『鶏に関する伝説3』南方熊楠の十二支考
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2540_35098.htmlより
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『甲子夜話』続一七にいわく、ある老人耳聞えず、常に子孫に小言をいう。ある日客ありし時に子供を顧みて物語るは、今時の者はどうも不性なり。我らが若き時はかようにはなしという時、飼い置きし鶏側かたわらより時をつくる。老人いわく、あれ聞きたまえ人ばかりでなし、鶏さえ今時は羽敲はばたきばかりして鳴きはしませぬと。かかる話は毎度繰り返さるるもので、数年前井上馨侯耳聾して、浄瑠璃語りの声段々昔より低くなった、今の鶏もしかりと呟つぶやいたと新紙で読んだ。またいわく、ある侍今日は殊に日和ひよりよしとて田舎へ遊山ゆさんに行き、先にて自然薯じねんじょを貰もらい、僕しもべに持せて還る中途鳶とびに攫つかみ去らる、僕主に告ぐ、油揚あぶらあげならば鳶も取るべきに、薯いもは何にもなるまじと言えば、鳶、樹梢で鳴いてヒイトロロ、ヒイトロロ。一八九一年オックスフォード板、コドリングトンの『ゼ・メラネシアンス』に、癩人島の俗譚に十の雛ひなもてる牝鶏が雛をつれて食を求め、ギギンボ(自然薯の一種)を見付けるとその薯根起たち出て一雛を食うた。由って鳶を呼ぶと鳶教えて一同を自分の下に隠す、所へ薯来って、鳶汝は鶏雛の所在を知らぬかと問うに、知らぬと答え、薯怒って鳶を詈ののしる。鳶すなわち飛び下って薯を掴つかみ、空を飛び舞いて地へ堕おとすを、他の鳶が拾うて空を飛び廻ってまた落すと、薯二つに割れた。それを二つの鳶が分ち取ったから薯に味良いのと悪いのがあるようになったというと記す。面白くも何ともない話だが、未開の島民が薯に良し悪しあるを知って、その起因を説くため、かかる話を作り出したは理想力を全然闕如けつじょせぬ証左で、日本とメラネシアほど太いたく距へだたった両地方に、偶然自然薯と鳶の話が各々出で来た。その偶合がちょっと不思議だ。
鶏を入れた笑談を少し述べると、熊野でよく聞くは、小百姓が耕作終って帰りがけに、烏がアホウクワと鳴くを聞いて、鍬くわを忘れたと気付き、取り帰ってさすがは烏だ、内の鶏なんざあ何の役にも立たぬと誹そしると、鶏憤ってトテコーカアと鳴いたという。『醒睡笑せいすいしょう』二に、若衆あり、念者に向いて、今夜の夢に、鶏のひよこを一つ金にて作り、我に給いたるとみたと語ると、我も只今の夢にそのごとくなる物を参らせると、いやといってお返しあったと見た事よとある。西洋にはシセロ説に寝牀ねどこの下に鶏卵一つ匿かくされあると夢みた人が、判じに往くと、占うて、卵が匿され居ると見た所に財貨あるべしと告げた。由って掘り試むるに、銀あって中に夥しく金を裹つつめり、その銀数片を夢判じにやると、銀より金が欲しい思おぼし召しから、卵黄きみの方も少々戴きたいものだと言うたそうな。一五二五年頃出た『百笑談』てふ英国の逸書に、田舎住居ずまいの富人が、一人子をオックスフォードへ教育にやって、二、三年して学校休みに帰宅した、一夜食事前に、その子、我日常専攻した論理学で、この皿に盛った二鶏の三鶏たるを証拠立つべしというので、父それは見ものだ、やって見よ、と命ずると、その子一手に一鶏を執ってここに一鶏ありといい、次に両手で二鶏を持ってここに二鶏ありといい、一と二を合せば三、故に総計三鶏ありと言うた。その時父自ら一鶏を取り、他の一鶏を妻に与えて、子に向い、一つは余、今一つは汝の母の分とする。第三番めの鶏は汝の論理の手際で汝自ら取って食え、と言ったので、子は夜食せずに済ませた。