ニコライ二世は来日前、「お菊さん」という小説を読んでいた。日本人女性をお妾さんにして日本で暮らすというもので、ニコライもそれを望んでいた節がある。最初におりたったのは長崎、そこで過ごした数日はニコライにとっては自由な振る舞いが許された滞在だったようだ。お忍びで上陸して訪れる土産物店、日本側もニコライ皇太子が来ることは知っているので、それはそれで歓迎である。長崎の稲佐には多くのロシア人が暮らしていた。そこに、お忍びでニコライも訪れたと。その時に、日本のマツというロシア語が堪能な女将が呼ばれた。ギリシアの皇太子とともに稲佐郷を訪った皇太子は、その夜を大いに楽しんだという。
次に訪れたのが鹿児島、薩英戦争があり、明治維新で薩摩藩が果たした役割を知っていたニコライはその薩摩を訪問したかった。そして軍艦で瀬戸内海経由で鞆に一泊、そして神戸港に停泊、そこから訪問したのが京都であった。日本にとってみれば最新鋭の軍艦が神戸港に停泊したまま、ロシアの皇太子を京都にお迎えすることになる。京都での歓待も大変なものであったという。宿泊したのは常盤館、いまのホテルオークラ京都であり、皇太子のために大文字の送り火を焚いたというから大変なものである。現代なら、どんな来賓が来ようともそんなことはしない。
そして運命の大津に、皇太子一行は訪れる。大津での観光を警備していた警官の一人が津田三蔵であった。切りつけた理由はよくわからないとされているが、一説には、ロシアが無礼であると感じたから、というものであった。世界の大国ロシアの皇太子に怪我をさせてしまった、ロシアが何を要求してくるかわからない、ひょっとしたら神戸に停泊している戦艦が東京に行って砲撃を加える可能性だってある。明治天皇は怪我をしたニコライを見舞うことを即刻決意、襲撃があった夜には新橋から汽車に乗って京都に赴く。
天皇の気持ちは受け止めるも、日本人医師の手当は拒否する皇太子、天皇は焦る。なんとか怪我が軽いものであってほしい、そいう気持ちが通じたのか、このまま東京への訪問も続けられそうな具合だったが、本国の皇帝から帰国指令が下る。日本側は必死で皇太子への気持ちを表そうとするが、皇帝からの指令は覆せない。
そして犯人の津田三蔵の裁判に舞台は移る。
裁判にあたるのは、時の権力者たちである薩長閥からははじき出された宇和島、徳島などの出身者による裁判官。裁判官たちは、時の為政者たちの意図、つまり津田三蔵を死刑にしたい、という強い指示を司法権の独立という形で拒否する。諸外国は日本の近代化を評価するという結果になるが、その時点では大国ロシアの反応が気になって仕方がない。
淡々とした記述のなかに、明治維新後の日本人の心持ちがよく表される。当時の日本人が一番欲しかったのは「一流の国」という評価、一番恐れていたのは清のように欧米諸国の餌食になってしまうこと。この象徴的な出来事が大津事件であった。国難ともいえるこの事件、ニコライ二世はその後、日本人のことをサルと呼ぶようになったという噂があるのも、この屈折した日本人の心持ちを象徴的に表す逸話ではないか。ニコライ二世は本当にそのような印象を持ったのか、決してそんなことはないはずだと思う。
