11) アラブ人とユダヤ人は、大昔は、ひとつであった。同じひとつのことばを話し、同じひとりの神を戴いていた。今、原セム人と呼ばれる人たちのことである。そうであるとして、では彼らがいつごろどこにいたのかということになるとよく分っていない。場所は、恐らくアラビア半島の紅海に沿ってのびる山地のどこかであろうが、半島先端のイェメンのあたりかも知れない。人類の生活の好適地で古い遺跡もある。そのほぼ中間地点にメッカ、メジナと港町ジェダがある。この山地は、東アフリカの地溝帯に生まれた新人が出アフリカを遂げた後の恐らく最初の宿営地であろうところに興味を引かれる。原セム人の滞在がいつごろかとなると、起源は雲の中のこととして、故地からの出発と分化の時期は、いくら古くとも1万年前とか、そのような数字で、これは学問の進歩につれていずれ判明してくる性質のものである。言語からの探求は手詰まりのようであるが、DNA分析のような新たな手段が現われてきた。セム人には、アラブ人とユダヤ人のほか、イエス・キリストが話したとされるアラム語を話すアラム人とか十幾つ数えられているが、ここではおいておく。
1万年前、セム人全体が、核分裂を起こして一挙に十幾つに別れたというストーリーは考えにくい。ある日ある時、後にユダヤ人と呼ばれることになる一群の原セム人が、おそらく新天地の開拓という人間の本性に突き動かされて、原郷を後にした。数十人がせいぜいであったであろう。勿論、残留した人たちと同様、当初は原セム語を話し、自分たちだけが選ばれて神の恩寵を受けることができるというセム人の強烈な一神教を奉じていた。
故地を出たユダヤ人は、どこをどう辿ったのか。彼ら民族の記憶を書きとどめた旧約聖書によれば、途中からメソポタミアの地へ行ったのは確かなようである。そこには既に高度な文明があった。次にファラオの君臨するエジプトへ行った。どこへ行ってもその土地の主人となることはなく、常に異端者、お客様であった。おそらく彼らの宗教がそうさせたのであろう。そうして前1500年ごろパレスチナの地に現われることによって歴史に登場する。そこで初めて自前の王国を建設するが、それも間もなく瓦解し、更にさまざまな苦難に直面しながら、ついに紀元前後にローマ軍によってパレスチナの地を追われ、北アフリカや欧州大陸をはじめとする各地に離散を余儀なくされることになった。
一方、原郷に残ったであろうアラブ人の動静はどうかと言えば、これがさっぱり分からないのである。アラブ人が、長い長い沈黙の時を経て、初めて歴史に登場するのは実に7世紀のことで、それまでどこでどうしていたのかは分からない。完全な空白である。ユダヤ人がエルサレムに王国を作ってからでも2000年が経過しているのである。7世紀と言えば、辺境の日本人ですら、中国人から文字を習い始めて四五百年、次の世紀のはじめにまとめられることになる記紀万葉を準備していた頃である。中東のものは何でも古いと思いがちであるが、アラブ人の歴史への登場はその程度に新しく、それまでのアラブ人についてはほとんど何の痕跡も残されていないのである。ところが、アラブ人は、預言者マホメット(ムハンマド)の出現とともに歴史に登場するや否や、地上の超新星爆発のように、それまでに溜まりに溜まった民族のエネルギーを一挙に解き放ったのである。まことに謎の民族というほかない。
それにもかかわらず、ユダヤ人が原郷を飛び出してアラブ人が居残ったという想定は、彼らの言葉のありようにもとづいている。コーランとして書きとめられた7世紀のアラビア語と恐らくそれをさかのぼること2000年以上と考えられるユダヤ人の言葉である旧約聖書のヘブライ語を比べて見るとき、衆目の一致するところ、アラビア語の方が断然古形を保っているのである。それはちょうど、原セム語という山から流れ出た川に転がり落ちた石ころが、一方のアラビア語は川の中流にとどまったまま原石のゴツゴツした角を残しているのに対し、ヘブライ語の方は、長い川を流れ下って海岸に打ち上げられた石ころのように角をすり減らして丸くなっているのである。旧約聖書が書き留められてからおそらく2000年も下った時点で、両者の間にはそれほどの違いがある。そのことは、ユダヤ人が実に広く激しく動き回って、多くの異民族と接触したことを物語っていると考えられる。反対に、アラブ人は、1万年になんなんとする期間を隔絶した砂漠でラクダに乗って・・・
