89歳の日々

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湯の花温泉(美山・宮島・鞆の浦・二上山の旅)

2012-05-27 22:06:08 | 国内旅行

                                                  美山かやぶきの里を見た後で湯 の花温泉の「すみや亀峰庵」に泊まりました。       大きな樹木と川のせせらぎがある小さな庭を囲んで宿は作られています。                      静かなライブラリーは、家具も素敵でした

                     お料理も丁寧で,夕食はお部屋で、朝食は上記の様な庭に面した個室で。

                     。 韓国の古い家具等置かれて 感じの良い宿でした。


万葉の歌は強し!(美山・宮島・鞆の浦・二上山の旅)

2012-05-27 21:20:30 | 国内旅行

      (二上山の頂上に葬られた大津の皇子の墓)

8世紀に万葉の歌人が詠んだこの二上山・500m余りを妹と登って参りました。
若い時から待ち望んでいた大津の皇子の静かな墓所に詣でて来ました。

「貴女達も大津皇子の会いに来られたのですか、四国から、九州からも
日本全国からも来られますよ。有難うございます」
5月の新緑の美しい山登りの途中で地元の方に言われました。

天武天皇の皇子・大津皇子は特に聡明で体も大きく壮健、文学の才能もあり
我が国最古の詩集{懐風藻」にも幾つかの漢詩を残しており、宮廷でも
もっとも人気のある皇子と言われておりました。
しかし、天武天皇が亡くなられるとすぐ、次の持統女帝は病弱ながら我が子の
草壁を皇太子に立たせる為、大津皇子を謀反の容疑で処刑します。(686年)

ももづたう磐余の池に無く鴨を今日のみ見てや雲隠れなむ”

この様な淋しし辞世の歌を詠んで25才の未だ若い大津の皇子は亡くなりました。
政権の争いで、死んで行く事は歴史上、珍しい事ではありません。

でも、1200年余の後の人々が未だに大津の皇子に哀れを覚えるのは
彼の姉・大泊皇女(おおくのひめみこ)の万葉集に残る優れた歌に依ります。
大津皇子は死がまぬがれない事を知り、伊勢の斎宮になっている姉を
秘かに訪れ今生の別れを惜しんで帰ります。

”二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君が一人超ゆらむ”
”わが背子を大和へやると小夜更けて暁露に我が立ち濡れし”

弟が死ななければならない事を知りながら大和に送りだす姉の
哀切な歌が万人の胸を打ってきました。
そして弟の亡くなった後で、二上山の頂上に葬られた弟を思い・・・

うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟世とわは見む”
”磯の上に生える馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言わなくに

大津皇子の妃・山辺皇女が「髪を乱し裸足にて走り寄って殉死した」という
これ程の事実も大泊皇女の歌の前では影が薄くなっています。
姉・大泊皇女の万葉集に残る歌の力の偉大さに驚かされます。


     
(鞆の浦の「対潮楼」からの眺め・・・朝鮮通信使は「日東第一形勝]と言う)

福山の鞆の浦にも行って来ました。
ここの観光には万葉の歌については特記されていませんでしたが・・・

吾妹子が見し鞆の浦の室の木は常世のあれど見し人ぞなき”
”鞆の浦の磯のむろ木見るごとに相見し妹は忘らえめやも”

大伴旅人が大宰府から京に帰る途中、鞆の浦を通った時に歌ったものです。
大宰府に赴任する時に、妻と一緒に見た室の木(杜松)に変わりはないけれど
いま妻はこの世にはいない。室の木を一緒に見た妻を忘れられるだろうか! 
と嘆いた有名な歌が作られた処です。

今回は万葉に歌われた2か所を姉妹で訪れる事が出来ました。
8世紀中葉に4500首の秀歌を収めた万葉集は日本が世界に誇るものでしょう。

    *   *   *   *    

鞆の浦の観光案内でまず「福禅寺」に行くように勧められましたが、
思いがけずここは、朝鮮通信使の宿泊所で有名な「対潮楼」でした。
この「対潮楼」は1680年代には78畳の使館が作られ、風光明美なことから
「日東第一形勝」と称えられ、現在もこの扁額や各朝鮮の文人たちの墨蹟が
お寺に残っておりました。

通信使達にはとても人気があった様で、他のお寺に泊まらせられた時は
大変怒り、船に引きかえしたこともあると言います。
李進煕「江戸時代の朝鮮通信使」にはそれらの事が詳しく書かれています。

 


 


