん程度問題であり、また言いにくいことであるが、アラブ・イスラム諸国政府の倫理観、倫理性の低さについて言われることが少なくない。特にかつてのパレスチナ自治政府については、繰り返し汚職問題が指摘されてきた。政治家や官僚による横領や収賄である。腐敗である。国際機関や支援国からの支援金の多くがそれを必要とする民衆に渡る前にどこかに消えてしまったとされる。これはひとりパレスチナに限らないであろう。また、アラブ国における民衆による大がかりな略奪行為をテレビの映像で見ることがある。


 こうした現象をどのように理解すればいいか、どのように説明できるかはたいへん難しい。どうにもならない中で、やはりこの地の人とイスラムとの関係の中にその考えるヒントを求めるほかないように思われるのである。

 イスラム教徒の本願は、いわゆる六信五行を守ってこの世を暮らし、死してはやがて来る最後の日をまって復活を遂げ、神の前で審判を受けて、永遠に続く天国(極楽)での生活を送ることである。日常生活で起こるさまざまな出来ごとには神のことばであるコーランを規範として対処することになる。

 さて、イスラム教徒は一人ひとりが個々に神と結びついている。個々の信徒は、司祭や僧侶のような一切の仲介者なしに、直接神とつながっており、現世においても来たるべき審判においても、自分の命運の一切をこの限りなく強大な神に委ねている。

 そうとすれば、神と自分とのこの関わりの中で、自分が義であると信ずることは、他人が何を言おうと、他人がどうなろうと、どこまでも守り通さなければならないのである。他人の言うことを聞いて、それが神の意に沿わないことをもって、自分が地獄に落とされてはたまったものではないではないか。極端な話、理屈としては、一国の国王や大統領であっても、自分が地獄に落ちてしまっては元も子もないので、たとえ千万の国民はどうなろうとも、自分が救われると信ずる方向に走ることになるはずだ。自分がとった行動、これからとろうとする行動については、常に心の中で神と対話し、言い訳をし、折り合いをつけている。そこで自分が納得したことが全てとなる。

 言い訳という点では、イスラムに数多い厳格な「しなければならないこと」と「してはならないこと」について、それを守ることが出来なかった場合がしばしば起こる。現代社会では「礼拝ができなかった」「酒を飲んでしまった」「知らずに豚を食べさされた」等々、次から次へと日々違反のオンパレードであるはずだ。それについて、次から次へと神に対して、また周りの人に対して言い訳けをしていかなければならない。これもまたイスラム社会の多弁と身勝手のベースをなしているはずだ。自分で自分がうまく言い抜けられたと思えば、それが全てである。

 こうしてアラブ人は、どこまでも自分を打ち出して、他と妥協することに乏しく、人と人の間、人と神との間で果てしない対話や言い訳を繰り返す。

 ついでながら、アラブ人、アラブ・イスラム社会はたいへん暴力的であるように見える。繰り返される自爆による大量殺人のことを主に言っている。これは、われわれ日本人は言うところの「滅私」奉公のように考えやすいが、そうではない。実際は、実行者は、それを実行することは神の意に叶うことと信じて、自分を高めるために決行するのである。神の意に沿わぬと見られるものどもを一掃することによって、自分は神の目がねに叶い、天国に入れられると信じて決行するのである。
 もっとも、無実な人を多数巻き添えにしたり、ほとんど宗教的な意味のない「9.11」的な事件は、指導者によって仕組まれた政治的な効果が狙いであろうが、実行者は各自で自分の行為に宗教的な意味をもたせることになる。

 アラブ・イスラム社会が常に百家争鳴で、てんでんばらばらであるのは、このあたりに理由があるのではないだろうか。為政者も官僚も人民も、各人が各人の義を追及しているのである。社会全体で同床異夢現象が起こっていると言えるだろう。しかも、とても「床」はひとつとは言えず、異なる宗派、民族、主義主張といったさまざまな床があるため、事態は一層混沌としていると考えられる。

 オスマン帝国の統治のもとで、アラブ社会は、数百年の間、外界の雑音を遮断して、イスラムに則った平安な生活を送ってきた。まことに平穏な時代であった。だが、その時代は終わったのである。イスラムの原理が直接外界と接触することになって、世俗的な力では外界(西洋)に劣るイスラム世界が非常な痛みに苦しんでいるという状況であると考えられる。

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アラブ世界とヨーロッパ

2010年11月04日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・
7) パレスチナ戦争はイスラエルの勝利によって終わった。しかし、それはアラブの大海に浮かぶ小舟にも似て、いつ沈められてもおかしくない危うい存在であった。これまで事態がよく呑み込めず、言わば腰が引けていたような敵も、今や、死にもの狂いで襲ってくるはずだ。イスラエルにとっては、ここから真に生死をかけた戦いが始まったと言えるであろう。

 だが、その結果は、歴史が示すところによれば、その時から60年後の今日に続くアラブ側との戦いにおいて、イスラエル軍が全面的な勝利をおさめてきた。攻めるイスラエルに守るパレスチナ人・アラブ人という構図はゆるがず、イスラエルが一方的に攻めまくり、文字通り連戦連勝であった。大きな戦争としては、1948年の第一次中東戦争(パレスチナ戦争)から1973年の第四次まで数えられ、それ以外に恒常的にパレスチナの各地で戦闘が繰り広げられてきた。