また、アラビア語の文字も、その類似性から、コーランを書きとめるに際してヘブライ文字をもとに作られたと見るのが自然である。
宗教の方はと言えば、イスラムの伝承によれば、622年、多神教徒の町メッカを追われた預言者の一行七十数名がメジナに移り住んだが、その時メジナにはユダヤ人の集団が住んでいた。7世紀には、既に殆どのユダヤ人はパレスチナの地を追われて離散状態にあったので、メジナのユダヤ人もそうした孤立した数少ない一群であったであろう。成立期のイスラムとユダヤ教徒の接触は、あったとしても、この程度の極めて限定的なものであったと考えられる。このユダヤ人たちはイスラムを受け入れることを拒否し、そのためイスラムはユダヤ教と袂を分かち、礼拝の方向もそれまでのエルサレムからメッカへと変えたという。(それにしてもメッカを支配していたという多神教徒とはどこのだれであろうか。)
このことから考えられるのは、アラブ人とユダヤ人に共通する強烈な一神教は、これが別々に徐々に形成されたものではなく、イスラムがユダヤ教を真似たのでもなく、彼らの言語と同様に、原セム人としてもっていたものであろうということである。原セム人の段階では多神教か何か別の形の宗教であって、ユダヤ人が流浪を続けるうちに自らの神ヤハウェを形成していったとするのは当らないように思われる。それが証拠に(なるかどうか)、イスラムは、自らの民族の遠い記憶を頼りにユダヤ人の旧約聖書を自らの聖典として受け入れ、アダムに始まり、アブラハムやモーセからイエスキリストまで、多くのユダヤ教の預言者を自らの預言者としているのである。
アラブ人とユダヤ人をめぐる歴史は、7世紀以降のことについてはほとんど語り尽くされており、上記の空想物語と合せて首尾一貫したしたことになる。テロ問題を考えるにしては、随分遠回りをしてしまったが、テロ問題に戻る前に、ひとつ、アラブ人とユダヤ人をめぐる不思議な現象に触れておきたい。そのことを念頭に上記を綴ったようなものであるが、それは両者のノーベル賞受賞者の数の違いである。
周知のように、これまでノーベル賞の自然科学各賞を授与されたのは欧米諸国の科学者がほとんどであるが、国籍は別として、その中で人種或いは民族としてのユダヤ人の占める割合が非常に高いということである。逆に言えば、ユダヤ人がノーベル賞をとりまくってきた。どれほど多いかということは次の文章がよく説明している。
『1901年から始まるノーベル賞受賞者の統計を見ると、自然科学分野におけるユダヤ人の突出ぶりがわかる。2005年度までの医学生理学賞のユダヤ人受賞者は48名(182名中)、物理学賞は44名(178名中)、化学賞は26名(147名中)。それぞれ26パーセント、25パーセント、18パーセントに相当する。ユダヤ人は世界人口の0.2パーセントを占めるに過ぎないのであるから、これはどう考えても「異常な」数値である。』(内田樹「私家版・ユダヤ文化論」文春新書2006年)
対するに、セム人のもう一方の雄、アラブ人の受賞者は、フェムト秒化学を開いたエジプト人でカリフォルニア工科大学教授アハマド・ズウェイル博士ただ1人である。この研究は留学先のアメリカでなされたが、同氏がアレクサンドリア大学を卒業していることで、エジプト人の誇りとなっている。
