
この小説をフェミニズム文学だと簡単に決めつけたい輩は、ベトナム戦争従軍経験者の父親が肉を口に無理やり押し込む場面にばかり注目して、ある日突然ベジタリアンと化した主人公ヨンヘをフェミニズムの闘志にまつりあげたがるが、本当にそうなのだろうか。もっと根源的なテーマ“人間の生きる意味”について、ハンガン独自の切り口で深く掘り下げた小説のように思えるからだ。
「私は人生の成功者です」といわんばかりの自信満々の笑顔を巻末にのせている欧米の女流作家とはちがって、スーパーでキムチを買っていても誰も気づかない“地味”を絵に描いたような風貌のハン・ガン。いつもノーメイクで眠そうな目をしているこの女流作家が創作する主人公の女性は、すべて自分自身をモチーフにしているのではないか。触れたらそのまま溶けてしまう淡雪のような儚さと、嵐が吹き荒れても受け流す柳の枝のようなしなやかさを併せ持った本小説の主人公ヨンヘもまた、ハン・ガン小説ではお馴染みのメンヘラ気質を受け継いでいる。
私はこの小説を読みながら、アレックス・ガーランドという監督が撮った『アナイアレーション』というSF映画をふと思い出した。UFOが着陸した森で自殺願望のある女流探検家が植物に変化していくくだりに、本小説との共通性を見出したのである。しかしヨンヘに自殺願望があったのかどうかは非常に微妙で、生きる上で必要な“食”をあえて断つことによって、会社で出世することしか頭にない俗物旦那との“生きながら死んでいる”ような結婚生活から、自ら足を洗ったように思えるのである。
この辺の人物造形は、『ギリシャ語の時間』に登場する“視力”を失った男や“言葉”を失った女と共通する、意識的な五感の欠損により俗悪な日常との関係をシャットアウトさせるハン・ガンらしい常套手段といえるだろう。さらにこの小説の場合、はじめは“肉食”だけを拒否していたビーガンが完全に食そのものを断つことにより、逆に“生”の充足感に満たされていくのである。精神病院の流動食や点滴さえも拒否し、最後は光合成だけで“生きていける”ことを確信するヨンヘなのだ。
しかし現実的には食を断てばやがて人間は必ず死ぬわけなのだが、ハン・ガンは本小説においても主人公の最期を看取ろうとはしない。代わりに、同じ子供を育てる同業者として義務的な夫婦生活を送ることに疲れきっていた芸術家を登場させる。その義兄とのSEXを濃厚に描くことにより、植物化した女の“性=生”を読者に強く印象づけようとするのだ。自分たちと同じように生きられない人間を周囲はメンヘラってくくりの中で区別しようとするけれど、けっしてそんな単純な問題ではない気がする。自分らしく生きるとはどういうことなのか、ハン・ガンの小説を読むたびに私は自問自答を繰り返すのである。
菜食主義者
著者 ハン・ガン(クオン)
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