 パレスチナ人もようやく組織的な抵抗を行うようになったが、大きな統一的な組織によって効果的な抵抗活動を行うに至らなかった。小さな組織が次々に生まれ、少し大きくなればたちまち分裂し、結局弱小組織が乱立することになった。分裂と抗争が絶えなかった。その中で、次のものは比較的よく知られている。

 1959 ファタハ結成
 1964 PLO設立
 1967 PFLP結成
 1988 ハマス結成

 パレスチナを支援すべき周辺のアラブ国はと言えば、1977年、「アラブの盟主」エジプトの大統領が突如イスラエルを訪問するという驚くべき挙に出た。これには多くの人は、わが目を疑い、ただただあっけにとられた。これが翌々年のエジプトのイスラエル国との国交の樹立につながるのである。これは、理由は何であれ、「同胞」に対する裏切りであり、戦線離脱である。脱走罪であるが、アラブ世界ではこれも厳しく問い続けられることはなかった。
 1994年、今度はヨルダンがイスラエルと和平条約を結んだ。ヨルダンの場合は、1970年のヨルダン内戦に見られたように、ヨルダン「王室」はもともとイスラエルと対決する意思はなく、常にイスラエルと意を通じていたとされ、このときの和平は形式的なものと受けとられた。

 いつの頃からか、パレスチナでの戦争は、イスラエルにとっては単なる消化戦争になっていたのである。

 イスラエルは、ひとつの戦闘で勝つたびにその地の住民を追放し、住地を奪っていった。そのことはパレスチナにおけるイスラエルの領土(領地?)の拡大の様子を示す数年置きの地図を並べて見れば一目瞭然である。当初、アラブ人一色であったパレスチナの地図が、年を追うごとに色違いで示されるイスラエルの領土やユダヤ人入植地が拡大していく様子が歴然と示されている。ユダヤ人に肩入れする人たちは快哉を叫び、パレスチナ人・アラブ人に味方する人はただ目を覆うばかりである。
(こうした地図は、英文検索の可能なエンジンで、「palestine」「map」などを組み合わせて探すとたちどころにいくつも引っかかってくる。ただ、それらの信頼性については注意が必要である。)

 結局、パレスチナに移ってきたユダヤ人は、彼らがヨーロッパで受けた虐待をそっくりそのままパレスチナ人にお返ししたことになるであろう。長年自分たちが周囲から受けてきた疎外に対する意趣返しというところかもしれない。ここにパレスチナ人のディアスポラが始まった。罪深いのはヨーロッパからユダヤ人を追い出したヨーロッパ人か、その前にパレスチナからユダヤ人を追い出したローマ人か。はたまた、その前のアッシリア人か、バビロニア人か。それともどこに居ても愛されることの少なかったユダヤ人自身なのか。

 ところで、世の中の勝負ごとは、野球やサッカーや相撲のようなスポーツはもちろん、競輪競馬でも、囲碁や将棋のような室内競技でも、すべからく勝ったり負けたりして推移するものであろう。勝ったり負けたりするので「明日」があるはずだ。あしたがあるから希望も湧いてくる。ところが、このイスラエル・パレスチナ戦争に限っては、両者は60年以上に渡って戦い続けているのであるが、パレスチナ側はただの一度も勝ったことがない。これでは勝負になっていない。まさに異常である。希望はどこかに消えて、絶望に陥らなければうそである。

 これは一体どう考えればいいのだろうか。もう戦いでも何でもない。これは、大人対子どもというタブーの戦いを戦ってきたのか。それとも、両者は別々のルールで戦ってきたのか。パレスチナ側は、自ら片手を縛ってボクシングを戦ってきたのではないのか。


8) イスラエルのユダヤ人とパレスチナのアラブ人との間の一方的な戦いとよく似た現象が、同時期に、もっと大きくヨーロッパとアラブ世界との間においても見られるのである。それは、言うまでもなく、欧州連合とアラブ連盟との違いである。このふたつは、互いに戦ったのではないが、第三者の立場からそれぞれの活動を自ら設定した目標に到達するための戦いと見立てたのである。ここでは、イスラエルのユダヤ人を、特にその指導者層を欧州人と見ていることになるが、このことにさほど問題はないと思われる。

 地域国家間の協力により戦後復興とさらなる発展を図るという似たような目標を掲げ、同じ時期にスタートした多国家間にまたがるふたつの組織の活動が、半世紀の間に真に驚くべき違いを生んでいるが、そこにイスラエルのユダヤ人とパレスチナ人・アラブ人の世界とを重ね合わせてみる誘惑に勝つことが出来ない。地中海を南北に挟むだけで、どうしてここまで違うのか。

 今日の欧州連合の成立までの略年表は以下のようになるであろう。まことに見事と言うほかない着実な足取りである。言葉も歴史も異なる多数の国々の代表が激しい議論を交わしながら、一歩一歩合意を形成し、合意したことは実行に移し、より高い目標に向かってさらなる議論を起こす、というプロセスがそこにはある。

1951 パリ条約調印(欧州石炭鉄鋼共同体の設立を協定)
1952 パリ条約発効、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)成立
   --------------------
1957 欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(ユーラトム)設立
1967 3共同体を統合し、欧州共同体を設立。EC委員会設立
   --------------------
1992 欧州連合条約(マーストリヒト条約)調印(欧州連合の設立を協定)
1993 欧州連合条約発効、欧州連合(EU)成立


