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没後100年の前島密と濱口梧陵について考える

2019-03-09 05:12:59 | 教育 子育て
"If we want everything to remain the same, must everything change?"
「Change to remain the same(変えないためにこそ、変わらなければならない)」のか?


人間は生き方を変えることができる。繰り返す毎日の行動を変えることにより、新しい習慣形成により、新しい習慣の選択を人間は決意できる。人間には選択の自由がある。そして、意志と努力により、新しい自己を形成することができる
日野原重明


今から146年前の8月、将来は郵政事業を民間の経営に委ねた方が良いと主張して、初代郵政大臣を解任された「郵政民営化の先覚者」は、「稲むらの火」の主人公「濱口梧陵」である。
http://inamuranohi.jp/library/hamaguchi-jinbutsu/より転載、一部改訂


駅遁司が属した民部省では、それまでの伊達宗城(旧宇和島藩主)に代って、大木喬任(佐賀藩士)、が卿に任じられた。
ところが、十数日にして民部省が廃され、駅逓司は大蔵省に移管されたのである。大蔵卿は大久保利通であった。
ところで七月十四日、人事大異動と符節をあわすように、天皇は在京の諸藩知事(旧藩主)を宮中に召し、藩を廃して県を置く詔書を下した。いわゆる廃藩置県は、こうしたかたちをもって断行されたのである。273の藩は、そのまま県とされ、従来の府県を加えれば、全国は三府三〇二県および開拓使(北海道)となった。中央集権は、ここに完成した。
東京から横浜までの郵便が開かれたのは、この翌日のことである。
この間に、三月一日世紀の新式郵便開始の大任を果たした駅逓権正の杉浦は、駅逓正に昇任し(三月十日)、七月、駅逓司が大蔵省に属するにともなって、いったん大蔵少丞に準ずる待遇が与えられたが、やがて太政官の正院に転じた。杉浦にかわって、駅逓正には浜口成則(儀兵衛)が任命された。こえて八月十日、駅逓正は寮に昇格した。長官の名称も、これによって頭となる。すなわち浜口は、ここに初代駅逓頭となったわけであった。
浜口は、紀州和歌山藩士の出身であった。それまて藩の権大参事(いまの副知事)として藩政の改革に当たっていたが、廃藩によって中央政府に召されたものである。浜口にとって、駅逓の行政はまったく未経験であり、新式郵便の近代国家における重要性も理解することもできなかった。そんなところへ、前島が帰朝したのである。(八月十五日)。
さっそく前島は駅逓寮を訪れて、浜口の所信をただした。しかし浜口の考えによれば、郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、将来は民間の経営にゆだねるのがよいという。前島は慨嘆し、駅逓のことをつかさどるべき者は自分をおいてほかにないと確信した。そして、太政官に自らの任官の希望を申しいで、帰朝から二日後の八月十七日には一駅逓頭に任じられた。

明治4年(1871)機構
7月29日 駅逓正 浜口成則、杉浦は大蔵省出仕。
8月10日 駅逓司は「寮」に昇格、浜口は駅逓頭に任命。
8月17日 駅逓頭 前嶋密、浜口は和歌山県に転出。

「郵政百年」(郵政省発行)より転載


2005/01/27 Thursday
渡辺好明さんの「濱口梧陵と前島密」論
2005/01/27
笹山登生
http://www.sasayama.or.jp/wordpress/?p=200より
まだ続いていた例の小泉メルマガに、渡辺好明(郵政民営化準備室長)さんが、「濱口梧陵と前島密」論を展開されている。
趣旨は、濱口梧陵さんを民営化推進派、前島密さんを、官営化派になぞらえ、「現在の郵政民営化は、濱口梧陵さん時代への先祖がえり」であることを強調されたいようなのだが。

で、渡辺さんが引用されている「濱口は、「郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、”将来は”民間の経営にゆだねるがよい」と(いった。)」との濱口梧陵の言をとらえて、「平成の今こそが、濱口の言った「将来」なのだ。」と、言いたいのだろう。

しかし、その次の「郵政百年史」からの引用として、明治4年(1871)に濱口が駅逓頭に就任して、わずか2ヶ月で、前島に駅逓頭を譲った後のことについて、(その濱口の言に慨嘆した前島が、濱口に替わって駅逓頭に任じられ)「濱口はわずか2ヶ月で和歌山県知事に転じた」とあるが、これは、本当のことなのだろうか。

