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トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難1890年の悲劇から、130周年、感謝の気持ちを忘れない!

2020-02-14 01:34:10 | 市民国際交流協会
オスマントルコ帝国の軍艦エルトゥールル号の和歌山県串本町沖遭難から今年2020年で130年。明治天皇に勲章など献上した帰国途中、台風で座礁沈没した。乗組員587人が死亡したが、地元住民の献身的な活動で69人が救出された
 ▼イラン・イラク戦争下の1985年、イランの首都テヘランからの邦人退避がトルコ航空機で実現した。95年後のトルコ政府〝友好の恩返し〟は2015年、両国合作映画「海難1890」でも広く知られた

https://www.at-s.com/sp/news/article/column/daijizai/731672.html より一部転載

130年前に起きたトルコの軍艦「エルトゥールル号」の遭難事故を、多くの日本人は知らないか、忘れている。トルコがとても親日的な理由の1つには、この未曾有の海難事故で、当時の日本人が身の危険を顧みず猛烈な台風の中、トルコ乗組員を必死で救助したことがある。

と同時に、日本とトルコが親善を深めようとした背景に、欧米列強国との「不平等条約」解消という19世紀末の“共通の想い”があったことを、日本人はほとんど知らない。

130年前の海難事故が生んだ「絆」

親善航海のため寄港した軍艦エルトゥールル号(排水量2,344トン、全長 約76m)は1890年9月16日夜半、帰航の途中、和歌山県串本町の紀伊大島沖で、猛烈な台風のために岩礁に激突、蒸気機関が爆発し二つに割れ沈没した。

この海難事故で、艦長以下587人が殉職。紀伊大島の島民たちの必死の救助で助かったのは、わずかに69人に過ぎなかった。しかし、この献身的な救助活動は、トルコ国民に直ちに伝えられ、今でも時代を超えて語り継がれている。この歴史的な“友情と絆”の物語が、2015年12月に日本・トルコ合作映画『海難1890』として公開されるた。

共通の課題だった欧米列強との“不平等条約解消”

なぜ、9000キロも離れている地からトルコ軍艦は遠路はるばる日本を訪れたのか。そこには、欧米列強国より近代化に遅れた日本とトルコの歴史的な共通性がある。19世紀末、オスマン帝国(トルコ)は、欧州列強国との不平等条約に苦しんでいた。このため、当時のアブデュルハミド2世皇帝は、明治維新以後、同じような米欧との不平等条約で苦労していた日本との友好関係を促進し、両国間で「平等条約」締結を図ろうとした。

実は、ここにもう1つ重要な伏線がある。トルコ軍艦の海難事故より4年前に起きた英国貨物船「ノルマントン号」(排水量240トン)の沈没事件だ。1886年10月、日本人乗客25人と雑貨を載せ神戸へ向かっていた同船は、暴風雨で和歌山県樫野崎の沖合(沈没場所は特定されていない)付近で座礁沈没した。その際、船長ら英国、ドイツの乗組員26人全員は救命ボートで漂流していたところを沿岸漁民に救助された。

明治政府を揺るがす事件に発展した英貨物船沈没事件

しかし、乗船していた日本人25人は船中に取り残され、全員が溺死した。韓国で2014年4月に起きた大型フェリー「セウォル号」転覆事故のような、船長らが乗客を助けずに逃げた事件をほうふつとさせる事態だ。

当時の明治政府は、事故に不審を抱き調査を命令、神戸の英国領事館に告訴するよう働きかけた。しかし、事件を審判した英領事は半年後、船長に軽い刑罰、それ以外は全員無罪の判決を下した。当時、日本は不平等条約を押しつけられ、外国人に対する裁判権がなかった。

国民は「日本人蔑視」と怒り、この事件を契機に領事裁判権の完全撤廃,条約改正を叫び、明治政府を揺さぶる事件に発展した。しかし、領事裁判権の完全撤廃は1894年まで待たなければならなかった。

オスマン帝国は、このような不平等条約に苦しんでいた日本に対して、善隣友好を持ちかけた。日本側もこれに応え、小松宮彰仁親王が1887年にトルコを訪問した。軍艦エルトゥールル号の日本派遣はその答礼で、乗組員約650人を乗せ1889年7月14日、イスタンブール港を出港、11カ月をかけ翌年6月に横浜港に到着した。

親善使節団は東京に3か月滞在、国賓として熱烈な歓迎を受けた。団長のオスマン・パシャは明治天皇に謁見し、皇帝からのトルコ最高勲章や様々な贈り物を捧呈した。

島民らの献身的救助で69人が命拾い

帰途に就いたのは、同年9月15日。しかし、日本政府は台風シーズンであることや、エルトゥールル号が建造後26年の木造船であったことから、出航を見合わせて船体修理をするように勧めた。ところが、使節団は、滞在延長がイスラム圏の“盟主”オスマン帝国の弱体化と受け取られかねないと懸念し、横浜港から予定通り出航した。

