内田樹と高橋源一郎の言っていることにはいつも気をつけている。自分より5-6歳上だと思うのだが、いちいち自分と重なる部分とすれ違う部分があるので、考えるヒントになりやすいためである。反感や嫌悪感に創造性は伴わないことが多いが、同感や違和感はいずれも参考になるからだ。
昭和の40年ころまでは、「日本は戦争に負けたんだから」という共通認識があったように思う。東京五輪と大阪万博以降の昭和の後半はGDP経済成長論からバブル経済論で「日本も混沌の時代を経てようやくここまで来た」という感じ。平成になると生産年齢人口がピークを経て減少期に入りいつのまにか一人あたり所得は世界で20位に、すでに各家庭レベルではそこそこの生活レベルに到達するも、しかし給料は上がらない、若者は就職できないというなかで「日本がどうのこうのというよりも自分探し」という時代になった。
「日本は戦争に負けた」という文脈には占領時代を経て、随分な反対があったのではあるが日米安保と現行憲法を基盤にした経済成長を期待する部分があった。そして実際に経済の規模は拡大していったので、会社では年功序列通りに出世もし給料も上昇、家のローンも返せるし、ボーナスで子供の教育費もまかなえた。昭和30年ころまでに生まれた人たちの多くは平成になりリタイヤする頃になっても、昭和の慣性的経済力と良き記憶で「努力は報われたかな」と思える半生を過ごしてきた。
こうしたジェネレーションが現在を生きていると感じることがある。それが「昭和のエートス」ではないかと思う。本書の読者はこうした気分を感じながら読むと、この内田おじさんの言っていることがよく理解できるのではないかと思う。インテリなので理屈っぽいし、教育者なので話題によっては妙に力んでいる部分もある。それでも昭和前半に思春期を迎え経済成長期に様々なことを考えだした人が何を考えていたか。
「なんで自分が」と今、自分のことを思っている人がいるとしたら、それは今の時代のせいではない。昭和の時代にも同じように感じていた若者がいたはずだが、「みんなも貧乏をしている」「そのうちに良くなる」などと言い訳していたかというと、そんなことはない。親を楽にさせたい、世の中の役に少しでも立ちたい、という考え方ではなかったか。自分視点から家族視点、世の中視点に引いていくと少しはマシにならないだろうか。自分の境遇と隣人や友人との比較に創造的発想は生まれない。本書は少しはこうした考えの参考にならないかと思う。