公文書館

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10月11日(水)
故きを温めて新しきを知る (17)  
窓際の仕事は今の人には無理
 公文書と言うのは上司がはんを押して部下に回すあれである。しかし公文書館というのは知っている人は少ない。公文書を末永く保存して末代まで残しておく建物である。それも使い終わって要らなくなった文書だから散逸して集めようとしても集まらないと思うのが普通の人間の考え方である。

 「文化とは何か」⇒「文化の集積場所は」⇒「公文書館」と学んで行く中で,考えてみたことであるが,日本には統一的な文書管理法は存在しないことを問題としている人がいる。文書管理法とは公文書館が政府機関を文書の管理に関して指導監督することを義務付ける法律である。文書を残すには必要であるが,今の日本人には合わない発想である。「いついっかまでに要らなくなった文書をもってらっしゃい。」こんな指導ができるだろうか。要らなくなった文書は残さず,シュレッダーにかけて廃棄するのが相場である。
 また仕事そのものが地味である。歳をとって窓際に追いやられた人にまわってくるような仕事である。今の日本人は若くても日の目を見るところに立ちたい。下積みの苦労は真っ平であると,かなえられないけれどもその気持ちで暮らしている。私たちの昔でも「研究所」とか「市役所」,「農協」というのは仕事のイメージが悪い代表であった。辛気臭い仕事なんかしたくないというのがこれまた偽らざる本音である。

 こうした状況から脱皮を迫られていると言うのが学者や関係者の訴えであると見た。それには,テレビのCMのように重要性を何度も訴えることが必要である。国民の意識変革からはじめなくてはいけない。Web2.0の時代は,自分の論拠をホームページ上に発表すればそれで伝えたことになるのではない。個人がプロバイダーのサーバーにホームページを立ち上げても誰も読まない。更新もしない。この悪循環を打ち破ってブログが誕生したのである。毎日更新する。皆がそこを訪れて読み歩く。このシステムに行政も学者も関係者も乗らなければ読者は増加しない。ホームページが古文書になっている。
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いいかげんのすすめ

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10月09日(月)
故きを温めて新しきを知る (16)
毎日の生活は文化の創造
 博物館サイトをめぐって,実際に行って見たいところとユニークな所を探して第三者に紹介するという課題を大学生はやらされる。わたしも試みてみた。長年携わってきた仕事に関係の深い度量衡の道具とか房総数学文庫のある博物館につい目が行ってしまう。
 自動車博物館を選んだ仲間の受講生がいた。背丈の低い薄っぺらな車体の自動車を彼は紹介しながら興奮気味である。FERRARI (フェラーリ)だのDINO(ディーノ)と聞いても私には何の名前かわからない。この違いはどこから来たのだろうか。どうして自動車の形に興味が沸いて,その道に遊ぶ時間を作り出したのだろうか。

 講師の先生は飛行機などの乗り物が好きである。その形の微妙に違うところまで詳しい。ご専門とは関係がない。かような趣味と言うか,時間の使い方と言うか,人の生き方に2つの種類がある。現在は比較的少ないが,同じ仕事をするにも丁寧で時間をかけてする。その日にできなかったことを気にして家に持ち帰ってまでやってしまう。その分自分の時間はなくなるがそれで満足なタイプである。他方,残した仕事は明日すればいい。自分の時間は好きなことに使う。好きなことを持っている。それが趣味となってその世界を広げていくタイプがある。これが何十年と続いてそれぞれの今日がある。
 こういう違いが生まれる要因はいろいろ考えられる。遺伝による影響,家計による影響。兄弟姉妹から受ける影響。地域環境の影響。偶然の重なり。いずれにしても老いてから変更はできない。前者から後者への変更をすることはよいことである。仕事をまじめにすることが善であると育ってきた私の世代のうちサラリーマン系では,自由な時間をもらってももてあましてしまう人が多い。振り返ってみると「いいかげんのすすめ」に真っ向から反対するグループに属していたと思う。

