goo blog サービス終了のお知らせ 

タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく171

2014-11-30 22:53:40 | 幸せ
世間のニュースなどを見ていると、
暗(くら)い話しが多い。

もちろん、明るい話題、
楽しい話題もあるけれど、
やはり、暗い出来事、ネガティプな情報が、
多いのも事実だと思う。

だから 、新聞なども、
一般紙は、
暗い話しが、多くなってくると思う。


ところが、聖教(せいきょう)新聞は、違う。

聖教新聞は、
創価学会(そうかがっかい)の機関紙だから、
創価学会の情報も多く出ているけれど、
大きな特徴(とくちょう)として、
紙面に、
「希望の言葉」、「励(はげ)ましの言葉、」
人生を前向きに挑戦していける、
「ポジティブな言葉」が、あふれている。


それは、見る人が見れば、よく!わかる・・!


ある少女がいた。・・

彼女は、創価学会員ではないけれど、
自分の家で、聖教新聞を、とることになった。

彼女は、その聖教新聞の記事を読み
聖教新聞が、大好きになった!

なぜかというと、
聖教新聞には、
「希望の言葉」、「勇気の言葉」が、
ちりばめられているからです!

そして、彼女は、
自分が好きな言葉が出てくると、
切り抜き、スクラップノートを作り、
大切にしてきた。

そのノートは、何冊(さつ)にも、なった・・!


そして、彼女は、大人になっていく。


彼女は独り立ちし、親元を離(はな)れていった。

彼女の親は、友人の勧(すす)めで、
聖教新聞をとることはあったけれど、
創価学会に対する理解は、
浅(あさ)く、あまりなかった。

だから、聖教新聞のスクラップノートを
大切にしている彼女を見て、
親は、彼女に、
「創価学会にだけは、はいるなよ!」
と言ったそうです・・・。


けれど、
世間の風潮(ふうちょう)が、
正しいとはかぎらない。

まして、世間の、
創価学会に対する、
いい加減(かげん)な記事や、
デマが、正しいわけがない。

それに、彼女は、
聖教新聞を、しっかり読んでいたので、
真実がわかっていた・・!


彼女には、確信があった。

なぜなら、聖教新聞を切り抜いた、
何冊ものスクラップノートは、
そのまま、
彼女のこころに、
希望と、勇気と、励ましとなって、
刻(きざ)まれていたからです。


そして、彼女は、創価学会に、入った!!


なぜなら、それは、
聖教新聞の希望の言葉の通り、
『幸せの道』であり、
『希望の道』であり、
『勝利の道』だからです。


そして、それは、
結局(けっきょく)、
家族や親も、
『幸せの道』『希望の道』
『勝利の道』に、導(みちび)くことになり、
親にも、
最高の幸せを、
もたらすことになっていきます。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
暗い世の中の、
暗雲(あんうん)を吹(ふ)き払(はら)う、
太陽なんです。

南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、
自分の生命から、
無限のポジティプな心を引き出し、
開花していける!

そうなれば、当然、
悩みや苦難(くなん)を、
乗り越(こ)えることができ、
そのポジティプな生命から、
夢や希望も、
かなえていけるようになっていく。

こんな暗い様相(ようそう)の世の中だからこそ、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の太陽がもたらす光は、
無限に輝(かがや)いていく!!

どんなネガティブも、
追っ払(おっぱら)い、
清々(すがすが)しく、
無限の希望を持って、
進んでいける!!

それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる』と、
いうことなんです。


だから、聖教新聞は、明るい!!


希望が、あふれている!
勇気が、みなぎっている!
励ましの言葉に、満(み)ちている!


心というのは、不思議(ふしぎ)です。
希望があれば、どこまでも、
開花していける。
勇気があれば、
人生は、どこまでも開いていける!


