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フリージャズとは何か

2007-11-26 23:22:00 | 音楽一般
いやー、おひさしぶりぃ。
やっと書きたくなったので、書きます。
待っててくれた人、ありがとー。
じっくり楽しんでくれーい(笑)
えーと、今回の内容は、2005年の2月に書いた「すべての音楽はフリージャズである」という記事の補足というか、再確認なので、そっちもあわせて読み返してください。
んじゃいくよ。

最近ね、忙しいながらも相変わらず色々な音楽を湯水のように聴いていて、音楽における「コンセプション」はどんな役割を果たしているかってことを考えていたんだ。
ジャズでいえば、ダンスミュージックとしてのコンセプトを持つスイングジャズ、和声の展開を追いかけるビバップ、ビバップの方法論の中でムードを追求したクールジャズやウエスト、和声の展開に縛られることを否定したモード・・・・・で、コンセプションを否定することに端を発したフリージャズに行きつく。
んじゃ、フリージャズのコンセプションって何か・・・・・笑える問いだよね。コンセプションを否定した音楽のコンセプション(笑)
ねぇよんなもん
クラシックにおいても似たような現象はあるよね。現代音楽。
でもクラシック業界の「フリー」は、ジャズ界におけるそれより遥かに健全で、それまでの様々なコンセプション、メソッド、イディオムの延長線上に、無理なく存在してる。
ジャズの場合、とにかくなにもなしでやろうやって、無理矢理やってるような感が無きにしも非ず。
んじゃ、なんでフリージャズはコンセプションを否定したのか・・・・・相変わらず理屈っぽい馬鹿なこと考えてるでしょ(ギャハハ)
その理由は、音楽を衝動そのもの、エモーションそのものとして表現することに立ち帰るという、音による表現の原点回帰にあった・・・・・はずだ。

変な話なんだよ。
より高度な情動を表現するために、音楽は様々なコンセプションを創り上げてきた。逆にそのコンセプションに縛られて、情動の表現が不充分なものになってしまった。だからなんもかんも御破算にして、なにも無しで自由にやろう。それがフリージャズ・・・・・変だ。
僕はフリージャズの音源をそれほど所持しているわけではないけど、手持ちの数少ないフリーとカテゴライズされているジャズを聴いていて思うのが「定型化したメソッドは、フリージャズには存在しない」てこと・・・・・馬鹿か俺は(笑)。
フリージャズはコンセプションを否定した。んじゃ、コンセプションじゃないもので括られるフリージャズの本質っていったいなんなのか。
それはね、それは「イデオロギー」だと思うんだ。
つまりフリージャズとは「手段を選ばずに情動を充分に表現し切ろう」というイデオロギーなわけだよ。
読んでる人、この文章バカバカしいと思う?。でもね、これって重要なとこを突いてるんだよ。
メソッドを固定する(手段を選ぶ)ことを否定するということは、逆にメソッドが存在する表現を肯定するということでもあるんだ。
わかる?
んじゃ、ジャズの中で、いや、すべての音楽の中で「情動を充分に表現し切ろう」という立脚点に立っていない音楽って、あると思う?
ないよ。
ないんだよ。
つまり、フリージャズのイデオロギーから逸脱している音楽って、全世界のどんな音楽を鑑みても、ない。
「音楽は表現である」以上、それはありえない。
音楽におけるすべてのメソッド、コンセプションは、表現することを目的としている。それらを否定したフリージャズも、目的は表現を全うすること。
そこに差はない。
世界中のすべての音楽は、表現を全うするためにある。

フリージャズが衰退した理由は、コンセプションを完全に否定したところに、表現の全うはありえないということが判っちゃったからだ。
でも、コンセプションを否定しないと表現できない領域があることも、明らかにした。
フリージャズの功績は、コンセプションの否定とか前衛性という瑣末なところにあるのではなくて、「音楽やるならきちんと表現し切ろうよ。そのために最もいい手段を選ぼうね」ってことを、すべての音楽家(少なくともジャズの)に、再認識させたことにある。
この混沌としたフリージャズの荒野を経て、ジャズは初めてジャズのジャズたる立脚点に立ち返ることができた。
これはジャズ界から見れば、他のジャンルのどの音楽にも言えることなんだ。
すべての音楽の立脚点はひとつであるということを明らかにした。
フリージャズはそのために存在したと言えるんだよ。
もう「フリーであること」にも「ビバップであること」にも「モードであること」にも、大した意味はなくなった。
もっといえば、ジャズであることも、クラシックであることも、ポップスであることも、ロックであることも、それぞれにまったく重要な意味はないんだ。
すべては表現のための手段、その一側面でしかないんだから。