ユダヤ人受賞者の数が「異常な」数値であるとすれば、アラブ人1人という数値は、ユダヤ人との対比の上でも、異常さを通り越して、考慮の域を越えているとでも言わなければならない。言葉を失うのである。これは、ヨーロッパ大陸にあって先住かつ先進のインドヨーロッパ民族に長年いじめられ揉みに揉まれてきたユダヤ人と故地にあってトルコ人支配のもとで長い間平安の生活を送ってきたアラブ人の違いによるのであろうという妄想から逃れることができない。もちろん、ユダヤ人の立場に置かれれば、どの人種あるいは民族でもノーベル賞をたくさん取ることができるかと言えば、それは別問題である。しかしアラブ人とユダヤ人の資質に違いがあるとは思われない。このことは、オリンピックにおけるアラブ国の甚だしい成績不振という現象とあいまって、アラブ・イスラム世界を考える上でのひとつの鍵となるであろう。
また、「アラブ人とユダヤ人」という括り方をするとき、ユダヤ人がポグロムやホロコーストといったヨーロッパにおけるユダヤ人虐待に対して激しいテロをもって答えることをしなかったことや、イスラムのテロ活動が当面の敵であるユダヤ人やイスラエルに向かわず、欧米諸国に向けられていることをどう理解すればよいかという疑問が自ずから湧いてくる。
さらに、ヨーロッパにおけるユダヤ人排斥を受けてアメリカへ逃れたユダヤ人が、そこを永住の地とすることができるのかどうかという疑問がある。アメリカ人の主体はヨーロッパ人である。在米ユダヤ人の強力なイスラエル支援は、同胞に対する単純な同情や援助ではなく、自らの安息の地を確保するための保険料であり前金のつもりではないかと考えられる。
さらに、また、戦後移民労働者としてヨーロッパに入ったアラブ・イスラム教徒は新たなユダヤ人ではないのか。欧州へうかうか入っていくアラブ人イスラム教徒も、それを受け入れる欧州人も、つい最近の歴史から何も学んでいないのではないだろうか。ヨーロッパ人は、使えるだけ使って、またいつでも追い出してやると傲慢に構えているのかも知れないが。歴史は繰り返すと言うが、将来に禍根を残さなければさいわいである。
ところで、イスラエル国内で国の将来の根本にかかわる議論が始まっているという。(ル・モンド・ディプロマティーク「パレスチナ、単一の国家、二つの夢」Oct.2010)。この国が今のような形で将来にわたって国として存続していくことができるかどうかはイスラエル人自身が最も心配しているところであるはずだ。だが、こうした議論も現下のイスラム・テロ活動を鎮静化させる方向に働きそうにないことが残念である。
1万年前、セム人全体が、核分裂を起こして一挙に十幾つに別れたというストーリーは考えにくい。ある日ある時、後にユダヤ人と呼ばれることになる一群の原セム人が、おそらく新天地の開拓という人間の本性に突き動かされて、原郷を後にした。数十人がせいぜいであったであろう。勿論、残留した人たちと同様、当初は原セム語を話し、自分たちだけが選ばれて神の恩寵を受けることができるというセム人の強烈な一神教を奉じていた。
故地を出たユダヤ人は、どこをどう辿ったのか。彼ら民族の記憶を書きとどめた旧約聖書によれば、途中からメソポタミアの地へ行ったのは確かなようである。そこには既に高度な文明があった。次にファラオの君臨するエジプトへ行った。どこへ行ってもその土地の主人となることはなく、常に異端者、お客様であった。おそらく彼らの宗教がそうさせたのであろう。そうして前1500年ごろパレスチナの地に現われることによって歴史に登場する。そこで初めて自前の王国を建設するが、それも間もなく瓦解し、更にさまざまな苦難に直面しながら、ついに紀元前後にローマ軍によってパレスチナの地を追われ、北アフリカや欧州大陸をはじめとする各地に離散を余儀なくされることになった。
