1939年のハルビンで独身の高級官僚で満州国国務局に勤める百済タダシが実業家の妻である倉橋奈津と、趣味である音楽を通して知り合い、不倫の仲になる。それを知ったのはタダシの京都の大学時代からの友人でこちらも外務官僚である孫江。タダシがこのままではいけないと、外務省の特別任務を与えようとする。特別任務とは、さる侯爵家の所蔵品であった名品チェロのドメニコ・モンターニャを関東軍が買い取ったものを、日本の同盟国であったドイツ軍ゲッペルス博士に世の中には伏せて極秘でプレゼントしようというもの。趣味でチェロを弾いていたタダシにそのチェロを満州から日本を経由してドイツまで運んでもらいたい、という任務である。チェリストのタダシが最適任者だというのは孫江のストーリーで、なんとか不倫相手の奈津から引き離そうという作戦であった。
日本の特務機関は独自の調査で奈津の夫である倉橋雅之がソ連に機密情報を漏洩していることを突き止める。決定的な証拠を握るため倉橋は特務機関の監視下に置かれ、その妻である奈津とタダシの不倫も特務機関に知られることとなる。それを知ってか倉橋雅之は奈津をベルリンへの出張に同行することを提案、不倫相手だったタダシの身の安全を念じていた奈津はタダシと会わないようにしながら数ヶ月を経て夫とともにベルリンに旅立つ。ほぼ同時に孫江からのチェロ運搬という使命を帯びたタダシもベルリンへと向かう。
ベルリンでは、その留守中に決定的なスパイ活動の証拠を握られた倉橋夫妻とタダシにも特務機関の目が光る。タダシと奈津は表立っては会えないし、奈津は警戒してタダシを避けている。このままでは倉橋も奈津も逮捕され処刑されると考えたタダシは、ダンスパーティの会場で奈津に接近、当時は戦争の外にあった平和な国アルゼンチンのブエノスアイレスへの逃避行を奈津に密かに提案、奈津は迷いながらも了解したかに見える。逃避行はスイスのルツェルンでの待ち合わせ、そしてニューヨークを経由してブエノスアイレスへと船で逃げるという計画。運んでいる名器を売れれば二人で暮らせるくらいのお金にはなる、という読みであった。
こうのタダシと奈津の逃避行の一部始終を聞き取るのはタダシがブエノスアイレスで臨終間際に知り合った日本人の平悠一。悠一は日本に輸出できるワインを開拓している貿易商、なかなか最適なワイナリーが見つけられずにいた。ふと入ったバーにいたのがタダシ老人、すでに90歳を超えていたタダシは、悠一と顔見知りになる。ある日、花を買ってきた悠一に、自分と奈津の話を聞かせる。話し終えたあとに悠一にチェロの曲を弾いて聞かせた。一緒にいたのが17歳のアルゼンチン女性ペネロペ、まるで実の孫のような親密さであった。一晩かかって奈津とタダシの逃避行の話を聞き出した悠一、次の朝、ペネロペからタダシ老人が死んだことを伝えられる。逃避行は本当にあったことなのか、それともタダシ老人の夢を聞かされたのか。残された遺品の後始末を任された悠一、ほとんど唯一の財産であったチェロは、名品ドメニコ・モンターニャであった。
悠一はドメニコ・モンターニャを財団に委託してクロアチア人チェリストに貸し出すことにする。そして孫江も後日コンサート会場でそのクロアチア人チェリストに出会うことになるのだが、まさか孫江も、そのチェロがタダシが持ち逃げした名品だとは気づかない。その後、悠一はロンドンでペネロペと一緒にドメニコ・モンターニャの音色を聞く機会に恵まれる。
純愛の物語にスパイと戦争の味付けがあり、題材の割に後味はとてもいい作品。現代の不倫物語のようなドロドロ感は全く無いので安心して読める。使者はタダシであり悠一、果実はタダシが悠一に語ることができた夢物語と残されたドメニコ・モンターニャ、そしてひょっとして果実がペネロペだとしたらと夢は広がる。