中東断章

中東問題よこにらみ

「ビン・ラディン惑星で暮らした」(2)

2005年04月21日 | フランス人記者誘拐事件

<4日目以降>
 月、火、水曜日と待った。水曜日、3人の覆面男が来て、われわれにどれがフランス人か、シリア人かとただした。解放されるのかと尋ねると、「おまえたちは解放される、今夕、夜に入ってからだ」と言った。連中が立ち去り、何となく確かそうに思われたが、何も起こらなかった。

 次の月曜日(30日)の朝、また目隠しされ、縛られていつかの国内情報サービスのトップに会った小屋へ連れて行かれた。「で、われわれの解放は?」と尋ねると、問題があるという。ファルージャで米軍による攻撃が差し迫っており、わが方の全軍はファルージャに集合している、あまり期待できない、という。「しかもフランスにも問題がある、学校でのスカーフ禁止だ、人権問題だ。フランスのような国でこれはいけない・・・あんたの生命は危険に瀕している。殺されるかも知れないときに、あんたたちは大統領に何と言うかね」。私が「仮に二人のフランス人ジャーナリストを殺しても、法律を廃止させることはできませんよ」と言うと、「われわれはあんたたちを利用したいのだ、あんたたち次第だね」。私は、シラク大統領に(公立学校でのスカーフ禁止法の廃止を)嘆願しようと言った。クリスチャンも同じことを言った。こめかみにカラシニコフを突きつけられて、すべて撮影された。

 脅迫撮影の翌日、見張り番がやってきて「フランスの外務副大臣がバグダードにやってくる。アルジャジーラがそう伝えていた。アブ・アイマンの姉に会った。悪くなかった。姉はアブ・アイマンはプロ・アメリカではないと言っていた」。どれもよい方向に向かっているように思われたが、何も起こらなかった。落ち込みと希望の間でゆれながら待つことしかなかった。

 男がひとり放り込まれてきた。シャラビ(元イラク国民会議代表)一味の護衛だった。シャラビの車列がナジャフへ向かう道路で攻撃され、捕まったのだ。「おまえはアメリカ人と働く犬だ」と罵られていた。ふくらはぎに銃弾を受け、頭に傷を負っていた。翌日、連中がやってきて、シャラビは車列が攻撃されたことを否定したと言い、護衛の写真を見せてシャラビに攻撃を証明してやるのだと言って、ビデオ撮影した。男が首を切られたことを後に知った。

 金曜日、情報サービストップの訪問があり、グッド・ニュースだと言って、われわれをもっとましな家に移すという。ここはひどくて、一日に8時間は停電した。縛られ、目隠しをされて出発したが、アブ・アイマンが一緒かどうか分からなかった。段ボールの棺おけのようなものにいれられ、GMCトラックの荷台に乗せられ何重にもカモフラージュの覆いをかけられた。後ろ手に縛られているので非常につらかった。いくつものチェックポイントを通ったりジグザグ道を行って、バグダードに向かっているように思った。(こうして、捕まってから6回引越しさせられた。)

 今度はイラク・イスラム軍の監房のようだった。窮屈な8平米ほどの小部屋で、窓はなく入り口が二つあった。腕時計も衣服もノートも旅券もすべて取り上げられ、代わりにパンツとTシャツをくれた。

 到着して1時間後に情報サービスのトップが彼のボス、すなわちイラク・イスラム軍のリーダーを連れてきた。情報サービスのトップが前からわれわれに紹介してやる、インタビューをしてもいいと約束していた。かなり若く、覆面の陰ながら明るい目をして、クーフィーエ(頭布)を肩に垂らしている。情報トップが英語への通訳をし、カラシニコフをもった護衛が目の前に立っていた。政治的な議論をしようと思っていたところが、逆に、10項目にわたってキリスト教に対するイスラム教の優位を45分にわたって説教され、最後にはイスラム教への改宗を求められる始末だった。最後に、われわれの解放について尋ねると、「あんたがたの政府は、あんたがたの解放よりスカーフに対する法律の適用のほうに忙しい。しかし、もしあんたがたがイスラムに改宗すればいいことがあるかも知れない」。

 ここではビン・ラディンの名前を聞くことが多く、アフガニスタンで訓練を受けたジハード戦士もいた。われわれの見張り番の中にまだ若い30歳ほどの男がいた。4人の女と結婚しており、ぜんぶ同じように待遇していると言った。「ひとりに100ドルやると、他の3人にも100ドルやる。どうしてあんたたちのガールフレンドはひとりなのか。結婚しているのかね」。彼はわれわれが気にいって、よい関係を結んだ。たとえば、日中どこかで爆弾を仕掛け、夕方になって帰ってくると、「今日は世話をできずに申し訳ない」と言う。ある晩、話をしようといってはじめて小さな監房から出してくれた。少し広い部屋でお茶を飲みながら、ボスニアやカシミールのことを歌ったイスラムの歌を聞いた。彼は、ムスリム世界は西洋から攻撃を受けていると感じているとか、アフガニスタンへの攻撃とかパレスチナ戦争、チェチェン戦争等々の後では、(イスラム教徒は)正当防衛をすることができるのだと言いながら、ビン・ラディンのこと、ビン・ラディン主義者の戦いについて語った。イスラム教徒に戦争を仕掛けたのはキリスト教徒だとも言っていた。

