2019年11月17(日)~20日(水)亡き両親の本籍地、枕崎に行ってきました。
用件は、相続した土地のことでしたが、親戚との久し振りの会話など、有意義な日々となりました。
下の写真は、枕崎駅前のバス停で、道向かいの観光案内所から撮っています。(帰京する日の、バス待ち時に撮影)
本州最南端の枕崎駅は、昔はバス停の後ろあたりにあったのですが、今は右端の建物の、後ろ奥に移転しています。
観光地案内の看板です。
知覧の武家屋敷や特攻平和会館、坊津の双剣石、瀬平自然公園は以前に紹介しました。
今回は、枕崎市内を中心に紹介します。
(以前、紹介済みのものは、明治蔵、火之神公園、平和記念展望台、白沢津)
枕崎は、鰹節の生産で質・量ともに日本一ですが、私が小さい頃に来たときは、漁港も賑やかでしたが、今は寂れている感じがします。
さて、観光案内所に展示してあった金鉱石、今回初めて気が付きました。
枕崎は、金鉱山が2か所(春日、岩戸)あり、隣の知覧にある赤石鉱山、鹿児島県北部にある有名な菱刈鉱山の
4か所が、現在、日本で操業している金鉱山,すべて鹿児島県にある・・・と、最近知ったのです。
実は、先月20日に、父の七回忌を行い、父の生い立ちや、思い出などの小冊子を作りました。
その中に、父が戦前にもらったと思われる給料袋(支給元は「日本産金振興株式会社 枕崎製錬所」)の写真を
載せました。(下の写真の右側、氏名は消しています)
日本産金振興株式会社は、戦争拡大に伴う、輸入物資の支払いのための、金の増産を目的とした国策会社で
昭和13年から昭和18年まで運営された。 父は、昭和17年に召集され、満州に行きましたので、短い期間
枕崎製錬所で働いていたと思われます。 でも、父からは、そんな話は一度も聞いたことはなく、私も7回忌までは
この給料袋のことは、?と思うだけでした。 枕崎と金鉱山・・・意外でしたが、火山活動が激しい火の国九州、不思議
なことではありません。
なお、鹿篭金山(かごきんざん)は、枕崎市の北部(観光案内マップの旧金山小あたり)にあります。
金鉱石に含まれる金は、微量なので、残念ながら、鉱石を見ても、キラキラ輝く金を見ることはできません。
今回泊まったホテル「枕崎ステーションホテル」です。 バス停近くにあります。
平成19年に両親と兄弟3人の一家5人で泊まったときは、「ホテル海南荘」という改築前の名前でした。
この時、既に認知症などが出ていた両親でしたが、ホテルのご主人に、とてもお世話になり、無事に
過ごせました。
この道路の先に、港や海岸があります。 歩いて7~8分です。
この写真は、朝の散歩が終えて、ホテルに戻ったときのもので、20日朝7時25分頃。
この2、3分後に小学校に通学する子供たちに出会うのですが、皆さん、私に”おはようございます”と
挨拶していきます。 2日前の18日朝、墓参をしたのですが、その時すれ違った、小学生、中学生も
同じく挨拶をしていきました。 長い人生、通学する生徒から挨拶を受けることは、稀でしたので
嬉しいやら気恥ずかしいような感じでした。
ところで、市内の目抜き通りである、この駅前通りも、以前と比べ、かなり寂れてきています。 この写真のビルも、閉店して十年以上だと思います。
日頃、東京にいるとわかりませんが、地方の衰退は想像以上に激しい。
20日朝6:32、枕崎港の端にある枕崎マーメイド。 かなり前に、旧港の建設請負業者が寄贈した石膏像。
昔は、枕崎駅前に設置されていました。 交通信号の赤い光で染まっています。
東シナ海に面した台場公園。(19日 7:05) 東京のお台場と同じく、幕末に大砲9門が据え付けられた。
台場公園と突堤の境付近から、開聞岳と朝日が見えました。(19日朝7:10)
こちらは、翌20日朝6:41、もう少し突堤寄りで撮影。
開聞岳などの地形を、昔、泊まった宿にあった観光ファイルの写真を使って説明します。
枕崎から開聞岳にかけて、海岸線に向かってなだらかな台地が広がっています。
昔の阿多火砕流など、いくつもの火山噴出物が積み重なって出来た台地で、南薩台地と呼ばれています。
今は茶畑などの緑あふれる畑が広がっていますが、戦前は、耕作不適な荒れ地が多かった。
戦後しばらくして、コラ層(開聞岳の火山灰でできた、硬い地層)を除去する事業や灌漑事業によって
生まれ変わり、農耕が盛んになった。
特攻隊で有名な知覧飛行場も、ここにありました。
同じ地点から西側の、立神方向を撮ったもの。(20日朝6:48) 入港しようとする船は、金鉱山の鉱石運搬船。
南側の東シナ海。 肉眼では、沖合50kmほどのところにある十島と呼ばれる三つの島(竹島、硫黄島、黒島)はわからなかったのですが
写真を拡大すると、うっすら見えていました。
