近年、医学、医療の分野で数多くの目を見張るような進歩が見られる。それらは、単に医学の領域にとどまらず、生命倫理にかかわる問題を含むことが多く、われわれひとりひとりが考えなければならないのはもちろんだが、国家や国際機関がひとつひとつのケースについて対応を迫られる事態になってきている。クローン動物やその延長線上のクローン人間の研究などがその典型である。
そのことはイスラム世界でも同様で、ひとつひとつの問題について、イスラム世界として対応を決めなければならないことは言うまでもない。イスラムの教義やアラブの伝統にそぐわないものが少なくないと思われるからである。この世界では、いわゆる学識経験者が決めるのはなく、宗教家が決めるところが変わっているが、ともあれ指針を出さないわけにはいかない。なぜなら、ムスリムひとりひとりでは何ごとも決めることができないからである。
しかるに、こうした問題はいずれもあまりに複雑で、あまりに専門的であるので、イスラムのウラマーが内容を理解するのがたいへんな苦労であるはずである。いや、ひたすらコーランの暗誦にはげんできた理科的な素養のまったくない高齢のイスラム法の専門家に理解を求めることが無理なのだ。しかも、仮に理解が得られたところで、コーランやハディースに言及がなければ、その場合がほとんどであるが、結論を導くことが極端に難しい。ということは、イスラム世界として権威ある決定を得ること自体が不可能ということになる。個々のムスリムはどうすればいいのだろうか。
ここには、最近話題になることの多い医学、医療上の問題の中から、イスラム世界の対応が注目されるものの一部をこころみに並べてみた。単なる科学技術上の問題であれば、原子爆弾を作られては困るが、イスラム世界の対応が外部世界に影響することはほとんど考えられない。しかし、医学、医療上の問題となると、直接われわれに影響が及んでくるので、無関心でいることはできないのである。どのような回答がイスラム世界から来るか、期して待っている。
1)輸血・移植
輸血
輸血の歴史は長いので、いろいろな議論があったようであるが、現在は輸血を受けることは認められている。ただ非ムスリムの血液を受けることについては議論が分かれるらしい。献血も奨励されている。非ムスリムに対する献血もムスリムの寛大さを示す意味で認められている。ありがたいことだ。
臓器移植
以下の各場合について、ムスリム、非ムスリム間のやりもらいに伴う4通りのケースがある。やはり非ムスリムから臓器を貰うことができるかは議論が分かれるようである。また、近親者・第三者の別、有料・無料の別、等でイスラムの対応は分かれると思われる。
1.生体移植
2.脳死移植
3.死体移植
4.動物の臓器を移植
極端な場合だが、豚の心臓弁の移植は認められるか。
5.人工臓器移植
2)家族計画
避妊
イスラムでは、結婚は子どもを生むことが、多分、本来目的とされていると了解するが、そうであれば夫婦が避妊をする理由やその方法について議論があるように思われる。
堕胎(妊娠中絶)
まず堕胎する理由が問われるであろうし、当然のことながら、殺人は許されないので、成長する胎児をいつから人間とみなすかにかかってくるのではなかろうか。
不妊手術
イスラムでは男女いずれに対しても認めないというが、その理由は何か。
生殖補助医療
子どものできない夫婦に対して、第三者の参加を得て、子どもをもたせようとする医療で、おおよそ次のように5類別されている。それぞれの場合について、イスラムの見地からの対応はどうか。
1.第三者の女性に出産してもらう。
1-1夫の精子と妻の卵子で、第三者が出産(借り腹=ホストマザー)
(遺伝上:夫は父、妻は母、法律上:夫は父、妻は第三者)
2.第三者の女性から卵子の提供を受ける。
2-1夫の精子で妻が出産
(遺伝上:夫は父、妻は第三者、法律上:夫は父、妻は母)
2-2夫の精子で第三者が出産(代理母=サロゲートマザー)
(遺伝上:夫は父、妻は第三者、法律上:夫は父、妻は第三者)
3.第三者の男性から精子の提供を受ける。
3-1妻の卵子で妻が出産
(遺伝上:夫は第三者、妻は母、法律上:夫は父、妻は母)
3-2妻の卵子で第三者が出産(代理母=サロゲートマザー)
(遺伝上:夫は第三者、妻は母、法律上:夫は父、妻は第三者)
