意思による楽観のための読書日記

ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」 伊藤章治 ***

ジャガイモが新大陸でどのように食べられ、それがヨーロッパを経由して世界中に広がっていくプロセスを紹介、その過程で歴史にどんな影響を与えたかを解説している。

話は、オホーツク海から始まる。北海道常呂郡佐呂間町字栃木、足尾鉱山の過剰開発によって起こった洪水で田畑を奪われた結果、北海道のこの場所に入植した。熊笹の原生林を開拓、栃木とは比べものにならない厳しい気候と酸性度の強い土地でも、ジャガイモはよく育った。入植後の1913年、大雪による凶作が栃木地区を襲うが、ジャガイモが飢饉を救う。1945年終戦を迎えた時、食糧難でも手間がかからないジャガイモ栽培がブームに、栃木地区でも農地の半分をジャガイモ畑にした。足尾鉱山は栃木の農民を北海道に追いやり、移住した農民はジャガイモで命をつないだ。

ジャガイモ発祥の地は、アンデス山脈の中央、ペルーとボリビアにまたがる標高3800m級の高原地帯、ティティカカ湖周辺だといわれている。ティティカカ湖の周辺では現在でもさまざま種類のジャガイモが栽培され、ジャガイモの祖先とみられる種類も存在する。1533年、インカ帝国はスペイン人によって滅ぼされ、スペイン人はポトシ銀山などで産する膨大な銀や黄金などを奪って本国に送ったが、その時ジャガイモもヨーロッパへと渡る。ジャガイモ普及の道筋はおぼろげな輪郭しか分かっていない。ジャガイモはその後も飢饉や戦争のたびに多くの人々の命をつなぎ、この後世界中の食糧供給に貢献する。米国でのジャガイモの本格栽培は、アイルランドからの移民の手で行われたとみられ、ジャガイモは「地球を一周した食物」といわれた。寒冷地でも栽培可能というのがジャガイモの繁殖の力である。それが普及に大いに役立った。アンデスの4000メートル級の高地で生まれたジャガイモは、北ヨーロッパなどの寒冷地でも豊かな収穫をもたらしたし、地下に大きなイモを作るので鳥などに食い荒らされることもなかった。生産性の高さも普及を後押し、「同じ面積の耕地で、ジャガイモは小麦の三倍の生産量がある」とアダムスミスにも高く評価された。

ジャガイモというと、アイルランドの飢饉の話が有名である。英国による支配は、アイルランド人を南部、東部の豊かな農地から追い出し、石ころだらけの西部の地へと押し出されていた。16世紀にもたらされたといわれるジャガイモは、岩だらけのやせた土地でもよく育ったが、そこにジャガイモ飢饉が襲いかかる。アメリカで起こった「ジャガイモ疫病」は、あっという間にアイルランドに上陸、惨事の背景には、栽培されていたジャガイモのこの病気に対する抵抗性が弱かったこと、そしてアイルランドの気候変動があったという。なぜアイルランドの被害は餓死者100万人と、ほかの地域よりもずば抜けて大きかったのか。他の国々でもジャガイモは全滅したが、他の作物も栽培していたために飢饉を回避できた、しかしジャガイモに頼り切っていたアイルランドでは、ジャガイモ疫病による大飢饉から逃れようがなかった。産業革命時代には「貧者のパン」と言われたジャガイモ、産業革命の時代、労働者の衣食住はきわめて劣悪であった。わずかな賃金でも買えて、調理も簡単なジャガイモは労働者の味方、ジャガイモの重要性を見抜き、普及を訴えた一人がアダム・スミスであった。第二次大戦後になってもベルリン中心部の公園にはジャガイモが植えられた。ドイツの市民農園も同じ時期ほとんどがジャガイモ畑となり、人々を飢えから救ったという。ソビエト崩壊で食糧品が高騰したロシアでも、人々は別荘でジャガイモを栽培して危機をしのいだ。

日本では1600年頃、オランダ船によって、インドネシアのジャカルタから長崎港に輸入されたジャワ芋が日本にジャガイモが登場した最初で、ジャカルタがジャカトラと当時呼ばれていたため、ジャカトライモと呼ばれ、そこからジャガイモの名がついたというのが定説である。輸出が急速に伸びるのは明治三十年代からで、香港、ウラジオストク、中国、朝鮮などへの輸出も増加、明治四十年代には全国の輸出ジャガイモの約4割が長崎港から積み出されるようになった。ジャガイモは南米アンデスの高地を原産地とする寒冷作物、生育適温は10~23度とされている。それを長崎という温暖地で栽培するにはには品種改良や病害虫対策が不可欠だった。長崎県総合農林試験場では温暖地向けで二期作の可能な品種作りを目指した。ここの農林試験場で開発された温暖地向けジャガイモは、今では千葉県から沖縄県にまで広がった。「男爵」は日本のジャガイモを代表する品種である。この「男爵」を日本にもたらしたのは函館船渠(現函館ドック)専務などを務めた男爵川田龍吉である。川田龍吉は1856年、川田小一郎の長男として高知に生まれた。小一郎は同じく土佐郷士出身で後に三菱会社を興す岩崎弥太郎と出会い、意気投合、弥太郎が大阪に開いた英語塾で龍吉に英語を学ばせる。小一郎は龍吉に英国への造船留学を命じる。龍吉の留学先は造船の本番場、スコットランドのグラスゴー。龍吉は留学から6年目、グラスゴーの書店で運命の出会いをする、その相手は書店の店員で敬虔なクリスチャンのジニー・イーディーである。異国で示しされた親切をきっかけに、二人はたちまち恋に落ち、手紙をやり取りし、休日などによく、グラスゴーの街角で焼きジャガイモを食べた。だが、二人の恋は実らなかった。結婚を固く約束して帰国した龍吉だったが、父親の小一郎は頑としてそれを認めなかった。帰国後の川田龍吉は、三菱製鉄所の技師として活躍、グラスゴーで学んだ技術を後進に伝えた後、日本郵船を経て、横浜ドックの初代社長となり、我が国初の石造りドックを完成させている。1906年函館船渠会社の専務となった龍吉は、函館郊外の七飯村農地を購入、英、米の種苗業者に11種類の種イモを注文した。その中のひとつの品種は、淡い紫色の花をつけ、株を引き抜くと丸い大きなジャガイモが鈴なりについていた。これが「アイリッシュ・コブラー」と呼ばれる品種で、北海道の気候、風土にぴったりと合った。このジャガイモはたちまち全国へと広がっていく。そして川田龍吉男爵にちなんで「男爵(イモ)」と呼ばれるようになるのである。

ジャガイモに最初に接したスペイン人、中南米の現地人がジャガイモを「パパ」と呼んでいたのを聞き、そのまま本国に伝えた。しかしパパはローマ法王(papa)」、恐れ多いため、それに近い発音の「パタタ(patata)」となったといわれる。英語の「ポテイトウ(potato)」もここからきている。

日本の食糧自給率は39%といわれる。流行りだして世界を巻き込むといわれるインフルエンザが長期間世界流行(パンデミック)したら食料輸入はどうなるのだろうかと心配になる。このジャガイモ、日本がパンデミックで食糧不足になったとき再び主役になるときがくるのだろうか。
ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」 (中公新書)

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