9) パレスチナは、イスラエルとの戦争で負け続けた。しかし、これは、ある意味で仕方がないことだったのである。戦力について見ると、48年のパレスチナ戦争の頃こそ両者は似たようなものだったであろう。いやむしろ土着のアラブ側の方が優っていたかもしれない。兵数においては断然優っていた。それでも負けた。その後は、欧米の同胞や支援国から大量の最新式の武器や物資の補給を受けるようになったイスラエルの方が急速に戦力を向上させ、以後はパレスチナ側が武力で勝てる状況では全くなくなったのである。
だが、もしそうであれば、パレスチナ人、アラブ人は、然るべく状況を判断して、イスラエル軍に対して後生大事のカラシニコフ銃を手に立ち向かうようなことはやめて、別の方法で対抗することを考えなければならないところである。烏合の衆の抵抗組織がちゃちな爆弾ロケットをイスラエルに打ちこみ、それを口実にした過剰な報復攻撃を招くような愚は早々と止めなければならないところである。
一方のアラブ連盟も、今は、欧州連合の力強い試みを見ていないわけでもないであろうから、またアジアの新しい動きに気づいていないわけでもないであろうから、迷走と言うも愚かな茶番劇を演じ続けることはやめて、ここ一番、何らかの実効ある動きをしなければならないところである。アラブ産油国に溜まる資産にたかるのではなく、相応の配当を払ってやっていける事業を構想し、それに対して資本として拠出させるようにしなければならないところである。サウジやアブダビやドバイのつまらないビル道楽をいい加減に押しとどめ、アデンを中東のシンガポールとするような議論があってもいいところである。
だが、パレスチナにしろアラブ連盟にしろ、これまでの軌道が修正される見込みはない。
どうやら、アラブ社会は、冷静に議論して戦略を練り、しっかりした目標を立て、それに向かって足並みを揃えて進んで行くということができるようにはなっていないように見える。もしそういうことが出来るなら遠の昔にやっているはずだ。アラブ社会は、欧米諸国とは異なり、日本や他のアジア諸国とも違って、はなはだ特異な作りになっているに違いない。
パレスチナ戦争とアラブ連盟を同列に論じられるかどうか分からないが、それらがうまく行かない根はひとつと見る誘惑に勝つことが出来ない。そのよって来たる由縁を考えたいのだが、とてもではないが手に負える問題ではない。ここでは、本意ではないが、アラブ・イスラム社会の悪口を並べ立てながら、思いつくところを記して見たい。
◎ 四分五裂
アラブ・イスラム社会では、個人のレベルでも組織どうしでも国と国の間でも、本当にまとまりが悪い。アラブ・イスラム社会は、そこでは建設的な議論は成り立たない。議論が収斂してこないのである。解決すべき問題が生じるたびに、直ちに口論が始まり、口論からから抗争へ、抗争から分裂へと進んでいく。アラブ世界では、官庁でも企業でも何かの団体でも、大組織が整然と稼働する姿は想像することができない。事実、伝えられるところでは、どの国の政府組織も非効率きわまりなく、製造業であれサービス業であれ、世界に通用する大企業体がアラブ世界に存在するとは寡聞にして知らない。
そのことは軍隊についても言えるであろう。軍隊は、司令官の命令一下、一兵卒に至るまで機械のように正確に動かないことには勝利はおぼつかないはずである。しかし、上記のようなアラブ人の性向からして、そうしたことが実現しているとは考えにくい。千年前はいざ知らず、今のアラブの軍隊が戦争に勝つことはできそうにない。
抗争と分裂には憎悪がつきものである。アラブ社会では、憎悪が先にあって、それが原因で抗争と分裂が起こるのか、分裂を重ねた結果個人や小組織どうしの間に憎悪が醸成されてくるのか、その辺のところはよくわからないが、ともかく、彼の地では、個人や群小組織がそれぞれ何かに向けての憎悪の念に駆られて渦を巻いている。
