でも、日本にいて色んな所から浴びるメッセージによって、面白くもなんともない日常を黙々とこなすことが大人なんだと自分に言い聞かせてきた。日常の意識が現実で、変性意識は浮ついた踏み外した危険なものだと。変性意識に入りやすい私は、周りの堅実で常識的な人達(あるいは僻む人達)にけん制されてきたように思う。
でも、日常の意識は文化的な思い込みであると気づいた。
私は、自分を牢獄に閉じ込める努力をやめた。そうすると、毎日の暮らしは面白くもなんともない日常ではなく、色彩と躍動感を帯びてきた。こうしないといけない という刷り込まれた思い込みから脱して、軽い足取りで新しい自由なやり方をやってみる。そうすると、日常には変性意識がたくさん入ってくる。そして自分で舵取りしている感がもてた。洋書の翻訳でよく言われる「コントロールを手にしている」という感じ。
依存しないとは、自分に鞭打つことでも歯を食いしばることでもなかったんだ。既成概念に縛られなくていいってことだった。自分で考えてやっていいんだ。これは、ヘレン・ケラーのWater!体験にも引けを取らない、気づきであった。
とても小さなことでも、自分で考えてやればいいんだ。例えば、洗濯物は朝干して、夕方取り込み、たたむ というのが我家のルーチンのやり方だったのを、夏の今の季節なら、1時頃にはバリッと乾いているから、取り込んで、たたむ。(私、引きこもりだから家にいるw)それだけでも、自分で舵取りしてる感があった。私は福岡の人が苦手で外に出るのが怖い。だからスーパーに買い物に行くのも私にはつらい。なら、夜か早朝、行けばいい。トライアルとかならやってる。とにかく福岡人に遭いたくない。なら図書館でも、いくつかの図書館の、夜開いている曜日を調べて夜行くようにする。
日常を ケ として、日常でない時を ハレ とする概念は、人を思い込みに埋もれさせてしまう。
自分で舵取りしていいなら、日常は変性意識と伴にある。