バーモント州のミドルベリー大学を訪ねる
1800年大学創建当時のチャーチを後ろに
私共はボストンから飛行機で北に向かい、バーリントンで降りますと
カナダに近いだけあって寒い!のです。
私共夫婦は孫娘と一緒にタクシーでミドルベリーと言う孫娘の通う大学町に
向かいました。
やや小柄で色白な運転手は何と、イラクからの難民でシリアの
ダマスカスで1年半出国を待ってアメリカに来たと言う事です。
同じイラクからの難民はヨーロッパ、北欧に行った人もいるそうで、
彼は数年前にアメリカに来てから英語も覚え、個人タクシーとして
この新しい素敵なワゴン車を買ったとのこと。
来月は初めてダマスカスに1ケ月間も遊びに行くとのこと、
此処はさすがに「移民が成功出来る国」と感心しました。
1827(文政18)年に建てられたホテル
タクシーで1時間程で予約したホテルに着き、孫娘はそれに乗って
大学の寮に帰りここで、アメリカ3人の旅行から私共夫婦2人の旅に
なりました。
このホテルもボストンのホテルと同じ「歴史的ホテル」で180年程前に
建てられ白いペンキ塗りの木造3階建で温かみのある宿でした。
次の日の午前中に孫娘が迎えに来てホテルから歩いて10分ほどで
大学のキャンパスに行き,彼女の案内で2日間を過ごしました。
ミドルベリー大学は1800年(寛政年間)に大学になり、現在生徒数は2500人程の
少人数で、約42万坪(140万㎡)の敷地に、ハリーポッターの様な校舎が
散在しています。
町の人口は8000人ほどですので教職員の家族と2500人(もっと多いでしょう)
としても町の人口の多くは大学関係者と思われます。
アメリカは建国235年ほどですが、この大学も創立後211年、
ホテルも180年ほどで昔の建物もそのまま使われています。
(東京大学は今年創立130年との事です。)
さて、彼女の個室は10畳くらいに机、ベッド、箪笥、作りつけの
洋服入れが有る簡単な部屋でしたが、珍しくきちんと片付いていると思い
ました私共が来るので、昨夜は寝ないで整理整頓したそうです。
(きちんと暮らす事は、本当に大切な暮らしの基本ですので彼女が何とか
その技術を身につけて欲しいものです!)
未だイースター休暇でしたので学生たちものんきにしていました。
孫娘の案内で2日間、大学や、寮や街を見物しました。
彼女のの部屋に来て私共を訪ねてくれた来た少女は、チベットから木箱の中に
隠れてインドに逃れた難民でした。
彼女は日本人と間違うような顔立ちで、とても可愛い少女ですが、祖国チベットの
ために猛勉強している優秀な学生のようでした。
でも彼女は何と!これから“北京”に留学するのだそうです。
もう一人は日本語を勉強している優しそうな米国人の男子学生が遊びに
来てくれました。
私がたまたま外国人に日本語を教える講座を420時間選択した事があるので、
今度は彼と日本語で話しました。
小さい時ハワイにいた事があって、そこで聞いた日本語に興味を持ったそうです。
相当上手に話しますが矢張り聞き取りの方が少し難しいようです。
日本語を教えるのを、ちゃんと考えて予習していなかったので上手に
話し合う事は出来なかったのですが楽しい時間でした。
何時か外国でロングステーイをして、大学生に日本語を教えるボランテイアを
するのが私のの望みなのですが・・・
何しろ人口8000人の町ですが、ごく小さいながらきちんとした店も並び
カードや絵や食器の店や、各種のお茶(日本茶もありましたが)のカフェもあり、
オーナーの若い男性は中国やインドは買い付けに行くが、日本は未だと言っていました。
町の中央を流れる川岸に下りると、大理石の様な石があり、ここは大理石が採れた町で
今でも工場もありました。
クラフトショップには、各国の製品とともに日本のものもあり、オーナーの女性とも
色々話したり、骨董屋を冷やかしたりしました。
夜遅くなって私共がホテルに帰る途中、若い女性と一緒になりましたので
「学生さんですか?」と聞きますと、「Y子のお祖父さん、お祖母さんですか?」
と聞き返されました。孫娘は皆に私共の事を話していたそうです。
この建物はフランス語の教室
次の日は昼食時に食堂に行って若者たちと食堂で一緒に食事をしました。
