<4日目以降>
月、火、水曜日と待った。水曜日、3人の覆面男が来て、われわれにどれがフランス人か、シリア人かとただした。解放されるのかと尋ねると、「おまえたちは解放される、今夕、夜に入ってからだ」と言った。連中が立ち去り、何となく確かそうに思われたが、何も起こらなかった。
次の月曜日(30日)の朝、また目隠しされ、縛られていつかの国内情報サービスのトップに会った小屋へ連れて行かれた。「で、われわれの解放は?」と尋ねると、問題があるという。ファルージャで米軍による攻撃が差し迫っており、わが方の全軍はファルージャに集合している、あまり期待できない、という。「しかもフランスにも問題がある、学校でのスカーフ禁止だ、人権問題だ。フランスのような国でこれはいけない・・・あんたの生命は危険に瀕している。殺されるかも知れないときに、あんたたちは大統領に何と言うかね」。私が「仮に二人のフランス人ジャーナリストを殺しても、法律を廃止させることはできませんよ」と言うと、「われわれはあんたたちを利用したいのだ、あんたたち次第だね」。私は、シラク大統領に(公立学校でのスカーフ禁止法の廃止を)嘆願しようと言った。クリスチャンも同じことを言った。こめかみにカラシニコフを突きつけられて、すべて撮影された。
脅迫撮影の翌日、見張り番がやってきて「フランスの外務副大臣がバグダードにやってくる。アルジャジーラがそう伝えていた。アブ・アイマンの姉に会った。悪くなかった。姉はアブ・アイマンはプロ・アメリカではないと言っていた」。どれもよい方向に向かっているように思われたが、何も起こらなかった。落ち込みと希望の間でゆれながら待つことしかなかった。
男がひとり放り込まれてきた。シャラビ(元イラク国民会議代表)一味の護衛だった。シャラビの車列がナジャフへ向かう道路で攻撃され、捕まったのだ。「おまえはアメリカ人と働く犬だ」と罵られていた。ふくらはぎに銃弾を受け、頭に傷を負っていた。翌日、連中がやってきて、シャラビは車列が攻撃されたことを否定したと言い、護衛の写真を見せてシャラビに攻撃を証明してやるのだと言って、ビデオ撮影した。男が首を切られたことを後に知った。
金曜日、情報サービストップの訪問があり、グッド・ニュースだと言って、われわれをもっとましな家に移すという。ここはひどくて、一日に8時間は停電した。縛られ、目隠しをされて出発したが、アブ・アイマンが一緒かどうか分からなかった。段ボールの棺おけのようなものにいれられ、GMCトラックの荷台に乗せられ何重にもカモフラージュの覆いをかけられた。後ろ手に縛られているので非常につらかった。いくつものチェックポイントを通ったりジグザグ道を行って、バグダードに向かっているように思った。(こうして、捕まってから6回引越しさせられた。)
今度はイラク・イスラム軍の監房のようだった。窮屈な8平米ほどの小部屋で、窓はなく入り口が二つあった。腕時計も衣服もノートも旅券もすべて取り上げられ、代わりにパンツとTシャツをくれた。
到着して1時間後に情報サービスのトップが彼のボス、すなわちイラク・イスラム軍のリーダーを連れてきた。情報サービスのトップが前からわれわれに紹介してやる、インタビューをしてもいいと約束していた。かなり若く、覆面の陰ながら明るい目をして、クーフィーエ(頭布)を肩に垂らしている。情報トップが英語への通訳をし、カラシニコフをもった護衛が目の前に立っていた。政治的な議論をしようと思っていたところが、逆に、10項目にわたってキリスト教に対するイスラム教の優位を45分にわたって説教され、最後にはイスラム教への改宗を求められる始末だった。最後に、われわれの解放について尋ねると、「あんたがたの政府は、あんたがたの解放よりスカーフに対する法律の適用のほうに忙しい。しかし、もしあんたがたがイスラムに改宗すればいいことがあるかも知れない」。
ここではビン・ラディンの名前を聞くことが多く、アフガニスタンで訓練を受けたジハード戦士もいた。われわれの見張り番の中にまだ若い30歳ほどの男がいた。4人の女と結婚しており、ぜんぶ同じように待遇していると言った。「ひとりに100ドルやると、他の3人にも100ドルやる。どうしてあんたたちのガールフレンドはひとりなのか。結婚しているのかね」。彼はわれわれが気にいって、よい関係を結んだ。たとえば、日中どこかで爆弾を仕掛け、夕方になって帰ってくると、「今日は世話をできずに申し訳ない」と言う。ある晩、話をしようといってはじめて小さな監房から出してくれた。少し広い部屋でお茶を飲みながら、ボスニアやカシミールのことを歌ったイスラムの歌を聞いた。彼は、ムスリム世界は西洋から攻撃を受けていると感じているとか、アフガニスタンへの攻撃とかパレスチナ戦争、チェチェン戦争等々の後では、(イスラム教徒は)正当防衛をすることができるのだと言いながら、ビン・ラディンのこと、ビン・ラディン主義者の戦いについて語った。イスラム教徒に戦争を仕掛けたのはキリスト教徒だとも言っていた。
アメリカ大統領選挙を2週間後に控えて、ブッシュとケリーとどちらがいいかと尋ねると、「われわれはブッシュがいい。なぜなら、彼がいてくれると、米軍兵士がイラクにとどまり、そのためわれわれが成長することができる。ブッシュのアフガニスタンへの介入はわれわれにとって非常によかった。あのお陰で世界中に拠点を設けることができた。今や60カ国に代表者がいる。われわれの目的はアラブ諸国の権力構造をひっくり返し、アンダルシアから中国国境までカリフ制を再建することだ」。どの国から手をつけるのか尋ねてみた。「ふたつある。サウジアラビアとエジプトだ。ヨルダンはCIAの手中にあることは分かっている。これはよくないが、急いではいない。アラブ諸国の指導者はすべて裏切り者である。真のイスラム主義者はひとりもいない」。
この男は、アフガニスタンでの訓練経験もあり、なかなかの見識家であった。
(この後の方は、米軍の攻撃がガラスが割れるほど近くに迫ってきたこと、恐怖、苛立ち、内省、などが綴られている。ゲリラとフランス側との交渉の進展具合も、ゲリラは二人にはほとんど何も知らせていなかったらしく、解放間近になって初めてシャンプーを渡されてそれを実感するような記述がある。
9月末のディディエ・ジュリア議員一派の動きも、二人はまったく知らされていなかった模様で、解放は近いと聞かされながら実現せず、「フランスに問題がある」などと見張り番などに言われたことが、後になって時期的に議員の動きと重なるようだと思われるという程度。
毎日1時間わら布団の上で体操をして体調の維持に努めた。食事は最初の農家のときは、ナツメヤシなど土地の農産物ばかりだったが、その後の監禁場所ではチキンと米、あるいは羊肉とパンが主体で、量も十分だった。)
≪要約終わり≫