Relinquite omnem spem, vos qui intratis.
汝等こゝに入るもの 一切の望みを棄てよ
ダンテ・アリギエーリ
『神曲』「地獄篇」
第3歌第9行より ラテン語にて
岩波新書252桑原武夫編の「一日一言」-人類の知恵ーに、以下のようにマックス・ウェーバー(1864~1920)も引用しているこの言葉が書かれている。
・・・一世紀にわたる政治教育のおくれは、十年でとりかえせるものではない。偉人の支配はかならずしも、政治教育の手段ではないのである。・・・とマックス・ウェーバーが1895年にフライブルク大学での教授就任講演『国民国家と国民経済政策』を行っている。
当然、ドイツ帝国時代のことであるが、かつて日本はプロイセン憲法から、明治期の法制度(大日本帝国憲法)に関して影響を受けている。
今から百年以上前に一世紀おくれであるから、我が日本国はその当時から進歩していなければ、残念ながら2世紀も遅れをとっていることになる。
・・・「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」とのダンテからの引用がまさにそこにはある。イタリア語原文でLasciate ogni speranza, voi ch'entrate.「ラッシャーテ オンニェ スペランツァ、ヴォ-イ キントラーテ」とおよそカタカナ読みではこのように発音される。
以下は、ダンテの下記の『地獄の門』の一部の引用である。
Per me si va ne la città dolente,
per me si va ne l'etterno dolore,
per me si va tra la perduta gente.
Giustizia mosse il mio alto fattore;
fecemi la divina podestate,
la somma sapïenza e 'l primo amore.
Dinanzi a me non fuor cose create
se non etterne, e io etterno duro.
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.'
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛、我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに造られしはなし、
しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
上記のように『地獄の門』が人格的な Per me..で語りかけてくる、つまり門の紹介は『地獄の紹介』ともなる。さらに、この門をくぐる者がこれから行くであろう『地獄界』『永劫の罰』『地獄の住人』のことも表しているようだ。
ウェーバー曰く、・・・政治的に成熟した国民のみが、自主的な国民である。・・・自主的な国民のみが、世界発展という車の幅(や)に手をかける使命をもつ。
この資質をもたない国民がこれをこころみても、他の国民の確実な本能がこれにたいして反抗するだけでなくて、国内的にもこの国民はこの試みにおいて挫折する。
(新体制ドイツの議会と政府)
マックス・ウェーバーのフライブルク大学で教授就任講演 でした『国民国家と国民経済政策』を参考に捉えるとどうであろうか。
・・・われわれの事業に意味を失わせたくないならば、その事業を未来のため、すなわちわれわれの子孫のための配慮としておこなうほかありません。
しかしそれにしても、楽観主義的な幸福の希望にもとづいて経済政策上の事業を起こすことは、けっしてできません。人類史が未知の未来へと入ってゆくその門の上には、平和と人間の幸との夢をいましめてつぎの句が掲げられています。
一切の望みを棄てよ、と。
われわれ自身の世代が墓場に入ったのちのことを考えるさいに、われわれが心をゆさぶられる問いは、未来の人間がどのような暮らしをするかということではなくして、かれらがどのような人間であるかということですが、これこそはまさしく経済政策上のすべての事業の根底に横たわっている問いでもあるのです。
われわれは、未来のひとびとの無事息災をこいねがうのではなくて、人間としての偉大さや気高さを形づくるとわれわれに感じられるような資質を、かれらのうちに育てあげたいと思います。
上記のような資質やその自覚を18歳選挙権以前に若者たちのうちに、日本国は育て上げたのであろうか?
『神よ、われわれを地獄に落とす愚か者たちからわれわれを守りたまえ。』
遅かれ早かれ、現実的に選挙が行われれば結果として、愚行か否かが、いずれにせよ明確にわかるのであろう。
I prefer to learn from the experience of others;
Fools say they learn from just their experience
ウェーバーは、また、著書「職業としての政治」の中で『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』と触れている。これに類する表現はドイツの宰相であるオットー・ビスマルクの『愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。』との表現がある。以下が、そのドイツ語である。
Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.
Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.
またここで、ダンテ曰く・・・
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり』・・・
われわれは、未来のひとびとの無事息災をこいねがうのではなくて、人間としての偉大さや気高さを形づくるとわれわれに感じられるような資質を、かれらのうちに育てあげたいと思います。・・・
というウェーバーの引用を介して甦るダンテのメッセージは、現在でも『一切の望みを棄てよ、と』と『地獄の門へと誘う』ように響いてくる。
繰り返しになりますが、再三再四以下のウェーバーの言葉の意味を噛み締めてみよう!