 一方、アラブ連盟の方はと言えば、簡単明瞭という点では、次のただの2行でこれまでの経過を示すことができる。

1945 アラブ連盟設立
2010 リビアの都市シルトにおいて臨時アラブ首脳会議開催(10/10)

 アラブ連盟は、アラビア語という共通の言語をもち、イスラムという共通の宗教をもち、中東・北アフリカにまとまって位置するアラブ諸国が自主的に集まって協働や協業を議論する場である。そうであるので、このように簡潔に示されるのであろうか。いや、実際は、1945年の設立から2010年の首脳会議に至るまで、ほとんど同じ議論を繰り返して、何ひとつ成果をあげていないからなのである。事実は、この2行の間には、千万言はおろか、それこそ気の遠くなるような大量の議論が行われてきたのである。「アラブはひとつ」という標語が繰り返し言われてきた。それを繰り返しながら、何ひとつ変わらぬまま、今日に至ったのである。

 ごく最近リビアで行われた上記の臨時アラブ首脳会議について、エジプトの有力紙「アルアハラム」が伝える記事が、たまたま、東京外国語大学の「日本語で読む中東メディア」プロジェクトで翻訳され、有難いことに日本語で読むことができる。ところが、ここで伝えられていることは、数十年来の報道と何ひとつ変わらないのである。若い学生諸君は、これを新情報として取り上げたのであろうが、筆者は40年前に「同じ記事」を読んでいたということである。

 会議の様子も、それを伝える記事も、何十年、変わりない。仰々しい挨拶、参会者に対する白々しい賞賛とお追従、一転して非参会者に対する口を極めた避難と攻撃、形ばかりの合意と和解、さらに対立。また数知れない抗議声明や反対声明。多すぎる主要議題に、限りない決議また決議。責任逃れのためにどれほどの丸投げ用の委員会や協議会を作ってきたことか。いつも必ず繰り返されるアラブ諸国の協力の必要性の強調、お義理かとってつけたようなパレスチナ支援への言及、イスラエル非難。言葉ばかりが空転し、アラブの「首脳」たちはこうして半世紀を過ごしてきたのである。これとは別に、百数十回に及ぶ「アラブ外相会議」もあるが、こちらもいつも協力を約束し、イスラエルを非難して終わる。アラブ諸国の国民がこの事態を受け入れているところがわれわれにはまた理解できない。

 これでは、ヨーロッパでの類似の企てと比べて、アラブの側は「負けている」と言うことができるであろう。完敗である。パレスチナにおけるとまったく同じことが、地中海の北と南で起こっていると考えないわけにはいかない。

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イスラエル建国

2010年10月28日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・
 イスラム世界とその外部世界との関係がかくも険しくなったいきさつを、いささか乱暴であるが、いま一度振り返ってみよう。

 発端は、やはり、数千年の昔にさかのぼる。

1) オリエントの地は、日本人がアジア大陸のはずれの孤島で狩猟と採集の縄文時代前期を単調に暮らしていた頃、早くも前3000年代になるとあたりの様子がかなりよく見えてくる。アラビア半島を挟んで、北のメソポタミアではシュメール人が灌漑農業を始めて都市国家を作り、南のエジプトではファラオがピラミッドを建設して統一国家を作り、それらをつなぐ東地中海沿岸では海洋民族とされるフェニキア人が活発な通商活動を行っていた。(この三者が、後のセム人も含めれば四者が、いずれも独自にそれぞれの言葉を写す文字を発明し、今日に書きものを残していることは驚きに値する。)

2) それらに囲まれる形で、アラビア半島のどこかに、アラブ人とユダヤ人の共通の祖先に当るセム人が住んでいたと考えられる。アラビア人とユダヤ人は、まぎれもなく、同じ親から生まれた血を分けた兄弟なのである。そのことは両者の言葉が証明している。また両者の宗教がともに厳格極まりない一神教であることも共通の祖先の存在を思わせる。彼らも周囲の活発な動きに合わせてやや遅れて歴史に登場してくるのであるが、前1000年頃に至って、まずセム人の一派であるユダヤ人がパレスチナの地にエルサレムを中心とする王国を作り、ダビデ王に次いで「ソロモンの栄華」で知られる最盛期を迎えることになる。ソロモン王はエルサレムのシオンの丘に部族の神ヤハウェを祭る神殿を建てるが、そこにはダビデが葬られているともされ、これが後の時代の「シオンへ帰ろう運動(シオニズム)」の謂れである。
 ソロモン以後、ユダヤ人の国は、分裂と敗戦を重ね、人民は捕囚として異郷に拉致されるなど、凋落の一途をたどる。紀元前後には、パレスチナの地はローマ帝国の領土なり、ユダヤ人の抵抗も最後は、後70年、有名はマサダ砦の戦いでもって終わり、ユダヤ人はこの地に残ることは許されず、北アフリカや小アジア、欧州各地などへ散って行く。ディアスポラ(離散)の始まりである。

 以来ユダヤ人の言葉であるヘブライ語は地上から消えてしまう。もちろん旧約聖書は読み継がれ、宗教の言葉としては残ったが、移住先のユダヤ人の日常の話し言葉ではなくなった。ほとんどは移住先の言語に乗り移っていったであろうが、大きな集団では、自分たちのヘブライ語と移住先の言葉が混じり合った新しい言葉を作りだした。ドイツや東欧諸国で広く使われるイディッシュ語がその典型である。では現在イスラエルで使われているというヘブライ語は何か。これは、旧約聖書のヘブライ語をもとにして20世紀半ばに再興されたほとんど人工語なのである。ところで、この再興されたヘブライ語を学ぶことによって、世界各地から流入してくるユダヤ人の求心力が高められ、一体性が維持されることになったと言う。

