中東断章

中東問題よこにらみ

「ヨルダン内戦」余聞  - 「黒い九月」によるミュンヘン・オリンピック事件

2008年11月26日 | パレスチナはいま
 ヨルダン内戦という戦争で、パレスチナ・ゲリラは、正面の敵であるイスラエル軍によってではなく、同胞でかつ味方であるはずのヨルダン軍によって壊滅的な打撃を受けた。ゲリラ軍は、ヨルダン軍の大きな憎悪の塊が炸裂したかのような、一兵たりとも許さぬという勢いで掃討された。生き残りのほとんどはレバノンへ逃げた。周囲のアラブ国は拱手傍観するのみであった。イスラエルはともに高見の見物をしておればよかった。目の前で敵同士が戦って消耗してくれたのである。48年の建国から僅か20年余、吹けば飛ぶようなこの国にとって、ヨルダン内戦は逆に神風となったことであろう。

 圏外の第三者にとっては、ヨルダン内戦は依然として謎である。どう考えていいか分からない。この土地の出来事は、ほとんどすべてイスラム教と関係づけて考えなければ理解できないが、こればかりはそうも行かない。民族の資質か。しかしそのようなものが取り出せるのかどうか。こちらが頭を抱えているあいだに、パレスチナ・ゲリラ、引いてはアラブ・イスラム世界は、さらなる混迷ぶりをさらけ出す。そこには、組織なき組織、戦略なき「PLO」の迷走と、PLO支援を使命としながら組織できない組織「アラブ連盟」の幽霊のような痛ましい形骸が見られるのみである。

 ヨルダン内戦からちょうど2年が経過した1972年9月5日、ドイツはミュンヘンで行われていたオリンピックの中日、会場内のイスラエル選手宿舎にライフル銃をもつ8人のパレスチナ・ゲリラが侵入し(1人は内部にいた手引き者か)、その場にいた11人のイスラエル人選手やコーチを人質として、イスラエルに捕虜となっている200人余りのパレスチナ人の釈放などを求めて、立てこもった。もとより要求が容れられるわけもなく、結果的に場所を移して銃撃戦となり、人質全員とゲリラ、さらにドイツ人1人の犠牲者を出して終わった。ゲリラのうち3人はドイツ側に捕まったが、その後の別のアラブ・ゲリラによる航空機乗っ取り事件の人質交換で釈放された。しかし執拗なイスラエルの復讐部隊の追及により後に消されてしまったという。

 ミュンヘン・オリンピック襲撃は、世界中の人々の意表を突くまったく突拍子もない事件であった。このようなことが起こるとは、イスラエル人を含めて、だれ一人夢想だにしなかったことは明らかだ。平和の祭典であるはずのオリンピックの場で惨劇を引き起こすとは。この事件は、アラブ・イスラム人のオリンピックに対する冷淡な態度をよく示している。思いもかけない、突拍子もない事件という点で、「9.11」をとっさに「ミュンヘン・オリンピック事件」と結びつけた米国人記者の視点は確かである。また、「9.11」を見て、街頭に飛び出して空に銃弾を放って喜こぶパレスチナ人群衆の映像が流れたが、ミュンヘン・オリンピック事件でも、記録は見ないものの、アラブ・イスラム世界では同じように慶事と受けとられたであろう。再び東京にオリンピックを招致するのはいいが、今の自衛隊では警備は心もとない。

 この事件を引き起こしたのが「黒い九月」という組織だと聞いて違和感をもつ人が多かった。パレスチナ・ゲリラは、開戦の経緯はお構いなしに、ヨルダン内戦での屈辱を晴らすために「黒い九月」部隊を組織し、ヨルダン首相をカイロで殺害するなどの報復活動を行っていた。それはそれで理解できるのだが、その組織がオリンピックの最中にイスラエル選手団を襲撃するのはおかしな話である。やるのであれば、別の組織名でやらなければ筋が通らない。イスラエルは飛び上ったのではないか。けじめなきアラブ・イスラム世界の実態を示している。

 ミュンヘン・オリンピック事件によって、パレスチナ・ゲリラ、パレスチナ人、アラブ人は、世界に向かって、特にヨーロッパに対して、イスラエルの非理に異議申し立てをする足場を自ら崩してしまった。もうパレスチナ人、アラブ人が何を言っても、聞く人は留保つきである。パレスチナ・ゲリラは「これをやれば泥沼にはまり込むことになるぞ」という自覚も反省もないまま、やみくもに飛び込んでしまった。ヨーロッパには、フランス人を中心として、もともとプロ・アラブ感情をもち、米英が後押しするイスラエルの非道に眉をひそめる人々が少なくない。その人たちの気持ちを逆なですることになってしまった。ヨーロッパに根深い「ユダヤ人嫌い」にうまく乗って、親アラブ派を拡大すべきときであった。それから30余年、各国で百万人のオーダーに膨れ上がった国内のイスラム教徒移民の異質性に悩まされることと相まって、嫌イスラム感情が広がっているという。

 中東アラブ・イスラム社会の変調は続き、さらに広くイスラム世界に拡大し、深刻化していく。すぐこの後は、今度はシリアが介入してのレバノン内戦である。シリアからは、レバノンはシリアの一部であるといった時代錯誤の主張が、パレスチナ問題に便乗して出てくる始末である。(この後のイラクのサダム・フセイン大統領によるクウェートはイラクの領土であるという主張は、これと軌を一にする。)山と海と歴史の国レバノンの国土は荒廃に帰し、数えきれないレバノン人、パレスチナ難民、パレスチナ・ゲリラが死に、また仕事や住む家を失った。いまも混乱のうちにある。

 イスラム社会の混迷にまつわるわれわれ日本人にとっての最大の問題は、これが外部世界と協調して暮らしていけるようになる目途が立たないことである。われわれの側からは打つ手がない。繰り言にならざるを得ないのである。

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