着床前診断(受精卵診断)
3)再生医療
臓器には固有の幹細胞がある。この幹細胞からその臓器に必要なすべての細胞が作られる。ところが、受精卵が数回分裂したところで得られる胚性幹細胞(ES細胞)からはすべての臓器の細胞が作られる。従ってこれを使うことにより非常に有利となる。
朝日新聞(2004/7/4)の記事「衝突恐れず文化の創造を」の中で、筆者の理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの西川伸一氏は、ひとつの生命体において「全体の生命と部分の生命」ということを考えなければならなくなったとして、「単細胞生物なら全体と部分はひとつで分離できない。しかし多細胞生命体では全体の生命と部分の生命を分離して取り扱うことが可能となった。こうなると文化の伝統との衝突が避けられない」と述べておられる。これはわれわれ日本人への問いかけであるが、同時にイスラムの見解を知りたいものである。
4)遺伝子治療
体外から遺伝子を組み込んだウィルスや細菌を患者の体内に入れ、病気のもとになっている遺伝子の働きを抑えたり補ったりして病気を直す方法。
5)死・死体
イスラムの見地からは非常にデリケートなところと思われる。それぞれについてイスラムの対応を聞きたい。
延命治療
安楽死
自殺
死体解剖(教育、学術的な)
検視解剖(変死の際等の死体解剖)
6)性転換手術
神の被造物に変更を加えることになると思われるが、イスラムはどう対応するのか。
7)(美容)整形手術
単なる美容目的と、病気や事故による、或いは生れつきの身体的異常を矯正するためと、ふたつのケースがある。イスラムはどう絡んでくるのか。
8)クローン動物・クローン人間
クローン動物
1997年、イギリスで世界初のクローン動物(ヒツジ)が作り出され「ドリー」と名づけて発表された。これは「体細胞クローン」という方法でつくられ、雄のヒツジは関係がないことが特徴であった。クローン動物の作り方にはもうひとつ「受精卵クローン」という方法があり、これは通常の交配によってできた受精卵を使ってつくられる。ドリー以後、両方の方法でたくさんのクローン動物がつくられるようになり、アメリカではすでにクローン家畜が産業的に生産されるところまできて、食品医薬品局(FDA)が食肉として食べた場合の安全性の検討に入っているという。
これに対してイスラムはどのような対応をとるのか。
クローン人間
クローン技術を応用して、人そのものを作成する研究を進めるかどうか、その進め方について、政治を先頭とする深刻な議論が起こっている。すでにアングラではあちらこちらで実行に移され、誕生が間近との噂も聞かれるようになった。3年前に次のような趣旨の報道があった。
不妊治療で有名なイタリア人医師セベリノ・アンティノリ氏が、02年4月、アブダビとドバイでの講演や会見で明らかにしたもので、さるアラブ国でクローン人間づくりの実験を行なっており、アラブ人の大金持ちのVIPの核を用いた人クローン胚が女性の胎内に入れられ、女性は現在妊娠8週を迎えている。また別に、ロシアとイスラム教国でクローン技術により3人の女性が妊娠しており、いずれも妊娠6-9週間と報告した。この医師は、イタリアではこの研究はできないが、イスラム文化はオープンで、科学の進歩を助長するものであるという。
これに対して、同じ記事で、サウジアラビアの不妊治療協会会長が、かなり以前に宗教当局がこの研究を禁じており、これに携わったものは厳罰に処せられる、と語ったとしている。
わが国では、「クローン技術規制法」により人クローン個体を生み出すことを禁止ししている。しかし人クローン胚作りは、03年7月、生殖医療研究目的に限り容認した。フランスとドイツは人クローン個体作りを「人類に対する罪」として禁止することはもちろん、クローン胚作製も禁止している。一方、英国は研究目的にはクローン胚作りを認めており、日本は英国にならっている。アメリカは、人クローン胚の研究および人クローン個体を禁止する法案が下院を通過している。
イスラムはこれに対してどう答えるつもりだろうか。仮に神の領分を侵すものとして禁止するにしても、ただ「禁止」と叫ぶだけでなく、イスラムと近代科学のあり方を踏まえた説明が必要である。