◎ 無関心
アラブ諸国の国民が、口で言うほどに、パレスチナの土地やパレスチナ人、パレスチナ難民のことを心配しているわけではないし、事実、十分な或いは心からの支援の手を差し伸べているとは言えない。「他人ごと」である。アラブ人はパレスチナ問題に真剣に対処していない。軍事的な面でも、周囲のアラブ軍はほとんど傍観していた。実際にイスラエル軍と死力を尽くして戦火を交え、全滅するといった場面は一度もなかった。第三次中東戦争におけるゴラン高地の攻防戦もあったが、執念に乏しいシリア軍はあっさり後退している。要するに、アラブ連盟のアラブのことに対する対応ぶりが全てである。
それ以前に、当のパレスチナ人自身が本気でイスラエルと戦争をしているようには見えないのである。同情的に見れば、48年の最初のパレスチナ戦争では、パレスチナ人は、ヨーロッパ人と戦うという自分たちの置かれた厳しい事態に、またこの戦争に負けることの深刻な意味に想像力が及ばず、力を出し切る前に敗北に追い込まれたようなところがある。しかし、惨めな敗戦を経た後の数知れない戦いでも、パレスチナ人が決死の戦いを挑んだような形跡はない。そのことは、今日まで彼らがだらだらと無益な戦いを続けていることでも知れるのである。
さらに、アラブ国を挙げての対イスラエル戦争のさ中に自他ともにアラブの盟主と認めるエジプトが涼しい顔でさっさと敵と手を握るなどということが起こる社会である。「アラブの大義」とか「アラブはひとつ」などは、そら言もいいところであり、またそれを承知でぬけぬけと言うところがアラブ人のアラブ人たる所以なのだ。
◎ 低い倫理観
これはもちろん程度問題であり、また言いにくいことであるが、アラブ・イスラム諸国政府の倫理観、倫理性の低さについて言われることが少なくない。特にかつてのパレスチナ自治政府については、繰り返し汚職問題が指摘されてきた。政治家や官僚による横領や収賄である。腐敗である。国際機関や支援国からの支援金の多くがそれを必要とする民衆に渡る前にどこかに消えてしまったとされる。これはひとりパレスチナに限らないであろう。また、アラブ国における民衆による大がかりな略奪行為をテレビの映像で見ることがある。
こうした現象をどのように理解すればいいか、どのように説明できるかはたいへん難しい。どうにもならない中で、やはりこの地の人とイスラムとの関係の中にその考えるヒントを求めるほかないように思われるのである。
イスラム教徒の本願は、いわゆる六信五行を守ってこの世を暮らし、死してはやがて来る最後の日をまって復活を遂げ、神の前で審判を受けて、永遠に続く天国(極楽)での生活を送ることである。日常生活で起こるさまざまな出来ごとには神のことばであるコーランを規範として対処することになる。
さて、イスラム教徒は一人ひとりが個々に神と結びついている。個々の信徒は、司祭や僧侶のような一切の仲介者なしに、直接神とつながっており、現世においても来たるべき審判においても、自分の命運の一切をこの限りなく強大な神に委ねている。
そうとすれば、神と自分とのこの関わりの中で、自分が義であると信ずることは、他人が何を言おうと、他人がどうなろうと、どこまでも守り通さなければならないのである。他人の言うことを聞いて、それが神の意に沿わないことをもって、自分が地獄に落とされてはたまったものではないではないか。極端な話、理屈としては、一国の国王や大統領であっても、自分が地獄に落ちてしまっては元も子もないので、たとえ千万の国民はどうなろうとも、自分が救われると信ずる方向に走ることになるはずだ。自分がとった行動、これからとろうとする行動については、常に心の中で神と対話し、言い訳をし、折り合いをつけている。そこで自分が納得したことが全てとなる。