 アメリカ大統領選挙を2週間後に控えて、ブッシュとケリーとどちらがいいかと尋ねると、「われわれはブッシュがいい。なぜなら、彼がいてくれると、米軍兵士がイラクにとどまり、そのためわれわれが成長することができる。ブッシュのアフガニスタンへの介入はわれわれにとって非常によかった。あのお陰で世界中に拠点を設けることができた。今や60カ国に代表者がいる。われわれの目的はアラブ諸国の権力構造をひっくり返し、アンダルシアから中国国境までカリフ制を再建することだ」。どの国から手をつけるのか尋ねてみた。「ふたつある。サウジアラビアとエジプトだ。ヨルダンはCIAの手中にあることは分かっている。これはよくないが、急いではいない。アラブ諸国の指導者はすべて裏切り者である。真のイスラム主義者はひとりもいない」。
 この男は、アフガニスタンでの訓練経験もあり、なかなかの見識家であった。


(この後の方は、米軍の攻撃がガラスが割れるほど近くに迫ってきたこと、恐怖、苛立ち、内省、などが綴られている。ゲリラとフランス側との交渉の進展具合も、ゲリラは二人にはほとんど何も知らせていなかったらしく、解放間近になって初めてシャンプーを渡されてそれを実感するような記述がある。
 9月末のディディエ・ジュリア議員一派の動きも、二人はまったく知らされていなかった模様で、解放は近いと聞かされながら実現せず、「フランスに問題がある」などと見張り番などに言われたことが、後になって時期的に議員の動きと重なるようだと思われるという程度。
 毎日1時間わら布団の上で体操をして体調の維持に努めた。食事は最初の農家のときは、ナツメヤシなど土地の農産物ばかりだったが、その後の監禁場所ではチキンと米、あるいは羊肉とパンが主体で、量も十分だった。)

≪要約終わり≫
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「ビン・ラディン惑星で暮らした」(1)

2005年04月21日 | フランス人記者誘拐事件

 目下監禁されているオブナス記より前、昨年8月、イラク・イスラム軍に誘拐され、12月に解放されたシェノ、マルブリュノ両記者の帰国直後の2004年12月24日づけル・フィガロ紙に掲載された「ビン・ラディン惑星で暮らした」と題するジョルジュ・マルブリュノ氏の体験記事(現在は有料でダウンロード可)をかいつまんで紹介したい。

 これは恐らく原稿なしのかなり荒っぽい口述筆記で、前後つながらないところや理解できないところも少なくない。が、イラクのイスラム武装勢力の内情を知る上で稀な資料であるので、その点を中心にまとめてみた。なお、5ページに及ぶ長いものから飛び飛びに拾ったり継ぎ合わせたりしているが、内容を改変することは一切していない。

両記者によるまとまった体験記、回顧録が出るのではないかと期待していたが、いっこうに現われない。イラクの混乱は当分おさまりそうになく、またいつ日本人が捕まってもおかしくない状況にあり、多少なりとも現地情勢を把握しておきたい。


≪要約開始≫
<1日目>
 2004年8月20日(金)の朝、シーア派の領袖ムクタダ・サドル師とその手勢が立てこもり、米軍が包囲するナジャフのアリ廟を取材するため、シェノ記者とともにアルジュンディ運転手の車でバグダードを出発した。私はRTL向けの記事を送稿しなければならなかった。原稿は車の中で書いた。8時40分、私のイラクの携帯で送ろうとしたが≪圏外≫の表示が出た。ナジャフへは25キロ以上あった。私はRTL編集部に電話し、スラーヤ衛星電話で送るために8時55分に電話してくれるように頼んだ。スラーヤの問題は車を止めねばならないことだった。8時55分に停車し、原稿を送り、再び出発した。その後40分ほどして、行く手をさえぎられた。思うに、送稿している5分ほどのあいだに人質獲得担当の連中に目をつけられたのだ。

 悪いときに悪いところで警戒を怠ってしまったようだ。9時45分ごろ、細い道に入り、そこの橋の上に男の子が二人いて、彼らにカルバラへの道を尋ねた。少し戻って左に入る道を行けということで、その通りにして5分ほどたったとき、前後を2台の車に挟まれた。3人の白いアラブ服を着た連中がわれわれに銃を突きつけた。捕まったのだ。すぐに「フランス人の記者だ」と何度か叫んだ。車から出さされたが、いっさい抵抗しなかった。一発の銃声もなかった。

 誘拐者たちは覆面をしていなかった。私は車の後部トランクに入れられた。落ち着かなければならないと思った。2,3日の厄介な旅に出るということだと自分に言い聞かせた。数日前、英国の記者が誘拐されたが3日で解放された。「落ち着け」。しかしショックでもあった。トランクの中でどうして呼吸できるのか。20分ほどで着いた。

 トランクが開き、目隠しをされた。われわれは小屋へ連れて行かれ、目隠しのまま両手を縛られ、坐らされた。クリスチャンは私の左側にいた。彼は目隠しを解かれ、われわれの運転手の息子が(米軍の)キンミト将軍といっしょに写っている写真を見せられた。クリスチャンは近眼だがメガネをつけておらず、キンミト将軍を知らなかった。(知らないと言ったら)まじめでないと思われて彼は平手打ちを食わされた。彼は運転手の息子も知らなかった。私に「どうにもならんな」と言った。

 再び車で出発した。今度はトランクに入れられたのはアブ・アイマン(アル・ジュンディ運転手のこと)で、私はクリスチャンとともに後部座席で、目隠しをされ、両手を縛られていた。「頭を下げろ!」と言われた。途中助手席に坐った男がアラビア語で「シラクの犬野郎」と毒づいた。アラビア語では「犬」は、預言者のことばであるハディースによって、不潔な動物で、侮蔑語である。連中が「いまカルバラだ」と言った。わざわざそんなことを言うのはウソだと思った。われわれがフランス人のジャーナリストであることを何度も確かめた。

