私が通っている高齢者教育機関は高齢者の修学旅行と称して、一泊二日の奈良旅行を企画しているので、足がそれ程痛くない時に参加に応募した。その後足が痛みだし非常に迷ったが、いろいろと柵ができて、杖を突いて参加することにした。
コースは、1日目が法隆寺と唐招提寺、2日目は小グループ活動でいくつかコースがあるが、東大寺のコースを選ぶこととした。他には興福寺、百毫寺、春日大社など。
私は大学時代に京都に住んでいる時、よく奈良へ行った。もちろんまずは京都を歩いたが、その魅力がもう一つわからなかったこと、それに比べて奈良は古さなどが具体的に分かったこと、またその頃梅原猛が「隠された十字架」など奈良に関わる面白い著作をどんどん発表していたためである。(なお京都の魅力は、離れて暫くして分かった。)
今回は1日目。
<法隆寺>
名古屋から、途中トイレ休憩を入れて法隆寺のインターチェンジで降りた。
そこで昼食を採った後、法隆寺へ向かった。食事をしたのはふつうの客向けには釜めしの店。それに修学旅行等の団体向けの大きな部屋があって、我々は多分修学旅行用の食事。高齢者だから厳しい評価ばかりだったが、テーブル上で加熱するうどんで、なんとか収まった。またちゃんと奈良漬けはでてきた。
私は、法隆寺と唐招提寺を、バスガイドさんの説明を聞きながら廻ったのは始めて。
だから法隆寺の七不思議の話などを楽しく聞いた。
<7不思議のうち2つ 南大門の前のタイ石と五重塔の上の鎌>
<中門 3本の柱があるが中央の両側が開いている>
門で仁王を見た時、金網が昔より頑丈で細かくなって見にくいと思った。だから中の仏像の状況が不安になった。
門から入ると、やはり凄い伽藍。私が大学の頃奈良に来て宿泊したのは、今はなきユースホステル。その常連の人に以下の様に奈良の凄さを教わった。
「飛鳥の頃の日本の人口は、全国で500万人くらい、その藤原京の人口は3万人、それでその片田舎の斑鳩に法隆寺を作った。奈良時代は日本全体の人口700万人くらい。平城京は多分5~10万人、それで東大寺等を作っている。」 とてもいい人に出会った。人を集めるのも大変だったろうに、こんなに立派な塔や金堂を作ったと思う。
<西院伽藍の中の五重塔と金堂>
ただし、五重塔の塔本塑像、金堂内陣の各仏像を囲む金網には、案の定がっかりした。昔はもっと見やすかったのに。でも梅原猛の主張する金堂内陣の陰鬱な雰囲気は、やはり感じた。四天王などの脇侍の光背が仏像と別仕立てでなく、頭に突き刺さった支持棒に支えられていることを目で追い、梅原の著作を今でも覚えている事になつかしさを覚えた。後述の救世観音と合わせて、この形態になっていることが梅原の主張によれば法隆寺独特とされ、怨霊封じの根拠となった。
<左:金堂四天王の光背(仏像の背景)のつき方、頭の後ろについている。右:後述の百済観音の光背、仏像とは独立している。奈良時代以降はこれが一般>
私達が金堂に入った時風が中を吹き抜け、バスガイドさんが皆さんを歓迎して通り過ぎたよと言ったので、我々のメンバーの女性たち(70歳前後)がきゃあきゃあ喜んだ。
五重塔の登り龍/下り龍、外の池のカエルが片目?など、バスガイドさんとのツアーもそれなりに面白かった。
<金堂で風が吹き抜ける 仏像は撮れないがこれはOK>
<五重塔の上層階にある登り龍と下り龍>
その後、大宝蔵院から夢殿へと向かった。
大宝蔵院には国宝がゴロゴロあるが、久しぶりに百済観音にご挨拶した。細身の八等身よりスマートで、私がもっとも好きな仏様である。大陸では西洋系の人も見ることができたので、こんな仏像も出来たのだろうが、日本人はずんぐりむっくりだったから、国内で広がらなかったのだろう。ここでは高校生の修学旅行集団に巻き込まれた。12月に実施しているのにびっくりした。バスガイドさんが一生懸命しゃべっていたが、2~3人を除いて聞いていず、ただ疲れた顔でついていくだけだった。もったいない。なおこの中はいやな金網に邪魔されずに、拝観できる。
夢殿の救世観音は開扉期間が限られているが一度お逢いして、その貫禄と表情のなまなましさに驚いた。聖徳太子等身大の仏像と言われている。今回は当然閉じられていた。もう一度お逢いしたいとおもっていたが、周辺の金網がごつくなっていたので、そうする気がなくなった。
なお、梅原の頭で光背を支持するという法隆寺仏像の特殊性ということは、現在では他の例があって否定されている。