です。
以上。

久しぶりなんで、やたらと理屈っぽい文章になった。
でもまた書くよ。
ここは終わらない。
僕が音楽を聴いてる限りはね(笑)

んじゃまた。


4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
>penkouさん (TARO)
2008-01-28 19:39:42
や、どうもです。
このブログの文章の引用は、もうバンバンしちゃってください。
全然構いません。
感想は、そちらのブログに書かせていただきますね。
ではではー。
返信する
考える! (penkou)
2008-01-27 15:50:26
TAROさん
素晴らしいメッセージを有難うございます。
了解を得ないで恐縮なのですが、この論考を記載させていただき、僕の忘れ得ない一つの光景に触れてみました。多分お許しいただけると思いまして・・
お読みいただけると幸いです。
<TBさせてもらおうかな?と思ったのですが、記述が重なって失礼になりそうなので、思いとどまりました>
返信する
>penkouさん (TARO)
2008-01-06 23:38:39
明けましておめでとうございます。
そしてご無沙汰しております。
いやー、忙しいのですよ。
じっくりと音楽を思索する時間がないのです。
こういうゆとりのない生活は良くないですね。
人間的じゃない(笑)
ともあれ、今年もよろしくお願いいたします。


>何故人間は不協和音と感じるのだろう

ここが一番の本質なんですよね。
なぜ協和音程を美しいと感じて、不協和音程を美しくないと感じるのか。トニックに安定を感じるのはなぜか。
ここら辺まできてしまうと、それはもう音響学と生理学、解剖学の話になってしまうのかもしれません。
ただ人間は、もともと不協和な音が溢れていた自然界から、協和音程という美意識にかなうツールを見つけ出して音楽を発展させてきた。そして様々な表現を求めて、不協和音程にも美意識を見出すようになって来た。
また、音楽で表現する情動の幅も、快感のみならず、荘厳、恐怖、苦悩、絶望、また思想的な喧伝に至るまで、多岐に広がりを見せてきたわけですね。
表現者と享受者が、音楽に何を求めるがゆえに、その音楽がその形を採るか・・・・・この意味においては社会学的な視点も必要になってくる。
人間の音楽に対する美意識を、「なぜそうなのか?、なぜそれを美しいと感じるのか?」という問いは、様々な音楽を聴いてその成立や、そこに込められた情動を知識として知っていくことで、断片的な回答は得られるのかもしれません。
ですが、美意識は文化圏によっても、気候、風土によっても、そして最終的には個人それぞれによって、違うものです。
人間の美意識総体に対して、普遍的に「そう感じる理由、仕組み」を見出そうとすると、その問いは果てしない哲学の世界にさまよいこんでいくことになります。
それって、ある意味「全人類に共通する、究極の美とは何か?」を問うことに他なりません。
答えなんか出るわけないのに、問うことをやめられない。思索することをやめられない。
人間ですからね(笑)


>楽しみにしていますので、時々メッセージを発信してください。

ありがとうございます。
元気付けられますね。
気長にお付き合いくださいね。

僕も今日は「Wow」を聴いて寝ることにします。
ビールがうめぇ!

ではでは。
返信する
不協和音とは? (penkou)
2008-01-06 13:16:43
TAROさん
新年おめでとうございます。
天気に恵まれて、気持ちのいいお正月をお迎えのことと思います。
時折(といってもほとんど毎日)TAROさんのページにアクセツ、でもなかなか更新されないのでどうしたカナと思っています。

このテーマ、フリージャズも考えることもあってコメントしたかったのですが、過去のやり取りも拝見し、なかなか難しいテーマで僕の考えをお伝えできませんでした。

フリージャズと、演奏者の情念、それに不協和音という文字が僕の頭の中をぐるぐる回っています。ことに不協和音、キース論考でも出てきたのですが、何故人間は不協和音と感じるのだろう、なんて考えてしまいます。雑踏の騒音?(騒音といってはいけないかも)あるいは風の音。
レコードやCDで聴く不協和音はどうもなじみにくいのですが、ライブで聴くと何か身の引き締まる気がしたりします。それはなぜなのか?
新年早々取り留めのない、何だか論考にもならないコメントですみません。楽しみにしていますので、時々メッセージを発信してください。

ところで大西順子の「WOW」を改めて繰り返し聴いています。感じます。
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