・・・政治的に成熟した国民のみが、自主的な国民である。・・・・自主的な国民のみが、世界発展という車の幅(や)に手をかける使命をもつ。この資質をもたない国民がこれをこころみても、他の国民の確実な本能がこれにたいして反抗するだけでなくて、国内的にもこの国民はこの試みにおいて挫折する。
百年いや二百年遅れても、日本の社会全体で若者たちを成熟させ、危機的な少子高齢化と財政難に対して政治経済的にも意識的で自主的な市民を育て上げなければならない。
そのための「行動と批判」、またさらに行動あるのみ、『地獄の門に入る前に・・間に合わせなければならない』・・
われわれは、未来のひとびとの無事息災をこいねがうのではなくて、人間としての偉大さや気高さを形づくるとわれわれに感じられるような資質を、かれらのうちに育てあげたいと思います。
日本の新たな『地獄の門』へと私たち国民を招き入れるのか否かが、上記のような真摯な問いかけや責任のある決意を心に刻みながら、実際の批判と行動(私たちの投票や社会参加)にかかっているのだから。
救いになるのは、ダンテ・アリゲーリ(Dante Alighieri1265年-1321)の「神曲」の『天国篇』は、今から約700年前の1316年頃から書き始め、死の直前、1321年に完成された。
だから、今からオリンピックへと地獄を経たものは、Beatrice(ベアトリーチェの名は至福または救済を意味する)の星を見出しながら、また一縷の望みも見いだすのか?
「神曲・天国篇」
第33曲(最終曲)
反映(てりかえ)す光のごとく汝の生むとみえし輪は、わが目しばしこれをまもりゐたるとき
同じ色にて、その内に、人の像(かたち)を描き出しゝさまなりければ、わが視る力をわれすべてこれに注げり
あたかも力を盡して圓を量らんとつとめつゝなほ己が要(もと)むる原理に思ひいたらざる幾何学者の如く
我はかの異像を見、かの像(かたち)のいかにして圓と合へるや、いかにしてかしこにその處を得しやを知らんとせしかど
わが翼これにふさはしからざりしにこの時一の光わが心を射てその願ひを満たしき
さてわが高き想像はこゝにいたりて力を缺きたり、されどわが願ひと思ひとは宛然(さながら)一様に動く輪の如く、はや愛に廻らさる
日やそのほかのすべての星を動かす愛に。
山川丙三郎訳「神曲(下)天堂」(岩波文庫)より
汝等こゝに入るもの 一切の望みを棄てよ
ダンテ・アリギエーリ
『神曲』「地獄篇」
第3歌第9行より ラテン語にて
岩波新書252桑原武夫編の「一日一言」-人類の知恵ーに、以下のようにマックス・ウェーバー(1864~1920)も引用しているこの言葉が書かれている。
・・・一世紀にわたる政治教育のおくれは、十年でとりかえせるものではない。偉人の支配はかならずしも、政治教育の手段ではないのである。・・・とマックス・ウェーバーが1895年にフライブルク大学での教授就任講演『国民国家と国民経済政策』を行っている。
当然、ドイツ帝国時代のことであるが、かつて日本はプロイセン憲法から、明治期の法制度(大日本帝国憲法)に関して影響を受けている。
今から百年以上前に一世紀おくれであるから、我が日本国はその当時から進歩していなければ、残念ながら2世紀も遅れをとっていることになる。
・・・「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」とのダンテからの引用がまさにそこにはある。イタリア語原文でLasciate ogni speranza, voi ch'entrate.「ラッシャーテ オンニェ スペランツァ、ヴォ-イ キントラーテ」とおよそカタカナ読みではこのように発音される。
以下は、ダンテの下記の『地獄の門』の一部の引用である。
Per me si va ne la città dolente,
per me si va ne l'etterno dolore,
per me si va tra la perduta gente.
Giustizia mosse il mio alto fattore;
fecemi la divina podestate,
la somma sapïenza e 'l primo amore.
Dinanzi a me non fuor cose create
se non etterne, e io etterno duro.
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.'
