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光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

野火止用水再訪 その8 平林寺

2011年06月08日 | ぶらり探訪

平林寺は1375年に岩槻(現在のさいたま市岩槻区)に創建された寺。 後に松平信綱の遺命を守った子の輝綱により、ここ野火止へ1663年に移築された。
武蔵野の面影を残す13万坪の境内林は、国指定天然記念物になっている。

廟所への参道。
  写真では分かりにくいのですが、傾斜がついています。



左が松平信綱の墓。 この墓と同様な墓が横に広がっています。 大河内松平家の廟所となっているためです。


信綱に関しては、墓誌に詳しい。

信綱は原生林もしくは雑木林だった野火止の地の自然が気に入ったのだと思います。 自分や先祖の廟所にしたいと

信綱に関して、よく分からないことがあります。 野火止用水の工事に関する資料や文書が一切残っていないことです。
玉川上水もそうです。 約1万両をかけた玉川上水の掘削工事も、野火止用水を掘削した、信綱の家臣「安松金右衛門」が助力して完成にこぎつけています。 工事普請の資料など、実際にはあったと思うのですが、信綱の意向によるものか、一切、処分されたと思われます。


案内図です。 信綱の墓と野火止塚を加えました。

野火止緑道と書かれた用水の本流が北東方向に流れています。 これは武蔵野台地の傾斜方向です。
もう一つ、この流れは台地の分水嶺のような高台を流れていて、流れと直角の方向にも傾斜がついています。
直角方向になる廟所への参道にも傾斜がついている理由です。

野火止塚は、野火止台地の高台に造られている事が分かります。

野火止塚の説明板には、野火の見張台であったとする説が有力と書かれています。  
わかるような、でも今ひとつ?が残っています。
高さ3~4mほどの塚です。



境内林なかを戻っていきます。

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野火止用水再訪 その7 平林寺

2011年06月07日 | ぶらり探訪

関越自動車道を越すと、そこは平林寺の敷地の一部。  左側がその敷地、右の堀が平林寺堀ですが、水は干上がっています。



平林寺堀が陣屋通りと交差するところ。 サイホン方式で向こうの平林寺の境内に繋がっています。
用水の本流は100mほど左を流れています。





境内の平林寺堀です。  境内も西から東に向かって傾斜があり、境内でも標高の高いところから傾斜に沿って流路が掘られていますが、一滴も水は流れていません。 説明によると、昔は堀から境内の池などに流れていましたが、今は地下水を使っているそうです。  用水が昭和30年代に汚れて、ストップになった頃、自衛策で地下水を使い、今では用水は不要なのでしょう。



こちらは本流。 陣屋通りと交差するところで橋の名は「伊豆殿橋」。  平林寺堀との高低差は4mほどあると思います。



平林寺山門と境内の木々。



高野槇、樹齢500年とかで迫力があります。 平林寺の野火止への移築が約350年前なので、移筑前からあったことになります。



鳥も多いのですが、たまたまやってきたカラスをパチリ。



鐘楼

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野火止用水再訪 その6

2011年06月06日 | ぶらり探訪

6月5日(日)に野火止用水沿いに埼玉県新座市の平林寺まで行ってきました。
 野火止用水再訪(平成23年5月21日)では、用水の上流部から約半分で引き返していましたので、近いうちに埼玉県側まで足を伸ばそうと思っていました。。

野火止用水の散策MAPです。(「野火止用水」 斉藤利夫、大谷希幸著 有峰書店新社発行 から)

野火止用水は埼玉県の文化財史跡指定区間になっており、手入れされていました。 しかし、水路の側壁が木杭で固められており、情緒はありません。(清瀬市あたりで)


本流と平林寺堀の分岐点。  堰で水位を上げていますが、平林寺堀には流れていません。 
清流復活で用水に水は戻ったのですが、水量は本来の半分以下だと思います。
玉川上水も同様、往時の五分の一以下ではないでしょうか。



 分岐点から約100mほど野火止用水史跡公園が続きます。



本流側の水路は木杭もなくなり、用水らしい雰囲気です。



しばらく行くと、関越道にあたります。 樋で越していきます。(本流側)  向こうの林は平林寺。



平林寺堀も同様、関越道を樋で越します。(平林寺側から)  水は流れていません。


埼玉県側には詳しい案内板が多くあり、昔の用水の利用風景なども掲載されています。

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国立自然教育園 その5 まとめ

2011年06月02日 | ぶらり探訪

17年前、南麻布に住んでいた頃、女房と二人でナイトウォーキングをよくしていて、自然公園の東側あたりはよく来ていたところでした。 当時は自然公園・・・ふーんで終わって一度も入ったことはありませんでした。 もったいなかった。 
さて、今回、調べた内容をまとめておきます。
国立自然教育園のまとめ (国立自然教育園のホームページの沿革の記述に加筆、加筆部分は赤字)



