イスラムには、ムスリムとして信ずべきもの、守るべきこととして一口に「六信五行」という命令がある。六つの信心、五つの行動とでも言おうか。日本語として口調がいいので定着しているが、もとのアラビア語ではこうはまとめて言わないのではないだろうか。このことはコーランに書かれているわけではなく、イスラムが広がっていく過程で自然発生的に固まってきたものらしい。
ムスリムは六信として次の六つのものやことの存在を信ずるように言われている。1)アラー 、2)天使、3)啓典、4)使徒、5)来世、6)予定、がそれである。このうち最後の予定というのがわかりににくいが、この世に起こるありとあらゆることはすべて神が予定したことということのようである。ムスリムにとっては当然過ぎるほど当然なので、というよりこれらを信ずるからこそムスリムであるわけで、しかも目に見えることではないので、六信が話題になることは少ない。これはムスリムの定義のようなものである。
これに対して、五行の方はイスラムに特徴的な行動であり、実行しているかどうかよくわかり、目立つので、話題になりやすい。1)信仰告白、2)礼拝、3)喜捨、4)断食、5)巡礼、がそれである。
最初の「信仰告白」は、「ラー・イラーハ・イッラッラー(アラーの他に神なし)」と「ムハンマド・ラスールッラー(ムハンマドはアラーの使徒である)」という短い二つのアラビア語の章句を唱えることである。生まれながらの信徒はもちろんことあるごとに唱えるし、イスラムへの改宗者もこれを唱えることによってムスリムとなる。二番目の「礼拝」がムスリムのもっとも強烈な義務である。早朝から深夜にわたる1日5回の礼拝と金曜日の昼のモスクでの集団礼拝が基本で、そのほか祭礼にともなう礼拝がある。「喜捨」は収入の2.5%を支払う。いつどこにどんな形で払うのかは国や地域によってさまざまであろう。「断食」は、有名なラマダン月の1ヶ月にわたる昼間断食である。1年のうち1ヵ月がほとんど仕事にならなくなる。最後の「メッカ巡礼」は、他の四行と異なり、それをする余裕のある信徒だけでいいことになっている。
ムスリムにとっては、あの世において楽園に入り、永遠の幸福な生活を送ることが(この世における)人生の目的である。そのためには、敬虔な信仰者であることが唯一の条件である。そのためには六信五行に励むことである。この世でいかに善行を積んでも、イスラム信仰がなければ楽園には入れない。六信五行以外の活動は、つまり生活の資を稼ぐ職業生活は、信仰生活を支えるための、つまり六信五行を行なうための二義的な活動でしかない。スポーツやレジャー、趣味のような余暇活動は無意味なのだ。学問や芸術も意味はない。
新しい思想は必要としない。新しい発明や発見も余計なことだ。犯罪は厳罰をもって処罰される。競争のない、眠ったような社会と言えば言いすぎであろうか。生活のあらゆる面において、外部の激しい競争社会からの侵襲を受け、百家争鳴に陥ってなすところがない。よく言えばまことにおっとりした成熟社会であるが、悪く言えば、統制のない神頼みの無気力な社会である。イスラムの当然の帰結である。
ムスリムは六信として次の六つのものやことの存在を信ずるように言われている。1)アラー 、2)天使、3)啓典、4)使徒、5)来世、6)予定、がそれである。このうち最後の予定というのがわかりににくいが、この世に起こるありとあらゆることはすべて神が予定したことということのようである。ムスリムにとっては当然過ぎるほど当然なので、というよりこれらを信ずるからこそムスリムであるわけで、しかも目に見えることではないので、六信が話題になることは少ない。これはムスリムの定義のようなものである。
これに対して、五行の方はイスラムに特徴的な行動であり、実行しているかどうかよくわかり、目立つので、話題になりやすい。1)信仰告白、2)礼拝、3)喜捨、4)断食、5)巡礼、がそれである。
最初の「信仰告白」は、「ラー・イラーハ・イッラッラー(アラーの他に神なし)」と「ムハンマド・ラスールッラー(ムハンマドはアラーの使徒である)」という短い二つのアラビア語の章句を唱えることである。生まれながらの信徒はもちろんことあるごとに唱えるし、イスラムへの改宗者もこれを唱えることによってムスリムとなる。二番目の「礼拝」がムスリムのもっとも強烈な義務である。早朝から深夜にわたる1日5回の礼拝と金曜日の昼のモスクでの集団礼拝が基本で、そのほか祭礼にともなう礼拝がある。「喜捨」は収入の2.5%を支払う。いつどこにどんな形で払うのかは国や地域によってさまざまであろう。「断食」は、有名なラマダン月の1ヶ月にわたる昼間断食である。1年のうち1ヵ月がほとんど仕事にならなくなる。最後の「メッカ巡礼」は、他の四行と異なり、それをする余裕のある信徒だけでいいことになっている。
ムスリムにとっては、あの世において楽園に入り、永遠の幸福な生活を送ることが(この世における)人生の目的である。そのためには、敬虔な信仰者であることが唯一の条件である。そのためには六信五行に励むことである。この世でいかに善行を積んでも、イスラム信仰がなければ楽園には入れない。六信五行以外の活動は、つまり生活の資を稼ぐ職業生活は、信仰生活を支えるための、つまり六信五行を行なうための二義的な活動でしかない。スポーツやレジャー、趣味のような余暇活動は無意味なのだ。学問や芸術も意味はない。
新しい思想は必要としない。新しい発明や発見も余計なことだ。犯罪は厳罰をもって処罰される。競争のない、眠ったような社会と言えば言いすぎであろうか。生活のあらゆる面において、外部の激しい競争社会からの侵襲を受け、百家争鳴に陥ってなすところがない。よく言えばまことにおっとりした成熟社会であるが、悪く言えば、統制のない神頼みの無気力な社会である。イスラムの当然の帰結である。