 趣味を深めることも文化である。文化の創造の貢献にもなる。こういうことができるためには「いいかげんのすすめ」を実行して,やる気のある年齢のうちに自己の関心領域を広げていくことである。
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恥ずかしい弁当

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10月06日(金)
故きを温めて新しきを知る (15)
弁当の中身は進化していない
 
 今時弁当の話は珍しくもないが,これを出すのは学校へもって行った自分たちの弁当(昭和30年~32年頃)と今の子たちの弁当と比較して,中身があまり変化も進化もないということをあらためて思うからである。昔も今も,男の子は大きな弁当箱,女の子は小さな弁当箱で,中身は夕べのおかずを詰めたものが相場である。

 一般に弁当の中身は家庭ごとに事情があって決定したもので,平均して話をすることはできないが,食べ方に違いがある。今の子たちは恥ずかしがらずに堂々と開いて食べている。私たちの頃は,弁当箱のふたを立てて前から見えないようにして食べている者が多かった。その理由は私の場合は,見せられるおかずではなかった。油揚げを煮てご飯の上に敷いたものそれだけ,次の日は煮た卵一個に梅干1個を麦飯の中央に埋め込んだもの,これらを1日おきにもって来ていた。パン代を親がくれたときはホッとした。食パン2枚の間にクリーム系のサンドをはさんだものを買うことができた。 
 今の子でもたいしたおかずを作ってもらってきているわけではない。自分の口に合わないときもある。そんなときは仲間が食べる。残したのでは作ってくれた母親に叱られる。これが恐い。とにかく仲間同士が一緒に食べる。オープンな雰囲気で食べられることは小学校時代の給食のスタイルが元になっているのだろう。私たちの教室,小学校では2人で一つの机,中学校では机と椅子がくっついていて容易に向き合うなどの移動ができなかった。だから一斉授業スタイルで弁当を食べていた。

 弁当の箱が現在はプラスチックが主流である。私たちの頃はアルマイトのベントバコと言っていた。今でもあるでしょうが,当時はその形がブックスタイルで,これがカッコよかった。しかし防水のことは保障されていなくて,汁がこぼれて教科書がベタベタになることがよくあった。密閉機能の金具のついたおかず入れもあったが小さくておかずが入らない。ご飯を入れる方の箱に入るように作ってあるから浅い作りである。弁当のおかずは辛くて少なくて済むものというのが当時の常識であった。弁当箱のごはんとの仕切りが2:8位であった。それが逆転した今日のコンビに弁当は進化したのであろうか。どこの弁当もうまくないのである。
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総理の名前書けますか

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10月05日(木)
故きを温めて新しきを知る (14)
名は自分以上に大事である
 
 自己の名前は自分で付けたわけではないので,どんな名前であろうとも恥ずかしいこともなく自慢することもない。親からもらったIDであることには違いがない。しかしもらったことを忘れていつの間にか自分の分身となり,その名前が一人歩いてゆこうものならすぐに後を追いたくなる。紙に書かれた自分の名前を踏みつけられれば怒鳴りたくなるのが普通だ。

 教える立場の者が自分の名前を学生たちは果たして知っているのか,知らずに受講しているのか,期末のテストに出されたことがある。4肢選択問題で漢字2文字を2種類作って組み合わせると4通りになる。その中から正解を一つ選ぶというもの。先生には教えた内容以上に重要なことであったのであろう。知らない学生には単位が出なかったかもしれない。そんなことはないだろうが,名前は自分自身であるから顔と変りがない。普段授業に出たことがない学生がせめて名前ぐらいを知っていたら褒美に点をやろうとされたに違いない。
 5人の18歳の若者たちに総理大臣の名前を書けるかきいてみた。「あべしんたろうだ・・・/」「いや,あべしんぞうだ」こんな声から始まって,書いた紙をそれぞれ見せてくれた。2人は正しく書けたが,『安部』とか『普三』,『普造』まで飛び出してきた。確かに難しい。私は『阿部』だと思っていて不確かなのでインターネットサイトを探してみると,『阿部』を使ってる人もいた。前首相に比べると今度の首相は名前が難しい。面接試験に出そうだよと話を結んだ。