【地形】
自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20~50万年前)海食によって作られた。
付近は池田山公園や、目黒雅叙園など台地の坂や崖を利用した大名庭園跡が各所に残っている。

【歴史】
いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文中期(約2500年前)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたと考えられる。

平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられてる。
室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられている。この館の主が誰かは不明、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されている。
また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っている。

江戸時代になると、増上寺の管理下に入ったが、寛文4年(1664)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残であろうと思われる。

明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれた。



大正10年に朝香宮家に白金御料地の1万坪が下賜された。 今の東京都庭園美術館の建物は宮家が昭和8年に建てられた住居。  

その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っている。


周辺地図です。 首都高が西半分を取り巻いています。



比較のため、江戸時代の地図を。 JR山手線を越して敷地が延びている。



航空写真で見ると、庭園美術館が楔のように挟まっているのが分かる。

航空写真のように、園の西側は首都高が取り巻いており、静寂さが損なわれているのが唯一の泣き所でしょうか。



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国立自然教育園 その4

2011年06月01日 | ぶらり探訪

 水生植物園が見えてきました。



手前にキハナショウブがポツリポツリと。   群生しているより自然な感じでいいですね。



右はイネ科の「くさよし」、左の背の低い草は「みつばかしわ」。 水生植物の彼らにとっては、最高の季節でしょう。





 



ノハナショウブの花。 これから見頃を迎えるのですが、なぜかしおれたように見えます。



左に青いカキツバタが見えますが、こちらは花も終わりごろでした。



ひょうたん池へ歩くと、ここにもエゴノキの花が。 ここで、名前の由来ですが、果皮にサポニンが含まれ、果皮をなめるとのどを刺激して「えぐい」ことからだそうです。・・・へー ですね。



ひょうたん池です。  松平讃岐守の下屋敷時代は回遊式庭園となっていたと思われますが、石組みなどがなくて、自然な感じでいいと思います。 以前、清澄庭園に行ったときは、これでもかと各地の名石を配し、組みこんでいましたが、お金と手間をかけても、必ずしも良くなるものではない典型だと思います。



近くにある物語の松。   前回紹介した「大蛇の松」と同様、江戸時代の大名庭園の名残ですが、どうして物語の松なのか、大蛇(おろち)なのか、由来はわかりません。



物語の松の近くの楓林。紅葉も美しいでしょうが、新緑もいい。



帰途、アーチ状の樹だと思ったら、真ん中ではつながってなく、この角度からはつながっている様に見えるだけでした。

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国立自然教育園 その3

2011年05月30日 | ぶらり探訪

いもりの池です。 水鳥の沼の隣で、この辺は谷筋になっています。





池の対岸はコナラ林。 しかし、昨日の記事の説明板に書いてあったように、やがてシイやカシに取って代わられる運命です。





窪地に水生植物園が見えます。 5,6人の見学者が説明を聞いていました。



大蛇(おろち)の松
江戸時代の松平讃岐守の下屋敷だった頃の面影を残す松。



エゴの木の花が可憐でしたが、もう散りかけていました。 



ヤマボウシも盛りです。



森の小道への曲がり道。 しっとりとした新緑が何ともいえない。

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国立自然教育園 その2

2011年05月29日 | ぶらり探訪

 中世の居館跡(土塁のみが残っている)をすぎ、下り坂を降りたところに、水鳥の沼があります。

鳥はいませんでしたが、しっとりとして落ち着いた気分になります。
ヤマアジサイが沼にせりだしています。



沼の前には休憩のベンチと石のテーブル。 





イイギリの雄花が落ちている。  雄の宿命のように。



枯れ木の根にも落ちています。  その枯れ木から若芽が生えている。



道を戻りますが、館跡です。 昔、室町時代に白金長者と呼ばれた人の館跡。 U字形の土塁に囲まれています。



コナラ林の説明がありました。  人間の手が加えられないと、生き残れない林・・・植物の世界も弱肉強食なのですね。



館跡から水鳥の沼への坂道で撮った境界の塀です。傾斜が分かります。  なお、隣は東京都庭園美術館の敷地ですが、江戸時代は松平讃岐守の下屋敷として、一体の敷地でした。



コナラの林で見つけたただ1個の赤い実。

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国立自然教育園 その1

2011年05月28日 | ぶらり探訪

今日、5月28日(土)に港区白金台にある国立自然教育園に行ってきました。
野火止用水を調べたときに、この教育園は、武蔵野の昔の面影を残しているとの記述があったからです。
小雨が降り、雨滴に濡れた新緑が実に綺麗でした。
入口の教育管理棟を出てすぐ。 



