『・・・たえず警戒を怠らず、生半可な真実や、容認された観念に引導を渡してしまわぬ意思を失わないこと・・・』
エドワード.W.サイード
アメリカ大統領選の『トランプ氏』の予想外の人気からか、今後とも、予想できない展開や、ある意味『不条理な結末』さえもあり得る。
現在のこうした不条理な状況を解釈するためのキーワードの1つに『反知性主義』がある。
佐藤優(元外務省分析官で作家)は、反知性主義Anti-intellectualismを『実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度』と定義している。つまり、「思考のあり方やその立ち位置」を問題にしている。
単に「知性が(知的で)ある」「知性が(知的で)ない』ということかなり視点が異なっている。
もちろん、アメリカ大統領選のトランプ氏の問題だけでなく、日本国内における、選挙の低い投票率と特に『18歳からの投票』が始まり、適正な知識(社会情勢や候補者のプロフィールなど)と、そこにいたる基本的な歴史や選挙・政治システムの知識や理解を前提にするべきである。
お分かりのように、こうした状況下(知識や理解に欠けている)では、感覚や感情が優先されてしまう。簡単に言えば、まさに『好き嫌い(楽しい楽しくない)』の判断である。
結果、ついつい相手を理解しやすくするために、〜イズムとか〜主義(者)の範疇などに分けてしまい。右(保守)だとか左(革新)だとか、またリベラル(中道)もそのラベリングの例である・・・安易な決めつけ(ラベリング)なのだか、残念ながら、かなりありがちである。
『反知性』とは、知的な説得が難しく、周りに冷静な判断力のある知性を身につけた市民や友人を増やし、冷静に対話することで『反知性主義』とのバランスや距離をとる必要がある。
どちか一方が絶対的に良い(正しい)という意味ではないが、『感情・感覚だけに流れていく』ことには、特に注意をしなければならない。
まずは、日常の情報収集のあり方、基本は母語での理解力、それにはまずは時間をかけて活字を読むこと、また書くことやまとめることであり、そこから『意味(意図)を汲み取ろうとする意志や意識を継続』させながら日頃の『批判と行動』に結びつけなければならない。
仮に、この問題の重要性に気がついても『知性を身につけ』合理的に判断や行動することは容易なことではない。
『反知性主義』の反意語を『知性主義』とはしがたいので、対比するために、『主知主義』の意味も、ほんの少し捉えてみたい。
『辞書的な定義』をしてみたい。
大辞林の定義によると、
しゅちしゅぎ
(主知主義)
1
〔intellectualism〕 知性・理性など,理知的なものを根本とする思想的立場。主知説。
ア
認識論で,真理・認識の根拠を理性に置く合理的立場。
イ
心理学で,心の根本機能を,表象・思惟など,知的作用に置く立場。
ウ
倫理学で,道徳的行為は知性に基づくとする立場。
2
ロマン主義や世紀末文学の官能・経験を重んずる主観的傾向に対して知性を尊重する立場。ハクスリーやバレリーなど。日本では昭和初期の阿部知二など。
上記の2にある『官能・経験を重んずる主観的傾向に対して知性を尊重する立場』として主知主義をいったんとらえたい。
おそらく批判すべきものは外的なものではなく、むしろ意識化されない影の論拠(原因)は、案外、単なる目の前の『損得感情』や『好き嫌い』や『生理的な感覚や直感』であり、さらに、その場しのぎのマニュアル(データ・規格)化する手続き中心の時代意識であるのではと考えます。
それを概念・観念的に小難しい説明するための用語でもある『反知性主義(者)』をジャーナリズム(メディア)や専門家(学者)が作り上げた『知性?主義?』の産物なのであろうか。
本来的な問題とは『知識人はどうあるべきなのか』へと原点回帰していく。
エドワード.W.サイードは、『知識人と何か』の中でこう述べている。
・・・私が主張したいのは、知識人とは、あくまでも社会のなかで特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない、つまり特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない。
私にとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁(レプリゼント)し肉付けし明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ。
このような個人になるにはそれなりの覚悟がいる。つまり、眉をひそめられそうな問題でも公的な場でとりあげなければならないし、正統思想やドグマをうみだすのではなく正統思想やドグマと対決しなければならないし、政府や企業に容易にまるめこまれたりしない人間になって、みずからの存在意義を、日頃忘れ去られていたり厄介払いされている人びとや問題を表象=代弁(レプリゼント)することにみいださなければならないのだ。
知識人は、こうしたことを普遍性の原則にのっとっておこなう。
ここでいう普遍性の原則とは、以下のことをいう。
あらゆる人間は、自由や公正に関して世俗権力や国家から適正なふるまいを要求できる権利をもつこと。そして意図的であれ、不注意であれ、こうしたふるまいの基準が無視されるならば、そのような侵犯行為には断固抗議し、勇気をもって闘わねばならないということである。