 アルファベットの国なら音だけで”Shinzo Abe”とやっていれば通用するが,日本国内では名は人を表すので正確に名前を表記しなくては通用しない。書かれたほうは間違いであればそれは自分ではない他人のことと思う。まず政府は「あべしんぞう」という音だけでなく,『安倍晋三』をわかりやすく国民に浸透させなくてはいけない。
安心が倍増する政府であり,任期がすすむ(晋)と三倍にもなると。
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一雨/ひとさめと読もう

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09月19日(火)
故きを温めて新しきを知る (13)
40年間温めてきた読み
 前稿で,温故知新という言葉を使ってひとつのカテゴリーにしていると書いたが,この読み方に関して世間ではあまり使われない読み方を他の2つとともに40年以上温めてきている。
温故知新(ふるきをあたためてあたらしきをしる。)
子音(しおん)
一雨(ひとさめ)
 
 

 温故知新:温という漢字はあたたかい,あたためるの意味を持つ。そしてあたためるは大切にするという意味が含まれる。故きは古きに通じ,古きものが価値がなくなったのではなく,便利とか経済性とかの何らかの原因であたらしきものに移り変わってきた。しかし,新しきものに人命にかかわる問題がでてきたとき,原因究明にはかなりの時間がかかることもある。思い切って古人の生活形態に戻して過ごしたとき,問題が徐々に緩和されてきたならば,それこそあたらしきものが発見されたと見ていい。たずねる程度では通り過ぎてしまって発見に結びつかないかもしれない。じっくり温め,大切にしての方に軍配があがることが多いのではないか。
 子音:昔受験のため予備校に通っていたことがある。英語には相当通じた学者で創立者の老先生から受けた講義では,aiueoは母音(ぼいん)である。力強い発音の因子でこれはぼいんでよい。しかし,それ以外の,おんは柔らかく発音するもので,「しおん」という。しおんというひびきがいい。しおんと読みなさい。こんな調子で洗脳された。

 一雨:ラジオでもテレビでも天気の話題ではアナウンサーもひとあめと発音される。「西の空が暗くなった。こりゃひとさめくるわ。干しもん取り込まなきゃいかん」「ひとさめくれば涼しなるに」こんな言葉が母の口からいつも聞いて私は育った。ひとあめでは涼しくならない。春雨,氷雨などをあめと読んだのでは歌にならない。
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口外無用の芸

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09月18日(月)
故きを温めて新しきを知る (12)
折り紙で楽しんだけれども
 最近,温故知新という言葉を使ってひとつのカテゴリーとしている。温故知新の意味は「〔論語(為政)〕昔の事を調べて、そこから新しい知識や見解を得ること。ふるきをたずねて新しきを知る。 」ということである,とブログで書くとこれは著作権侵害になる。必ず,この場合は出所を明らかにして,Web辞書『大辞林 第二版』 (三省堂)を明記すればよい場合がある。今回はこれで許してもらいたい。 
 

 ところが,著作権にかかわる「芸事」の場合は,人物の写真や実演の写真はもちろん,その内容を記事にしてもいけなのである。「きょうは面白かった。これをみんなにしらせてやろう。」とWebサイトできょうの成果を複製して公表したりしてはいけないのである。昔はよかったが,今は複製権という著作物を自由に複製してよい権利と著作者人格権という著作者の名前を公表するしないという権利がややこしいのである。
 せっかくのいい記事なのに残念である。その理由はこうである。今回の興行(入場料を取ってはいない)をやるに当たって,依頼者が出演者と契約を結んで複製権を買っている。記事にすることは依頼者の権利を犯すことになる。だから,参加者が勝手にホームページに記事として書くなどの2次利用は複製権の侵害になる。

 結局今回の興行の模様は,依頼者が自家発行の機関紙で発表するかチラシに写真をのせるなどするのを待たないと,一般には伝わらないのである。温故知新とはこいうことなのだ。「どういうことだ?」「(故)ふるきを(温)あたためて,(新)あたらしきを(知)しる。あたためるとは調べるよりもっと深い意味がある。」こういうふうに解釈していた学者もいた。わたしはこっちをとる。
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1は桁上げの一里塚