一方、原郷に残ったであろうアラブ人の動静はどうかと言えば、これがさっぱり分からないのである。アラブ人が、長い長い沈黙の時を経て、初めて歴史に登場するのは実に7世紀のことで、それまでどこでどうしていたのかは分からない。完全な空白である。ユダヤ人がエルサレムに王国を作ってからでも2000年が経過しているのである。7世紀と言えば、辺境の日本人ですら、中国人から文字を習い始めて四五百年、次の世紀のはじめにまとめられることになる記紀万葉を準備していた頃である。中東のものは何でも古いと思いがちであるが、アラブ人の歴史への登場はその程度に新しく、それまでのアラブ人についてはほとんど何の痕跡も残されていないのである。ところが、アラブ人は、預言者マホメット(ムハンマド)の出現とともに歴史に登場するや否や、地上の超新星爆発のように、それまでに溜まりに溜まった民族のエネルギーを一挙に解き放ったのである。まことに謎の民族というほかない。
それにもかかわらず、ユダヤ人が原郷を飛び出してアラブ人が居残ったという想定は、彼らの言葉のありようにもとづいている。コーランとして書きとめられた7世紀のアラビア語と恐らくそれをさかのぼること2000年以上と考えられるユダヤ人の言葉である旧約聖書のヘブライ語を比べて見るとき、衆目の一致するところ、アラビア語の方が断然古形を保っているのである。それはちょうど、原セム語という山から流れ出た川に転がり落ちた石ころが、一方のアラビア語は川の中流にとどまったまま原石のゴツゴツした角を残しているのに対し、ヘブライ語の方は、長い川を流れ下って海岸に打ち上げられた石ころのように角をすり減らして丸くなっているのである。旧約聖書が書き留められてからおそらく2000年も下った時点で、両者の間にはそれほどの違いがある。そのことは、ユダヤ人が実に広く激しく動き回って、多くの異民族と接触したことを物語っていると考えられる。反対に、アラブ人は、1万年になんなんとする期間を隔絶した砂漠でラクダに乗って・・・
また、アラビア語の文字も、その類似性から、コーランを書きとめるに際してヘブライ文字をもとに作られたと見るのが自然である。
宗教の方はと言えば、イスラムの伝承によれば、622年、多神教徒の町メッカを追われた預言者の一行七十数名がメジナに移り住んだが、その時メジナにはユダヤ人の集団が住んでいた。7世紀には、既に殆どのユダヤ人はパレスチナの地を追われて離散状態にあったので、メジナのユダヤ人もそうした孤立した数少ない一群であったであろう。成立期のイスラムとユダヤ教徒の接触は、あったとしても、この程度の極めて限定的なものであったと考えられる。このユダヤ人たちはイスラムを受け入れることを拒否し、そのためイスラムはユダヤ教と袂を分かち、礼拝の方向もそれまでのエルサレムからメッカへと変えたという。(それにしてもメッカを支配していたという多神教徒とはどこのだれであろうか。)
このことから考えられるのは、アラブ人とユダヤ人に共通する強烈な一神教は、これが別々に徐々に形成されたものではなく、イスラムがユダヤ教を真似たのでもなく、彼らの言語と同様に、原セム人としてもっていたものであろうということである。原セム人の段階では多神教か何か別の形の宗教であって、ユダヤ人が流浪を続けるうちに自らの神ヤハウェを形成していったとするのは当らないように思われる。それが証拠に(なるかどうか)、イスラムは、自らの民族の遠い記憶を頼りにユダヤ人の旧約聖書を自らの聖典として受け入れ、アダムに始まり、アブラハムやモーセからイエスキリストまで、多くのユダヤ教の預言者を自らの預言者としているのである。
アラブ人とユダヤ人をめぐる歴史は、7世紀以降のことについてはほとんど語り尽くされており、上記の空想物語と合せて首尾一貫したしたことになる。テロ問題を考えるにしては、随分遠回りをしてしまったが、テロ問題に戻る前に、ひとつ、アラブ人とユダヤ人をめぐる不思議な現象に触れておきたい。そのことを念頭に上記を綴ったようなものであるが、それは両者のノーベル賞受賞者の数の違いである。