未曾有の遭難事故は、翌日9月16日夜に起きた。多くの乗組員が死亡、行方不明になる中、からくも逃れ樫野埼(かしのざき)灯台の下に漂着した乗組員は、灯台の灯りを頼りに40メートルもの断崖をよじ登り助けを求めた。灯台から知らせを受けた島民は暴風雨の中を総出で駆けつけ、危険を顧みず岩礁から生存者を救出した。

紀伊大島は、当時3村から成る約400戸の島だったが、食料の蓄えもわずかな寒村だった。それにもかかわらず、島民たちは非常用食料を供出し、不眠不休で生存者の救護に努め、殉職者の遺体捜索や引き揚げ作業にもかかわった。生存者69人はその後、治療のため神戸に移ったが、この時、明治天皇は侍医を、皇后は看護婦13人を派遣されている。

余談だが、トルコ水兵らが漂着した樫野埼灯台は、紀伊大島の東端断崖に建つ日本最初の石造灯台、しかも日本最初の回転式閃光灯台でもある。「日本の灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ブラントンが設計し、1870年7月に初点灯した。

「治療費はいりません」、発見された医師たちの手紙

神戸で治療を受けた生存者は10月初めに、日本海軍の軍艦「比叡」、「金剛」で、帰国の途に就いた。2隻には司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で有名な秋山真之ら海軍兵学校17期生が少尉候補生として同船していた。2隻が無事イスタンブールに入港したのは1891年1月で、トルコ国民は感謝の念をもって日本海軍一行を大歓迎した。

最近、トルコ乗組員の手当てした紀伊大島の医師3人がトルコへ送った手紙(写し)が、地元のお寺で発見された。トルコ側が治療費用を請求するようにと要請してきたのに対し、医師たちは「初めからお金を請求するつもりありません。痛ましい遭難者をただ気の毒に思い行ったことです」との返信を出していた。

沈没海域を眼下に見下ろす丘に殉難乗組員の共同墓地が整備され、慰霊碑が建立された。串本町では今でも5年ごとに追悼式典を行っている。

2008年6月には、当時のギュル・トルコ大統領が、初めて同国大統領として遭難慰霊碑を訪れ献花した。また、トルコなどの考古学者によるエルトゥールル号調査が07年から行われており、08年に1000点以上の遺品を引き揚げた。

95年後にトルコが「恩返し」

この両国の「絆の物語」には続きがある。イラン・イラク戦争で緊迫する状況の1985年、イラン在住の日本人200人以上が脱出できず途方に暮れていた。同年3月17日には、イラクのフセイン大統領が 「48時間後にイラン上空の全航空機を撃墜する」と世界に向けて発信した。

世界各国は自国救援機をイランに派遣したが、日本は自衛隊機もまだ法律的に直接派遣できず、民間航空会社も危険を理由に救援チャーター機にしり込みした。テヘラン空港に駆け付けた在留邦人はパニック状態になった。

その時、窮状を救ったのはトルコ政府だった。2機のトルコ航空機をテヘランへ派遣することを申し出て、215人の在留邦人を無事に救出することができた。当時イランにいたトルコ人は、日本人よりはるかに多い500人以上で、彼らは陸路を車で脱出するしかなかったという。この事実も日本人は知らないか、忘れている。

在留邦人たちの感謝の言葉に対して、トルコ政府ははっきりと答えた。

「私たちは、95年前の日本人の恩を忘れていません」

その恩が、軍艦エルトゥールル号の遭難事故における紀伊大島の島民の献身であることは言うまでもない。15年12月に公開される映画『海難1890』はこの2つの友情と絆を描いた感動の物語となっている。

上記は、https://www.nippon.com/ja/behind/l00127/?pnum=2 より一部改定

追加情報
https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20161024-00063582/ より一部改定
エルトゥールル号の海難1890より四年前の明治19年(1886年)10月24日、日本南岸を東進した低気圧は、もう少し沿岸沿いを発達して通過したことにより、紀伊半島の熊野灘でノルマントン号が遭難しています。

*ノルマントン号の遭難

ノルマントン号は、1532トンのイギリスの汽船で、横浜と神戸を結んでいました。
青山孫一郎氏が明治19年11月に良明堂と信文堂から出版した「紀井の海底の水屑」によると、次のような内容が記されています(「紀井の海底の水屑」は、昭和12年に岡田武松中央気象台長が著した「測候瑣談」で紹介されています)。

明治19年10月23日、3回目の航海として横浜を出港しましたが、積荷はニューヨーク向けの茶、上海向けの海産物と雑貨などで、乗客は日本人25名でした。明治22年に東海道線が開通するまで、京浜と阪神間を往来する人のなかには、貨物船をよく使う人もいました。そして、乗員はイギリス人のドレーキ船長以下39名です。
ノルマントン号は、御前崎へさしかかるまでは天気が良好でしたが、16時頃から荒れだしています。
午後四時頃から荒れ出し南東の風が吹き雨を交へ 日暮の頃は咫尺(しせき)も弁ぜざる程暗澹(あんたん)たる荒天となり 大島灯台に近づく頃に七時三十分頃 暗礁に乗り上げ 日本人乗客は全部死亡したが船員は避難して助かったものが多かった。

