種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

身近な地域から世界へ
貢献する活動や情報など

『主知主義』とは一体何か?阿部知二などの文学の方法論

2016-04-04 02:36:05 | 文学・芸術


「主知主義」という方法論

阿部知二『主知的文学論』

主知主義とは,人間の心を構成する知・情・意の三要素のうち,知の面,つまり知性とか理性とか悟性とかよばれる知の機能を,ほかの感情や意志の機能よりも上位に据える見方をいう。
また,認識が感覚器官によってではなく知性によって生ずるとする合理論も,広義での主知主義に属する。横光の「感覚活動」の根底にある考え方が,「感覚」的というよりもむしろこちらの方に近いということは先に述べた通りであるが,この主知主義を自らの文学的方法として掲げた文学者に,小説家・翻訳者として知られる阿部知二がいる。

阿部はその著書である『主知的文学論』(「現代の芸術と批評叢19」 三〇・一二 厚生閣店)で,その主旨について以下のように述べている。理知性と感覚性との結合―しかし,ここに至つて,主知的傾向は,一つの飛躍をなして,以上の傾向とは性質を異にするところの,そして真の意味に於ける主知的文学へ一歩ふみ入れようとする。即ちそれは,単に表象性と感覚性との重視,感情性の排斥といふごとき常識的計量を離れて一つの「方法」を所有するところの文学たり得る。

主知は単なる社会,功利的にのみに使役せられない。又,それはエモォションを排しない。文学内に於けるエモォションの存在を信じ且つそれの拡張を希望する。なんとなれば,それは,エモォションを克服する「方法」を将に把握せんとしてゐるから,従来,無限性と神秘性とをその資性と考へられたところのエモォションの深淵を、「主知的方法」によつて探求することが、真の主知的文学ではなからうか。
主知的。現代を特色づけるものが知的進歩であり、現代が知的方法論を持つ科学の勝利の時代だとするならば,―芸術乃至文学が,無意識なる環境とのなれあひのムウドの上に作られるものであつた時代も亦すぎたと考へられなければならない。強烈なる自己集中による知識によつて,刻々変転する環境を観察し,適応し,解剖することが必要とされる。

但し,主知的とは,人生と芸術とを倭少なる整数的まとまりの中に詰め込まうといふのではない。また現実的環境のみを取扱はうとするのではない。科学に於いてすら―ポアンカレがいつてゐる。「意識的自我の範囲は狭く,潜在的自我に至つては吾人はその限界を知らない程である。」と,そして,これを意識的秩序の表に至らしめる感受性のうちに,数学的調和,数学的審美感の根源があるといつてゐる。科学に於てすら,であるとすれば,文学に於ては言ふまでもない。神秘もロマンスも永久に在るだらう。
ただそれに秩序を与へる精神を主知的といふのだ。

以上

「新感覚派」は「感覚」的だったのか?

─同時代の表現思想と関連して─
島村 輝
r-cube.ritsumei.ac.jp › bitstream より

*阿部知二
あべともじ
(1903―1973)

小説家、評論家。
1903年(明治36年)6月26日岡山県に生まれる。東京帝国大学英文科卒業。在学中に同人誌『朱門』に参加、卒業後は『文芸都市』同人となる。
1930年(昭和5)『日独対抗競技』で文壇に登場、同年短編集『恋とアフリカ』、評論集『主知的文学論』を刊行して、新興芸術派の有力な一員として注目された。
1936年『文学界』に連載した『冬の宿』は、左翼運動退潮後の知識人の混迷を浮き彫りにしたものであった。
戦争下の長編『風雪』(1938~1939)は、ファシズムに対する自由主義の立場からの抵抗を示した作品である。
戦後は『黒い影』『おぼろ夜の話』(以上1949)などで敗戦後の知的青年の苦悶を描く一方、1953年(昭和28)、メーデー事件特別弁護人を務めるころからしだいに社会的関心を強め、反動的潮流に対して進歩革新の側から抗しようとする態度を貫いた。その間の著作として評論集『ヨーロッパ紀行』(1951)、長編小説『日月の窓』(1957~1958)などがある。ほかに英文学の翻訳も多い。昭和48年4月23日没