濱口関係サイトを見ても、濱口は、和歌山県の大参事になったとは書いてあっても、知事になったとは、書いていないのだが。

そこで、調べてみる(といっても、出生地の広川町の教育委員会に電話で問い合わせただけの話なのだが)と、こういうことだった。

明治3年12月に濱口梧陵は、紀伊国和歌山藩の大参事になり、明治4年8月17日から、明治5年2月13日まで、和歌山県の大参事を務めたということだ。
つまり、廃藩置県以前に、大参事になっていた浜口梧陵は、和歌山県発足と同時に、これまでの和歌山藩の大参事から、新生なった和歌山県の大参事に、そのままなったということのようだ。
ちなみに、版籍奉還後も藩主が藩知事をかねていて、廃藩置県当時の和歌山藩知事は、徳川茂承であった。
「廃藩置県により藩知事廃官、大参事以下を以て県知事事務取扱被命」ということで、大参事は、県知事の事務取り扱いを命じられたのだが、決して、知事ではなかったのである。
和歌山県についてみると、明治4年(1871)年11月の第1次府県統合で、それまでの紀伊国のうち、牟婁郡が三重県に分離したほかは、移動がなく、明治4年11月22日に和歌山県が誕生した。
ちょうど、その端境期に、濱口梧陵は、和歌山藩と、和歌山県の大参事になっていたというわけである。
したがって、渡辺さんが引用された「郵政百年史」の「濱口はわずか2ヶ月で和歌山県知事に転じた。」というのは、間違いであった。

まあ、農林水産省時代に大変お世話になった渡辺さんには、ケチはつけたくなかったのだが、小泉メルマガにも、たまには、間違いがあるということだけを記しておく。
それにしても、最後の言葉、CHANGE TO REMAIN THE SAME
って、なんか聞き覚えあると思ったら、某大野党解散のときのある方のお言葉でもありました。


小泉内閣メールマガジン
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/yuseimineika/mm/050127_2mm-yusei.htmlより転載

[シリーズ郵政民営化] [2005/01/27]第173号

● 「稲むらの火」の濱口梧陵は初代の郵政大臣
(内閣総理大臣補佐官、郵政民営化準備室長 渡辺好明)

 先週号で、灘高等学校理事長の嘉納さんが「稲むらの火」とそのモデルの
濱口梧陵についてすばらしい寄稿をされているが、そこに、「濱口梧陵は、
後に初代駅逓頭(えきていのかみ/郵政大臣)に就任し、郵政民営化を唱え
て前島密(後任者)と衝突した事は余り知られていない」という興味深い記
述がある。

 何故二人は衝突したのか、おそらくは、同じ「公益」を目指しながらもそ
の達成時期、手法に関する考え方の違いがあると思う。

 江戸時代におけるわが国の郵便制度は、問屋制のもとで民間が行う飛脚便
であった。明治4年3月に新しい郵便制度が発足したが、当初は、東京と京
都・大阪の間に設けられた官営の新式郵便と、大阪以西、以南で新たに認定
を受けた民間の飛脚屋とを接続して行われた。

 その後、官営部分は拡張され、明治5年には、ほぼ全国的な官営郵便網が
完成している。また、明治4年12月には、全国の郵便取扱所に、準官吏と
しての「郵便取扱人」が地方の有力者から採用された。前島、濱口の両者が
意見を戦わせたのは、まさにわが国の郵便制度の創成期であるこの時期の話
である。

 前島密には、当時の日本がおかれていた切迫した状況への認識がある。中
央集権の実現と海外圧力に対抗する国家システムの構築は緊急を要する。加
えて、当時の郵便通信事情、「高い、届かない、遅れる、なくなる」があっ
た。手元不如意の新政府が、毎月1500両(6~7000万円?)もの大
金を飛脚屋に払うならもっと効率的な仕組みに変えられるとの確信である。
「急ぐことを第一」として「官営」の名の下での再編成、民間をも巻き込ん
だ、公益達成の追求である。

 一方、濱口梧陵(儀兵衛、成則)は、代々の大事業家として、紀州和歌山
藩の藩政改革の責任者として、また、莫大な私財を投じて津波防災堤防を建
設した者として、公益の達成は、国や藩自らが行わなくとも(長い目で見れ
ば)「私」の活動を通じて社会に貢献し、実現することができると考えてい
たのではなかろうか。