 連中の領地に入ったようで、窓ガラスを下げて話し合っていた。これから2週間の監禁の場所となる農家に着いた。小屋のような中へ連れて行かれた。クリスチャンが先に入ったが、二人の男が出て来るのとすれ違った。ひとりはイラン領事で1ヵ月半後に解放され、もう一人は中央電力の責任者でその後首を切られたと後で聞いた。いろいろ無残な人質の拉致事件が起きている中で、われわれの場合一発の発砲もなかったことは特筆される。さきの平手打ち以外、暴力もなかった。

 目隠しははずされたが、アブ・アイマンとクリスチャンはいっしょに、私はひとりだけで手錠をかけられた。食事をもってきたが、まずいインゲン豆だけの煮物とお茶一杯だった。

 その後覆面をした3人の男が入ってきて会話が始まった。すぐにわれわれはアラビア語で「フランス人ジャーナリスト」であると切り札を切った。連中は、名前やここへ来た理由を尋ねた。われわれはフランス人ジャーナリストで、特に抵抗運動の現実を報道していると答えた。フランスはこの占領も戦争も違法であると言っていること、歴史を見れば、占領のあるところ抵抗運動があること、われわれはアメリカについているのではないことをはっきり言った。しかもイラク暫定政府から発行されるバッジすらもっておらず、その証拠に国民議会にも入れないことを話した。話し合いはアラビア語で行なわれ、うまく行った。私は10年来この地域で仕事をし、自分はル・フィガロ紙、クリスチャンはラジオ・フランスのために働いていることを話した。

 この連中は頭布を目の前に下げており、その後ろには常に武器を持った男が立っていた。その後また別のチームがやって来て、同じことを話した。しかしすぐにわれわれの話の証拠を示さなければならないのだろうと思った。バグダードに来て1年半になるが、アメリカ寄りの記事はほとんど書いていない。誘拐者たちといい関係をつくりたいと思っていた。これは重要ことなのだ。
 連中は「あなた方は尋問を受けるために情報担当の人間に会いに行くことになる」と言った。いつ解放されるのかと尋ねたところ、「明日かあさってだ。あなた方の身元を確かめるが、ここではわれわれの保護下にいるわけで、何も心配することはない」。

 これは単なる悪党による人さらいではない。後に分かったことだが、イラク・イスラム軍は一種の細分化社会を構成しており、路上での誘拐係り、尋問係り、見張り番、それに裁判担当がある。

 次のチームがカメラをもってきて、カセット録画をした。これは金曜日の午後5時ごろ行なわれた。すべては良好な状況で行なわれ、軍事的な色合いはほとんどなく、小屋の入り口にカラシニコフ銃をもった番兵がひとりいるきりだった。われわれを録画しただけで、尋問はなかった。このカセットをアル・ジャジーラに渡し、われわれの誘拐を発表するのだろうと思った。8時ごろ、一人の男が私のパソコンの入ったかばんをもって入ってきて、かばんを開け、われわれにパスポートを返し始めた。これはいい兆候だ。

 ところが男はアブ・アイマンに近寄ると、怒りながら例の写真をとり出した。信じられない話が始まった。連中は車の中からアブ・アイマンの息子といっしょにいるキンミト将軍の写真をみつけた。連中は、この父親はわれわれをスパイするために米軍に雇われたスパイではないかと疑った。まずいことになった。アブ・アイマンはがっくりして、弁解した。連中はわれわれの意見を求めた。われわれはアブ・アイマンの言っていることは間違いない、息子についての証拠はある、彼の息子はアメリカの大学から提供された奨学金を獲得したが、息子は反アメリカで行きたくないと言っている、と答えた。

 連中は彼を目隠しし外に連れ出して尋問した。われわれには「あんたたちは大丈夫だ、しかし彼はあんたたちをスパイしていた」と言った。アブ・アイマンが戻ってきて、がっくりして「私は死刑を宣告されるだろう」と言った。われわれはアブ・アイマンのことを心から心配したが、それがわれわれに跳ね返ってくることを恐れた。

 小屋には格子をはめた窓がふたつついており、寝るためのシートが敷いてある。蚊が多い。隅には用を足すためのほんのただの穴が開いていて、飲用と手洗いをかねた水のビンがひとつあった。これには参った。疲れていた。蚊に刺されて、眠った。

<2・3日目>
 翌朝、扉が開いて新たに3人の男が入れられた。二人は米軍基地で働くマケドニア人で、彼らの車列が攻撃され、イラク人運転手は顔を負傷し大量の血を流していた。マケドニア人は英語もアラビア語も話さず、通訳をしてやった。誘拐した連中が「奴らはアメリカ人か?」と訊くので、マケドニア人だと教えた。ふたりはただ働きに来ただけで、状況を何も理解せず、人質になったことも知らなかった。さほど心配もしていないようなので驚いたが、後に彼らが首を切られたことを知ることになる。

 日曜日の朝、連中がやってきた。われわれ三人とも目隠しをされ縛られて、隣の小屋に移された。そこにいた男が私に言った。「自分は国内情報サービスのトップだ。自分たちはイラク・イスラム軍だ。サラフィー主義運動で、1万5千人から7千人のメンバーがいる。われわれには4つの敵がいる。第一は米軍および同盟軍兵士、第二はその協力者、すなわちイタリア人のビジネスマン、もちろんフランス人もだ、第三はイラク人警官で、その一部には潜入済みだ、第四はスパイだ」。そこで彼に向かって「われわれはそのどのグループでもない」と言った。彼は「自分の仕事はあんたたちの身元を明らかにすることだ」といって、上手な英語でいろいろ質問した。また撮影され、別々に尋問された。やがて彼はおもしろそうに、あんたたちを三ツ星ホテルに入れてやろうと言って、別の小屋に連れて行かれた。<三ツ星ホテル>はみじめなもので、粘土つくりの8平米ほどの小さな小屋で、最初のものより少しだけ清潔だった。一日中動く扇風機と電灯もあった。