その生命の息吹(いぶき)に満ちているのが、
聖教新聞であり、
希望と、勇気を、
無限に開いていく、
最強最大のポジティブ思考と言えるのが、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく160

2014-07-01 08:51:09 | 幸せ
創価学会(そうかがっかい)二代会長である、
戸田城聖先生が、
天下を取った徳川家康を通して、
語っていたそうです。

「信長、秀吉、家康の三人の中で、
 果報(かほう・福運の意味)は、
 家康が、一番もっていた。
 この果報ばかりは、人間の力(ちから)では、
 どうしようもない!
 だから、信心しなければ、
 解決されないのである。」


果報(かほう)とは、
結果の報い(むくい)と書くから、
結果が出てくる力、
幸せという無限の宝が、出でくる力と、
言えるかもしれない。

いわゆる、世間一般的に言われる、
『運』です。

これだけは、人間の力では、
どうしようもない!!と、
言っているんです。

仏法(ぶっぽう)では、「幸せになる運」のことを、
『福運(ふくうん)』と、いいますが、
この『福運』!
戸田先生の言葉を、かりれば、
『果報』は、ぼくたちが、
どんなに、あがこうが、どうしようもない!

たとえば、
どんなに才能があっても、
どんなに努力しても、
成功できるとは、かぎらない!
まして、
幸せになれる保証(ほしょう)など、どこにもない!

それが、現実だと思う。
もちろん、努力は、必要だし、
才能も、必要かもしれない。

けれど、にもかかわらず、
不幸になっていく人が、
どれだけ、多いことか・・・・。


実は、
努力や才能を、生かし、
幸せになっていくためには、
決定的なものが、必要となってくる。

それが、『福運(ふくうん)』です。

戸田先生は、
この『福運』だけは、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の信仰と、
仏法の実践活動でしか、
つけることは、できない!!!
と、言っている。


福運・・・・!

福運が、なくなった人ほど、
みじめなものは、ない!
どんなに栄華(えいが)を、きわめていても、
福運が、なくなったら、
必ず、没落(ぼつらく)していき、
不幸になっていく。

これは、才能とか、努力とか、
そういうことでは、どうしようもないことです。

普通、世間一般の人たちは、
調子(ちょうし)のいい時は、
当然、いい気持ちになり、
世の中は、自分たちのために、
回っているように思ったりする。

けれど、ひとたび、
さまざまなことが、
自分の思うようにいかなくなると、
急に、アタフタし、
おびえ、どうしようもなく、
途方(とほう)にくれたりする。


わからないのだ・・・・!
どうしたらいいのか!!


ようするに、福運を、つける方法、
福運を回復する方法を、知らないんです。
まったく、見当(けんとう)すらつかないでいる。

だから、絶望したり、
自己逃避(じことうひ)したり、
自殺したりするしかなくなる。

ところが、創価学会の人たちは、違(ちが)う。
たとえ、どんなピンチにあったとしても、
福運のつけ方を、知っている。
ようするに、
自分の宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)し、
福運をつける方法を、
明確に、わかっている。

それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
ということであり、
仏法(ぶっぽう)の実践活動である、
創価学会の活動です。


はっきり言って、
これしかないです!!


『福運』を、つける方法は、
ご本尊(ほんぞん)に、真剣に、
南無妙法蓮華経を、となえ、
真剣に、創価学会の活動を、するしか、
ありません!!

ほかの、どんなことをしても、
無理です・・・・。


ゆえに、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる実践と、
仏法の実践活動である、
創価学会の活動ほど、
価値(かち)のあることは、
絶対に、ありえない・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

幸せの元(もと)って、
なんだと思いますか?

幸せの元(もと)
幸せを、つくっているもの・・?

それが、『福運(ふくうん)』です。
だから、単純に、
福運が、たくさん、ある人が、
幸せになるわけです。

じゃあ、
その福運の元(もと)は、
何だと思いますか?
福運を、作る、大元(おおもと)のエネルギー。

それが、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
です。

だから、南無妙法蓮華経を、
たくさん、たくさん、となえている人は、
福運の元(もと)が、いっぱいいっぱい、
自分の生命に、たまってくる。

こんどは、その福運の元を、
『現実に外に出てくる福運』
すなわち、
現実に、悩みを解決したり、
夢を、かなえたり、
願いを、かなえたり、
現実に自分の人生を、幸せにしていく、
『本物の福運』にするために、
仏法の実践活動である、
創価学会の活動を、していきます。

