中世史を専門分野とする本郷和人が歴史上の多くの疑問に自説を展開する歴史エッセイ。
白村江の戦があったのは中大兄皇子が友好国だった百済の滅亡を前に最後の抵抗を手助けする戦いだったが、唐の援助を得た新羅・唐連合軍に大敗北を喫した。遣唐使を送り続けていた大和朝廷は、国のお手本として見立てていた唐の国力を知っていたはずで、果たして勝てると考えていたのか。大和朝廷として朝鮮半島の南部に維持していた鉄供給拠点の権益も完全に失った。その結果、この敗戦以降は朝鮮半島への進出は秀吉の朝鮮半島侵攻まで900年以上も考えられなくなった。唐による日本列島への侵攻を恐れた中大兄皇子は、奈良の飛鳥から大津に遷宮して、九州や瀬戸内海沿岸、近畿に朝鮮式の山城を建設、北九州には防人を派遣し水城も築いた。
中大兄皇子の死後、その子大友皇子と大海人皇子の間で勢力争いが生じたとき、大海人皇子は東国からの兵力を募った。西国は白村江の戦の敗戦で疲弊していたのがその理由。大海人皇子が拠点としたのは後の関ヶ原、当時は不破の関あたりで、戦いに勝って天武天皇となったのちには、不破の関に加え、愛発の関、鈴鹿の関を設け、都から東に向けての防御の構えを設けた。西側には関は設けられなかったのは、大和朝廷の支配は西に向いていたことの証左。三つの関の東は「関東」であり、「アズマエビス」とされた。「関西」の呼び名が生まれたのは明治維新以降であり、「関東」はその後朝鮮や中国の文化を取り入れ先進地帯となる大和朝廷に自然的に従属するようになるが、決して制圧されたわけではない。しかし、大和朝廷が建設した都にその後、秀吉のお土居まで城壁が設けられなかったことから見て、東国からの脅威があったとは考えにくい。
「建国記念の日」を決めたのは1966年、その決め方は明治維新後の1873年に決められた「紀元節」を建国の日とするという考え方。明治政府は天皇が万世一系の長い歴史を持った統治国家であり続けていることをアピールし、天皇の英語訳を”Emperor"であるとした。当時Emperorの称号を使っていたのはエチオピア王室があったが、長い王室の歴史を持つ英国でもKing&Queenであり、Emperorは現在では日本だけ。天皇称号を日本が使い始めたのは遣唐使を送っていた7世紀後半のことであり、白村江の戦の敗戦以降でも、当時の中国皇帝と対等であることを誇示したかったため。元号、歴史書、都、律令制度なども一斉に整備して自国が国家として統治されていることを示そうと精いっぱい努力した。長い歴史を誇示するために、初代天皇の神武は紀元前660年に即位したことにした。その理由つけとして考えられたのが、大革命は辛酉の年にこそ起きるという儒教の考え方。辛酉の年は60年に一度であり、大革命は21回に一度起きるとされたため、60X21=1260年となる。一番身近な大革命と言えば聖徳太子による国造りであり、西暦でいえば600年ころで、その前の大革命は600-1260=-660、つまり紀元前660年お正月だった、それを太陽暦に合わせて2月11日と設定したのが紀元節の考え方。それではあまりに前時代的という議論もあり「建国記念」の「日」とされた。
本書では、こうした歴史に関する疑問に歴史家として答える。
・日本の天皇は、なぜ「キング」ではなく「エンペラー」なのか
・実は3セットある「三種の神器」の矛盾点
・「神仏分離」の誤認が「廃仏毀釈」へと発展
・なぜ、鎌倉時代に貨幣経済が日本で発達したのか
・「崇」「徳」……無念な最期を遂げた天皇に贈られた名前
・日本で軍事史の研究がタブー視されている理由
・「承久の乱の幕府軍は十九万人」が誤りである歴史人口学的な理由
・『吾妻鏡』に記されなかった源頼朝と上総介広常の死
・「色好み」として知られた和泉式部の奔放な恋愛模様
・資料がウソをつくことはあるのか―― 千利休がお金の無心!?
・なぜ光圀は、徳川家でありながら「勤皇思想」に傾いたのか…
本書内容は以上。
・実は3セットある「三種の神器」の矛盾点
・「神仏分離」の誤認が「廃仏毀釈」へと発展
・なぜ、鎌倉時代に貨幣経済が日本で発達したのか
・「崇」「徳」……無念な最期を遂げた天皇に贈られた名前
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・「承久の乱の幕府軍は十九万人」が誤りである歴史人口学的な理由
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本書内容は以上。