『『阿部知二全集』全13巻(1974~1975・河出書房新社)』

補足

石原純と「新短歌」

阿部知二も一時期短歌を学び,島木赤彦に接したことがあるが,その短歌の世界で,形式・内容ともに「新感覚派」の試みに比肩されるような表現上の実験を行ったのが,理論物理学者・科学啓蒙家でもあった石原純である。石原は「相対性理論」の紹介者として,また一九二二年
のアインシュタイン来日にあたって通訳として,大きな役割を果たしたことがよく知られているが,その石原もまた,歌人としての方法論の基盤に「主知主義」を据えた一人であった。
先に横光の「感覚活動」の論旨の一部が齋藤茂吉の「実相観入」説を思わせるところがあるとしたが,石原は茂吉の「実相観入」説を批判して次のように述べている。
或る人々は自然の外形的模写よりも一層奥深く自然の真を表現することであると解する。
「写生」ではなくて,「実相観入」であると云ふうやうな言葉が嘗て現実主義的短歌に関して用ひられたのも,恰度この意味に於てである。併しそこには更に自然が外形的に現はれるよりも一層奥深い姿と称せられるものが果して何であるかを追究する必要がある。恐らくそれは客観的に固定さられる自然ではなくて,主観的に変動する自然の相を意味するものである。問題は即ち自然に対立するところの主観そのものに存しなければならない。さうであるとするならば,かやうな主観のいかなる形態に於て芸術美が依存するのであるか。ここに最も重要な理論的焦点が帰せられる。

(石原純「純粋詩的短歌論」(改訂版『短歌講座』第二巻「概論作法編」,35・3 改造社)

石原は「実相観入」という説明不足な言葉ではなく,その内容を明確に「主知性」とし,それが「詩の近代的特質」をなしているというのである。これは茂吉批判であると同時に,横光のやや粗略な「感覚的表徴」規定を「主知主義」という側面から補うものとなっているとみる
ことができよう。

これに先立つ「現実の意味」(『短歌創造』四 31・5)という文章の中では「近代主義」(モダニズム)の帰趨を「現実のなか」の「現実以上のもの」としている。
さてその後に来るべき現実主義の第三形式がいかなるものであるかを我々は既に上の考察から推すことができるであらう。簡単に云へば,即ち素朴なる現実以外に於ける新たな
現実構成である。
今日の自然科学の諸法則は,たとへ実在の関係を云ひあらはすものではあつても,之に含まれる諸概念がいかに感覚的対象そのものと異なつた認識上の所産であるかを考へるこ
とは,この際我々に取つて大いに必要である。素朴的なる現実以上の現実を把握するところの秘訣は即ちかやうな機微に存していなければならない。芸術が久しく憧れてゐたところの空想は,そして美なるものの本態は,結局は現実を離れては不可能であるであらう。
現実のなかに現実以上のものを求め,之を発見することこそ多くの近代主義の唯一の帰向点でなければならぬと私は思う。そこに接近する道筋として,先に引用した「純粋詩的短歌論」で旧来の現実主義に於ては単なる現実を再現するに止まつてゐるので,そこには之をいかに巧妙に若くは如実に表現するかの技巧に於てのみ芸術の創造的価値が求められた。之が韻文的な詩を生んだ所以であつたが,我々は嘗て詩は韻文によつてのみ成立するものではなくて,それの本質が詩的精神に存することを明らかにした。今我々がこの詩的精神の一つとして真実性の発見を高調しようとすることは,現実主義をしてより高い階段に進ましめようとする意味に外ならない。なぜなら,前者が単に受動的な詩的感動をあらはすのに反して,後者は能動的な精神活動によつて求められる詩的感動を目的とするのであり,そこに極めて豊富な人間の知的創造が行はれるのである。この意味で前者を感性的であるとするのに対して,後者を主知的であると云ふことができる。我々は詩の近代的特質がその主知性になければならないことを信ずるものである。とも述べている。
石原純が北原白秋,土岐善麿,釈迢空,木下利玄らと短歌雑誌『日光』を創刊するのは一九二四年四月。まさに『文藝戦線』『文藝時代』の創刊の同年である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