だから鈍才の者に理窟を習わすは、大いに愚な事と知るべしと出いづ。先頃手に鶏を縛るの力もないくせに、一廉ひとかど労働者の先覚顔して、煽動した因果覿面てきめん、ちょっとした窓の修繕や半里足らずの人力車を頼んでも、不道理極まる高い賃を要求されて始めて驚き、自ら修繕し、自ら牽き走ろうにも力足らず、労働者どもがそんなに威張り出したも誰のおかげだ、義理知らずめと詈っても取り合ってくれず、身から出た銹さびと自分を恨んで、ひもじく月を眺め、膝栗毛ひざくりげを疲らせた者少なくなかったは、右の富人の愚息そのままだ。かく似て非なる者を、仏経には烏骨鶏うこっけいに比した。
六群比丘びくとて仏弟子ながら、毎いつも戒律を破る六人の僧あり。質帝隷居士、百味の食を作り、清僧を請じ、余り物もてこの六比丘を請ぜしに、油と塩で熬にた魚をくれぬが不足だ。それをくれたら施主が好よき名誉を得ると言うた。居士曰く、過去世に群鶏林中に住み、狸に侵し食われて雌鶏一つ残る。烏来ってこれに交わり一子を生む、その子鶏の声を聞きて父の烏が偈げを説いて言うたは、この児、我が有にあらず、野父と聚落母が共に合いてこの子あり、烏でもなく鶏でもなし、もし父の声を学ばんと欲せば、これ鶏の生むところ、もし母の鳴くを学ばんと欲せば、その父は烏なり。烏を学べば鶏鳴に似、鶏を学べば烏声を作なす。烏鶏二つながら兼ね学べば、これ二つともに成らずと。そのごとく魚を食いたがる貴僧らは俗人でも出家でもないと。仏これを聞いて、この居士は宿命通を以て六群比丘が昔鶏と烏の間の子たりしを見通しかく説いたのじゃと言うた(『摩訶僧祇律まかそうぎりつ』三四)、『沙石集』三に、質多居士は在俗の聖者で、善法比丘てふ腹悪き僧、毎つねにかの家に往って供養を受く、ある時居士遠来の僧を供養するを猜そねみ、今日の供養は山海の珍物を尽されたが、ただなき物は油糟あぶらかすばかりと悪口した。居士油を売って渡世するを譏そしったのだ。そこで居士、只今思い合す事がある、諸国を行商した時、ある国に形は常の鶏のごとく、声は烏のようながあった。烏が鶏に生ませたによって形は母、音は父に似る故烏鶏うけいと名づくと聞いた。貴僧も姿は沙門、語は在家の語なるに付けて、かの烏鶏が思い出さると、やり込められて、善法比丘無言で立ち去ったとある。すべて昔は筆紙乏しく伝習に記憶を専らとした故、かく少しずつ話が変っていったものだ。烏が鶏に生ませた烏鶏とは、烏骨鶏うこっけいだ。色が黒い故かかる説を称えたので、その頃インドに少なかったと見える。ただし烏骨鶏に白いのもあって、大鬼が小鬼群を引きて心腹病を流行はやらせに行く末後の一小鬼を、夏侯弘かこうこうが捉え、問うてその目的を知り、治方を尋ねると、白い烏骨鶏を殺して心しんに当てよと教う。弘これを用いて十に八、九を癒した由(『本草綱目』四八)。
十六世紀に出たストラパロラの『面白き夜の物語』(ピャツェヴォリ・ノッチ)十三夜二譚は余未見の書、ソツジニが十五世紀に筆した物より採るという。人あり、百姓より閹鶏えんけい数羽を買い、ある法師、その価を払うはずとて伴れて行く。既に法師の所に至り、その人法師に囁ささやき、この田舎者は貴僧に懺悔を聴いてもらうため来たと語り、さて、大声で上人即刻対面さるるぞと言うて出で行く。百姓は鶏代の事を法師に告げくれた事と心得、かの人の去るに任す。所へ法師来たので金を受け取ろうと手を出すと、法師は百姓に、跪ひざまずいて懺悔せよと命じ、自ら十字を画えがき、偈げを誦じゅし始めた。これに似た落語を壮年の頃東京の寄席で聴いたは、さる男、吉原で春を買いて勘定無一文とは兼ねての覚悟、附つけ馬うま男を随えて帰る途上、一計を案じ、知りもせぬ石切屋に入りてその親方に小声で、門口に立ち居る男が新死人の石碑を註文に来たが、町不案内故通事つうじに来てやったと語り、さて両人の間を取り持ち種々応対する。