大都会の真ん中にある自然林(のように管理している)で、しばらくは路傍植物園が続きます。   ヤマボウシの白い花。

公園の案内MAP。



マルバウツギ(ゆきのした科)の花。 「卯の花」と呼ばれるウツギより早く開花するので、散りかけています。



ヤマアジサイもそろそろ。



林にはいろいろな木が



土塁があります。 高さ5mほどでしょうか。




私の住んでいる立川市の名前の由来である中世の豪族、立川氏の居館跡にも土塁がありました。 城の防護壁の要素が強いと思います。



道はしっとりとしていて、雨で煙っているように見えます。

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野火止用水再訪 その5  野火止と武蔵野

2011年05月27日 | ぶらり探訪

野火止用水に沿った輪行も、所沢街道の手前で16時近くになり、引き返すことに。
この写真は、久米川駅と八坂駅の間の並木道。 野火止用水はこの道路の下で、暗渠になっています。 並木は用水沿いに植えられたケヤキ等の木々が一部残っているのだと思います。



八坂駅近くの用水沿いのカフェレストラン。 お供の犬がいなければ、喉をうるおしていきたいところ。



九道の辻公園沿いの用水で鴨が休息しています。



ここで、野火止の由来や武蔵野の林について。
武蔵野は洪積台地で水が乏しく、往古はススキや萱に覆われた原野だった。



この武蔵野に初めて鍬を入れたのは、飛鳥・奈良時代に朝鮮半島の内乱を避けて、入国した渡来人だった。
彼らは、荒れた原野を焼畑農法で耕したのだった。  薬や染料となる紫根などが特産品として作られた。



この焼畑農法で野焼きが盛んに行われたが、住居などへの延焼を防ぐため、見張りの塚や堤が築かれた。 これが「野火止」で、用水の流れる埼玉県新座市に野火止の地名と塚が残っている。



武蔵野というと雑木林のイメージがありますが、これは人間がかかわった二次林でクヌギなどの枯葉は肥料、照葉樹などの低木は薪として利用したもので、雑木林のなかは平地のように歩きやすい。 私も、雑木林はもともとの武蔵野の原風景だと思っていましたが、違いました。
 



九道の辻公園沿いの用水まわりの花



 お供、ご苦労さん。



 
(小平市ホームページの野火止用水の案内から転載)



野火止用水の散策MAPです。(「野火止用水」 斉藤利夫、大谷希幸著 有峰書店新社発行 から)
このMAPの所沢街道付近まで約10kmの行程でした。
いつか、埼玉編の平林寺まで行こうと思っています。
 



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野火止用水再訪 その4 万年橋の大ケヤキ

2011年05月26日 | ぶらり探訪

水車の近くの用水に、サギがいました。  小魚が結構いるのでしょう。



子供達が小魚やえびや蟹を捕りながら、遡っていきました。



万年橋の大ケヤキです。  ケヤキの根の下を用水が流れています。



用水が出来たのは、約360年前ですから当時からこのような巨木があったとは考えにくく、若木があって土橋づたいに根が伸びたと思われます。 土地の古老によるとコンクリートの橋が出来る前は根のうえの土橋を渡っていたとか。



橋のたもとに道標が。 右 小平村 左 東村山停車場 至 と読めます。



脇役もちょっと登場。  若木が大ケヤキの根を持ち上げています。



しばらくは、小川のせせらぎ状態が続く。  用水岸沿いに並木が繁り、いい木陰。



ところどころに橋があり、用水は土管を通っている。



脇役の後姿。



カゴのなかが続き、少し怒ったような顔。

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野火止用水再訪 その3 水車

2011年05月25日 | ぶらり探訪

野火止用水の散策MAPです。(「野火止用水」 斉藤利夫、大谷希幸著 有峰書店新社発行 から)



3年前は、八坂駅手前の九道の辻(MAPでは久道の辻、九つの街道が交差していたため名づけられた)で、引き返しましたが、今回は所沢街道手前まで行き、折り返しました。



今日は、MAPの西武線の久米川を越して、水車跡までの区間の写真です。 
水路脇に咲く黄菖蒲とイモカタバミ。



水車跡。  水車へ引いた回し掘と本流の合流点。



回し堀の水路



水車苑として水車は設置されていましたが、当時の再現ではないのが残念。





樋から水が落下して回っていましたが、振り子のように左回り、右回りを繰り返しちょっと違うのでは?と思いました。





最後に脇役も。

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野火止用水再訪 その2

2011年05月24日 | ぶらり探訪

野火止用水は玉川上水の完成(1653年)後、3年ほどで完成している。(1655年)
野火止は玉川上水の総奉行で老中職でもあった松平伊豆守信綱の領地。 野火止への分水は
玉川上水の功績で許されたとされている。
伊豆守信綱は俗に「知恵伊豆」といわれた切れ者。 徳川家光の小姓から出世し、老中にまでなった人物。
玉川上水の開削前から野火止での新田開発を行っており、玉川上水の工事前から野火止への分水は頭の中にあったと思われます。  分水は玉川上水の30%を占め、以降に許される他の分水とは比較にならぬ分量です。

