2024年大河ドラマ「光る君へ」の時代考証を務めた筆者が、ドラマの主人公二人について、史実を一次資料をもとに確認しながら、中世史専門家として二人にまつわる歴史的流れを推測していく一冊。解説は章立てに従うと次の通り。
1.紫式部と道長の生い立ち
紫式部の父藤原為時は文章生出身の学者であり、式部は生母と早くに死別した。出身地は当時の東京極大路と鴨川の間であり、現在の廬山寺あたり。一方の道長は藤原兼家の五男として966年生まれ、紫式部が973年生まれとすると7歳年上と推定できる。兼家が藤原家系であっても摂関家として確立したシステムはその時点ではなく、天皇家との関係において、次期天皇を生むことになる后を誰の家系から入内させるかという権力闘争が始まっていた。道長の幸運としては兄たちが成人する時点では父親の立場が不遇であり、道長が元服するときに兼家が右大臣に出世していたこと。

2.紫式部の少女時代は晩年の自撰した歌集「紫式部集」の詞書と歌の内容から復元されている。その特色は少女時代に恋愛の贈答歌がない、そして女友達が顔を並べること。
3.為時は文章博士としては逸材だったが播磨の国の第三等官に任じられたあと不遇であり、無官時代に娘の紫式部は少女時代を過ごした。しかしそのことが在宅していた父親から娘への漢籍、白氏文集や日本書紀などの知識吸収へとつながった。
4.道長は兼家が一条天皇の摂政の座につくと急速に昇進、21歳にして従三位に叙せられて実資を抜き去った。その後、兼家から関白の座を譲られた長兄道隆の長女定子が11歳の一条天皇に入内、その後一条天皇の母であり兼家の娘である栓子は出家して東三条院となり、弟の道長の出世に大いに影響力を発揮する。

5.道長は宇多天皇の三世孫倫子と結婚、その後さらに結婚した明子と二人の綱の間に多くの子をなし、娘の入内を繰り返すことにより天皇の外祖父の地位を築き上げて摂関政治の頂点を極めることにつながる。

6.伊周には先を越された道長だったが疫病蔓延から995年に関白道隆が死去、関白を継いだ道兼も直後に死去、結果的に権大納言だった道長が一足飛びで内覧宣旨を賜ることになり政権を握ることになる。これには栓子の意向が強く働いたことが推測できる。これが長期道長政権の始まりだった。時を同じくして為時は越前国守に任官、宋との交易で漢籍に詳しい為時の力が道長に認められたことが推測できる。越前への任官に独身の紫式部は同行、為時の国守任期の半ばに宣孝と結婚して京に一人戻ることになる。
7.この頃長徳の変が起きて伊周、隆家が左遷されるという事件がおきた。二人との対立を深めていた道長にとっては願ってもないチャンスを得たことになる。
8.式部は宣孝との結婚後、26歳ころに賢子を出産。賢子は後に越後弁として彰子に出仕、大宰大弐の高階成章と結婚し、36歌仙、百人一首にも選ばれた大弐三位となる。
9.道長の長女彰子は数えで12歳になり着裳、一条天皇に入内した。一条天皇は定子との間に敦康親王を生むが、数年後立后した彰子が成人する頃、彰子は一条との間に敦成親王を生み、道長と一条天皇の間に次期東宮、そして天皇を巡り暗闘を繰り広げられることになる。

10.紫式部と結婚した宣孝はその2年半後に急死、紫式部は長い思索と物語の構想作りの日々が始まったと想像できるが、筆を起こした年月は特定できない。
11.源氏物語の着想を得た時期やその執筆目的は不明だが、当時の後宮や摂関政治の裏側が書き込まれていることから、後日の加筆を加味しても、宣孝の死後、彰子サロンへの出仕以前というタイミングが書き始め、式部29歳の頃というのが定説。
12.長大な物語を書き始めるためには、誰を読者と想定するのか、そして当時は大変貴重で高価だった書くための紙の調達をどのように計画できるかがポイント。道長による一条帝に対する彰子の魅力増大への期待の一つとして、彰子サロンでの源氏物語の存在を強く想定できる。つまり道長による式部の書き手としての認知、そして執筆依頼があったということ。
13.源氏物語の登場人物の成長とその政治的豹変は宮廷政治の機微を見抜く力と書き上げる筆の力が式部にはあった、そして道長はそれを見抜いたということ。
14.源氏物語を男性視線による単なる光源氏の女遊びと読むか、摂関政治の根底に流れる女性の役割と悲哀を女性目線で描いたと読むか、それが一条天皇と彰子中宮に与える影響までを考えられていたことをどのように評価するかは難しいものがある。
15.1007年、道長は金峰山詣を行い、その年の暮に彰子の懐妊が判明、翌年敦成親王が誕生する。出産と育児の記録として紫式部日記が執筆依頼され事細かい記述が始まる。彰子はその後敦良親王も出産、一条天皇の崩御を経て、三条天皇が誕生、その后にも道長の娘が入内しており、道長時代がほぼ確定的となった。
16.彰子に出仕し、源氏物語で彰子と道長の信頼を得て強い影響力を持っていた式部は、実資には強い味方であった。実資による日記小右記などによる記述から、式部の出仕時期がいつまで継続していたかを想定可能である。諸説あるが、筆者としては小右記に見る女房による実資の取次記述から1027年まで出仕は続いたと考えられるという。紫式部の死亡時期については、学説によって1014年から1031年までの幅があり、筆者としては973年生とすると53-59歳までは生きたと考えたいという。
道長の支援なしに源氏物語、紫式部日記は書けなかった。逆に源氏物語のお陰で一条天皇と彰子は子をなすことになった。道長と紫式部はお互いに必要な存在だった、というのが本書の結論。本書内容は以上。