 前島から所信をただされた濱口は、「郵便のごときは、これまで飛脚屋が
営んできた仕事であるから、”将来は”民間の経営にゆだねるがよいという。
前島は慨嘆し(濱口に取って代わり)---駅逓頭に任じられた」とされ、
濱口はわずか2ヶ月で和歌山県知事に転じたのである。これが衝突のいきさ
つであろう。(郵政百年史から)

 その後、わが国の郵便通信事業は飛躍的発展を遂げ、戦費調達、経済復興、
発展のための資金調達もその目的を達成した。ネットワークも完備し、民間
の経営力も「官」より高い、安心できるものとなった。前島密の狙いは成し
遂げられ、更なる進歩のためには再び「民」が前面に出て、創意工夫、効率、
サービスを市場で実現するときがやってきた。

 「今の状況は悪くない」という方々がいる。確かにそうかもしれない。し
かし、回りは大きく変わってきている。よい状況を維持し発展させようとす
れば、「Change to remain same(変えないためにこそ、変わらなければ
ならない)」ではないのかと私は考える。


http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-3482.html?sp

「稲むらの火」 1年早ければ... 「濱口梧陵」玄孫 教科書復活にも複雑(産経新聞 2011年4月22日)

 東日本大震災で津波の恐ろしさが再認識される中、安政元(1854)年の安政南海地震による津波から紀伊国広村(現和歌山県広川町)の村人を救った物語「稲(いな)むらの火」が注目を集めている。

今年度、64年ぶりに小学校の教科書に復活したが、特別の思いを寄せるのが神戸市東灘区の私立灘中、高校理事長、嘉納毅人(かのう たけと)さん(67)だ。

主人公のモデル、濱口梧陵(ごりょう)の玄孫(やしゃご<孫の孫>)の嘉納さんは防災意識の向上のため普及に尽力してきた。「1年早く教科書に載っていれば犠牲者を減らせたかも」と悔しさをにじませる。  (佐久間史信)
稲村
「もっと救える命があったかも」と話す灘高校の嘉納毅人理事長=神戸市東灘区(甘利慈撮影)
 物語は、村の庄屋が地震の後、潮が引いて海岸が後退するのを見て津波の来襲を察知したことに始まる。刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に庄屋が火をつけると、火事と思った村人が消火に駆けつけ、その眼下で津波が村を襲う。

庄屋の機転が村人を救った史実がもとになったとされる。

 感銘を受けた文豪、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が短編集で紹介。これをもとに小学校教師が書き上げた「稲むらの火」が昭和12年から約10年間、小学校の教科書に載った。

 主人公のモデルになった梧陵の玄孫にあたる嘉納さんは、津波の教訓を広く伝えるため物語の普及に取り組んできた。平成14年には「稲むらの火」のホームページを立ち上げ、記述の大半を嘉納さんが執筆した。

 この物語が今年度から、小学校5年生の国語の教科書(光村図書)に64年ぶりに復活、「百年後のふるさとを守る」と題して掲載された。嘉納さんは「あと1年早く教科書に載っていれば救える命がもっとあったかもしれない」と話す。

 実は、物語には後日談がある。梧陵はその後、将来の津波に備え、私財を投じて全長600メートルに及ぶ大堤防を築造、建設工事には村人を雇用した。堤防完成から88年後の昭和21年に昭和南海地震が発生、再び津波が村を襲ったが、この堤防のおかげで大部分が浸水被害を免れたという。

 嘉納さんは阪神大震災で被災経験があるだけに防災への思いは人一倍で、「稲むらの火は村人に逃げるルートを示した。災害での危険箇所や避難経路を示すハザードマップがいかに大切か、ということ」と説明した。

 そして復興についてこう話す。
 「稲むらは年貢米。火をつけることは重大な犯罪行為で打ち首ものだった。でも梧陵は村を守るためにやった。東日本大震災は未曽有の非常時。こういうときこそ政治のトップは自分の首をかけて非常時の政策に臨むべきだ」

濱口梧陵(1820~85年)
醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現ヤマサ醤油)に生まれる。7代目当主として家業を守るとともに、社会福祉事業や政治活動に取り組む。中央政府に召されて初代駅逓頭(郵政大臣に相当)として近代的な郵便制度の創設にも尽力した。

追加参考
http://psycross.com/blog/?p=7324

ポストを愛すと…
2014年4月14日 ADMIN
4月20日は、日本で初めて郵便制度が始まった日ということで、逓信記念日=郵政記念日となっているようで、

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