3) ユダヤ人の国が興隆から衰亡への道を辿っていた頃、セム人のもうひとつの有力な一派、アラブ人が歴史に名前を出すことはない。石に刻まれた記録や旧約聖書には、それと窺わせるものはあっても、アラブとは明記されていないと言う。アラブ人は、アラビア半島のどこかで長く雌伏していたと考えられる。アラブ人の歴史への登場は、7世紀の預言者の出現によるイスラムの誕生を待たなければならなかった。ところが、いったん登場するや否や、アラブ人即ちイスラム軍は、中東の地を遥かに越えて、破竹の勢いで西へ東へ進軍を重ね、僅々100年ほどの間に西はイベリア半島から東は中央アジアに至る広大なイスラム世界を築き上げた。だれが言い出したのか、「剣かコーランか」という耳に快い標語が思い合わされる。

 アラブ人は、もちろん、旧都エルサレムを含むパレスチナの地を取り込み、ユダヤ人がヤハウェ神の神殿があったとする地点をすっかりイスラム化してしまった。どのように表現してよいか分からないが、そこで奇跡が起こり、イスラム教徒にとっても聖地となった。

 こうして生まれたイスラム世界は、その後各地で民族的諸勢力によるめまぐるしい消長劇を見せることになる。その間には人類史に耀く「イスラム文明」の花を咲かせた。ここでの話題に限って見れば、14世紀に小アジアに生まれたトルコ人のオスマン帝国が、15世紀半ばにコンスタンチノープルを陥れてビザンツ帝国を滅ぼし、その後次々に中東アラブ諸国を傘下に収めて巨大帝国を形成するに至る。ところが、近代化に遅れ弱体化したオスマン帝国は、19世紀末からの英仏を先頭とする帝国主義ヨーロッパ列強による植民地争奪戦の主舞台となり、1922年トルコ共和国となって消滅する。迫害をのがれて欧州からユダヤ人がなだれ込んできたときのパレスチナは、オスマン帝国の属領であり、ちょうどオスマン帝国の終焉の時と重なっていた。

 その頃のパレスチナの情勢は、トルコ人の総督もその相手方のアラブ人の知事もおらず、ユダヤ人側がアラブ人側と話し合いをしようにも「話し相手が見つからない」と言うほどに緩いもので、統治と言える実態はなかったようだ。治める者も治められる者もなく、住民はそれこそ羊とオリーブとエルサレムへの巡礼客相手の商売だけで二千年を神を讃えて暮らしてきたのであろう。荒野の広がる人口の希薄な土地であった。

4) イスラエル建国に至るヨーロッパ人によるユダヤ人排斥とその結果としてのユダヤ人のパレスチナへの流入は、直接的には、19世紀末のロシアにおけるポグロムによって始まり、1945年に終わるドイツのナチ党によるホロコーストをもって頂点に達する。この時期ヨーロッパには狂気が吹き荒れていた。ヨーロッパ人の「ユダヤ人嫌い」は、われわれ日本人の想像力のとても及ぶところではない。

 ユダヤ人のパレスチナ侵攻に関わる簡単な年表を作って見ると次のようになるであろう。

  1880 この頃からロシア各地ででポグロムが発生
  1897 バーゼルで第一回「世界シオニスト会議」
  1915 「フセイン・マクマホン協定」
  1917 「バルフォア宣言」
   ------------------------
  1933 ヒトラー、ドイツ帝国首相につく(翌年ドイツ総統になる)
  1938 「水晶の夜」
  1939 ドイツ軍、ポーランド侵攻
  1942 ユダヤ人に関わる「最終解決」
  1945 ヒトラー自殺、ドイツ降伏
   ------------------------
  1948/05 ベングリオン、「イスラエル独立宣言」
  1948-49 パレスチナ戦争(第一次中東戦争)


5) ダビド・ベングリオンによるイスラエル独立宣言に続いて始まる「パレスチナ戦争」は不思議な戦争である。どう見てもアラブ側が勝っているはずの戦争であったからである。ユダヤ人の流入が始まってから50年が経過していたとは言え、総人口でも50~60万人で、軍勢の詳しいところは分からないが、周囲を取り囲むアラブ軍には特に兵数において対抗すべくもなかったと考えられる。事実、それを写したかように、アラブ側には楽勝ムードが漂っていたと言われる。ユダヤ人を一人残らず地中海に叩き込むという意気込みであったであろう。ところがイスラエルはよくもちこたえ、翌年の国連による調停工作にもちこみ、アラブ諸国と休戦条約を結んで、国連にも加盟し、ここに堂々と居直ることになった。
 一体アラブ軍に何が起こったのか。いや、この腰抜けぶりが彼らの本性なのか。お人よしなのか。武士の情けでとどめを刺すことを思いとどまったのか。アラブ・イスラム世界によく見られる他者への無関心の表れか。不思議である。よく分からない。