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09月17日(日)
故きを温めて新しきを知る (11)
視点を変えると見えてくる
n 2のn乗 10のn乗
0
1 10
2 100
3 1000
4 16 0000
5 32 10 0000
6 64 100 0000
7 128 1000 0000
8 256 0000 0000
9 512 10 0000 0000
10 1024 100 0000 0000
11 2048 1000 0000 0000
12 4096 0000 0000 0000
13 8192 10 0000 0000 0000

これは2進数と10進数の関係を調べてたときに作った表である。何の変哲もない表である。2列目は2を倍々していくと,年配者には朝飯前の数字が並ぶ。一六,三二,六四,一二八,二五六,五一二の満貫である。そして,3列目は2の変わりに10を倍々していっただけである。少し違う所は10倍するたびに桁がひとつずつ増えていくことである。
 

 今,この表で,2を10で表すという約束をし,2倍するとき10を左へシフトすると約束すれば,2の下は4になり,10の下は100になる。こういう見方に視点を変える。そこで今度はこの関係を3に適用すれば下のようになる。 
n 3のn乗 10のn乗
0
1 10
2 100
3 27 1000
4 81 0000
5 243 10 0000
6 729 100 0000
7 2187 1000 0000
8 6561 0000 0000
 最初の表はいわゆる2,4,8,・・・の2進数表示が
10,100,1000,・・・
であることを示し,2番目の表は,3,9,27,・・・の3進数表示が
10,100,1000,・・・
であることを示しているに過ぎない。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 こうして4,5,6,7,8,9,10の場合を想像すれば,10進法とは指十本を単位にして位取りを考えたもので,指の数だけ集まると1が左へシフトする。指が何本であっても10進法と言ったであろう。

 2進法がコンピュータの設計で使われ,ものの単位量や上限を2の累乗で決める考え方も特殊ではなく,指が2本ならばと考えれば,難しそうな10101001というデータも10進数と同じように見えてくるはずである。県庁の裏金作りも飲酒運転も10,100,1000,・・・とシフトしていく点は同じである。
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お疲れのお寺さん

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09月12日(火)
故きを温めて新しきを知る (10)
供養する気持ち
 
 裏金作りの話題の次の話題には供養がいい。お寺さんにお経を読んでもらって,何某かのご仏前を渡す。終わってお寺さんを送り出すとき,表通りは車の列が信号の青待ちをしている。運転手は暇そうにきょろきょろしている。お寺さんの墨染めの衣に気づいてこちらの方に目を留める。お寺さんが自分の車の運転席に乗って発車するまで私と一緒に運転手みんなが見守ってくれる。ご近所の方も一人ぐらいは見守ってくれているだろう。このときが至福のときである

 やれやれ終わったという安堵感ではなく,あまり行われていないことをうちではやれるという満足感と金の使い方の3つのうち(「人様のために使う」・・・・徳を積む生活ができること)である。一方「人様の金を騙し取って自分のために使う」・・・・罪人生活,「自分のために稼いで自分のために使う」・・・・徳をつぶす生活。こんな風に道徳というものを科学的に捉えたものの考え方もある。
 今日はいつもになく声に張りがないのである。途中で声が消えそうになる。そのまま倒れてたいへんということになるのではという予感までした。朝8時から来ていただくには,その準備のため前日から生活を制御しなくてはならない。1日何軒かを廻って,同じお経を読む。月1回でも聞き飽きる文言なのに自分先頭に立って何千何万回とうたわなければならない。声が出せない理由も察せられる。

 お経が終わると,世間話なりお説教が始まるのが普通であるが,この方はそれが苦手らしく,天気の話だけしか発せられない。従って毎回こちらで話題を作って提供しているのが実態である。今日は秋篠宮家の親王様のお立場の話を出し,早くルールを確立しておかないと,物心つき始めてしまわれた愛子様のご養育に影響すると思うということで結んだ。
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裏金作りの報酬