外部からの人には朝食5ドル、昼食7ドル、夕食10ドル、とかでしたが
私共にはお釣りがないそうで2人で10ドルにおまけでした。
学校は全寮制ですので、食堂のブッフェは、大きなホテルのブッフェのようで
何種類ものパン類、卵料理、お肉料理、ピッザ、スパゲッテイ、サラダ、果物、
ケーキ、アイスクリームなど色々何でもありでした。
寮費は160万円でこれは孫娘も支払いましたが、学費は交換留学なので
慶応大学に払うだけです。でもアメリカの私立は学費も大層高いそうです。
2500人の生徒の10%は留学生とのことで、食堂では祖父母と一緒の孫娘は
色々な友人に声をかけられましたが、同じ留学生のグループと食事をしました。
イギリスから、フランスから、昨日のチベットの人達です。
易しそうな可愛い人たちですが皆、猛勉強をするそうです。
5月末に留学が終わったら、孫娘はそのフランス人の所にお世話になって
フランスなどを旅行する予定です。
私共は皆にいつか日本に来られる時は必ず泊まりに来て下さいねと伝えました。
未だ寒かったのですが、素晴らしい晴天の下、あちこち校舎などを回りましたが
大きな図書館は2か所あり、大部分の人は夜の1時までは図書館で勉強するようです。
春休み以降は図書館も24時間開くので、いよいよ勉強も佳境に入るのでしょうか?
1単位下がってもとても悔しがるそうで、真剣さは日本の大学と違うようです。
55年も前、私が学生だった頃、休講になって喜んでいますとアメリカ帰りの教師は
「貴方達はお金を払って、品物を貰らっていないのよ」と笑っていました!
孫娘と最後の夕食は多分彼女も入った事のないお勧めのレストランにしましたら、
こんな小さな町でも予約で一杯なところを、何とか席を見つけてもらいましたが
今までで一番美味しい食事でした。
私共は彼女とアメリカで過ごした日々に満足し別れを惜しみました。
次の朝、イラクからの来たタクシードライバーに又来てもらって飛行場に向かい
10日ほどのアメリカの旅は終わりました。
1800年大学創建当時のチャーチを後ろに
私共はボストンから飛行機で北に向かい、バーリントンで降りますと
カナダに近いだけあって寒い!のです。
私共夫婦は孫娘と一緒にタクシーでミドルベリーと言う孫娘の通う大学町に
向かいました。
やや小柄で色白な運転手は何と、イラクからの難民でシリアの
ダマスカスで1年半出国を待ってアメリカに来たと言う事です。
同じイラクからの難民はヨーロッパ、北欧に行った人もいるそうで、
彼は数年前にアメリカに来てから英語も覚え、個人タクシーとして
この新しい素敵なワゴン車を買ったとのこと。
来月は初めてダマスカスに1ケ月間も遊びに行くとのこと、
此処はさすがに「移民が成功出来る国」と感心しました。
1827(文政18)年に建てられたホテル
タクシーで1時間程で予約したホテルに着き、孫娘はそれに乗って
大学の寮に帰りここで、アメリカ3人の旅行から私共夫婦2人の旅に
なりました。
このホテルもボストンのホテルと同じ「歴史的ホテル」で180年程前に
建てられ白いペンキ塗りの木造3階建で温かみのある宿でした。
次の日の午前中に孫娘が迎えに来てホテルから歩いて10分ほどで
大学のキャンパスに行き,彼女の案内で2日間を過ごしました。
ミドルベリー大学は1800年(寛政年間)に大学になり、現在生徒数は2500人程の
少人数で、約42万坪(140万㎡)の敷地に、ハリーポッターの様な校舎が
散在しています。
町の人口は8000人ほどですので教職員の家族と2500人(もっと多いでしょう)
としても町の人口の多くは大学関係者と思われます。
アメリカは建国235年ほどですが、この大学も創立後211年、
ホテルも180年ほどで昔の建物もそのまま使われています。
(東京大学は今年創立130年との事です。)
さて、彼女の個室は10畳くらいに机、ベッド、箪笥、作りつけの
洋服入れが有る簡単な部屋でしたが、珍しくきちんと片付いていると思い
ました私共が来るので、昨夜は寝ないで整理整頓したそうです。
(きちんと暮らす事は、本当に大切な暮らしの基本ですので彼女が何とか
その技術を身につけて欲しいものです!)