6) さて、ここまで見てきて気づくことの第一は欧米人の身勝手さである。さらに、したたか、傲慢、冷徹等々、いろいろに言うことができる。例えば、日本人は、よく、イギリス外相の「二枚舌」外交などと情緒的なことを言うが、英国の外相ともなれば、時には信義が大切だ、約束は守れと相手に迫るかと思えば、自分たちが二枚舌、三枚舌を使うことなどは気にとめることもなく、強引に国益を主張してきたのである。

 ユダヤ人の送り出し先としても、南米やマダガスカルやオーストラリアなどさまざまな土地が候補として検討されたに違いないが、結局、ユダヤ人を早く厄介払いする方が優先し、現住のアラブ人のことは棚上げにして、ユダヤ人が固執する彼らの故地であるパレスチナに決めるほかなかった。

 一方、ユダヤ人とて、その指導者でまさか本当にユダヤ人に「パレスチナに帰還する権利」があると思っているものがいるわけはない。ここは平然と白を切って、パレスチナは自分たちのホームランドだと呼号して自らと帰還者を励ます方針を決めたのである。二千年をヨーロッパに住んで、戦略に長けたヨーロッパ人化したユダヤ人が、パレスチナ弱しと見て、新たな建国のために、領土奪取のための戦争を仕掛けに行ったのである。

 問題は、その辺の事情をパレスチナ人やパレスチナ人との同胞を言う他のアラブ人がしっかり見抜くことができず、自分たちの置かれた立場を理解していなかったことだ。事態を正確に把握し、然るべく対処できていなかったことである。自分たちの住地、国土を守るための当然の対策をとることができなかったことである。この時期を通じて、アラブ側の指導者として、エルサレムの名家の出というムハンマド・アミン・アルフセイニの名前がよく出るが、担がれたこの人物も、これを担いだ人たちも、おそらく自分たちパレスチナ人のおかれた厳しい状況が理解できていなかったように思われる。

 ところで、ここまで見た限りでは、さらに50年後の「9.11」を予想させるものは何もない。この時点ではまだ「イスラム」も「アメリカ」も影も形も見えず、話題にもなっていなかった。ということは、これらは無関係なのか。いや、パレスチナ戦争の終戦をもって問題が大きく変質し、パレスチナ問題が「中東問題」に拡大したことを示していると考えられる。第二幕の開幕である。

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テロリストの追及は・・

2010年10月28日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・

 イスラムが関係するテロに限らず、テロ事件は悩ましい。わが身をかえり見ず、政治や宗教目的のために破壊や殺傷事件を引き起こす犯人の思想心情には、はたからは窺い知れぬものがあるであろう。法律が禁じるところを犯すという点で犯罪に違いないのであるが、単なる金品目的や個人的な動機にもとづく犯罪の犯人とは同日の論ではない。「テロリストのかなしき心」を知ることは容易ではないであろう。

 ところで、イスラムが関係するとされる前記のようなテロ事件が起こるたびに、「犯人」についての微に入り細を穿った追及と報道がある。犯人像が徹底的に追及され、報道される。「何が彼をそうさせたか」である。「動機」は何か、その動機はどうして形成されたのか。犯人の生い立ちや家庭環境から始まって、欧米諸国への留学や移住の経緯、交友関係、周囲からの偏見と差別、イスラムへの回帰、原理主義との出会い、破壊活動の訓練等々、テロ活動を決意し実行に及ぶまでの経過が些細なことに至るまで掘り起こされ、報道される。「9.11」の際は、犯人の一人一人についてどんな偉人伝も及ばないほどの詳細な情報が提供された。

 これらの情報は、しかし、犯人逮捕の責任を負うFBIが必要とするもので、FBIの目線で収集されたものである。それはまた、国の安全と犯罪の抑止を任務とするCIAの要請する情報でもある。だが、それらは、小説をよむような面白さはあっても、われわれ日本人にとっては大した意味があるとは思えない。このような捜査情報にわれわれ日本人がいつまでも振りまわされているわけにはいかないのである

 日本人はまだ大きな事件の当事者たることを免れ、第三者の立場で観察し、考えることができる。この状態がいつまで続くのか分からないが、このあたりで一度「中東問題」のよって来たる由縁を振りかえり、今後の行方を占って見たい。
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欧州の暑い夏2

2010年06月15日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・
 フランス西部、ナント市のリエス・エバジ事件は、収束する気配が見えない。その後、男は、まとわりつく報道陣のカメラを蹴飛ばして損害賠償を求められたりするお騒がせを演じていたが、ついに詐欺や社会保障の不正受給、経営する清浄肉販売店におけるモロッコからの密入国者の雇用といったいくつかの容疑で当局に拘束された。その後の調べで、4人(3人?)の情婦との間に15人の子供がおり、3年間で175000ユーロの給付金を得ていたことが判明した。子どもはさらに2人増える予定とのことである。ところが、さらに、登記上のフランス人妻との間には5人の子供がいるという。

 リエス・エバジの重婚の容疑を政府当局がどのように判断するかが焦点となっている。

 スイスでも、時を同じくして、同様の事件が起きている。トルコ人男性が、26年前にスイス人女性と結婚し、一人の娘をもうけ、この結婚により7年前にスイス国籍を得ていた。ところがこのトルコ人男性は、別にトルコでトルコ人女性との間で2人の子供をもうけていたと言う。トルコへは年に4回の割で帰っていた。スイスの当局は、男の重婚の事実を認めて、本年5月、この男のスイス国籍を取り消した。