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09月11日(月)
故きを温めて新しきを知る (9)
おやつは自分のお金で買う
 
 生前質素にしていたお年寄りが亡くなって,残された財産を調べてみるとまだ10年や20年は遊んでても食べていけるほどあったりする。これは想像であるがありえない話ではない。金をピッタリ使い切って死んでいくというのは難しい。金というものは自分の金でも使うことは難しい。なかなか使えないのが真実だと思う。毎日ニュースに上っている県庁の裏金作成問題も側面がよく似ている。

 報道から判断すると,職員が一丸となって裏金を貯めた。接待に使うことができる立場の者は上司の指示で動くのであるから仕事のひとつとでも思っているだろう。しかし,ほかに使うために保管を任された者は困っただろう。想像ができる。金が手元にあっても,自由に使えない。やり場に困ってごみといっしょに出してしまったという者もいる。金というものは使うことは難しい。
 その使えない理由は周りにいる者が見ているからである。見ていても正当なものに使う分には気が楽であるが,分不相応なものに使えば周りはだっまっていない。「そんな金どこにあったの」と非難が来る。ましてみんなの手を煩わして作った金を一人で使うことは憚る。最初からうまくいく計画ではなかった。大勢の者の中には必ず善意に満ちた者がいる。そこから不正は伝わる。この罪をどう償っていくのだろう。県民はどんな顔で県庁を訪れたらいいのだろう。刑務所に面会に行くようなものである。今回の裏金問題の報酬は県民からこういう目で見られてること以外にない。

 公務員の根性は「仕事はすべて皆様のために行うサービスである」と思い込んでいる。ボランティアという精神は公務員以外の者にしか生まれない。サービスには報酬がつくがボランティアには報酬がつかない。したがってすべての仕事はサービスだから,会議をやってもサービス,だからサービスをすれば報酬をもらって当たり前となる。会議が延びれば弁当がでても当たり前という感覚も育つ。それが今回の最初の動機であっただろう。きっぱりやめて,この根性を消すためにあえて,会費を庁内で徴収する。そしてその会費で会議に必要ならば飲み物・おやつを買う。自分の金で自分の飲食代をまかなう。こうして意識改革をすることが必要である。
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インスペクター

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09月01日(金)
故きを温めて新しきを知る (8)
日本人にはできない会計監査
 
 防災の日に因んでラジオも専門家を呼んで力説が続いている(3時間)。「耐震強度偽装問題の起こったことの(皮肉にも)メリットは国民が建物の耐震補強に関心を持つようになった。」,「日本のやる検査は建築図面に対してであるが,地震のあったロサンゼルスでは建築物自身を100回以上検査する」どうしてこういう違いが起こるのだろうということが話題になっていた。

 町内で総会があると最後に会計監査に当たった役員が,会計簿を見せていただきましたところ,予算が正しく執行されていましたといって報告終わりとなる。これは建築図面の検査と同じである。領収書を検査するするだけで,出費ひとつずつを支払先まで足を運んで調べに行ったわけではない。これが普通であり,これ以上すると町内に住めなくなる。
 県庁で公金をみんなで不正にためて私的に使っていた。誰もがやりそうなことである。みんなでやれば恐くない。逆らう方が恐いわけである。逆らう係りが監査である。内部にいて逆らうと,その集団には居れなくなる。これが日本的に踏襲されてきた慣習である。仲良くやっていくには相手を検査してはいけないのである。昔は嫁をもらうに相手の家を調べつくした。だから婚姻後も良い関係は保たれなかった。今は干渉せず,かかわりをもたないことが無難であると考えるようになった。

 建築基準の検査機関,公認会計士などのインスペクターは検査の相手から報酬をもらって仕事をするしくみになっている。どんなに法律を整備しようとも,正しく業務が遂行されていくとは限らない。日本はいい国である。”信”というこの文字の重みがいたるところで光っている。印鑑登録という制度があっても,登録していない印鑑が本人を認証する力をもっている。ネットワーク上のパスワードに相当する。これは”信”が根底に流れているからだ。日本人のこの血を汚さないように後世に引き渡していかねばならない。
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