言い訳という点では、イスラムに数多い厳格な「しなければならないこと」と「してはならないこと」について、それを守ることが出来なかった場合がしばしば起こる。現代社会では「礼拝ができなかった」「酒を飲んでしまった」「知らずに豚を食べさされた」等々、次から次へと日々違反のオンパレードであるはずだ。それについて、次から次へと神に対して、また周りの人に対して言い訳けをしていかなければならない。これもまたイスラム社会の多弁と身勝手のベースをなしているはずだ。自分で自分がうまく言い抜けられたと思えば、それが全てである。
こうしてアラブ人は、どこまでも自分を打ち出して、他と妥協することに乏しく、人と人の間、人と神との間で果てしない対話や言い訳を繰り返す。
ついでながら、アラブ人、アラブ・イスラム社会はたいへん暴力的であるように見える。繰り返される自爆による大量殺人のことを主に言っている。これは、われわれ日本人は言うところの「滅私」奉公のように考えやすいが、そうではない。実際は、実行者は、それを実行することは神の意に叶うことと信じて、自分を高めるために決行するのである。神の意に沿わぬと見られるものどもを一掃することによって、自分は神の目がねに叶い、天国に入れられると信じて決行するのである。
もっとも、無実な人を多数巻き添えにしたり、ほとんど宗教的な意味のない「9.11」的な事件は、指導者によって仕組まれた政治的な効果が狙いであろうが、実行者は各自で自分の行為に宗教的な意味をもたせることになる。
アラブ・イスラム社会が常に百家争鳴で、てんでんばらばらであるのは、このあたりに理由があるのではないだろうか。為政者も官僚も人民も、各人が各人の義を追及しているのである。社会全体で同床異夢現象が起こっていると言えるだろう。しかも、とても「床」はひとつとは言えず、異なる宗派、民族、主義主張といったさまざまな床があるため、事態は一層混沌としていると考えられる。
オスマン帝国の統治のもとで、アラブ社会は、数百年の間、外界の雑音を遮断して、イスラムに則った平安な生活を送ってきた。まことに平穏な時代であった。だが、その時代は終わったのである。イスラムの原理が直接外界と接触することになって、世俗的な力では外界(西洋)に劣るイスラム世界が非常な痛みに苦しんでいるという状況であると考えられる。
だが、もしそうであれば、パレスチナ人、アラブ人は、然るべく状況を判断して、イスラエル軍に対して後生大事のカラシニコフ銃を手に立ち向かうようなことはやめて、別の方法で対抗することを考えなければならないところである。烏合の衆の抵抗組織がちゃちな爆弾ロケットをイスラエルに打ちこみ、それを口実にした過剰な報復攻撃を招くような愚は早々と止めなければならないところである。
一方のアラブ連盟も、今は、欧州連合の力強い試みを見ていないわけでもないであろうから、またアジアの新しい動きに気づいていないわけでもないであろうから、迷走と言うも愚かな茶番劇を演じ続けることはやめて、ここ一番、何らかの実効ある動きをしなければならないところである。アラブ産油国に溜まる資産にたかるのではなく、相応の配当を払ってやっていける事業を構想し、それに対して資本として拠出させるようにしなければならないところである。サウジやアブダビやドバイのつまらないビル道楽をいい加減に押しとどめ、アデンを中東のシンガポールとするような議論があってもいいところである。
だが、パレスチナにしろアラブ連盟にしろ、これまでの軌道が修正される見込みはない。
どうやら、アラブ社会は、冷静に議論して戦略を練り、しっかりした目標を立て、それに向かって足並みを揃えて進んで行くということができるようにはなっていないように見える。もしそういうことが出来るなら遠の昔にやっているはずだ。アラブ社会は、欧米諸国とは異なり、日本や他のアジア諸国とも違って、はなはだ特異な作りになっているに違いない。