「美山かやぶきの里」と「アートキューブ」 K 社長夫妻

2012-05-20 11:18:27 | 国内旅行

「美山かやぶきの里」を訪れて・・

京都郊外の美山かやぶきの里は、陶芸家の河合寛次郎氏が
最も美しい村と絶賛してい、兼ねて訪れたい処でした。

たまたま「アートキューブ」社長Kさんご夫妻が私共の九谷美陶園に
お買い物に来られ、お庭でコーヒーをお出ししながらお話して
居りましたら、美山の方で古民家再生のお仕事をしておいでなので、
ご案内下さるとのこと、大変恐縮致しましたがお言葉に甘え
姉妹で、先週伺いました。

山陰線の園部駅までお迎え頂きましたが、時折の小雨に却って
新緑が美しく見え、かやぶきの家々が散在してここは日本で一番多い
かやぶきの集落でした。
歩いて回りますとお庭にはつつじなどが咲き、点在するギャラリー等を
あちこち興味深く覘いたりして廻りました。
お昼には山菜の天ぷらやヤマベの塩焼きなど美味しいお店でご一緒に
食事が出来嬉しい事でした。

何より良かったのはこの様にして地元に居られる「アート・キューブ」の
Kさんご夫妻にゆっくりお話を伺える事でした。
アウトドアの生活がお好きな彼等は 25年も前に京都に通う
サラリーマン生活を続けて、この山里が大変不便な時代から
かやぶきの家に住まわれました。
雪の日などはお子さんを学校に送るための雪道を開けるのに
朝の3時から起き出したそうです。

結局ここの自然を愛し,多くの人にもこの土地の良さを知って
もらうために、今は古民家再生の仕事をなさっておられます。
ですから、ここの生活のすべてを知っていて古民家を求められる方に
何から何までお世話できる方と思いました。

外国の方達も住まれており、外国人が日本風に設計した家は素敵に
出来たそうです。
私共姉妹が見せて頂いたのは見晴らしの良い高台に建つ大きな
古民家で材質も良く、昔にしては出窓や物入れ等のデザインも
モダンで、どんな方がお買いになるか楽しみでした。
帰りは亀岡の宿までお送り下さったアート・キューブの社長夫妻に
心から感謝し再会を期してお別れしました。                           (写真もKさんが写されたものです)

 


近藤紘一 「夏の海」「仏陀を買う」を読んで・・

2012-05-10 22:03:33 | 読書

近藤紘一が特派員としてヴェトナムの幽霊長屋に住んでいて                年齢も分からない子供連れのそこの女主人との結婚した事は有名な事でした。 

結婚届けにサインした事は・・「まさにあっという間の事で、いまだに呆然とし        愕然とし又眼をこすっては愕然とし呆然としております」と                  「仏陀を買う」に書かれています。

「縁あって父親になった時、私は彼女を「ブタ」と名付けた。                  17歳過ぎて嫌がるので「良い名を思い付いたぞ、クロコブタ                  これなら良いだろう」継娘に対するこのような文章も有ります。 

近藤紘一は、ものすごく明るく屈託がない堂々としたヴェトナム女性と結婚し、               彼女に対しては寛大すぎるほど寛容であったと言われます。

”「奥さんを思い出す?」と聞かれ「ああ、毎日思い出すよ」と答えた”と           小説に書いています。                                         彼は何処に行っても必ず前夫人の写真を飾っていたそうです。 

たまたま「夏の海」を読みまして、ヴェトナム女性との結婚の                 いきさつに至った一端が理解出来た様に思いました。 

「夏の海」は前夫人の遺稿集に書かれたもので、                        ルポルタージュ「目撃者」のみに集録されています・・・

近藤紘一の父は東大医学部教授で、いかにも秀才らしい                    マスクの彼は事実、仏文1番で卒業し同級生の美しい恋人は                     フランス大使のお嬢様、誰もが羨むような結婚をします。

「夏の海」では毎年美しい海で遊んだ思い出や、転勤地のパリでは                 度々お客を招き、料理上手な彼女が複雑なフランス料理やケーキを             楽しげに作り、彼は何度もマルシェに買い足しに行ったり・・・

詩の様な幸せな生活が描かれている美しい文章です。                             その結婚はたった6年で 彼女の不幸な死で終わり・・・、                   近藤紘一はそれを一生の負い目に感じていたようです。 

彼が45歳で病死しなければ、美しい同級生との結婚の物語を                心を打つ小説に書いた事でしょう。                                 23歳で結婚し29歳で彼女を失った彼は、ヴェトナム女性の妻にも、             若くして亡くなった前妻を「毎日思い出すよ]と言っていたのです。