エドワード.W.サイード
アメリカ大統領選の『トランプ氏』の予想外の人気からか、今後とも、予想できない展開や、ある意味『不条理な結末』さえもあり得る。
現在のこうした不条理な状況を解釈するためのキーワードの1つに『反知性主義』がある。
佐藤優(元外務省分析官で作家)は、反知性主義Anti-intellectualismを『実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度』と定義している。つまり、「思考のあり方やその立ち位置」を問題にしている。
単に「知性が(知的で)ある」「知性が(知的で)ない』ということかなり視点が異なっている。
もちろん、アメリカ大統領選のトランプ氏の問題だけでなく、日本国内における、選挙の低い投票率と特に『18歳からの投票』が始まり、適正な知識(社会情勢や候補者のプロフィールなど)と、そこにいたる基本的な歴史や選挙・政治システムの知識や理解を前提にするべきである。
お分かりのように、こうした状況下(知識や理解に欠けている)では、感覚や感情が優先されてしまう。簡単に言えば、まさに『好き嫌い(楽しい楽しくない)』の判断である。
結果、ついつい相手を理解しやすくするために、〜イズムとか〜主義(者)の範疇などに分けてしまい。右(保守)だとか左(革新)だとか、またリベラル(中道)もそのラベリングの例である・・・安易な決めつけ(ラベリング)なのだか、残念ながら、かなりありがちである。
『反知性』とは、知的な説得が難しく、周りに冷静な判断力のある知性を身につけた市民や友人を増やし、冷静に対話することで『反知性主義』とのバランスや距離をとる必要がある。
どちか一方が絶対的に良い(正しい)という意味ではないが、『感情・感覚だけに流れていく』ことには、特に注意をしなければならない。
まずは、日常の情報収集のあり方、基本は母語での理解力、それにはまずは時間をかけて活字を読むこと、また書くことやまとめることであり、そこから『意味(意図)を汲み取ろうとする意志や意識を継続』させながら日頃の『批判と行動』に結びつけなければならない。
仮に、この問題の重要性に気がついても『知性を身につけ』合理的に判断や行動することは容易なことではない。
『反知性主義』の反意語を『知性主義』とはしがたいので、対比するために、『主知主義』の意味も、ほんの少し捉えてみたい。
『辞書的な定義』をしてみたい。
大辞林の定義によると、
しゅちしゅぎ
(主知主義)
1
〔intellectualism〕 知性・理性など,理知的なものを根本とする思想的立場。主知説。
ア
認識論で,真理・認識の根拠を理性に置く合理的立場。
イ
心理学で,心の根本機能を,表象・思惟など,知的作用に置く立場。
ウ
倫理学で,道徳的行為は知性に基づくとする立場。
2
ロマン主義や世紀末文学の官能・経験を重んずる主観的傾向に対して知性を尊重する立場。ハクスリーやバレリーなど。日本では昭和初期の阿部知二など。
上記の2にある『官能・経験を重んずる主観的傾向に対して知性を尊重する立場』として主知主義をいったんとらえたい。
おそらく批判すべきものは外的なものではなく、むしろ意識化されない影の論拠(原因)は、案外、単なる目の前の『損得感情』や『好き嫌い』や『生理的な感覚や直感』であり、さらに、その場しのぎのマニュアル(データ・規格)化する手続き中心の時代意識であるのではと考えます。
それを概念・観念的に小難しい説明するための用語でもある『反知性主義(者)』をジャーナリズム(メディア)や専門家(学者)が作り上げた『知性?主義?』の産物なのであろうか。
本来的な問題とは『知識人はどうあるべきなのか』へと原点回帰していく。
エドワード.W.サイードは、『知識人と何か』の中でこう述べている。
・・・私が主張したいのは、知識人とは、あくまでも社会のなかで特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない、つまり特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない。
私にとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁(レプリゼント)し肉付けし明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ。
このような個人になるにはそれなりの覚悟がいる。つまり、眉をひそめられそうな問題でも公的な場でとりあげなければならないし、正統思想やドグマをうみだすのではなく正統思想やドグマと対決しなければならないし、政府や企業に容易にまるめこまれたりしない人間になって、みずからの存在意義を、日頃忘れ去られていたり厄介払いされている人びとや問題を表象=代弁(レプリゼント)することにみいださなければならないのだ。
知識人は、こうしたことを普遍性の原則にのっとっておこなう。
ここでいう普遍性の原則とは、以下のことをいう。
あらゆる人間は、自由や公正に関して世俗権力や国家から適正なふるまいを要求できる権利をもつこと。そして意図的であれ、不注意であれ、こうしたふるまいの基準が無視されるならば、そのような侵犯行為には断固抗議し、勇気をもって闘わねばならないということである。
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