 彼は言った、「自分の仕事は予審を行なうことだ。あんたたちはイスラム法廷で判決を受けることになる。これからあんたたちから聞いたことを報告書にしてその法廷に提出する。今日か、明日か、あさってには結果がでるだろう」。われわれの精神状態はその時はむしろ前向きだった。その男と話したからだ。しかし、イスラム主義法廷は別だった。

 先の男が財布をもってやってきて言った、「あんたたちを捕まえた連中は、あんたたちがアメリカ人でどうせ殺されるだろうと考え、車も何もかももっていった。われわれは泥棒ではない。弁償しよう」。車とパソコン、衛星電話とふたりの携帯電話がなくなっていた。ここで現実離れした光景が現われるのだが、男が財布をとり出すと100ドル札の分厚い束があった。「あんたのパソコン、いくらだ?」。私はおもしろがって言った、「カネはとっておきたまえ。それよりもっといいのは、今度ここへ来たとき、われわれを捕まえないように連中に警告してほしいね」。男はノー、ノーと言いながら、無理にパソコンに200ドル、携帯1台に100ドルなどを支払った。これもまた現実離れしていた。男は「これはあんたがたが自由になったということではないぞ」と言った。男についてきていた護衛の男がおもしろがって「いまカネをやって後で殺す・・・」と言った。

 この小部屋に閉じ込められた。イスラム法廷の評決を待つわけだが、まだ信頼していた。月曜日、ひとりの男が入ってきて、紙切れを差しだして言った、「これにサインして、OKと言え。ジョルジュ・マルブリュノはOKだな。これはフランス大使館宛てだ」。フランスとコンタクトがとれたのはいいと思った。

 小屋の中はとても暑かった。しばしば停電した。いいことは、トイレがなかったので、外へ出て20メートルばかり歩かねばならず、そのとき空を見ることができた。われわれは椰子畑の中の農場にいた。連中は路上で人質を捕まえると、ラティフィーヤ近くのこの農場につれてきて、こうした小屋に入れるのだ。
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記者の解放いまだなし

2005年04月21日 | フランス人記者誘拐事件(2)

<前置き>
 フランスのリベラシオン紙の女性記者フロランス・オブナス氏(43)とイラク人運転手が、05年1月5日、バグダードで何者かに拉致されてから100日を越え、この機会にフランス各地で解放を求めるデモや集会が行なわれた。このまま何もなく推移すると、前回のシェノ、マルブリュノ両記者の監禁期間124日を越えることが心配され、政府の対応の仕方について批判が出る事態にもなりかねない。

<最新情報>
 本事件についての最新の情報は、4月1日、ミシェル・バルニエ外相が、フランス2テレビを通じて、「イラクで誘拐されてから86日になるフロランス・オブナス記者と案内人のフセイン(ハヌーン)氏が生存している証拠を掴んでいる。これほど危険な国でのこれほどこんがらがった事件であるので、私は二人の安全、二人がそこから脱出する瞬間のことしか考えていない。どこまでも慎重でなければならない」と語ったことである。だが、どのような証拠を掴んでいるかは明らかにしなかった。
 これ以後目立った情報はない。

<さまざまな見方>
 政府の言う「生存の証拠」については、オブナス氏をよく知るものが電話で本人と話したのかも知れないし、ひょっとするとすでに政府は身柄を確保していて、イラクから脱出させる方法を探っているのではないかとの見方もあった。

 解放交渉を妨げているものは何か。フランス側の政治問題か、スカーフ問題か、身代金にかかわる問題か。逆に誘拐犯側の路線問題か、組織問題か。米軍やイラク政府のからみか。
 犯行声明がないままで推移している。誘拐犯(交渉相手)についても政府はまだ国民に何も知らせていない。
 オブナス記者がビデオの中で求めたディディエ・ジュリア下院議員の救援介入をフランス政府があっさり排除したことにメンツをつぶされた誘拐犯が反発しているのかも知れない。そうであれば、国民の命を救うためには、政府が折れてジュリア議員を呼び戻すべきではないか。そうなれば、フランス政府、というよりラファラン首相のメンツは丸つぶれとなり、もしジュリア議員を呼び戻して失敗するとなると、痛手は底なしとなる。
 さまざまな見方や憶測が飛び交う中で、いまのところ、フランス政府は従来通りの慎重な姿勢を変えていない。

<ルーマニア人記者>
 また、3月28日、バグダードで誘拐されたルーマニア人記者3人の情報もない。リベラシオン紙から代表者がブカレストを訪れ、連帯を呼びかけている。
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巡礼

2005年04月13日 | イスラムと日々の生活

 今年のというか、次回のと言うか、回暦1426年の12番目の月、巡礼月の始まりはちょうど西暦2006年1月1日に当っている。イスラム教徒は、一生に一度、この月にメッカ巡礼をすることが義務づけられている。巡礼月でなくとも、いつメッカ巡礼に訪れてもいいのであるが、それはいわば自由巡礼であって、義務としての巡礼月の巡礼とは区別されている。それはちょうど1日5回の決められた時間の礼拝は義務であり、それ以外の自由な礼拝と区別されていることと同じである。

 この義務を裏づけるコーランの文言は以下の通りである。


(3:96)人々のために設けられた最初の聖殿はバッカにあり、それは、祝福され、いっさいの生き物の導きとして設けられたものである。【注:バッカはメッカの異名】

(3:97)その中には、アブラハムが足をとどめたところをはじめ明白なみしるしがある。そこにはいればだれでも、絶対安全が保証される。この聖殿への巡礼は、そこに旅する余裕のあるかぎり、人々にとって神への義務である。たとえ背信の態度をとる者があっても、もともと神は万物がなくても足りたもうお方である。


