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ラース・ビハーリー・ボースと中村屋のカレー

2016-04-30 06:53:18 | 市民国際交流協会
 
インドカレーを食べながら『ラース・ビハーリー・ボース』(中村屋のボース)を偲ぶ。

かつて、『ラース・ビハーリー・ボース』は、鎌倉極楽寺にいた遠山満の義烈荘にも匿われていたと言われ、その義烈荘跡は、現在では、『東洋平和発祥之地』と刻まれた記念碑があるのみですが、かなり以前に訪れたことがある。

『新宿中村屋』は6月12日を「恋と革命のインドカリーの日」と制定している。日本での純印度式カリーの誕生は昭和2年6月12日に遡る。

『中村屋のインドカリー』を作ったのはボースはボースでも『ラース・ビハーリー・ボース』であり、もう1人のインド革命運動家のチャンドラ・ボースではない。度々勘違いされているのは残念なことである。

有名な中村屋カリーを作ったのは、ラース・ビハーリー・ボースその人であり、インド総督爆殺未遂の事件で日本に亡命した一人のインド人だった。
ボースは、1886年ベンガル州ブルドワン郡に、代々武士(クシャトリア)の階級(インド4階級の第2番目)の政府新聞の書記をしている父 ビノデ・ビハリと母ブボネンショリの長男として生まれた。
一冊の本との出逢いが、ラース・ビハーリー・ボースの運命を変えていきます。その本の名前は『サラチャンドラ』であり、当時の新刊で革命に燃える青年達に広く読まれていた。この影響もありラース・ビハーリー・ボースは学業を捨てインド兵になることを志願した。ウイリアム要塞司令官に入隊を志願するものの、ベンガル人は志願兵として登録出来ないと断られてしまう。
結局は、父の強制で森林調査官に任官し、この地位と赴任先がグルカ兵輸送の中心地であったことを革命活動に利用し、兵士に革命活動を広げ、1912年に総督爆殺計画(デリー事件)を起こしたが、疑われるどころかラース・ビハーリー・ボースに革命党員の行動内偵を依頼するほどだった。

 しかし、2年後の1914年にはデリー事件でのこのラース・ビハーリー・ボースが主犯であることが判明、その首には12,000ルピーの懸賞金がかけられた。その後、1915年のラホールの反乱も密告により失敗して、身の危険が迫る中、ボースは武器を入手のため日本に渡ることを決意した。そのため詩聖タゴールの渡日にまぎれて、タゴールの親戚として来日したのだった。
1915年の6月に神戸からタゴールに連れられて来日以来、さまざまな文化人や政治家と交流を深めていきました。
しかし、半年後には国外退去命令が下り、官憲の尾行がついたボースは匿われていた頭山満邸から逃亡し、相馬夫妻中村屋に隠れた。

新聞で事件を知った中村屋の女主人、相馬黒光(こっこう)は『軟弱外交』と切り捨て『むざむざと死地へ落とすことがあるものなら中村屋の恥はもとより日本人としての面目がたたない』と言ったという。
そんな彼女を『時代の新しい女性』と慕い、孫文、後の総理大臣、犬養毅、孫文、右翼の革命家、画家、文学家がサロンに通いつめていた。それから相馬夫妻は4カ月間命がけでボースを匿います。
この期間にボースが相馬夫妻にカリーライスを作り振舞ったのが縁となり、中村屋は昭和2年「純インド式カリーライス」を発売することになったのが『中村屋インドカレー』の発端だそうです。

ところで、なぜ6月12日を「恋と革命のインドカリーの日」と制定したのかだが、亡命先の相馬家の長女・俊子と恋仲になり、その愛を確かめるために、ラース・ビハーリー・ボースは、俊子にこう言ったそうだ。『僕を愛してるなら僕の目の前で死んでほしい、ここから飛び降りれますか?』
覚悟を決めて走しりだしたその俊子をしっかりと抱きとめたのだった。
亡命者中の身であったボースの命がけのプロポーズだった。