パレスチナ戦争とアラブ連盟を同列に論じられるかどうか分からないが、それらがうまく行かない根はひとつと見る誘惑に勝つことが出来ない。そのよって来たる由縁を考えたいのだが、とてもではないが手に負える問題ではない。ここでは、本意ではないが、アラブ・イスラム社会の悪口を並べ立てながら、思いつくところを記して見たい。
◎ 四分五裂
アラブ・イスラム社会では、個人のレベルでも組織どうしでも国と国の間でも、本当にまとまりが悪い。アラブ・イスラム社会は、そこでは建設的な議論は成り立たない。議論が収斂してこないのである。解決すべき問題が生じるたびに、直ちに口論が始まり、口論からから抗争へ、抗争から分裂へと進んでいく。アラブ世界では、官庁でも企業でも何かの団体でも、大組織が整然と稼働する姿は想像することができない。事実、伝えられるところでは、どの国の政府組織も非効率きわまりなく、製造業であれサービス業であれ、世界に通用する大企業体がアラブ世界に存在するとは寡聞にして知らない。
そのことは軍隊についても言えるであろう。軍隊は、司令官の命令一下、一兵卒に至るまで機械のように正確に動かないことには勝利はおぼつかないはずである。しかし、上記のようなアラブ人の性向からして、そうしたことが実現しているとは考えにくい。千年前はいざ知らず、今のアラブの軍隊が戦争に勝つことはできそうにない。
抗争と分裂には憎悪がつきものである。アラブ社会では、憎悪が先にあって、それが原因で抗争と分裂が起こるのか、分裂を重ねた結果個人や小組織どうしの間に憎悪が醸成されてくるのか、その辺のところはよくわからないが、ともかく、彼の地では、個人や群小組織がそれぞれ何かに向けての憎悪の念に駆られて渦を巻いている。
◎ 無関心
アラブ諸国の国民が、口で言うほどに、パレスチナの土地やパレスチナ人、パレスチナ難民のことを心配しているわけではないし、事実、十分な或いは心からの支援の手を差し伸べているとは言えない。「他人ごと」である。アラブ人はパレスチナ問題に真剣に対処していない。軍事的な面でも、周囲のアラブ軍はほとんど傍観していた。実際にイスラエル軍と死力を尽くして戦火を交え、全滅するといった場面は一度もなかった。第三次中東戦争におけるゴラン高地の攻防戦もあったが、執念に乏しいシリア軍はあっさり後退している。要するに、アラブ連盟のアラブのことに対する対応ぶりが全てである。
それ以前に、当のパレスチナ人自身が本気でイスラエルと戦争をしているようには見えないのである。同情的に見れば、48年の最初のパレスチナ戦争では、パレスチナ人は、ヨーロッパ人と戦うという自分たちの置かれた厳しい事態に、またこの戦争に負けることの深刻な意味に想像力が及ばず、力を出し切る前に敗北に追い込まれたようなところがある。しかし、惨めな敗戦を経た後の数知れない戦いでも、パレスチナ人が決死の戦いを挑んだような形跡はない。そのことは、今日まで彼らがだらだらと無益な戦いを続けていることでも知れるのである。
さらに、アラブ国を挙げての対イスラエル戦争のさ中に自他ともにアラブの盟主と認めるエジプトが涼しい顔でさっさと敵と手を握るなどということが起こる社会である。「アラブの大義」とか「アラブはひとつ」などは、そら言もいいところであり、またそれを承知でぬけぬけと言うところがアラブ人のアラブ人たる所以なのだ。
◎ 低い倫理観
これはもちろん程度問題であり、また言いにくいことであるが、アラブ・イスラム諸国政府の倫理観、倫理性の低さについて言われることが少なくない。特にかつてのパレスチナ自治政府については、繰り返し汚職問題が指摘されてきた。政治家や官僚による横領や収賄である。腐敗である。国際機関や支援国からの支援金の多くがそれを必要とする民衆に渡る前にどこかに消えてしまったとされる。これはひとりパレスチナに限らないであろう。また、アラブ国における民衆による大がかりな略奪行為をテレビの映像で見ることがある。