そうすると、
自分の中に、たまった福運の元は、
自分の生命の中から、大きく開花して、
夢が、かなったり、
悩みが、解決したり、
自分の人生は、大きく、幸せへと、
転換(てんかん)していきます。

自分の中の福運が、
『本物の福運』となった時、
自分の人生は、希望の方向へ、
夢の方向へ、幸せの方向へと、
大きく、変革(へんかく)されていくわけです。

すなわち、
世間一般的に言う、
「運のいい人」「幸せな人」と、
なっていきます。

その『福運』を、単(たん)なる、
行き当たりばったりや、
成(な)り行きまかせではなく、
自分の力(ちから)で、つかみ、
勝ち取っていけるのが、
南無妙法蓮華経を、となえる仏法であり、
仏法の原理(げんり)を基本とした、
創価学会の活動です。


だから、創価学会は、明るい!
笑いが、たえない!

なぜなら、世界中のどこの国でも、
南無妙法蓮華経を、となえる
仏法(ぶっぽう)の実践と、
創価学会の活動によって、
福運を、たくさん、たくさん、ため、
自分の人生に、福運の結実(けつじつ)である、
『幸せ』を、
夢や希望とともに、
どこまでも、
開花させていけるからです・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく152

2014-04-10 09:19:13 | 幸せ
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書に、
(御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が、書かれた、
 論文や手紙を、すべて、集めたものです)
法華初心成仏抄
(ほっけしょしんじょうぶつしょう)
という御書が、あります。

その法華初心成仏抄という御書に、
こう、あります。

『我が己心(こしん)の妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)を、
 本尊(ほんぞん)とあがめたてまつりて、
 我が己心中の仏性(ぶっしょう)、
 南無妙法蓮華経と、よび、よばれて、
 顕(あらわ)れたまうところを、
 仏(ほとけ)とは、いうなり、
 たとえば、籠(かご)の中の鳥、なけば、
 空とぶ鳥の、よばれて集まるがごとし、
 空とぶ鳥の集まれば、
 籠(かご)の中の鳥も出(い)でんと、
 するがごとし・・・』

だいたい、意味を説明すると、
自分自身の中にある、
「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」という
普遍(ふへん)の法則を、
本尊(ほんぞん)と、あがめて、
すなわち、自分の中に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)という、
無限の力、すべてを変革(へんかく)する力、
幸せになっていく力が、あるんだと、
信じ、南無妙法蓮華経と、となえる時、
自分の中にある妙法蓮華経という、
幸せになる力が、呼び起こされ、
それと同時に、
南無妙法蓮華経と、
となえる音声(おんじょう)によって、
全宇宙の幸せになる力、エネルギーが、
引き寄(よ)せられ、集まってくる。
これを、仏(ほとけ)と、言うのだ。

たとえば、籠(かご)の中の鳥が、なけば、
空を飛ぶ鳥が集まってくる。
空を飛ぶ鳥が、集まってくれば、
籠(かご)の中の鳥も、
外に出よう!とするようなものだ。

と、だいたい、
こんな感じの意味だと思います。


『籠(かご)の中の鳥が、なく』とは、
さまざまな悩み、苦しみ、問題、壁(かべ)などに、
打ちひしがれ、束縛(そくばく)されている
ひとりの人間が、
この創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰によって
「この悩みを、問題を、必ず、解決してみせる!」
「必ず、幸せになってみせる!」
と、『南無妙法蓮華経を、となえる』ことを、
意味します。

南無妙法蓮華経は、
ぼくたちの中にある、
無限の力、幸せになる、
本源(ほんげん)のエネルギーのようなものです。

だから、
南無妙法蓮華経をとなえることは、
無限の力、
幸せになる本源(ほんげん)のエネルギーを、
呼び起こすことを、意味します。

そう考えると、
ぼくたちが、南無妙法蓮華経を、となえる声は、
その幸せになる、本源のエネルギーが、
動き出す、『うぶ声』と、
いえるかもしれません。

そして、その、
南無妙法蓮華経を、となえる、
『うぶ声』を、聞いて、
こんどは、全宇宙に遍満(へんまん)する、
幸せの本源の力、生命の無限のエネルギーが、
呼ばれて、自分のもとに、集まってくる。