中央部を拡大したもの。 前方後円墳のような硫黄島の島影がわかります。
晴れていれば、見える可能性がある島々の位置図が、石碑になっていました。
防衛庁が購入した馬毛島は、、こんな位置なんだ。
港の方へ歩いていくと、鉱石を船積みしている光景に出くわしました。
手前に春日鉱山と書かれたタンクローリーのような車があることから、金鉱石(砕かれた状態)ですね。
調べると、ここから、佐賀関や東予の製錬所に運んでいるようです。 (19日朝7:32)
さらに港に向かって歩くと、枕崎港に停泊している船が見えてきました。(19日朝7:35)
隣にドックがあります。
旧港には、一般漁船が多いように見えます。(19日朝7:38)
こちらは、20日に台場公園から岩戸山寄りに歩いて、立神を撮ったもの。(朝6:58)
もう少し歩くと、鰹節工場群が見えてきます。 鰹を燻している煙が見えますね。
道路から、製造工場をスナップ。 蒸気が上がっているのは、カツオを茹でる工程でしょうか。
燻し工程用の薪が、山積みされています。
この写真、あえてローキーで現像し、工場から上がる煙をわかるようにしました。(朝6:59)
中央にあるアンテナのようなものは、漁業無線用かな? 奥に岩戸山がシルエットで。
海岸線から、100mほど、戻ったところにも鰹節工場があります。
コンクリートの水槽は、鰹の解凍工程でしょう。
解凍を終えた鰹が、、コンベアで運ばれています。
こちらは、また別の工場のスナップ。 頭部を切り落とし、三枚におろされていくところ。
こちらの親戚に聞くと、東南アジアから研修できて、鰹節工場で働いている女性が多いそうです。
そういえば、駅前のスーパーで、ベトナム語?で話している若い女性達を見かけました。
鰹はこの後、いろんな工程を経て、本枯れ節などは半年がかりで仕上げられていきます。
もう一度、通りに出ると、瑞穂寿司があります。 枕崎にくると必ず立ち寄る寿司店で、おいしくて、リーズナブル!
赤いテント小屋は牡蠣を焼く、カキ小屋。 19日に親戚とランチをいただき、焼き牡蠣も堪能しました。
でも、その写真は撮り忘れて、ご紹介できません、残念。
代わりに、ホテルの朝食を。 これで、600円なんです。(1000~1500円ぐらいの価格帯が多いなか、コーヒーも無料でした)
ホテルも小ぎれいで、料金もリーズナブルです。
おまけに、ホテルレディ?も美人。右側の方は女将さんです。
何だか、宣伝ぽくなりましたが、次回は、南溟館(ミュージアム)、枕崎駅、鹿児島空港などを紹介予定です。
テレビ東京「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」という番組を制作しております番組制作会社キャップストーンの井上と申します。
このたび当番組で、来国光の紹介をするにあたり、2015年4月4日の記事内の国宝指定の来国光の太刀の写真を使用させて頂きたく思います。お忙しい中、大変恐縮ですがご確認のほど、お願い申し上げます。
国宝 来国光の太刀の写真については、国立博物館のサイトをみると、個人が撮影したものは、”営利目的で複製・配布はできない”となっています。
従って、私の写真を教育・文化のため利用されるのはOKで光栄ですが、そこから先の利用については、営利目的にならないよう管理をお願いいたします。
以上の条件で、どうぞご利用ください。
し、当時、給与や配給などの条件の良かった筑豊の炭鉱で働きました。 私から見ても、働き者で、メ
ジロなどの小鳥を飼うのが楽しみで、鳥籠も竹の切り出しから、すべて自分で作っていました。 齢、
99歳で亡くなりましたが、無口だった父からは、辛
かった思い出など、一つも聞いたことがありませ
ん。 今、思えばもっと父母から、いろんな話をもっと聞いておけばよかった、と後悔するばかりで
す。
ブログ記事から、父の思い出に発展しましたが、ご
質問には答えられたかなと思います。
コメントありがとうございました。
終戦後、3年間のシベリア抑留生活・・・、辛くないはずがありません。真面目で誠実なお人柄だったのでしょう。私の父親も兵隊時代のことは、ほとんど語らなかったです、良い思い出では無かったようです。ただ、南方に行っていたので、バナナが毎日食べられたという話だけ・・・。我々の子供時代のバナナはめったに口に出来ない高価なものでしたので、羨ましげに聞いたものです。
住まいは、直近のブログ記事では、「立川いったい音
楽まつり 見て 聴いて#1」2019/5/22
「https://blog.goo.ne.jp/te-reo/d/20190522
でお分かりになると思います。以上です。
コメントありがとうございました。
訳ありませんが、住まいなどの情報は、公開を控えさ
せていただきます。 悪しからずご了承ください。