 スペインでは、バルセロナ市長が公的な場所でのニカブ、ブルカの着用禁止の市条例に署名すると発表した。市役所、公的な市場、託児所などへは人物を特定できないような服装で入ることができないようにするというものである。

 この夏、公共の場でのニカブ、ブルカ禁止の法律や条例制定の動きは、既に下院で議決済みのベルギーを始めとして、フランス、スイス、スペイン、イタリア、オランダなどへ急速に広がっていくと見られ、それに対するイスラム教徒の動きが注目される。イスラム教徒にとっては、女性のニカブやブルカは、これは公共の場でこそつけるものであって、自宅や親類や友人の家のような非公共の場ではつけるものではないことが紛糾の根源である。イスラム教徒に対して、公共の場でニカブやブルカをつけるなと言う方がどだい無理な相談なのである。解決はない。

 ところで、当初から、今回のフランスのリエス・エバジ事件の背後には宗教問題が絡んでいると見られていた。リエス・エバジは、パキスタン生まれのイスラム宣教運動タブリーグのアルジェリアの組織に関係していると見られ、事実何度かパキスタンを訪問していることが分かっている。彼のフランス人妻がニカブをつけてバイクを運転し、警察につかまり、記者会見を開いてその不当を訴えるなど、一連の騒ぎはリエス・エバジの演出かもしれないのである。しかし、その目的が何で、これまですべて筋書き通りなのか、どこかに誤算があったのかどうかなど、詳しいことはまだ分からない。
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テロの連鎖

2010年05月14日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・
 スカーフ問題はしばらくおいて、目をアメリカに転ずると、こちらでもイスラム教徒によるきわどい事件が続いている。さらに少し性格は異なるが、ロシアでもイスラム勢力によるテロ活動が再び活発になってきた。ここ半年ほどの間に報道された事件を日付け順にざっと振り返ってみたい。


1)アメリカ 10-05-01 -タイムズ・スクウェア爆破未遂事件-

 最も新しくは、5月1日、ニューヨークはタイムズ・スクウェアでの車載爆弾による爆破未遂事件である。捜査は目下進行中で、詳しいことはこれから発表されるであろうが、実行犯は30歳のパキスタン系アメリカ人ファイサル・シャザードで、1年前に米国籍をとったばかりだという。背後でパキスタンの過激派組織が関係していると伝えられている。事実か宣伝か不明だが、組織からの犯行声明も出ているらしい。

 アメリカへの帰化が僅か1年前に認められた男がこの犯行を担っているところに、さまざまなことを考えさせられる。アメリカの柔らかい脇腹を突かれた面もあるであろう。
 パキスタンは、政権はアメリカのお先棒をかついでいるが、民意というか国民感情はこれとまったく反対のはずで、このねじれがいつどのような形で破綻を来たすか予断をゆるさない。

 当初、爆発物の出来が幼稚であったとのことで、単なる脅しかとの声も聞かれたが、そうではなかったようである。もし犯人が抜かりなく破裂させておれば、大惨事になる破壊力をもつ爆弾であったらしい。そうして、もしタイムズ・スクウェアで多数の死傷者が出る事態になっておれば、アメリカによる報復攻撃は避けられず、それに対する抵抗が捲き起り、アフガニスタンに続いて隣国パキスタンも戦場と化すことになったかも知れないのである。ファイサル・シャザードの失敗は天の配剤であったであろう。


2)ロシア 10-03-29 -モスクワ地下鉄爆破事件-

 モスクワ中心部にあるクレムリン宮殿を挟むふたつの地下鉄駅で、3月29日、連続爆破事件が発生し、ロシア緊急事態省などによると、二回の相次ぐ爆発による人的被害は合わせて死者40人、負傷者は70人以上に達した。

 最初のルビヤンカ駅で自爆したのは、北カフカス(コーカサス)地方のダゲスタン共和国出身の28歳の女性教師だったと報じられている。次いで、文化公園駅での自爆攻撃の犯人は、同じくダゲスタン共和国を拠点に活動する反政府イスラム武装勢力の一員でロシアとの戦闘で死亡した兵士の妻である17歳のジェネット・アブドルアフマノヴァだということである。どちらも腹部に爆発物を捲きつけて爆破させたらしい。

 近時のロシアとイスラム世界との対立関係は分かりにくい。さしあたっては、帝政時代からソ連体制下にかけての友好関係、あるいは少なくとも無風関係から、ペレストロイカ以降、アゼルバイジャンなどカフカス山脈南部や中央アジアのイスラム諸国が独立を果たしつつある中で、取り残された感のある北カフカスの諸イスラム共和国の一部が先鋭化し、強くロシアからの独立を求めていると理解しておく。当然のことながら、ロシアはこれに対して一歩も譲る気配はなく、苛烈な軍事弾圧を行っている。

 この北コーカサスのイスラム勢力が、アルカイダに代表されるいわゆる過激派組織とどのような関係にあるかはもっと分からないが、おそらく無縁ではないであろう。少なくともイスラム原理主義に目覚め、鼓舞されていることは疑いをいれない。


3)アメリカ 09-12-25 -デルタ航空機爆破未遂事件-

 昨09年12月25日、クリスマスの日に、アムステルダム発デトロイト行きのアメリカ・デルタ航空機がデトロイト上空にさしかかったとき、乗客の自爆犯による爆破未遂事件が起こった。犯人のウマル・ファルーク・アブドルムタラブは、23歳のナイジェリア人であったが、身につけていた火薬の点火に失敗し、周囲の乗客によって取り押さえられたという。何はともあれ、惨劇が未然に防がれたことは幸いであった。