周知のように、これまでノーベル賞の自然科学各賞を授与されたのは欧米諸国の科学者がほとんどであるが、国籍は別として、その中で人種或いは民族としてのユダヤ人の占める割合が非常に高いということである。逆に言えば、ユダヤ人がノーベル賞をとりまくってきた。どれほど多いかということは次の文章がよく説明している。
『1901年から始まるノーベル賞受賞者の統計を見ると、自然科学分野におけるユダヤ人の突出ぶりがわかる。2005年度までの医学生理学賞のユダヤ人受賞者は48名(182名中)、物理学賞は44名(178名中)、化学賞は26名(147名中)。それぞれ26パーセント、25パーセント、18パーセントに相当する。ユダヤ人は世界人口の0.2パーセントを占めるに過ぎないのであるから、これはどう考えても「異常な」数値である。』(内田樹「私家版・ユダヤ文化論」文春新書2006年)
対するに、セム人のもう一方の雄、アラブ人の受賞者は、フェムト秒化学を開いたエジプト人でカリフォルニア工科大学教授アハマド・ズウェイル博士ただ1人である。この研究は留学先のアメリカでなされたが、同氏がアレクサンドリア大学を卒業していることで、エジプト人の誇りとなっている。
ユダヤ人受賞者の数が「異常な」数値であるとすれば、アラブ人1人という数値は、ユダヤ人との対比の上でも、異常さを通り越して、考慮の域を越えているとでも言わなければならない。言葉を失うのである。これは、ヨーロッパ大陸にあって先住かつ先進のインドヨーロッパ民族に長年いじめられ揉みに揉まれてきたユダヤ人と故地にあってトルコ人支配のもとで長い間平安の生活を送ってきたアラブ人の違いによるのであろうという妄想から逃れることができない。もちろん、ユダヤ人の立場に置かれれば、どの人種あるいは民族でもノーベル賞をたくさん取ることができるかと言えば、それは別問題である。しかしアラブ人とユダヤ人の資質に違いがあるとは思われない。このことは、オリンピックにおけるアラブ国の甚だしい成績不振という現象とあいまって、アラブ・イスラム世界を考える上でのひとつの鍵となるであろう。
また、「アラブ人とユダヤ人」という括り方をするとき、ユダヤ人がポグロムやホロコーストといったヨーロッパにおけるユダヤ人虐待に対して激しいテロをもって答えることをしなかったことや、イスラムのテロ活動が当面の敵であるユダヤ人やイスラエルに向かわず、欧米諸国に向けられていることをどう理解すればよいかという疑問が自ずから湧いてくる。
さらに、ヨーロッパにおけるユダヤ人排斥を受けてアメリカへ逃れたユダヤ人が、そこを永住の地とすることができるのかどうかという疑問がある。アメリカ人の主体はヨーロッパ人である。在米ユダヤ人の強力なイスラエル支援は、同胞に対する単純な同情や援助ではなく、自らの安息の地を確保するための保険料であり前金のつもりではないかと考えられる。
さらに、また、戦後移民労働者としてヨーロッパに入ったアラブ・イスラム教徒は新たなユダヤ人ではないのか。欧州へうかうか入っていくアラブ人イスラム教徒も、それを受け入れる欧州人も、つい最近の歴史から何も学んでいないのではないだろうか。ヨーロッパ人は、使えるだけ使って、またいつでも追い出してやると傲慢に構えているのかも知れないが。歴史は繰り返すと言うが、将来に禍根を残さなければさいわいである。
ところで、イスラエル国内で国の将来の根本にかかわる議論が始まっているという。(ル・モンド・ディプロマティーク「パレスチナ、単一の国家、二つの夢」Oct.2010)。この国が今のような形で将来にわたって国として存続していくことができるかどうかはイスラエル人自身が最も心配しているところであるはずだ。だが、こうした議論も現下のイスラム・テロ活動を鎮静化させる方向に働きそうにないことが残念である。