意思による楽観のための読書日記

ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書 ****

朝敵藩とされ、会津から斗南に移された旧会津藩士たちの困窮と、その中から這い上がって薩長土肥以外の出身ながら陸軍大臣にまでなった柴五郎のの手記を、石光真清の子、真人は編集して、柴五郎が士官学校に入るまでとしてまとめたもの。

柴五郎は会津落城後、下北半島の斗南藩に移され、武士として慣れない農作に携わる羽目になり、当地の寒さと飢えで死線をさまよった。筆者の父の叔父にあたる野田豁通が青森県初代大参事に任命され、旧会津藩の若者をなんとか教育したいとの思いから二人の旧藩士の子息が選ばれた。その一人が柴五郎であった。筆者の父、石光真清は柴五郎より10歳年下であったが、野田豁通宅に書生として暮らした時期、柴五郎と接する機会があり、その後一生付き合いが続いたという。この交誼関係から、柴五郎氏から少年時代の手記を石光真清の子真人が託された、というのが本書の背景である。柴五郎も石光真清と同じ中国観を持っていた。「中国は面子を尊ぶ。それなのに、日本は彼らの信用をいくたびも裏切っったし面子も汚した。こんな事で大東亜共栄圏の建設などと口で唱えても彼らはついてこない。この戦争は負けだ。」柴五郎が亡くなるまえに語ったこの言葉は昭和17年のことである。

会津城での戦いで敗れた柴家では、男子が城にこもって戦ったが、敗戦を聞いた女性達は自刃、辛うじて生き残った男性たちは地団駄を踏んだ。会津藩は35万石と言われたが幕末には実質69万石の大藩、この時8千人の武士は3万石と言われた斗南藩に転封された。当時の下北半島は地の果て、農地には適さない実質は7千石程度の最果ての地であった。猪苗代藩か斗南藩かの選択肢があったというが、それは新政府の温情であったのだろうか。藩政府からは大人一日玄米三合、子供は二合と2銭を支給されたが、これで全ての衣食住を賄うことは難しかった。あてがわれた土地は原野、そこに掘っ立て小屋を建てたが、冬の辛さは想像を絶するものであった。

明治4年、野田豁通が青森県大参事に就任、森虎之助とともに柴五郎は学問修行の県庁給仕として選抜された。一家をあげてこれを祝い、応援した。そして機を見て東京に出てきた柴五郎は苦労しながらも勉学の道を探り、設立されたばかりの陸軍幼年学校に入学することになる。同時に入学するものは十数名、石本新六(のちの中将、陸軍大臣)、市井隼太(のち中将)、馬渕正文(のち少将)、山口勝(のち中将)などがいていずれも15-6歳であったという。最初はすべてフランス式、フランス人にフランス語でフランスの歴史や数学の99もフランス語で習った。これは問題があるということでそののち全て日本式に切り替えられたが、この世代の幼年学校で学んだ生徒たちはこのために日本語よりはフランス語の方が得意であり、その後日本語に苦労したという。士官学校入学で手記は終わる。

淡々としているが、柴五郎が幼年時代に受けた薩長からの恥辱は一生忘れなかった。同じような思いを受け継いでいる会津人は多かったはず。明治維新もこうした視点から見ると失敗の連続、多くの犠牲者の塗炭の苦しみがあったことが伺える。薩長以外の視点の明治維新も確かに実在していたのだ。ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))

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