 これまた事件が未遂に終わったので忘れかけているが、犯人がもう少ししっかりしていて、もし爆破を成功させていたとすれば、火の玉となった航空機の破片と290人の乗客乗員が雨となって空からデトロイトの町の上に降ってくる地獄絵が現出するところだったのだ。

 いつものように犯人の生い立ちや経歴が詳しく報道されたが、それによれば男は前年ロンドン大学工学部を卒業したばかりのいわばエリートであったという。十代半ばに、アラビア語学習のためにイェメンに留学しており、昨年夏、再度イェメンに入国して、そこでテロ攻撃の訓練を受けて犯行に及んだとされる。

 父親のアルハジ・ウマル・ムタラブは、ナイジェリア第一銀行の前総裁であり、同時に経済発展に関するナイジェリア連邦委員会委員長で、ナイジェリアのみならずアフリカを通じても有数の資産家であるという。ナイジェリア経済界の大物である父親は、かねてこの息子のイスラム過激主義的傾向を心配して、現地のアメリカ大使館と連絡をとり、詳しく報告していた。いずれ何らかの反米行動を起こすことを予想していたのであろう。そのため、デトロイトでの事件を知って、米国が息子に対して入国ビザを発給していたことに絶句したという。


4)ロシア 09-11-27 -ネフスキー急行爆破事件-

 昨年の11月27日、モスクワ発サンクトペテルブルク行きの旅客列車「ネフスキー急行」が線路に仕掛けられた爆弾によって走行中爆破され、車体は大破して脱線し、死者28人のほか100人以上の負傷者を出した。

 この事件については、当初からイスラム勢力の関与が疑われているものの、はっきりした証拠があがったとの報道は今もってない。しかし、ロシア当局-連邦保安局(FSB)-は、北カフカスのイスラム勢力による犯行であるのは自明のこととしているようである。

 この事件を機に、北カフカスで相次いで掃討作戦を実施し、本年3月、チェチェンの隣国のイングーシ共和国で、かねて重要人物としてマークしていた指導者アレクサンドル・チホミロフを含むロシア国内でのテロ事件の容疑者8人を殺害したと発表した。チホミロフは、エジプトでイスラムを勉強した経験があり、中東のイスラム過激派勢力との接点をなす人物であったという。


5)アメリカ 09-11-05 -フォートフード陸軍基地乱射事件-

 デルタ航空機爆破未遂事件に先立つこと2月たらず、09年11月5日、テキサス州フォートフード米陸軍基地において、39歳の精神科の軍医ニダル・マリク・ハサン少佐による乱射事件があった。午後の基地内の集会室で、犯人は突然テーブルに飛び乗り、「アラー・アクバル」と叫びながら二丁の拳銃で発砲を始めたという。被害者は、死者13人、負傷者30人に及んだ。犯人は重傷を負ったものの、生存している。報道によれば、犯人によって撃たれた婦人警官が、負傷しながらも辛うじて反撃したことにより発砲が止んだということである。

 ニダル・マリク・ハサンは、その名の示すようにアラブ系イスラム教徒であるが、バージニア州生まれの米国人で、アメリカ人として育ってきた人間である。両親はパレスチナ出身のヨルダン人であったが、米国に移住したのちニダルが生まれている。3人兄弟で、一人はエルサレムに戻っているとのことである。

 同人は、定期的にモスクに通う熱心なイスラム教徒であった。近親者によれば、ハサンは9月中にもイラクに派遣されることになっていたが、かねて「ムスリムがムスリムと戦うことに耐えられない」と言っていたという。ハサンは、2001年にはバージニア州フォールスチャーチのモスクで「9.11」の犯人のうちのナワフ・アルハズミとハニ・ハンジュールの二人と出会っている。どのような経緯であったかは分からないが、今後の裁判で明らかになるかもしれない。

       * * * * * * * * * * * *

 もっと時間をさかのぼると、ロンドンやマドリードの事件等々枚挙にいとまがない。

 そうして、極めつきはいわゆる同時多発テロ事件「9.11」である。事件はまことに衝撃的であった。まるで夢を見ているようであったが、もちろん悪夢以外の何ものでもなかった。2001年9月11日、日本では多くの人は、翌12日の朝テレビをつけて知ることになったわけだが、ニューヨークはマンハッタンの世界貿易センタービル2棟が、ハイジャックされた定期旅客便2機の突入によって、飛行機の乗客とビルの勤務者、居住者もろとも破壊された。同時に、ワシントンにある国防省ビルへも別の奪取された旅客機が突っ込んだ。さらにもう一機、乗客たちの抵抗にあいハイジャックが失敗に終わって地上に激突したが、これはホワイトハウスなど別の攻撃目標への突入が計画されていたという。

 物的被害はさておいて、人的被害としては、4機の航空機の乗員乗客266名を含め、国防総省125人、世界貿易センタービル2700人、全体でおよそ3100人が犠牲となった。日本人も24人含まれていたという。ほかに、多数の負傷者が出ていることは言うまでもない。