<小平市のホームページから転載>



 さて、写真は玉川上水の取水口からずっと暗渠を流れていた野火止用水が、放流口から流れ出す所です。



周囲は緑陰濃い小公園になっています。



脇役、レオ登場。



この時点では、元気で嬉しそう。



野火止橋から。



水路脇には時折、花が咲いています。 近所の方が植えたのでしょう。



レオは少し不満顔になってきました。







西武国分寺線と用水が交差する手前に和風料亭「草門去来荘」があります。





入ったことはないのですが、竹林の奥に明かりが見え、雰囲気は良さそうです。 値段が高そう。





この料亭の用水にかかる橋の上から下流方向を。 暑かったので、ヒンヤリした景色が嬉しい。



レオは締まりの無い好々爺ふう。

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野火止用水再訪

2011年05月23日 | ぶらり探訪

5月21日(土) 3年前のブログで紹介した野火止用水へ。
今回、老犬レオを自転車に乗せ、家を出てからも行き先が決まっていませんでしたが、新緑の野火止用水もいいかもと、ふと思って向かいました。  自転車で10分ほどで、野火止用水の暗渠の上を流れる親水公園へ。


子供達がえびや小魚をとっています。







老犬レオも15歳、人間の年齢だと70歳代、昔のような元気はありませんが、狭いチャリカゴに乗っけられても、外に出るだけで嬉しそうです。



ところどころに綺麗な花が。





今回の親水公園は、東大和駅から西武線と交差したあとの放流口までの区間になります。
絵の下側は玉川上水。

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府中の森公園

2011年04月02日 | ぶらり探訪

4月2日(土) 自転車で1時間ほどかけて府中市美術館に行き、展示会「江戸の人物画 姿の美、力、奇」を見てきました。  
こちらは明日、アップしたいと思います。
今日は、美術館がある都立府中の森公園を紹介します。 初めての場所です。
広い公園で大きな樹もあり、芝生の広場では子供たちが遊んでいました。
桜も三分咲きで、花見の宴もぱらぱらと。



ピンクの「蛇の目エリカ」が咲いていました。





ツツジ科の植物です。 私は初めて見ました。


石段のテラスから





枝垂桜と池



震災の日から、しばらく撮影できませんでしたが、復活です。

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隅田川べりを行く 旧安田庭園と国技館の壁画

2011年02月28日 | ぶらり探訪

国技館近くで、堤防を上って両国駅を目指して行くと、屋敷塀に囲まれた庭園を発見。
旧安田庭園といい、江戸時代に常陸笠間藩の下屋敷として庭園が造られた。 明治になって一旦、備前岡山藩主の邸宅となったが、明治24年に旧安田財閥の創始者の所有となり、安田翁の死去後、大正11年に東京市に寄付された。
清澄庭園や殿ヶ谷戸庭園もそうですが、財閥の手で造り直され、暫くは所有されるのですが、いずれ公共に供されるケースは多い。  文化財はやはり、みんなの財産なのだと思います。



江戸時代は隅田川の水を引いた池だった。







両国公会堂が奥に建っています。



 庭園を出て、50mほど行くと両国国技館。 相撲博物館が公開されていて谷風や雷電といった江戸の力士の手形や錦絵、歴代横綱の写真などが展示されていましたが、撮影禁止のため、国技館入口壁面の錦絵のみの紹介です。



勝負審判4人の年寄が、四本柱の前の俵の上に座っています。 最初はえー?と思ったのですが、昔はこのスタイルだった。 1930年の天覧相撲を機に、今のように土俵の下となった。



 



ところで、今日が、ブログ開設から1000日め。  眠い目をこすりながら作ったブログですが、読み返すと日々の出来事などが鮮明に思い出されます。  
思い出の目次をもっとわかりやすくしたいので、カテゴリ整理をしようと思います。
最近のブログアクセス記録で感じたのは、アート作品へのアクセスが多いことです。 特に、人形作家の平田郷陽氏の特集がTV放送されたあと、驚くほどアクセスがありました。 いくらかの参考になっているかと思うと、ブログの
つくり甲斐があります。

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