たとえば、
「アラジンのランプ」で、
ランプを擦(こす)ると、
呼ばれて、魔神(まじん)が出てくるように、
南無妙法蓮華経をとなえると、
全宇宙の幸せの力、
幸せをもたらすエネルギーが、
呼ばれて、集まってくる。


それが、
『空を飛ぶ鳥が、集まる』
ということだと思います。


こんどは、
『空を飛ぶ鳥』が、集まってくれば、
その大宇宙の幸せのエネルギーに、
つられて、引っ張(ぱ)られ、
籠(かご)の中の鳥は、
自分のさまざまな悩みや苦しみ、
問題、壁(かべ)を、打ち破(やぶ)り、
幸せという大空に、羽ばたいていく!


これが、創価学会(そうかがっかい)が、実践している、
『南無妙法蓮華経を、となえる』、という、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
幸せが、幸せを呼ぶ、
『生命の法則(ほうそく)』だと、いうことです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

『幸せが、幸せを呼ぶ』という、
その最初の幸せとは、何か?

それは、「籠の鳥が、なくこと」。
すなわち、自分自身で、
『南無妙法蓮華経を、となえる』ことです。

自分で南無妙法蓮華経を、となえることが、
幸せを生み出す原点(げんてん)であり、
南無妙法蓮華経を、となえることから、
すべての幸せが、生まれてくる!
ということです。

そうすると、
大宇宙の中にある生命のエネルギー、
幸せのエネルギーが、
その南無妙法蓮華経を、となえている人のもとに、
強力な引力(いんりょく)に引き寄(よ)せられるように、
呼ばれて、集まってくる。

それが、後の『幸せを呼ぶ』ということです。

そして、また
『幸せが、幸せを呼び』
こんどは、その大宇宙から集まってきた、
『幸せに呼ばれて、』
自分の中の幸せが、引っ張(ひっぱ)り出され、
開花して、
外に、出てくるわけです。

そして、結果として、
悩みや問題が、解決したり、
夢や希望が実現したりして、
現実の人生が、幸せになっていく。
と、いうことです。



籠(かご)の鳥は、
『羽(は)ばたきたい!』
と、声をあげる。

希望の空へ・・。
幸せに空へ・・。

そして、その、
希望の空、幸せの空に羽ばたこうとする力が、
『南無妙法蓮華経』であり、
幸せの空に羽ばたこうとする声が、
『南無妙法蓮華経をとなえる』
ということです。

こんどは、その、
幸せの空に羽ばたこうとする声を聞いて、
全宇宙の幸せの力、幸せをもたらす無限のエネルギーが、
集まってくる。
あたかも、鳴(な)き声を聞いた鳥たちが、
集まってくるかのように。

そして、集まってきた幸せの鳥たちは、
声を上げたその人を励(はげ)まし、幸せへと引っ張る。
また、幸せになるように、さまざまなことをしてくれる。

そして、その応援(おうえん)と励ましに、
引っ張られ、
とうとう、その人は、
幸せという大空へと、羽ばたいていく。


それは、架空(かくう)の物語ではなく、
現実の結果として、
そうなっていく。

なぜなら、南無妙法蓮華経は
「宇宙根源の幸せの法則(ほうそく)」であり、
あらゆるものを、変革していく力、
幸せを作る根源(こんげん)の力だからです。


幸せの鳥は、幸せの鳥たちを呼ぶ。

呼ばれた幸せの鳥たちは、
また、幸せの鳥を呼ぶ。

その、幸せの
無限の相乗効果(そうじょうこうか)が、
南無妙法蓮華経をとえなる、
創価学会の、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく151

2014-03-27 09:28:22 | 幸せ
日蓮大聖人の御書(ごしょ)に、
一生成仏抄(いっしょうじょうぶつしょう)という、
御書が、あります。

御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が、書かれた、
論文や手紙などを、すべて、
集めたものです。
それぞれ、その論文や手紙の種類によって、
何々抄(しょう)とか、何々論とかの、
名前が、ついています。

その日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の、
一生成仏抄の一部に、こう、あります。

『ただし妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と、
 唱(とな)へ持(たも)つと、いうとも、
 もし、己心(こしん)の外に、
 法ありと思わば、
 まったく妙法(みょうほう)にあらず、
 そ法(不完全な法)なり。』