 一連の事件の犯人とされたものは、いずれも中東アラブ国出身の若者たちであった。米国連邦捜査局(FBI)のウェブサイトには、今もそれら19人全員の名前写真が掲載され、情報を求めている。

 まさに前代未聞の大規模かつ周到なテロ攻撃であった。これが契機となってアフガニスタンが戦場となっていく。

       * * * * * * * * * * * *

 このような事件は、もちろん、これで終わったわけではない。それどころか、これからも時と所を選ばず、繰り返し起こると考えないわけにはいかない。いつどのような形で終息するのか、見当もつかない。

 こうした中で、われわれ日本人が、これらの事件に無関心であったり、遠い国での出来事として傍観していてはならないであろう。この事態を日本人としてどのように考えればよいのだろうか。
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欧州の暑い夏

2010年05月11日 | どこまでつづくぬかるみぞ・・
 ごく最近、ドイツ北西部のニーダーザクセン(低地サクソン)州で、トルコ人移民の二世でハンブルグ生まれの38歳の女性法律家アイギュル・オズカンが、州政府の社会福祉大臣に任命された。州レベルとは言え、ドイツでトルコ人移民が大臣に任命されるのは初めてとのことである。

 ところが、まだ就任前の4月25日、彼女が、公立学校は宗教的に中立でなければならないとして、「州の公立学校から、イスラム教の女性のスカーフと同じく、キリストの磔刑像も撤去すべきだ」と週刊誌で述べたことで、大騒ぎとなった。ドイツの多くの公立学校では、キリストが十字架に磔(はりつけ)にされた像のレリーフが壁に掛けられているという。彼女が、メルケル首相と同じキリスト教民主同盟(CDU)の党員であり、CDUのメンバーとしての登用であったことも論議を呼んだ。ドイツ人とトルコ人の統合の象徴だと自画自賛していたクリスチャン・ウルフ州首相も、キリスト教の価値観にもとづいたドイツの教育の伝統は断固守ると激怒したという。それのみならず、彼女に対する殺害の警告がなされ、警察の保護下に入る事態となった。

 これは、法律家としては、欧州人権裁判所の教育の非宗教化についての判決も踏まえた慎重な発言のつもりであったらしいが、政治家としては、州民あるいは国民の神経を逆なでするいささか過激な発言であったようである。今は、しかるべく釈明をして、宣誓の上大臣に就任している。

 一方、フランスでも、ドイツの事件と時を同じくして、イスラム教がらみの問題が表面化している。こちらは目下進行中である。

 本年4月初め、南フランスのロワール・アトランティック県で、イスラム教徒の女性がニカブ(目だけ出して頭部や上半身をすっぽり覆う頭巾)を着てバイクを運転していたところ、交通法違反容疑で警察に捕まり調書をとられた。それだけなら何ということもなかったが、この女性が記者会見を開き、ニカブをつけて運転することを禁止する法律はないと開き直った。そこから芋づる式にいろいろなことが明るみに出てきたのである。

 女性は、イスラム教に改宗したフランス人で、結婚していた。夫であるリエス・エバジは、30歳代のアルジェ生まれのアルジェリア人で、ナント市南部でイスラム教徒向けの清浄肉の販売店を経営している。この男は、小さな子どものときに南フランスに来て、1999年、このフランス人女性と結婚したことによりフランス国籍を取得した。

 ところで、ややこしいのはここからで、リエス・エバジは、上記のフランス人の妻のほかに、別の4人の女性との間で12人の子供をもうけていたのである。しかもその4人の女性が、それぞれ国の家族手当を受けていることが判明したのである。ここで、彼に対して、重婚と社会保障の不正受給のふたつの疑いがかけられることになった。重婚に関しては、もし当局が、この男がフランスで結婚した1999年時点ですでに結婚していることが証明できれば、虚偽と不正による帰化の取得の理由で、彼の帰化を取り消すことができる。

 しかし、男は雄弁であった。群がる報道陣を前にして、「自分は一人の妻と数人の情婦をもっている」「イスラムでは情婦をもつことは禁止されていない、多分キリスト教でもそうだろう、自分が知る限りフランスでは禁止されていない」「もし情婦をもっていることでフランス国籍を剥奪されるなら、そうなるフランス人もいるのではないか」と公言し、「情婦をもつことでフランス国籍を剥奪できるのか」とフランス男の痛いところをついてきた。
 単なる情婦とすれば、子供のいる単身の女性として国から扶助を受けることも違法ではなくなる。
 男の弁護士も、当然、重婚と公金詐取の事実を否定し、逆にこれは名誉毀損に当たるとして提訴をほのめかしている。

 一方、フランスのイスラム教徒団体は、イスラムは情婦を認めていないとして、リエス・エバジの釈明を非難し、糾弾する立場にまわった。

 こうした中で、4月29日、欧州で初めてベルギー下院において、公共の場でイスラム教徒の女性が顔も含む全身のほとんどを覆う衣装「ニカブ」や「ブルカ」を着用することを禁止する法案が可決されたことが報じられた。上院でも可決、成立の見込みという。フランス政府も近く同様の法案提出を検討しており、規制が欧州に広がる可能性がある、とのことである(10-04-30朝日新聞)。

 「ニカブ」や「ブルカ」を含めて、イスラム教徒の女性が被るスカーフの問題は、これまでさんざん論議を巻き起こしてきたことで、これがすんなり決着を見ることは考えにくい。欧州はまた暑い夏を迎えようとしている。
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