<おまけ、夢殿への途中で見た鬼瓦、グループ内の女性が瓦に俄然興味を持って、あれこれ撮ってとうるさかった。でも確かに面白い>
<唐招提寺>
唐招提寺も大好きな寺。井上靖の「天平の甍」で有名な鑑真のお寺。隣に薬師寺があって混んでいるが、こちらはいつでもそれほど多くなく、古都の落ち着いた雰囲気を味わえる。建物や仏像も見どころ一杯。太い柱の立ち並ぶ回廊や大きな仏像が3体立ち並ぶ金堂は圧倒的凄さ。
<唐招提寺 金堂 エンタシスの太い柱が有名>
仏像と私達の間も、法隆寺のような頑丈な金網ではなく、目の粗い紐で編んだようなものなので、なにかほっとした。ただし昔行った時は網はなかったように思う。ここの千手観音菩薩はその手が9百数十本と、その名にふさわしいことなどバスガイドさんは強調していた。その建物の屋根の鴟尾は飛鳥のちいさな瓦(飛鳥はほとんどが板葺き)をおもえば、よくこの時代にこれだけの大きな瓦が焼成できたものだと思う。
<千手観音 唐招提寺パンフより。日本の千手観音の中で最も手の数が多い>
<鴟尾 大きな瓦の屋根飾り>
緑多い境内を歩いて驚いたのは、開山堂に安置された鑑真お身代わりの像。一週間程度しか公開されない御影堂の鑑真像の代わりに、最近製造時と同様の技術でそっくりのものを製作し、その後に古式色にして常時展示しているそうだ。確かに教科書に掲載されているもののそっくりさんがそこにあるということはインパクトがある。
<鑑真像とお身代わり像の出会い 後ろは現在御影堂、前は古色にして開山堂にあり>
御影堂のほうの像は、現在は東山魁夷の描いた襖絵に囲まれて鎮座してるとのこと。そちらのほうもあらためて観たいと思った。
こちらを見ると、どんどん建物を復興させて賑やかにやっているお隣の薬師寺さんも、その変貌を怖いもの観たさにいってみたいと思った。
その後は、ホテルへ行って食事及び宿泊。一応温泉だった。多分修学旅行客を受け入れるような仕様で、大広間で食事。その後各クラスごとにカラオケやゲームなどを実施。去年の修学旅行メンバーがホテルに多大な迷惑をかけたということで、今年はかなりの制約条件(例えば外出禁止など)が付けられたそうだ。
われわれは部屋でおとなしく、ダーツやテーブルゲーム、ビンゴなどをやっておとなしく寝た。
一人もしくは詳しい人と拘って今まで見てきたが、添乗員さんにくっついてこぼれ話にわあわあ騒ぐ人たちの一員として観光するのもなかなか面白かった。
コースは、1日目が法隆寺と唐招提寺、2日目は小グループ活動でいくつかコースがあるが、東大寺のコースを選ぶこととした。他には興福寺、百毫寺、春日大社など。
私は大学時代に京都に住んでいる時、よく奈良へ行った。もちろんまずは京都を歩いたが、その魅力がもう一つわからなかったこと、それに比べて奈良は古さなどが具体的に分かったこと、またその頃梅原猛が「隠された十字架」など奈良に関わる面白い著作をどんどん発表していたためである。(なお京都の魅力は、離れて暫くして分かった。)
今回は1日目。
<法隆寺>
名古屋から、途中トイレ休憩を入れて法隆寺のインターチェンジで降りた。
そこで昼食を採った後、法隆寺へ向かった。食事をしたのはふつうの客向けには釜めしの店。それに修学旅行等の団体向けの大きな部屋があって、我々は多分修学旅行用の食事。高齢者だから厳しい評価ばかりだったが、テーブル上で加熱するうどんで、なんとか収まった。またちゃんと奈良漬けはでてきた。
私は、法隆寺と唐招提寺を、バスガイドさんの説明を聞きながら廻ったのは始めて。
だから法隆寺の七不思議の話などを楽しく聞いた。
<7不思議のうち2つ 南大門の前のタイ石と五重塔の上の鎌>
<中門 3本の柱があるが中央の両側が開いている>
門で仁王を見た時、金網が昔より頑丈で細かくなって見にくいと思った。だから中の仏像の状況が不安になった。
門から入ると、やはり凄い伽藍。私が大学の頃奈良に来て宿泊したのは、今はなきユースホステル。その常連の人に以下の様に奈良の凄さを教わった。
「飛鳥の頃の日本の人口は、全国で500万人くらい、その藤原京の人口は3万人、それでその片田舎の斑鳩に法隆寺を作った。奈良時代は日本全体の人口700万人くらい。平城京は多分5~10万人、それで東大寺等を作っている。」 とてもいい人に出会った。人を集めるのも大変だったろうに、こんなに立派な塔や金堂を作ったと思う。
<西院伽藍の中の五重塔と金堂>