 イスラム教の成立以来途切れることなく続き、近年では毎年国内外から200万人を超える信徒が参集するメッカ巡礼のよって立つところが、上記の通りきわめて簡単なコーランの一節であることに大きな驚きを覚える。はかり知れない巨大なエネルギーを生むアラーの神の一言一句の重みに改めて緊張を覚えるのである。

 義務であるからには、巡礼者の装束から、巡礼月の「何日」に「どこで」「何をする」かなどが細目までピシッときまっている。預言者が、632年、死の直前に行なった「別離の巡礼」にならったという。非常に複雑なので、メッカではムタウウィフと呼ばれるベテランの巡礼案内人がいて指導してくれるらしい。らしいと言うのは、異教徒はメッカへ入れてもらえないので見たことがない。なぜかメッカへの入り口にはムスリム以外立ち入り厳禁と書いてある。

 石油以前は、メッカ巡礼者の落とす金がサウジアラビアにとってほとんど唯一の収入であった。しかし、船と車と徒歩の旅では、年間を通じても、巡礼者の数はおそらく10万人とか20万人とか知れたものであったであろう。多くの信者は死地を求めてメッカに向かった。巡礼の旅がいかに苦労に満ちたものであったかは想像に難くない。それが劇的に変わったのは1973年、すなわちオイルショックの年、以降のことにすぎない。

 現在は、おそらく、完全なエスカレーター方式になっているであろう。チャーター機でジェダ空港に到着するといったん空港近くの近代的テント村に入り、そこからバスでメッカのテント村にシャトル輸送される。規定の巡礼をすませると、逆の経路でさっさと送り返される。まるで羊の群れで、一歩も柵の外に出ることを許されない。こうでもしなければ、限られた期間に200万人を処遇することは不可能であろうし、限界も近いに違いない。多くの白い巡礼装束の人たちが思い思いにジェダの町を歩く姿を見ることは二度となくなった。

 サウジアラビアは、石油収入をふんだんに投入して巡礼施設を整備していったが、これらの建設事業にもっとも力を振るったのがかのオサマ・ビンラディンの父親モハンマドが創業したビンラディン・グループである。道路つくりから、送配水網、宿泊施設など巨大な街づくりそのものであったであろう。米欧や日本から大量の機材を買いつけた。

 日本とメッカ巡礼の関係と言えば、何と言っても、わが国がイスラム国から集まる巡礼者向けにお土産品を供給してきたことである。いま数字で示すことができないのが残念だが、戦後日本の経済復興を支えた雑貨輸出のかなりの部分が巡礼者が故国に持ちかえるお土産用に向けられた。後進国間で行なわれるメッカ巡礼行事の中で、斬新な日本製品は圧倒的な人気を博し、回教圏への日本製品の浸透はメッカ経由が大きかった。繊維製品をはじめ、玩具、ラジオ、時計、断熱ポット等々、恐らく現在も取り扱い品目を高度化させながら続いているであろう。
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断食

2005年04月13日 | イスラムと日々の生活

 イスラム教徒にとっては、毎日の義務として5回の礼拝がある。毎月の義務と目されるものはないようだ。次いで、毎年の義務としてこに述べる1ヶ月に及ぶ断食がある。さらに一生に一度の義務としてメッカ巡礼がある。ただしこれは、遠いメッカまで行って厳しい巡礼を行なうことができる財力と体力がある者だけでよいことになっている。

 断食は「ラマダン」として知られるが、これはイスラム暦の9番目の月の名称である。今年は、イスラム暦ではほぼ1426年(西暦2005年2月10日~06年1月30日に相当)で、ラマダン月1日は西暦の10月5日にあたる。この月一杯、日の出から日の入りまで、昼間は飲まず食わずの断食を行なうことになっている。

 ラマダンの断食は、コーランには原則だけ述べられて、詳細には触れられていない。詳細は、例によって、預言者の言行録であるハディースをもとに、時間をかけて歴史的に形成された。(コーランの訳は「コーランⅠ・Ⅱ」(中央公論新社2002)による。)


(2:183)信ずる者よ、おまえたちより以前の人々に定められていたように、おまえたちにも断食が定められている。きっとおまえたちは神を畏れてくれることであろう。

(2:184)それは、限られた日数のあいだ守らねばならない。おまえたちのうちの病気の者、また旅行中の者は、別の日に同じ日数だけ行なうべきである。また、断食できたのにしなかったものには、貧者に食を与えることが償いとなる。しかし、すすんで善を行なう者があれば、それは自分のためにさらによいことである。もしおまえたちにわかっているなら、断食することがおまえたちのためにさらによい。

(2:185)人々のための導きとして、導きの明らかなみしるしとして、かつまたフルカーンとしてコーランが下されたのは、ラマダーンの月である。この月に在宅する者は、断食しなければならない。病気の者または旅行中の者は、別の数日間に行なうべきである。神はおまえたちに、安易なことを求めたもう。難儀なことを求めたもうのではない。おまえたちが、定められた日数を努めあげ、自分たちを導きたもうた神を讃美しさえすればよい。いずれ、おまえたちは感謝することになろう。

(2:187)断食の夜に妻とまじわることは許されている。彼女たちはおまえたちの着物、おまえたちは彼女たちの着物である。神はおまえたちが自分の心を欺いているのを知りたまい、思いなおしておまえたちを赦したもうたのである。それゆえ今は、彼女たちとまじわり、神がおまえたちのために定めたもうたものを求め、飲み食いしてもよい。やがて夜明けになって白糸と黒糸が見わけられるようになれば、また夜まで断食を守り通せ。礼拝堂に参籠しているあいだは、彼女たちとまじわってはならない。これは神の掟であるから、彼女に近づいてはならない。このように、神は人々にみしるしを明らかにしたもう。おそらく彼らは神を畏れることだろう。


