メル友から以下のお便りを頂いた。
>何となく目についた「葬儀」について思ったのは、”輪廻転生”が当たり前の
>ように思ってたのに、神道では、”故人を神に還し守護神とする儀式”という
そこで我等「無信仰者」のお参りについて考えた。
「転生輪廻」とは少し違う解釈を1つ。
「信仰と神」とは異なる解釈を1つ。
「信仰と宗教」とは異なる解釈を1つ。
我思うに…
信仰と宗教は次元の異なるものかもしれない。
仏教には本来「信仰」はない。
仏に対する礼は「異次元の存在」に対する礼ではなく
尊敬すべき先達に対する礼であり、教師・先導者に対する礼である。
神社には神はいない。
何の云われもない祠にもお参りするし
苔むした「お地蔵さま」にもお参りする。
しめ縄の張られた「御神木」にもお参りするし
狐の石像が鎮座する「お稲荷さん」にもお参りする。
神棚にもお参りするが、御神体には関心がない。
多くの御神体は印刷された「紙切れ」一枚。
霊峰にも掌を合わせれば
初日の出にも掌を合わせる。
困った時には陽光に掌を合わせ
天声に耳を傾ける。
お参りする相手は守護霊であり氏神である。
氏神は個人の氏神であり、集落の氏神でもある。
氏神は種族の氏神であり、民族の氏神でもある。
天照大神は天皇家の氏神であり
大和民族の氏神でもある。
神主は権力者の儀式を司る権力者の使徒である。
儀式は権力に権威を与える重要な社会システムである。
権力を嫌うものはすべて儀式が嫌いである。
茶道には儀式がある。
茶道には儀式以外何もない。
俗物の宗家が茶を点てるのを見ると茶番にしか思えぬが
弟子たちには有り難く映る。
礼儀作法はすべて権力維持のためにある。
儀礼官、典礼官は権力維持の必需品。
儀礼官、典礼官による箔付けにより権力者は権威を保つ。
権威付けのためとはいえ荘厳な神社は快い環境をもたらす。
高野山は神秘を演出するために整備された。
演出のためとはいえ快い環境には変わりはない。
京都鞍馬山の杉の巨木群は厳かである。
キリスト教信者は神社にお参りして何の違和感もないものを
キリストの使徒が異端者、異端者と誹謗する。
西洋人にとっても氏神は同じである。
多くの宗教は氏神の座を勝手に奪い取り、自己の権益の根幹とした。
既成の宗教を離れて己の内なる氏神に帰依するのが本来の信仰。
本来の信仰・氏神はホモサピエンス共通の精神世界かもしれない。
年老いたホモサピエンスは氏神の元に戻るのが自然の摂理。
臨終には壮麗なお迎えが来る。
科学者は脳に快楽物質が分泌されるのみと説く。
精神世界の解釈と物質世界の解釈は「色即是空」の世界である。
我らもまた常に氏神とともにある。
時には氏神の声に耳を傾けるもよし…
同意される方はクリックを、お願い致します。
>何となく目についた「葬儀」について思ったのは、”輪廻転生”が当たり前の
>ように思ってたのに、神道では、”故人を神に還し守護神とする儀式”という
そこで我等「無信仰者」のお参りについて考えた。
「転生輪廻」とは少し違う解釈を1つ。
「信仰と神」とは異なる解釈を1つ。
「信仰と宗教」とは異なる解釈を1つ。
我思うに…
信仰と宗教は次元の異なるものかもしれない。
仏教には本来「信仰」はない。
仏に対する礼は「異次元の存在」に対する礼ではなく
尊敬すべき先達に対する礼であり、教師・先導者に対する礼である。
神社には神はいない。
何の云われもない祠にもお参りするし
苔むした「お地蔵さま」にもお参りする。
しめ縄の張られた「御神木」にもお参りするし
狐の石像が鎮座する「お稲荷さん」にもお参りする。
神棚にもお参りするが、御神体には関心がない。
多くの御神体は印刷された「紙切れ」一枚。
霊峰にも掌を合わせれば
初日の出にも掌を合わせる。
困った時には陽光に掌を合わせ
天声に耳を傾ける。
お参りする相手は守護霊であり氏神である。
氏神は個人の氏神であり、集落の氏神でもある。
氏神は種族の氏神であり、民族の氏神でもある。
天照大神は天皇家の氏神であり
大和民族の氏神でもある。
神主は権力者の儀式を司る権力者の使徒である。
儀式は権力に権威を与える重要な社会システムである。
権力を嫌うものはすべて儀式が嫌いである。
茶道には儀式がある。
茶道には儀式以外何もない。
俗物の宗家が茶を点てるのを見ると茶番にしか思えぬが
弟子たちには有り難く映る。
礼儀作法はすべて権力維持のためにある。
儀礼官、典礼官は権力維持の必需品。
儀礼官、典礼官による箔付けにより権力者は権威を保つ。
権威付けのためとはいえ荘厳な神社は快い環境をもたらす。
高野山は神秘を演出するために整備された。
演出のためとはいえ快い環境には変わりはない。
京都鞍馬山の杉の巨木群は厳かである。
キリスト教信者は神社にお参りして何の違和感もないものを
キリストの使徒が異端者、異端者と誹謗する。
西洋人にとっても氏神は同じである。
多くの宗教は氏神の座を勝手に奪い取り、自己の権益の根幹とした。
既成の宗教を離れて己の内なる氏神に帰依するのが本来の信仰。
本来の信仰・氏神はホモサピエンス共通の精神世界かもしれない。
年老いたホモサピエンスは氏神の元に戻るのが自然の摂理。
臨終には壮麗なお迎えが来る。
科学者は脳に快楽物質が分泌されるのみと説く。
精神世界の解釈と物質世界の解釈は「色即是空」の世界である。
我らもまた常に氏神とともにある。
時には氏神の声に耳を傾けるもよし…
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