中村屋を出た後、ボースは相馬家の長女・俊子と、1918年(大正7年)頭山満の媒酌で結婚した。悩みに悩んだ末、結婚を決めたのは俊子であったかもしれない。ボーズが彼女の前に姿を現す少し前、彼女は中村屋のアトリエに住み込んでいた画家・中村彝(つね)と恋仲だった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%BD%9D

画家・中村彝(つね)が結核を肺病を患っていることで、両親は二人の仲を引き裂いた。結局、彝は後に大正初期に38歳の若さで亡くなった。今でも彼が俊子を描いた作品のレプリカは新宿中村屋本店の三階で見ることは出来る。
この中村彝は大正期に活躍した洋画家であり、ちょうど百年前の大正5年(1916)、新宿区下落合にアトリエを新築しました。この下落合に残る彝のアトリエを復元・整備され、新宿区立中村彝アトリエ記念館として公開されている。

俊子自身がフェリス出身の母・黒光に育てられたのもあり、英語堪能だったこともラース・ビハーリー・ボースとの関係であっただろう。結婚当時俊子20歳、ボーズ32歳、麻生、中野、青山と亡命中に17回も転居したという。
1924年、第一次世界大戦が終結したことを受け、イギリスによるボース追及が終わり、一家は中村屋敷地内に新居を立て生活しましたが、翌年俊子は肺炎で亡くなります。享年27歳,わずか6年あまりの結婚生活でした。
当日、わずか2歳だった長女の哲子さんは父ボースの口から母の事を聞くことが無かったという。やっと追手が無くなり日本に帰化し『防須』と犬養毅から名づけられたラース・ビハーリー・ボースは、かつて相馬家に振舞った『インドカレー』を広めようと邁進する。

街の洋食屋のカレーが10銭だった時代、中村屋のカレーは80銭だった。それでも人々は中村屋のカレーを求めて店に通った。
『中村屋ボースの違いは』ナイル・レストランの店主G.M.ナイルさんは『混同しないでほしい』はこういったいきさつも踏まえて不満げだ。
チャンドラは後に、病床に倒れたボースがインド独立のためドイツから呼び寄せたのがチャンドラであり、中村屋ボースの役割は大きいという。
忘れられつつあり、チャンドラとよく間違えられる『ラース・ビハーリー・ボース』は東京・多摩霊園に眠っている。
人と人とをつなぐ、その『心』と『志』、カレーを食べながらラース・ビハーリー・ボースを偲びたいものである。

参考文献

アジアのめざめ
ラス・ビハリ・ボース伝

出版社 書肆心水

内容紹介

ボース自身が書きのこした言葉、ボースに親近した二人の言葉。

――「中村屋のボース」として知られるインド独立革命の闘士ボース。日本に亡命し、日本の戦争とインド独立闘争の連携をはかったその困難な一生を今に伝える記録。ボースに親近した義弟と義母によって歿後八年に編まれた伝記文集。

著者について

ラス・ビハリ・ボース
(Rash Behari Bose)
1886年生、1945年歿。相馬愛蔵と相馬黒光の娘俊子と結婚。著書に『革命の印度』(書肆心水復刊『革命のインド』)、『印度神話ラーマーヤナ』(書肆心水復刊『中村屋のボースが語るインド神話ラーマーヤナ』)ほか多数。

相馬安雄(そうま・やすお)
1900年生、1957年歿。
相馬愛蔵と相馬黒光の長男。中村屋2代目社長。ボースの義弟。

相馬黒光(そうま・こっこう)。1876年生、1955年歿。
相馬愛蔵と中村屋を創業。本業の傍ら画家・文人らに交流の場を提供、中村屋サロンと呼ばれた。著書に『黙移』(自伝)ほか。ボースの義母。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ボース,ラス・ビハリ
1886年生、1945年歿。相馬愛蔵と相馬黒光の娘俊子と結婚。1923年日本に帰化。元インド独立連盟総裁

相馬/安雄
1990年生、1957年歿。相馬愛蔵と相馬黒光の長男。中村屋2代目社長

相馬/黒光
1876年生、1955年歿。相馬愛蔵と中村屋を創業。本業の傍ら画家・文人らに交流の場を提供、中村屋サロンと呼ばれた

中島 岳志 著(白水社)

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

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