 上記(2:187)に見られるように、昼間は飲食だけでなく性交も禁止されている。夜間はかまわないというより、特に飲食の方はとらなければ命がもたない。細かいことを言い出せばきりがなく、唾を呑みこんでもいけないのはもちろん、注射や薬剤の摂取、吐瀉や瀉血、自慰行為など、さらに断食除外者として妊婦や子ども、旅行者、兵士、病人、老人などについても複雑な議論がある。

 イスラム国では日々の礼拝はさぼってほとんどやらないものでも、不思議に苦しい断食は行なうようである。理由のひとつは、社会全体が断食モードにはいり、自分ひとりそっぽを向いて飲んだり食ったりすることが難しいという事情もあるであろう。周囲に引きずられて、やらざるを得ない状況に追い込まれた図である。しかし、トイレに入ったときにこっそり水を飲むとか、タバコを吸うなど、やろうと思えば断食破りをすることはいとも簡単だが、それもあまりないようだ。

 真の理由は、やはり、イスラムにおける断食の宗教的な重要性にあると思われる。礼拝より重要といった比較の問題ではなく、人間にとってもっとも基本的な飲食を絶つという行為についてさまざまな意味づけがなされており、子どもの頃から耳にたこができるほど言い聞かされてきて、それが信徒に対して迫力をもって迫るのであろう。例えば、断食は忍耐の半分であり、忍耐は信仰の半分であるということが言われており、計算上断食はイスラム信仰の4分の1を占める重要な行事となる。神への思念を高めるために断食は有効な手段と考えられている。

 もっとも、男は昼間ごろごろしているだけでまだいいが、つらいのは母親である。断食をしない小さな子どものために食事を作らなければならず、さらに夜間の家族の食いだめのための準備がある。夕方、日が沈みドンが鳴るのをまっていっせいに食べ始めるわけだが、これに遅れるわけにいかない。女にとって真の苦行の期間である。

 ラマダン月に入ると、企業や官庁での就業時間が変わり、たいてい朝から昼休みなしで午後2時ごろには終了する。断食後の食事(文字通りのブレークファースト)をとった後、8時ごろから再びオフィスを開くところもある。月の始めは強がりを言っていても、さすがに終わりの方になると疲れてきて、社会全体がだらけてくる。特に中東の真夏の断食はきつい。今年のラマダン開始は10月5日ごろだが、年に11日ずつ早くなるので、5-6年後には真夏にさしかかり、それが5-6年続く。これが永久に繰り返される。
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礼拝(1)

2005年04月05日 | イスラムと日々の生活
 イスラムと聞いてだれもがまず思い浮かべるのは、大勢の人が何列にも別れて横一列に一文字に並び、立ったり坐ったり、また平伏して額を床につけて祈るあの独特な礼拝風景であろう。抗することができない絶対者アラーに対して、ただみことばのままに従いますという服従の意思表示であるが、見事に統制がとれていて、感動的である。普段は家や職場でひとりで、あるいは仲間内で祈っていても、多くの信徒は、金曜日の昼には集団礼拝が行なわれるモスクへ出かけて、こうして大勢の信徒とともに礼拝する。モスクがなければ、広場でも道路でも砂漠でも、どこでもかまわない。

 イスラム教の礼拝は、しかし、われわれ日本人が神社や寺で行なう子どもの病気平癒や試験の合格、宝くじの当せんなどの祈願や、また満願成就のお礼参りなどとは根本的に異なるのである。イスラムの礼拝は、われわれのそれのような恣意的で身勝手な祈願ではなく、信徒としての厳格な義務なのだ。そのため礼拝の遂行にはこと細かな手続きが定められている。イスラムの礼拝は、ひたすら思念を唯一神アラーに集中し、決められた手続きをこなしていく作業なのである。

 そのため、たとえばテロリストが出撃の前には、人情として、アラーの特別の加護を求めたくなるであろうが、当然、それは信徒の「義務」としての礼拝とは別枠で考えられるべきものということになる。義務である礼拝の回数が一日5回であることはよく知られている。そうした義務以外の自由礼拝についても、さまざまな規則や勧奨事項があるに違いない。

 ただ、公開の場で礼拝をしているのはむくつけき男ばかりで、女の姿は見えない。イスラムが男の宗教であることの象徴のようである。女は家の中で礼拝することが勧められている。モスクではたいてい後ろのほうで一部を柵で区切ったり、目隠しを設けたりして女性用の場所を用意している。代々木の東京モスクでは、女性の場所は後方二階席になっており、入り口近くの階段から上るようになっている。

 コーランでは、礼拝の務めを守れということは何十回も繰り返し述べられているが、詳しいことは書かれていない。今日行なわれている複雑な手順を踏む礼拝の形式は、やはり時間をかけて徐々に形成され、いつか書きとめられて儀式として定着したものと考えられる。

 一日の礼拝は、朝まだ暗い(1)「夜明け(スブフ、ファジュル)」に始まり、(2)「正午(ズフル)」、(3)「午後(アスル)」、(4)「日没(マグリブ)」時と進んで、最後の(5)「夜半(イシャー)」の礼拝で終わる。

 まず礼拝時間の問題である。それぞれに詳しい規定があるが、大きな時間的な幅がある。たとえば、最初の夜明けの礼拝は、朝の光がかすかに認められてから日の出前までとされているが、これは太陽一個分の上昇時間にあたる。しかし、その前の前日最後の礼拝は、日没から夜明け前の一回目の礼拝までのあいだに行なえばよいという風に真夜中のいつやってもいいようになっている。正午以降翌朝の夜明けまではずっと礼拝指定時間となっている。つまり、かろうじて日の出から正午までが義務としての礼拝指定時間からはずれていることになる。その幅をどのように処理しているのか分からないが、礼拝時間というものが決まっている。インターネット時代になって、季節変動も加えて、世界中の各地の礼拝時間がテーブルになって一覧できるようになった。イスラム国であれば、新聞でもラジオでもテレビでも教えてくれるし、それに何より礼拝時間になると数知れないモスクの塔(光塔)からいっせいに自動化されたラウドスピーカーがわめきだす。アザーンである。