こうした現象をどのように理解すればいいか、どのように説明できるかはたいへん難しい。どうにもならない中で、やはりこの地の人とイスラムとの関係の中にその考えるヒントを求めるほかないように思われるのである。
イスラム教徒の本願は、いわゆる六信五行を守ってこの世を暮らし、死してはやがて来る最後の日をまって復活を遂げ、神の前で審判を受けて、永遠に続く天国(極楽)での生活を送ることである。日常生活で起こるさまざまな出来ごとには神のことばであるコーランを規範として対処することになる。
さて、イスラム教徒は一人ひとりが個々に神と結びついている。個々の信徒は、司祭や僧侶のような一切の仲介者なしに、直接神とつながっており、現世においても来たるべき審判においても、自分の命運の一切をこの限りなく強大な神に委ねている。
そうとすれば、神と自分とのこの関わりの中で、自分が義であると信ずることは、他人が何を言おうと、他人がどうなろうと、どこまでも守り通さなければならないのである。他人の言うことを聞いて、それが神の意に沿わないことをもって、自分が地獄に落とされてはたまったものではないではないか。極端な話、理屈としては、一国の国王や大統領であっても、自分が地獄に落ちてしまっては元も子もないので、たとえ千万の国民はどうなろうとも、自分が救われると信ずる方向に走ることになるはずだ。自分がとった行動、これからとろうとする行動については、常に心の中で神と対話し、言い訳をし、折り合いをつけている。そこで自分が納得したことが全てとなる。
言い訳という点では、イスラムに数多い厳格な「しなければならないこと」と「してはならないこと」について、それを守ることが出来なかった場合がしばしば起こる。現代社会では「礼拝ができなかった」「酒を飲んでしまった」「知らずに豚を食べさされた」等々、次から次へと日々違反のオンパレードであるはずだ。それについて、次から次へと神に対して、また周りの人に対して言い訳けをしていかなければならない。これもまたイスラム社会の多弁と身勝手のベースをなしているはずだ。自分で自分がうまく言い抜けられたと思えば、それが全てである。
こうしてアラブ人は、どこまでも自分を打ち出して、他と妥協することに乏しく、人と人の間、人と神との間で果てしない対話や言い訳を繰り返す。
ついでながら、アラブ人、アラブ・イスラム社会はたいへん暴力的であるように見える。繰り返される自爆による大量殺人のことを主に言っている。これは、われわれ日本人は言うところの「滅私」奉公のように考えやすいが、そうではない。実際は、実行者は、それを実行することは神の意に叶うことと信じて、自分を高めるために決行するのである。神の意に沿わぬと見られるものどもを一掃することによって、自分は神の目がねに叶い、天国に入れられると信じて決行するのである。
もっとも、無実な人を多数巻き添えにしたり、ほとんど宗教的な意味のない「9.11」的な事件は、指導者によって仕組まれた政治的な効果が狙いであろうが、実行者は各自で自分の行為に宗教的な意味をもたせることになる。
アラブ・イスラム社会が常に百家争鳴で、てんでんばらばらであるのは、このあたりに理由があるのではないだろうか。為政者も官僚も人民も、各人が各人の義を追及しているのである。社会全体で同床異夢現象が起こっていると言えるだろう。しかも、とても「床」はひとつとは言えず、異なる宗派、民族、主義主張といったさまざまな床があるため、事態は一層混沌としていると考えられる。
オスマン帝国の統治のもとで、アラブ社会は、数百年の間、外界の雑音を遮断して、イスラムに則った平安な生活を送ってきた。まことに平穏な時代であった。だが、その時代は終わったのである。イスラムの原理が直接外界と接触することになって、世俗的な力では外界(西洋)に劣るイスラム世界が非常な痛みに苦しんでいるという状況であると考えられる。