通解(つうかい)すると、
「ただし妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と、
 となえ持(たも)っていると、いっても、
 もし、自身の生命の外に、
 法(ほう)があると思ったならば、
 それは、まったく、妙法ではなく、
 不完全な法である。」

妙法蓮華経とは、
究極(きゅうきょく)の法、究極の力(ちから)の名前です。
略(りゃく)して「妙法」とも、言います。
そして、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
この究極の法、究極の力を、
顕現(けんげん)した、
仏(ほとけ)の生命の名前です。
 
ぼくたちが、
南無妙法蓮華経を、となえるのは、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」と、
「自分自身」を、
交流させるためだそうです。


ぼくたち、人間は、
人生において、
さまざまな悩みや障害(しょうがい)に、ぶつかります。
そうすると、目先の悩みや障害によって、
目の前が、真っ暗になり、
希望や未来が、
見えなくなったりすることが、あります。

「もう、ダメだ!無理(むり)だ!」
「どうせ、おれなんか、こんなものさ!」

そこまで、いかなくても、
惰性(だせい)であったり、
しっかりした希望や未来を、
見ようとしないで、
日々を、過(す)ごしたり、
生きていたりすることも、あると思います。

こういう生命や心の状態を、
「無明(むみょう)」と、いいます。
字を見れば、わかるように、
「無明」とは、「明かりが無い!」
真っ暗な生命状態だと思います。
ほんとは、もっと、深い意味が、あるようですが、
「無明」とは、だいたい、
こういう心の状態だと、思います。

その「無明(むみょう)」を、打ち破(やぶ)るために、
ぼくたちは、南無妙法蓮華経を、
となえます。

さきほど、南無妙法蓮華経を、となえるのは、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」と、
「自分自身」を、
交流させるためだと言いましたが、
その南無妙法蓮華経を、となえると、
大宇宙の「大いなる力」である、
「妙法蓮華経」と「自分自身」の生命が、
交流して、つながっていく。

そうすると、
「自分自身の生命」に
「大宇宙の大いなる力」が入り込(こ)み、
また、自分の生命自体も、共鳴(きょうめい)して、
本来(ほんらい)の力である、
大宇宙の力が蘇(よみがえ)り、
復活(ふっかつ)していく。

そうすると、
「もう、ダメだ!無理だ!」
「おれなんか、こんなものさ!」
と、思ってしまう「無明」が、打ち破(やぶ)られ、
妙法蓮華経という、
「大いなる法」「大いなる力」は、
自分自身の生命から、湧(わ)き上がり、
開花していきます。

そうすると、悩みや問題が、解決し、
新しい、希望の人生が、
開けてくるわけです。


ところが、ひとつ!
問題が、あります。

それが、
日蓮大聖人が、言っている、
『ただし妙法蓮華経と、
 唱(とな)へ持(たも)つと、いうとも、
 もし、己心(こしん)の外に、
 法ありと思わば、
 まったく妙法にあらず、
 そ法(不完全な法)なり。』

という、言葉です。

たとえ、
南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
自分の外(そと)、自分という生命の外に、
法(ほう)があり、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」を、
自分の外、自分以外のところに、求めたならば、
妙法蓮華経という、
真実の法則(ほうそく)、宇宙の法則では、なくなり、
不完全な法に、なってしまう。

その結果、
たとえ、南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
悩みや、問題が、解決しない場合があり、
本当の幸せが、
つかめなくなってしまう場合がある。

現実的には、
創価学会(そうかがっかい)が祈っている、
「ご本尊(ほんぞん)」と、「南無妙法蓮華経」は、
あまりにも、スゴイので、
別に自分の中に、妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があることを、
意識(いしき)しなくても、
本来、自分の中に南無妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があるので、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
無意識のうちに、自分の中にある、
「大いなる力」「大いなる法」が、発動(はつどう)し、
開花して、悩みや問題が、解決したり、
夢や希望が、かなったりしますが、
もう一歩、深く、立ち寄(よ)れば、
自分の中に、妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があることを、
信じ、自覚しないと、
「大きな境涯(きょうがい)」「絶対的な幸せ」は、
つかめない!ということです。

