意思による楽観のための読書日記

維新風雲回顧録 田中光顕 ***

「典型的な二流志士」と司馬遼太郎に解説された著者、二流だからこそ残せた一流の資料というのである。維新後は岩倉遣外使節団メンバーとなり、陸軍少将、元老院議官、警視総監、宮内大臣を歴任したというから明治時代は一流の人物である。1843年土佐に生まれた郷士で、那須信吾の甥、武市半平太の土佐勤王党に属し、その後脱藩、長州に身を寄せて高杉晋作、桂小五郎らと倒幕運動に奔走、中岡慎太郎のあとの陸援隊を引き継いだ。幕末の慶応三年、鷲尾侍従を担いで高野山義挙、戊辰戦争大坂城に駆けつけている。

本姓を浜田辰弥と言い19歳の時に高知に出てきた。土佐藩参政は吉田東洋、後藤象二郎、福岡孝弟は東洋の弟子である。土佐勤王党は東洋の幕府よりの姿勢を批判、後の武市半平太はじめ勤王党処分につながる。脱藩する際に、平井収二郎は長州の久坂玄瑞に紹介状を認め、筆者はその書面を所持している。将軍家茂を襲撃しようとしたメンバーであるが腹蔵なく話をしてほしい、という文面、未遂に終わったが、もし実行されていれば桜田門外の変以上の騒ぎであったろう。

姉小路少将が襲撃された。少将は攘夷急進派で暴徒は刀を残して行った。薩摩の刀鍛冶によるものとしれ薩摩藩の田中新兵衛を捕縛した。取り調べ前に自刃、手がかりを失った。しかし犯人は薩摩藩士、という噂になり在京18藩の有志は「薩摩は9門内の往来を差し止める」ことに一決、以来薩長に感情的なもつれが生じた。

武市半平太に嫌疑をかけた土佐藩であったが、東洋殺害はおろかなんの罪状も見いだせない。しかし藩としては勤王党の動きは封じたい、後藤象二郎は武市半平太に切腹を命じた。そして岡田以蔵も京都で捕縛、拷問の末、同志は次々と捕縛された。その頃田中光顕は脱藩、大和十津川に潜伏、田中家に世話になった。田中光顕という名前はそこから来たのかといえばさにあらず、浜田の田、曽祖父の中村から中をとって田中としたという。十津川に潜伏していた那須と郷士の中井庄五郎が連れ立って京都の形勢視察に出かけた折、四条橋際で新選組の沖田総司、斉藤一、永倉新八と衝突、那須は大怪我を負ったが逃れてきた。脱藩して潜伏している身にもかかわらず元気が余っていたということであろう。

岩倉具視幽棲旧宅は洛北岩倉にあった。公武合体派と考えられていた岩倉公であったが、勤王攘夷の志士たちは岩倉公を訪ねてその識見に感服、維新の風雲は岩倉のあばら屋から生まれでたと田中は言う。岩倉公はその後、坂本龍馬や中岡慎太郎とも会談したという。田中光顕は高杉晋作に心酔していた。「平生は無論、死地に入り難局に処しても困ったという一言は断じて言うものではない」という高杉の一言が耳そこに残っているという。田中はこの本を認めた時85歳、長生き健康法は、この困った、を言わないことだと信じているという。御殿山の公使館を襲撃したときにも、逃げ口を確保しておいたため逃げおおせたと記している。英国公使館焼き討ち事件のことであろうか、ここにも参加していたのか。

坂本龍馬、中岡慎太郎の最後の場面にも遭遇したという。田中光顕は当日長州のから上京して白川土佐藩藩邸の陸援隊にいた、そこへ菊屋峰吉が襲撃されたことを報告、直ちに現場に駆けつけた。「坂本の下男藤助が二階の登り口に横ざまに倒れている。坂本は眉間を二太刀、深くやられて脳漿が露出しすでに事切れていた。中岡は重傷だが気は確かだった。後ろから頭にかけて斬りつけられ右の手と足とをひどくやられていた。坂本は左の手で刀を鞘のまま取って受けたがとうとう頭をやられた。もう頭をやられたからいかんと言っていた」これは貴重な証言であり、司馬遼太郎などの小説家のねたになっている記述ではないか。坂本の受けた太刀は太刀打ちのところが6寸ほど鞘越しに切られ刀身は3寸ほど傷ついて鉛を切ったようになていたところを見ると、よほど鋭く切りこまれたらしい、とこれも現場を見た人間らしい具体性である。田中光顕はこの犯人を小太刀の名人早川桂之助、渡辺太郎だと推察しているが、これは最近の調査ではといっており明治も30年くらいになっての話らしい。田中光顕が宮内大臣だったとき日露戦争でバルチック艦隊が日本海に向かっている頃、昭憲皇太后の夢枕に坂本龍馬がでてきて「この戦いは大丈夫です」と言ったというのだが、昭憲皇太后は坂本龍馬の顔を知らない、そこで田中光顕が龍馬の写真をご覧に入れると、この人だ、といったと言う。この話も有名になった。

陸援隊は京都出張中の藩の重役に属し海援隊は長崎出張中の藩の重役に属す、藩からの経済的支援はある時もあればないこともあるので期待せず、しかし儲けるところは藩に帰属させる必要なし、という決まりだったという。

高野山義挙においては錦の御旗を御所まで取りに行って実際に入手、これを振りかざして大坂入りしたというのだから、これも相当面白い一話である。田中光顕は幕末に死んでしまった多くの有為の志士達に想いを馳せる、実に惜しい人材を失ったものだと。そして自らは生きながらえていることを申し訳ないこととも感じる。木戸孝允にそのことを言ったときに、木戸が言った。「世の中は桜の下の相撲かな」 桜の下で相撲をとれば勝った人間は桜を見ることができないが、負けて転がされた人間は桜を見ることができるではないか、という。こじつけがきつい、と田中光顕は思ったと言うが、なかなか味のある歌である。

貴重な証言録であることは確か、幕末小説を書くものにはねた本になる。現場にいたからこそできる人間の証言録である。
維新風雲回顧録---最後の志士が語る (河出文庫)
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