 イスラム世界を特徴づけるアザーンは、礼拝をしに(モスクに)来なさいという呼びかけであり、文言はアラビア語で、もちろんぴしっと決まっている。スピーカーのない時代は、大声の持ち主が塔の上に登って呼びかけていたとされ、その人をムアッジンと呼んでなかば職業化されていたらしい。今でも、スーク(市場)の中などで自発的なムアッジンに出会うことがある。右手を耳に当て、ボリュームたっぷりの鍛え抜かれた声で朗誦する。それに応えて何人の信徒がモスクへ行くかは別問題である。

 アラブ国を舞台にした通俗小説では、たいていこれが小道具に使われている。たとえば、土地の女をものにした西洋人のスパイが歓楽の一夜を過ごし、寝入ったと思ったところでいきなりラウドスピーカーの轟音に叩き起こされる。最初のアザーンである。歯ぎしりしながら時間を見ようと枕頭のランプをつけると、隣では女が昨夜のしどけない格好のままぴくりともせず眠り込んでいる。この続きは省略するが、アザーンは慣れない外国人の呪詛のタネであるとともに、現地人は慣れっこになってまったくこたえないらしいことが分かる。

 アザーンに応えてモスクへ行くと、まず洗い場で洗い清めをしなければならない。これにも厳しい手順があり、決まりの文言を唱えてから、蛇口から水を流しながら、両手首、口、鼻、顔、両腕、髪、耳、両足首をこうした順序で決められた方法で洗う。この洗浄過程は、長年やっているうちに慣れてしまうのであろう、実に手際よくあっという間に済ませてしまう。口の洗浄はいいとして、鼻も穴の中まで洗うのであるが、右手で水をすくって吸い込み、手鼻をかむようにしてふっと吹き出す所作を3回やる。ちょっと異邦人にできることではない。
 イスラムでは洗浄ということをやかましく言い、ものの本によれば、トイレの後や房事の後にはそれぞれ決まりの清めをしなければならないことになっている。屁をひとつひってもただではすまない。

 さてこれで礼拝の用意はできた。

 礼拝の方向はメッカと決まっている。モスクで礼拝する限りはもちろん方角に迷うことはないが、外に出ると磁石か天測に頼るほかない。飛行機の中の狭い通路であらぬ方向に向かって礼拝するものがいるが、これはご愛嬌である。イスラム国のホテルの部屋の床絨毯には礼拝の方向を示す大きな矢印が描かれているものがある。このサービスも古いことではない。礼拝には一人用の小さな長方形の絨毯を使うことが多い。

 決まりのアラビア語の文言を唱えながら、立ったり坐ったり、平伏したりの礼拝は、これは子どものときに親なりウラマーなり、宗教の先達から教えられなければなかなか覚えられない。専門の解説書やウェブサイトには絵や写真入りで詳しい説明がある。英語サイトでは西洋人的果てしなき追求癖で、イスラム法学派による違いまで詳述しているサイトもあり、これはお手上げである。
 モスクでの礼拝では、導師がひとり集団の前に一歩出て手本を示すことになっている。しかし、新米のムスリムがそれを見よう見まねでやって有効な礼拝と言えるのかどうか、また例によって難しい議論があるであろう。
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ジャーナリストの誘拐が続く

2005年04月01日 | フランス人記者誘拐事件(2)

 バグダードでのイスラム武装抵抗組織によるジャーナリストを狙った誘拐が続いている。フランス人、イタリア人に続いて、今度はルーマニア人記者3人とアメリカ人(あるいは米系イラク人)1人が誘拐された。


フランス人記者:

 フランスのラファラン首相は、3月29日、誘拐されてから83日になるリベラシオン紙のオブナス記者とフセイン(ハヌーン)運転手の状況は「安心できる」ものであると発表した。議会での下院議長の質問に対し、首相は「われわれは慎重でなければならないのは絶対だが、誘拐犯に向けてわが国の公的機関への接触を求めた呼びかけに対し、情報機関(DGSE)は安心できる情報をつかんだ」と語った。両者の接触は安定的に行なわれているという。


イタリア人記者:

 3月22日づけリベラシオン紙の記事で、ジュリアナ・スグレナ氏が、若干、監禁中の様子を語っている。

<以下要約>
 スグレナ氏は、イタリア山岳部出身の57歳の独身、筋金入りの共産主義者、平和主義者、女性解放論者で、アルジェリアからアフガニスタンまで、紛争地を歩いてレポートしている。イラクへは7度目の入国であった。

 誘拐犯は、謎の「国境なきムジャーヒディーン(ジハード戦士たち)」という組織とされている。2月5日、バグダード大学傍のモスクでファルージャ避難民を取材後誘拐された。「そこに4時間いました。もっと早く切り上げるべきだったかも知れませんが、イマーム(導師)に説教が終わるまで待つように言われたのです。勝手に帰るようなことはしたくありませんでした」。テロリストに囲まれたとき、うちの一人が首に手をやって、自分たちは<首切り>集団ではないということを分からせた。

 国境なきムジャーヒディーンは、こっそりユーロニュースを見ることを許してくれたが、そこでローマのキャピトル広場に掲げられた自分の巨大な写真と最初の支持デモを見た。「自分さえしっかりしてれば、みんなが私を救出するためにあらゆることをやってくれると確信しました」。部屋の窓には目張りがしてあり、奥に簡素なベッドが一つあるきりで、本も鉛筆も鏡も何もなかった。一日30分の体操を日課としていた。