なぜなら、
自分の中に妙法蓮華経という、
無限の力があることを、信じないと、
日蓮大聖人が、いうように、
それでは、不完全な法になってしまい、
不完全ということは、
100%では、ない!ということだから、
南無妙法蓮華経という偉大(いだい)な力は、
本当には、自分の中から、
湧(わ)き上がり、開花していかないからです。


そして、その結論として、
日蓮大聖人は、こう言っています。

『ゆえに、妙法と唱(とな)へ、
 蓮華(れんげ)と読まん時は、
 我が一念(いちねん)を指して、
 妙法蓮華経と、名(なづ)くるぞと、
 深く信心を、発(おこ)すべきなり』

通解すると、
「ゆえに、妙法を唱(とな)え、
 蓮華(れんげ)と読む時は、
 (南無妙法蓮華経を、となえる時は)
 自身の一念を指して、
 (自分の心のことを、さして、)
 妙法蓮華経と、名づけているのだ!と、
 深く信じ、信心を、起こすべきである」

という意味です。


南無妙法蓮華経は、
自分の中にあるのであって、
南無妙法蓮華経という
「偉大な力」「偉大な法」は、
決して、
自分の外にあるものでは、ない!
すなわち、
『妙法蓮華経とは、自分自身のことだ!』
と、いうことです。


ここに、
創価学会が、実践する、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)と、
そのほかの宗教との、
決定的な違(ちが)いが、あります。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

キリスト教にしろ、一般的な仏教にしろ、
およそ、宗教と呼ばれるものは、
神や仏(ほとけ)を、
「大いなるもの」「絶対的なもの」
「聖なるもの」と、
あがめているかもしれない。

けれど、その神や仏(ほとけ)などの、
「絶対的なもの」「聖なるもの」は、
最初から、祈る側、
すなわち、ぼくたち人間とは、
かけはなれた、分離(ぶんり)したところに、ある。

だから、所詮(しょせん)、
人間は、神や仏には、なれないし、
いくら、祈ったところで、
真実の幸せは、つかめない!
ということに、なってしまう。

それらの宗教は、
神や仏を、あがめれば、あがめるほど、
もっとも大切な人間が、自分が、
どんどん、卑小(ひしょう)
になっていってしまう。

神や仏が、人間とは、
隔絶(かくぜつ)した存在である以上、
神や仏を、偉大だ!偉大だ!と、
あがめれば、あがめるほど、
結局、人間は、あわれになり、
みじめになる一方です。

だから、どうしても、
人間は、神や仏の、
奴隷(どれい)のような存在になっていってしまう。


現実的に考えて、
このような状態で、
人間が、幸せになれるとは思われません!


ところが、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、違う!

最初に話したように、
妙法蓮華経とは、
究極の「大いなる法」「大いなる力」の、
名前です。
そして、南無妙法蓮華経とは、
その究極の「大いなる法」「大いなる力」を、
顕現(けんげん)した、
仏(ほとけ)の生命の名前です。

その仏の生命、
南無妙法蓮華経という、
「大いなる法」と「大いなる力」を有(ゆう)した、
仏(ほとけ)の生命は、
自分の外にあるのでは、なく、
『自分の中』にある!!!!!

その無限の可能性を秘(ひ)めた、
南無妙法蓮華経という、
仏の生命が、自分自身の中にある以上、
その「大いなる法」「大いなる力」を有した、
仏(ほとけ)の生命を、
自分自身の中から、引き出し、
自分自身の中から、開花させていけば、
いいわけです。

それが、できるのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法であり、
その現実的な実践が、
「南無妙法蓮華経を、となえる」
と、いうことです。

だから、
日蓮大聖人が、言うように、
自分の中に、妙法蓮華経は、あるんだ!
妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」は、
外のどこかにあるのではなく、
自分の中に、あるんだ!と信じ、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
その南無妙法蓮華経の偉大な力、無限の可能性は、
自分自身の中から、湧(わ)き上がり、
開花していく。

すなわち、
どんな悩みや問題も、解決し、
夢を、かなえ、幸せを、つかんでいける!