ただし、五重塔の塔本塑像、金堂内陣の各仏像を囲む金網には、案の定がっかりした。昔はもっと見やすかったのに。でも梅原猛の主張する金堂内陣の陰鬱な雰囲気は、やはり感じた。四天王などの脇侍の光背が仏像と別仕立てでなく、頭に突き刺さった支持棒に支えられていることを目で追い、梅原の著作を今でも覚えている事になつかしさを覚えた。後述の救世観音と合わせて、この形態になっていることが梅原の主張によれば法隆寺独特とされ、怨霊封じの根拠となった。
<左:金堂四天王の光背(仏像の背景)のつき方、頭の後ろについている。右:後述の百済観音の光背、仏像とは独立している。奈良時代以降はこれが一般>
私達が金堂に入った時風が中を吹き抜け、バスガイドさんが皆さんを歓迎して通り過ぎたよと言ったので、我々のメンバーの女性たち(70歳前後)がきゃあきゃあ喜んだ。
五重塔の登り龍/下り龍、外の池のカエルが片目?など、バスガイドさんとのツアーもそれなりに面白かった。
<金堂で風が吹き抜ける 仏像は撮れないがこれはOK>
<五重塔の上層階にある登り龍と下り龍>
その後、大宝蔵院から夢殿へと向かった。
大宝蔵院には国宝がゴロゴロあるが、久しぶりに百済観音にご挨拶した。細身の八等身よりスマートで、私がもっとも好きな仏様である。大陸では西洋系の人も見ることができたので、こんな仏像も出来たのだろうが、日本人はずんぐりむっくりだったから、国内で広がらなかったのだろう。ここでは高校生の修学旅行集団に巻き込まれた。12月に実施しているのにびっくりした。バスガイドさんが一生懸命しゃべっていたが、2~3人を除いて聞いていず、ただ疲れた顔でついていくだけだった。もったいない。なおこの中はいやな金網に邪魔されずに、拝観できる。
夢殿の救世観音は開扉期間が限られているが一度お逢いして、その貫禄と表情のなまなましさに驚いた。聖徳太子等身大の仏像と言われている。今回は当然閉じられていた。もう一度お逢いしたいとおもっていたが、周辺の金網がごつくなっていたので、そうする気がなくなった。
なお、梅原の頭で光背を支持するという法隆寺仏像の特殊性ということは、現在では他の例があって否定されている。
<おまけ、夢殿への途中で見た鬼瓦、グループ内の女性が瓦に俄然興味を持って、あれこれ撮ってとうるさかった。でも確かに面白い>
<唐招提寺>
唐招提寺も大好きな寺。井上靖の「天平の甍」で有名な鑑真のお寺。隣に薬師寺があって混んでいるが、こちらはいつでもそれほど多くなく、古都の落ち着いた雰囲気を味わえる。建物や仏像も見どころ一杯。太い柱の立ち並ぶ回廊や大きな仏像が3体立ち並ぶ金堂は圧倒的凄さ。
<唐招提寺 金堂 エンタシスの太い柱が有名>
仏像と私達の間も、法隆寺のような頑丈な金網ではなく、目の粗い紐で編んだようなものなので、なにかほっとした。ただし昔行った時は網はなかったように思う。ここの千手観音菩薩はその手が9百数十本と、その名にふさわしいことなどバスガイドさんは強調していた。その建物の屋根の鴟尾は飛鳥のちいさな瓦(飛鳥はほとんどが板葺き)をおもえば、よくこの時代にこれだけの大きな瓦が焼成できたものだと思う。
<千手観音 唐招提寺パンフより。日本の千手観音の中で最も手の数が多い>
<鴟尾 大きな瓦の屋根飾り>
緑多い境内を歩いて驚いたのは、開山堂に安置された鑑真お身代わりの像。一週間程度しか公開されない御影堂の鑑真像の代わりに、最近製造時と同様の技術でそっくりのものを製作し、その後に古式色にして常時展示しているそうだ。確かに教科書に掲載されているもののそっくりさんがそこにあるということはインパクトがある。
<鑑真像とお身代わり像の出会い 後ろは現在御影堂、前は古色にして開山堂にあり>
御影堂のほうの像は、現在は東山魁夷の描いた襖絵に囲まれて鎮座してるとのこと。そちらのほうもあらためて観たいと思った。
こちらを見ると、どんどん建物を復興させて賑やかにやっているお隣の薬師寺さんも、その変貌を怖いもの観たさにいってみたいと思った。
その後は、ホテルへ行って食事及び宿泊。一応温泉だった。多分修学旅行客を受け入れるような仕様で、大広間で食事。その後各クラスごとにカラオケやゲームなどを実施。去年の修学旅行メンバーがホテルに多大な迷惑をかけたということで、今年はかなりの制約条件(例えば外出禁止など)が付けられたそうだ。
われわれは部屋でおとなしく、ダーツやテーブルゲーム、ビンゴなどをやっておとなしく寝た。
一人もしくは詳しい人と拘って今まで見てきたが、添乗員さんにくっついてこぼれ話にわあわあ騒ぐ人たちの一員として観光するのもなかなか面白かった。