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛、我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに造られしはなし、
しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
上記のように『地獄の門』が人格的な Per me..で語りかけてくる、つまり門の紹介は『地獄の紹介』ともなる。さらに、この門をくぐる者がこれから行くであろう『地獄界』『永劫の罰』『地獄の住人』のことも表しているようだ。
ウェーバー曰く、・・・政治的に成熟した国民のみが、自主的な国民である。・・・自主的な国民のみが、世界発展という車の幅(や)に手をかける使命をもつ。
この資質をもたない国民がこれをこころみても、他の国民の確実な本能がこれにたいして反抗するだけでなくて、国内的にもこの国民はこの試みにおいて挫折する。
(新体制ドイツの議会と政府)
マックス・ウェーバーのフライブルク大学で教授就任講演 でした『国民国家と国民経済政策』を参考に捉えるとどうであろうか。
・・・われわれの事業に意味を失わせたくないならば、その事業を未来のため、すなわちわれわれの子孫のための配慮としておこなうほかありません。
しかしそれにしても、楽観主義的な幸福の希望にもとづいて経済政策上の事業を起こすことは、けっしてできません。人類史が未知の未来へと入ってゆくその門の上には、平和と人間の幸との夢をいましめてつぎの句が掲げられています。
一切の望みを棄てよ、と。
われわれ自身の世代が墓場に入ったのちのことを考えるさいに、われわれが心をゆさぶられる問いは、未来の人間がどのような暮らしをするかということではなくして、かれらがどのような人間であるかということですが、これこそはまさしく経済政策上のすべての事業の根底に横たわっている問いでもあるのです。
われわれは、未来のひとびとの無事息災をこいねがうのではなくて、人間としての偉大さや気高さを形づくるとわれわれに感じられるような資質を、かれらのうちに育てあげたいと思います。
上記のような資質やその自覚を18歳選挙権以前に若者たちのうちに、日本国は育て上げたのであろうか?
『神よ、われわれを地獄に落とす愚か者たちからわれわれを守りたまえ。』
遅かれ早かれ、現実的に選挙が行われれば結果として、愚行か否かが、いずれにせよ明確にわかるのであろう。
I prefer to learn from the experience of others;
Fools say they learn from just their experience
ウェーバーは、また、著書「職業としての政治」の中で『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』と触れている。これに類する表現はドイツの宰相であるオットー・ビスマルクの『愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。』との表現がある。以下が、そのドイツ語である。
Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.
Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.
またここで、ダンテ曰く・・・
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり』・・・
われわれは、未来のひとびとの無事息災をこいねがうのではなくて、人間としての偉大さや気高さを形づくるとわれわれに感じられるような資質を、かれらのうちに育てあげたいと思います。・・・
というウェーバーの引用を介して甦るダンテのメッセージは、現在でも『一切の望みを棄てよ、と』と『地獄の門へと誘う』ように響いてくる。
繰り返しになりますが、再三再四以下のウェーバーの言葉の意味を噛み締めてみよう!
・・・政治的に成熟した国民のみが、自主的な国民である。・・・・自主的な国民のみが、世界発展という車の幅(や)に手をかける使命をもつ。この資質をもたない国民がこれをこころみても、他の国民の確実な本能がこれにたいして反抗するだけでなくて、国内的にもこの国民はこの試みにおいて挫折する。
百年いや二百年遅れても、日本の社会全体で若者たちを成熟させ、危機的な少子高齢化と財政難に対して政治経済的にも意識的で自主的な市民を育て上げなければならない。
そのための「行動と批判」、またさらに行動あるのみ、『地獄の門に入る前に・・間に合わせなければならない』・・
われわれは、未来のひとびとの無事息災をこいねがうのではなくて、人間としての偉大さや気高さを形づくるとわれわれに感じられるような資質を、かれらのうちに育てあげたいと思います。
日本の新たな『地獄の門』へと私たち国民を招き入れるのか否かが、上記のような真摯な問いかけや責任のある決意を心に刻みながら、実際の批判と行動(私たちの投票や社会参加)にかかっているのだから。
救いになるのは、ダンテ・アリゲーリ(Dante Alighieri1265年-1321)の「神曲」の『天国篇』は、今から約700年前の1316年頃から書き始め、死の直前、1321年に完成された。
だから、今からオリンピックへと地獄を経たものは、Beatrice(ベアトリーチェの名は至福または救済を意味する)の星を見出しながら、また一縷の望みも見いだすのか?
「神曲・天国篇」
第33曲(最終曲)
反映(てりかえ)す光のごとく汝の生むとみえし輪は、わが目しばしこれをまもりゐたるとき
同じ色にて、その内に、人の像(かたち)を描き出しゝさまなりければ、わが視る力をわれすべてこれに注げり
あたかも力を盡して圓を量らんとつとめつゝなほ己が要(もと)むる原理に思ひいたらざる幾何学者の如く
我はかの異像を見、かの像(かたち)のいかにして圓と合へるや、いかにしてかしこにその處を得しやを知らんとせしかど
わが翼これにふさはしからざりしにこの時一の光わが心を射てその願ひを満たしき
さてわが高き想像はこゝにいたりて力を缺きたり、されどわが願ひと思ひとは宛然(さながら)一様に動く輪の如く、はや愛に廻らさる
日やそのほかのすべての星を動かす愛に。
山川丙三郎訳「神曲(下)天堂」(岩波文庫)より
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