ここに、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の、
決定的な優位性(ゆういせい)があり、
世界が、創価学会の仏法を、
求める理由があります。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく140

2013-12-05 09:09:02 | 幸せ
「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」
って、何だろう?

どうして、南無妙法蓮華経を、
となえるんだろう?

ぼくは、創価学会員だから、
日々、南無妙法蓮華経を、
となえている。
創価学会(そうかがっかい)は、
世界192ヶ国に、広がっているけれど、
日本語が、わからない外国の人も、
すべて、南無妙法蓮華経と、となえる。

世界中どこでも、南無妙法蓮華経!
共通の音律(おんりつ)、共通の音源(おんげん)、
きっと、そうでないといけない、
何かが?あるのかもしれない・・。

ぼくは、創価学会員だから、
このブログでも、
南無妙法蓮華経の素晴らしさを、
さまざまな角度から、視点(してん)を変えて、
話してきました。

けれど、ひとつ、ネックになるのが、
南無妙法蓮華経を、となえているのは、
創価学会だけでは、ないということです。

けれど、本当は、創価学会の中で、
創価学会に入会して、
『南無妙法蓮華経を、となえる』ということが、
南無妙法蓮華経の素晴らしさ、
南無妙法蓮華経のスゴサ、
南無妙法蓮華経の力(ちから)を、
最大限に発揮(はっき)させ、
南無妙法蓮華経の変革の力によって、
夢や幸せを、つかむ、
もっとも、大切で、
重要なポイントと、なってきます!

それは、なぜか?

南無妙法蓮華経を、いくら、となえても、
考え方が違(ちが)うと、決して、
幸せにはなれず、
かえって、不幸になってしまうからです。

すなわち、
金儲(かねもう)けや、私利私欲(しりしよく)のために、
南無妙法蓮華経を、
となえている教団や、宗教には、
けっして、南無妙法蓮華経の力は、
発揮されず、
なんも効力(こうりょく)も、現(あら)われない。

当然、祈る対象である本尊(ほんぞん)が、
間違っていれば、
絶対に、南無妙法蓮華経の変革(へんかく)の力は、
発揮されず、
祈る対象(たいしょう)が間違っているゆえに、
逆に大きな不幸を、被(こうむ)ることになる。

南無妙法蓮華経は、
偉大(いだい)な法則であるがゆえに、
その偉大な生命の法則(ほうそく)、
「南無妙法蓮華経」を、かたって、
金儲(もう)けや、ペテン、
私利私欲に走ったならば、
最高の真理の法(ほう)を、使って、
その真理(しんり)に、もっとも近いところで、
悪を働くわけだから、
その罰(ばつ)と害毒(がいどく)は、
あまりにも、大きく、深い!!

意識(いしき)する、しないは別として、
間違った考えや思想の元(もと)で、
南無妙法蓮華経を、となえていったとしたら、
南無妙法蓮華経の
本当の正しい思想、哲学(てつがく)とは、
明(あき)らかに違(ちが)い、
『間違(まちが)っている』がゆえに、
その間違った結果として、
逆に、どんどん、不幸になっていってしまうと、
いうことです・・・。

それが、創価学会以外の
南無妙法蓮華経を、となえる宗教、
教団が、やっていることです。
だから、ほかの、
南無妙法蓮華経を、となえない宗教よりも、
南無妙法蓮華経を使って、
まやかし、ごまかし、金儲けを、おこなう、
これらの宗教は、
はるかに罪(つみ)が重く、
その分、大きな不幸を、味(あじ)わうことになる。


日蓮大聖人が、なぜ?
南無妙法蓮華経を、残されたのか?

それは、世界の全民衆を、救(すく)い、
幸せにするためです。
世界中の人たちに、希望と喜び、
さまざまな夢や幸せを、つかませるためです。

その日蓮大聖人の思いそのものが、
南無妙法蓮華経だと考えることも、できます。

だから、その日蓮大聖人の思いに反(はん)して、
南無妙法蓮華経を、となえても、
南無妙法蓮華経は、けっして、
力(ちから)を発揮せず、
南無妙法蓮華経が、
日蓮大聖人の思いそのものだから、
南無妙法蓮華経を利用して、
金儲けを、おこなう宗教、教団には、
南無妙法蓮華経は、怒(いか)りをこめて、
大きな不幸と害毒(がいどく)を、もたらす!!