出典:岡田武松(1937)、測候瑣談、岩波書店。
測候瑣談でいう大島は、和歌山県串本町潮岬沖合いにある紀伊大島のことで、平成11年からは「くしもと大橋」で紀伊半島と繋がっています。

船長を含めた乗員は、4隻のボートで脱出し、2隻は紀伊半島南端の和歌山県・串本に漂着し、残りの2隻も荒波をおして出航した串本の9隻のカツオ船によって救助されています。
このため、乗員26名が助かっていますが、日本人乗客は誰も助かっていません。
この海難を審判した神戸のイギリス領事館は、船長の「逃げろといったのに日本人が英語がわからず逃げなかった」という主張を採用し、船長以下の全員を無罪としています。これに対し、そんなことはありえない、船長等が乗客を見捨てて逃げた、日本人蔑視だという世論が高まり、日本政府は兵庫県知事に船長等を殺人罪でイギリス領事館に告訴させています。
しかし、裁判は横浜のイギリス領事裁判所に移され、判決は船長のみが職務怠慢罪で禁獄3ヶ月という軽いものでした。
この事件を契機に、領事裁判権の完全撤廃や、条約改正を望む国民の声が高まり、明治政府を大きく揺さぶる大事件となっています。そして、明治27年の領事裁判権の完全撤廃など、江戸時代末期に欧米列強と結んだ不平等条約の改正が進んでいます。

中央気象台が作成・即日配布している天気図によると、明治19年10月24日21時は、南岸には低気圧があり、北日本の東海上が高気圧があるという大雑把なものです。

海上のデータがありませんので、このときの低気圧の位置はわかりませんし、単なる低気圧ではなく、台風から変わった低気圧、あるいは、台風そのものかもしれません。ただ、発達した低気圧が日本の南海上を東進したというこがわかるだけです。ただ、大荒れになっているということで、警報が発表になったことが天気図の隅に記入されています。

警報は小林一知(第2代中央気象台長)の下で、暴風警報業務を日本政府に提言して採用されたイ・クニッピングが発表したことを示すサインがあります。
ただ、海上の観測データがない大雑把な地上天気図をもとに発表する警報です。実用的にはほど遠いものですが、その警報でさえ、海上の船舶に情報を提供する手段が全くないときのノルマントン号の海難です。

トルコ軍艦・エルトゥールル号

ノルマントン号の救助活動で、英語の必要性を感じた串本地方では、英語教育が始まっています。明治20年2月から串本小学校で大人向けの夜学が始まり、その後、小学校で英語の授業が始まりました。全国的にみても、かなり早い小学校での英語授業です。
そして、ノルマントン号事件の4年後の明治23年9月16日、トルコの軍艦・エルトゥールル号が熊野灘で遭難し、串本の対岸にある大島の樫野灯台下の岩礁に乗り上げ、540人が亡くなるという海難が発生します。生存者はわずか69名、そのうち負傷者が63名もいました。大島の人たちは漂着した負傷者を救助し、衣食を提供しています。そして、遺体の収容に努め、約220名の遺体を遭難墓地に埋葬しています。
この話は、トルコの教科書にも載っており、トルコと日本の友好関係の絆となっています。出発点となっています。
昭和12年に遭難墓地の改修が行われた時、大理石の遭難碑が建てられ、昭和49年にトルコ記念館が建てられています。今でも、駐日トルコ大使は、日本に赴任すると、すぐに串本町にあるトルコ軍艦記念碑などを訪問しています。

友好交流、感謝の気持ちをお互いに忘れない!

*ノルマントン号事件

和歌山県南部,潮岬付近でイギリス商船が遭難し日本人乗客全員が死亡した事件。
1886年10月24日,横浜港を出港して神戸港に向かっていたイギリス商船『ノルマントン』号が暴風のため座礁・沈没した際,イギリス人乗組員は全員ボートで脱出したが,日本人乗客 25人は全員船内で溺死した。当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にあり事件の審判は兵庫県神戸市駐在イギリス領事館内で行なわれた。ジェームズ・トループ領事は J.W.ドレーク船長以下全乗組員に無罪の判決をくだした。世論は判決が差別的であると激昂,政府は兵庫県知事内海忠勝を告発人として船長を同領事館裁判所に告発した。同 1886年12月,神戸での予審終結をうけて神奈川県横浜市駐在イギリス領事館裁判所は船長に禁獄 3ヵ月の判決をくだした。この事件は,おりから高まりをみせていた領事裁判権廃止を含む不平等条約改正の国民運動にいっそうの刺激を与えることになった。


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