未だイースター休暇でしたので学生たちものんきにしていました。
孫娘の案内で2日間、大学や、寮や街を見物しました。
彼女のの部屋に来て私共を訪ねてくれた来た少女は、チベットから木箱の中に
隠れてインドに逃れた難民でした。
彼女は日本人と間違うような顔立ちで、とても可愛い少女ですが、祖国チベットの
ために猛勉強している優秀な学生のようでした。
でも彼女は何と!これから“北京”に留学するのだそうです。
もう一人は日本語を勉強している優しそうな米国人の男子学生が遊びに
来てくれました。
私がたまたま外国人に日本語を教える講座を420時間選択した事があるので、
今度は彼と日本語で話しました。
小さい時ハワイにいた事があって、そこで聞いた日本語に興味を持ったそうです。
相当上手に話しますが矢張り聞き取りの方が少し難しいようです。
日本語を教えるのを、ちゃんと考えて予習していなかったので上手に
話し合う事は出来なかったのですが楽しい時間でした。
何時か外国でロングステーイをして、大学生に日本語を教えるボランテイアを
するのが私のの望みなのですが・・・
何しろ人口8000人の町ですが、ごく小さいながらきちんとした店も並び
カードや絵や食器の店や、各種のお茶(日本茶もありましたが)のカフェもあり、
オーナーの若い男性は中国やインドは買い付けに行くが、日本は未だと言っていました。
町の中央を流れる川岸に下りると、大理石の様な石があり、ここは大理石が採れた町で
今でも工場もありました。
クラフトショップには、各国の製品とともに日本のものもあり、オーナーの女性とも
色々話したり、骨董屋を冷やかしたりしました。
夜遅くなって私共がホテルに帰る途中、若い女性と一緒になりましたので
「学生さんですか?」と聞きますと、「Y子のお祖父さん、お祖母さんですか?」
と聞き返されました。孫娘は皆に私共の事を話していたそうです。
この建物はフランス語の教室
次の日は昼食時に食堂に行って若者たちと食堂で一緒に食事をしました。
外部からの人には朝食5ドル、昼食7ドル、夕食10ドル、とかでしたが
私共にはお釣りがないそうで2人で10ドルにおまけでした。
学校は全寮制ですので、食堂のブッフェは、大きなホテルのブッフェのようで
何種類ものパン類、卵料理、お肉料理、ピッザ、スパゲッテイ、サラダ、果物、
ケーキ、アイスクリームなど色々何でもありでした。
寮費は160万円でこれは孫娘も支払いましたが、学費は交換留学なので
慶応大学に払うだけです。でもアメリカの私立は学費も大層高いそうです。
2500人の生徒の10%は留学生とのことで、食堂では祖父母と一緒の孫娘は
色々な友人に声をかけられましたが、同じ留学生のグループと食事をしました。
イギリスから、フランスから、昨日のチベットの人達です。
易しそうな可愛い人たちですが皆、猛勉強をするそうです。
5月末に留学が終わったら、孫娘はそのフランス人の所にお世話になって
フランスなどを旅行する予定です。
私共は皆にいつか日本に来られる時は必ず泊まりに来て下さいねと伝えました。
未だ寒かったのですが、素晴らしい晴天の下、あちこち校舎などを回りましたが
大きな図書館は2か所あり、大部分の人は夜の1時までは図書館で勉強するようです。
春休み以降は図書館も24時間開くので、いよいよ勉強も佳境に入るのでしょうか?
1単位下がってもとても悔しがるそうで、真剣さは日本の大学と違うようです。
55年も前、私が学生だった頃、休講になって喜んでいますとアメリカ帰りの教師は
「貴方達はお金を払って、品物を貰らっていないのよ」と笑っていました!
孫娘と最後の夕食は多分彼女も入った事のないお勧めのレストランにしましたら、
こんな小さな町でも予約で一杯なところを、何とか席を見つけてもらいましたが
今までで一番美味しい食事でした。
私共は彼女とアメリカで過ごした日々に満足し別れを惜しみました。
次の朝、イラクからの来たタクシードライバーに又来てもらって飛行場に向かい
10日ほどのアメリカの旅は終わりました。
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