重要(じゅうよう)なことは、
かりに、意識していないにしても、
間違った思想や哲学(てつがく)のもとで、
あるいは、間違った対象(たいしょう)に、
南無妙法蓮華経を、となえていったとしたら、
かりに、善意でやっているとしても、
その人たちを、不幸にしてしまうと、いうことです。

ようするに、
どんなに善意(ぜんい)を持って、やっていたとしても、
間違った思想や哲学、
間違った対象(たいしょう)のもとで、
南無妙法蓮華経を、となえていったならば、
その人の人生に、さまざまな形で、
不幸という結果が、
現実に、現(あらわ)れてしまう!
ということです。
間違っているがゆえに、
どんなに、南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
逆に、どんどん、不幸になってしまう!
ということです。

だから、それらの宗教は、
現実に人々を、不幸にしてしまうのだから、
意識する、しないは別として、
あまりにも、罪(つみ)が重いと、
言えます。

それが、身延の日蓮宗にしろ、
日顕宗にしろ、
立正佼成会にしろ、
霊友会にしろ、
顕正会にしろ、
誤(あやま)った方向で、南無妙法蓮華経を、
となえている宗教や教団の、やっていることです。
また、教義(きょうぎ)を、ちょっと調べれば、
それらが、どれだけ、おそまつで、
メチャクチャであるかは、すぐに、わかります。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

では、創価学会は、なぜ?
正しいと言えるのか?

単刀直入(たんとうちょくにゅう)に考えると、
創価学会に、入会して、
南無妙法蓮華経を、となえると、
ほんとうに、幸せになれる。
創価学会に入会して、
南無妙法蓮華経を、となえると、
本当に、南無妙法蓮華経の力(ちから)を、実感でき、
さまざまな困難(こんなん)を、乗り越(こ)えることができ、
夢や幸せを、
現実に、実現していくことが、できる!

これこそ、
創価学会が、正しい証拠(しょうこ)と、いえる。
正しいから、結果が出る!
正しいから、幸せになれる!

もし、創価学会が、間違っていたならば、
いくら、南無妙法蓮華経を、となえても、
けっして、結果は出ず、
幸せにも、なれないでしょう。


南無妙法蓮華経は、
日蓮大聖人が、世界のすべての民衆を、救い、
幸せにするために、残された法則です。
だから、世界中の人々を、
本当に幸せにしようとしないと、
南無妙法蓮華経の力は、発揮されない。

逆(ぎゃく)に言えば、
創価学会が、本当に、
世界中の人々を、幸せにしようとしているから、
南無妙法蓮華経の大きな力(ちから)が、
発揮される!

それが、南無妙法蓮華経の、
不思議なる法(ほう)です。


創価学会は、
本気で、世界を平和にしようとしている。
本気で、世界中の人々を、幸せにしようとしている。
だから、創価学会の中で、
南無妙法蓮華経を、となえると、
願いが、かない、悩みが解決し、
大きく境涯(きょうがい)革命して、幸せになっていける!


これが、創価学会の真実であり、
南無妙法蓮華経の真実です。


南無妙法蓮華経は、
正しいものにしか、幸せを与(あた)えない!
南無妙法蓮華経は、
日蓮大聖人の思いのままに、
世界の平和、あるいは、一人一人の幸せのために、
行動する人々にしか、
力を発揮されず、その物凄(ものすご)い可能性と、
変革のエネルギーを、利用することが、できない!

ここに、
南無妙法蓮華経の不思議(ふしぎ)がある!


以上のことから、考えても、
南無妙法蓮華経を、となえて、
夢が、かない、悩みが解決し、
幸せになっていけるのは、
創価学会の中で、活動し、
創価学会の中で、
南無妙法蓮華経を、となえているからだ!
と、断言(だんげん)できます。


だから、創価学会は、
南無妙法蓮華経の素晴らしさ、
南無妙法蓮華経のスゴサ、
南無妙法蓮華経の無限の力(ちから)を、
発揮できる、
唯一(ゆいいつ)の団体であると、
言い切ることが、できます・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・