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Tesyuke‘s diary

行く川の流は絶えずして・・・
日々忘れ去っていくことどもを書き留めて思い出といたしましょう。

ベトナム料理からモルガンお雪へ③ お雪ツアー

2008-05-08 01:17:24 | Weblog
ドロシーのモルガンお雪への興味はどこからきたのか・・・
言葉の端々をかき集めるとどうやら彼女は・・

≪ジョージ・モルガンはたんなんる大金持ち、それだけの人生。
しかしお雪さんは、遺産として受け継いだお金を有意義に使った。一人のクリスチャンとして質素で静かな老後の生活。その中で、教会に多額の寄付をして、人のためにお金を使った。その点において彼女の生き方は夫・モルガンより勝っている・・・≫
と、思っているようだ。

ともあれ、彼女をピックアップして、北へと車を走らせる。
春とはいえ、しんしんと冷たい空気が頬を打つ洛北高野川のそば、北大路に面して“高野カトリック教会”はあった。
お雪さんとの縁はこの教会の初代主任司祭パトリック バーン司教にある。
この方は、太平洋戦争が勃発し、在日アメリカ人が強制送還された中にあって、ただ一人帰国を拒否。京都に留まり戦争の終わる日まで軟禁された。
その時代の彼を陰からお雪さんは支えたという。

次に北大路をずんずん西へと向かう。西大路に丁度まじわった左大文字山のふもと、金閣寺もほど近いところ。
“衣笠(きぬがさ)カトリック教会”
目指すは、この教会の聖堂。これはお雪さんの寄付によって建てられた。聖堂としては京都初のコンクリートの建物。
この寄付の件は彼女が死ぬまでは秘密にと言うことで、誰にも真実を知らせなかったとか。

誰もいない静かな教会。聖堂に入る。100人も入ればいっぱいになりそう。ステンドグラスからの光で室内がほの明るい。
ドロシーが目ざとく見つけたのは壁に掛けられた十字架の道行き図(キリストの捕縛から受難を経て復活までの14場面)。黒白で切り紙のような,直線の目立つアブストラクトなもの。
ののしられ血と汗にまみれた十字架を背負うイエスに、顔をぬぐう布を渡す女性が描かれた場面で彼女は立ち止まり、この女性の名はベロニカと、教えてくれた。彼女のミドルネームはベロニカ、やはり思い入れがあるのか、写真を撮っていた。

衣笠教会を出て、だんだん上り坂になる細い道をなお北へと行く。カルメル会修道院を過ぎ、出会った人に道をたづねながら“カトリック墓地”へ。
山を切り開いた一角に緑にうずもれるように墓地があった。観光客のめったに来ないこのあたり、小川のせせらぎと鳥の声。桜のつぼみはまだ固く、山つつじのみが色を添えている。
階段を上り、規則正しく並んでいる沢山の墓石の中を探す。京の町屋にひっそりいたように、墓石も又目立たず静まっている。
しかし、彫り深く刻まれた太い文字は、お雪さん生涯の矜持(きょうじ)を示して余りある。
≪テレジア  ユキ モルガン≫ 1963年死去・享年81。
花冷えの北山、小ぬか雨にお雪さんの一生が重なる。

そして一路南に。
四条あたりに来ると、今までの凛としたストイックな雰囲気は一転。
京都の真骨頂・祇園の真ん中・巽橋。白川にかかる桜は満開。運がよければ舞妓さんにも会える。
そんな辰巳大明神前を外国人・日本人と渦巻くような観光客・観光客・かんこうきゃく・・
その一角の御茶屋さんの玄関灯に‘かとう’の文字が読み取れる。
ここがお雪さんゆかりの御茶屋で今も営業が続いている。

そろそろ‘お雪疲れ’してきた頃。ラーメン食べに行くよ!との声。
あまりラーメンの好きでないtesyuke、うんざりしてついていくと!
な、なんと、錦市場すぐ近くのしゃれた店に。
お雪さんが一時住んでいた100坪ほどの町家が改装され、創作中華料理レストランになっていたのだ。
内部に昔の面影はないが、粋なつくりの木の窓枠が一部残されていて、往時を忍ばせてくれた。
坪庭を抜けた先にある土蔵が、今はバー(夜間営業)になっていて、フロアの一部がガラスばりになっている。大きすぎて土蔵から出せなかったお雪さんの金庫を、掘り下げた地下に置いてディスプレイしているのだ。
蛇足ながら、あっさりしたラーメンがおいしくて、又参りましょうぞという気分。

そしてお雪ツアーのしめは、東福寺の塔頭・同聚院。
お雪さんと彼女の生家加藤家の墓がある。(カトリック墓地には分骨)
手を合わせ、長い一日を終えた。


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