 トイレに行くために部屋を離れるときや、3-4日に一度、体を洗いに行くとき、監視人たちとすれ違う。時々彼らがコーランを朗誦しているのを聞いた。夕方には果物が差し入れされた。時に会話することがあったが、いつもこう繰り返した、「私を誘拐するのは意味がありません。私はアメリカの介入にも占領にも反対です」。相手の答えはいつも決まって、「戦争なんだ、使えるものは何でも利用しなきゃならないんだ」というものだった。ある日家族のだれかれ宛てに手紙を書くよう言われた。これは解放交渉が開始された合図だと思って、寒さや停電を我慢することができた。

 解放時の状況は、3月4日午後遅く、誘拐犯が、バグダード市内のある通りに彼女を放り出した直後、後に空港近くで米軍の射撃で殺害されるイタリア秘密情報機関員のニコラ・カリパリ氏がやって来た。
<要約終わり>


ルーマニア人記者:

 ルーマニアのトライアン・バセスク大統領がアフガニスタン、イラクをかけ足訪問し、29日、ブカレストに戻った。ルーマニアはイラクに800人の部隊を派遣しており、その視察に行った。

 その前日の28日(月)、バグダード郊外で大統領に同行取材していたプリマ・テレビの女性記者 マリー・ジャンヌ・イオン氏(32歳)、カメラマンのソリン・ミスコチ氏(30)、日刊紙ルーマニア・リベラの記者エドゥアルド・オハネシアン氏(37)の3人が誘拐された。

 ここで劇的なのは、ブカレストのテレビ局で編集会議の最中、詳しい状況は不明だが、誘拐犯に囲まれたイオン記者の携帯から電話が入り、ドゥミトル編集長が受話器をとった。編集長によれば、「アラビア語、英語、ルーマニア語で叫ぶ声が聞こえた。彼女が攻撃者に対し『私たちは身代金も払えない貧しい国から来たんだから、誘拐しないで』と泣きながら訴えているのを聞いた」ということである。前後関係は分からないが、母親にも電話があり「私たちは誘拐された。冗談ではないのよ。助けてえ!」と叫んだという。

 カタールのテレビ局アルジャジーラが、30日(水)、誘惑されたルーマニア人記者3人のビデオ映像を流したが、画面には4人目の人質と思われる人物も写っていた。これはアメリカ人(あるいは米系イラク人)のビジネスマン、モハメド・ムナフ氏と見られ、同氏がルーマニア人記者3人の滞在費を負担し、取材先を案内していたという。
 覆面をした二人の男が怯えて床に座り込んでいる4人の人質に銃を向けていた。誘拐した武装組織はまだ特定されていない。

 ルーマニアのタリチェアヌ首相は、身代金の要求はないと語った。
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犬嫌い

2005年04月01日 | イスラムと日々の生活

 イスラム世界では、犬もまた排斥の対象となっている。

 どこの世界にも動物好き、特に犬好きという人々がいるであろう。犬を伴侶として暮らしている人たちも少なくないに違いない。賢い犬は「人間の友」といった標語を聞くことがあるが、全人類から12億人のイスラム教徒は除外される。

 子どもたちは、子犬といっしょになって犬ころのように遊ぶことはなく、ペットとして飼育することはありえず、警察犬としての利用や、盲導犬のような介助犬の存在も考えられない。ペットショップの可愛らしい犬を見ても「汚らわしい」としか反応しないように育てられている。

 イスラムでは、犬は不浄の動物とされており、もちろん犬の肉を食べてはならないし、もし犬に舐められたりしたら、大洗浄をしなければならない。これは、豚の場合と同様、犬が狂犬病をもっているからとか、何か生物学的に不潔であるということとは無関係で、単に宗教的にそう決められているに過ぎない。ただし、犬の特質を買って、狩猟と羊番のためには犬を使っても構わないとされている。

 ではネコはどうか。ネコは、一転して、清浄で、イスラム的に何の問題もない。しかし、実際に家でネコを飼っている人は少ないのではないだろうか。犬に舐められることの不浄視の延長線上で、恐らくネコに舐められることも避けるのかも知れない。

 こうした犬に対する複雑な対応は、コーランの中ではなく、主としてハディースによって規定されている。コーランにおける犬への言及は三節にとどまり、次のものでもよいことの譬えにはされていない。(コーランの訳は「コーランⅠ・Ⅱ」(中央公論新社2002)による。)

(7:176)もしわれわれが欲したならば、それをもって彼を高めてやったことであろうに。しかし彼は、地に執着して、自分の欲望に従ってしまった。彼をたとえてみれば犬のようで、咎めると舌をたらし、捨てておいても舌をたらす。われらのしるしを嘘だと言った者どもも、たとえればこのようなものである。それゆえ、このような話を聞かせてやれ。もしかすると、彼らも反省するであろう。

 これがハディースになると、さまざまなことが言われているようである。たとえば、犬は不浄であるから、犬に舐められたら何回手を洗えとか、黒い犬は殺せとか、犬がいる家には天使が入ってこないとか、集団礼拝のとき犬が前方を横切るとその礼拝が無効になるなどという。これでは、一匹の犬が天使の行動を妨げたり、何百人もの礼拝をそれがなかったものとするという悪魔にも匹敵する大きな力をもっていることになる。これでは、もう単なる不浄視ではなく、仇敵視である。

 イスラム教徒は、よく犬は鼻が濡れているからいやだというが、これは後講釈で意味をなさない。犬の排斥は、数多いイスラムの約束ごとの中のひとつである。
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