用語いずれも意義二つあって、石切屋には石の事、附け馬には遊興の事とばかり解せられたから、両人相疑わず、一人は急ぐ註文と呑み込んで石碑を切りに掛かれば、一人は石を切り終って揚代あげだいを代償さると心得て竢まつ内、文なし漢は両人承引の上はわれここに用なしと挨拶して去った。久しく掛かり碑を切り終って、互いに料金を要求するに及び、始めて食わされたと分るに及ぶ。その詐欺漢が二人間を通事する辞ことばなかなか旨うまく、故正岡子規、秋山真之など、毎度その真似をやっていたが余は忘れしまった。今もそんな落語が行わるるなら誰か教えてくだされ。
ストラパロラの件くだんの話にある閹鶏えんけい、伊語でカッポネ、英語でカポンは食用のため肥やさんとて去勢された鶏だ。本篇はキンダマの講釈から口を切って大喝采を博し居るから、閹鶏のついでに今一つキンダマに関する珍談を申そう。一一四七年頃生まれ七十四歳で歿したギラルズスの『イチネラリウム・カムブリエ』に曰くさ、ウェールスのある城主が、一囚人の睾丸と両眼を抜き去って城中に置くに、その人、砦内の込み入りたる階路をことごとくよく記憶し、自在にその諸部に往来す。一日彼城主の唯一の子を捉え、諸の戸を閉じて高き塔頂に上る、城主諸臣と塔下に走り行き、その子を縦ゆるさば望むところを何なりとも叶かなえやろうと言うたが、承知せず、城主自ら睾丸を切り去るにあらずんばたちまちその子を塔上より投下すべしと言い張った。何と宥すすめても聴き入れぬ故、城主しかる上は余儀なしとて、睾丸を切ったような音を立て、同時に自身も諸臣も声高く叫んだ。その時、盲人城主にどこが痛いかと問い、城主腰が烈しく痛むと答えた。盲めくらと思うて人をだまそうとは怪けしからぬと罵って、子を投げそうだから、城主更に臣下して自身を健したたか打たしめると、盲人また今度は一番どこが疼いたいかと問うた。心臓と答うると、いよいよ急ぎ投げそうに見える。ここにおいて父やむをえず、板額はんがくは門破り、荒木又右衛門は関所を破る、常磐御前とここの城主はわが子のために、大事な操と陰嚢ふんぐり破ると、大津絵おおつえどころか痛い目をしてわれとわが手で両丸くり抜いた。さて、今度はどこが一番疼むかと問うに、対こたえて歯がひどく疼むというと、コイツは旨い。本当だ「玉抜いてこそ歯もうずくなれ」。汝は今後世嗣せいしを生む事ならず一生楽しみを享うけ得ぬから、余は満足して死すべしと言いおわらざるに、盲人、城主の子を抱いて塔頭より飛び降り、形も分らぬまで砕け潰れ終った。されば悋気りんき深い女房に折檻せっかんされたあげくの果てに、去勢を要求された場合には、委細承知は仕つかまつれど、鰻やスッポンと事異なり、婦人方の見るべき料理でない。あちらを向いていなさいと彼方を向かせ、卒然変な音を立て高く号さけび、どこが一番疼いと聞かれたら、歯が最も疼むと答うるに限る。孟軻もうかの語に、志士は溝壑こうがくにあるを忘れず、勇士はその元こうべを喪うしなうを忘れずと。余は昨今のごとき騒々しい世にありて、キンダマの保全法くらいは是非嗜たしなみ置かねばならぬと存ずる。
ベロアル・ド・ヴェルヴィユの『上達方』に、鶏卵の笑談あまたある。その一、二を挙げんに、マーゴーてふ下女、座敷の真中に坐せる主婦に鶏卵一つ進まいらする途中、客人を見て長揖ちょうゆうする刹那、屁をひりたくなり、力つとめて尻をすぼめる余勢に、拳こぶしを握り過ぎて卵を潰し、大いに愕おどろいて手を緩ゆるめると、同時に尻大いに開いて五十サンチの巨砲を轟とどろかしたが、さすがのしたたかもので、客の怪しみ問うに対してツイ豆をたべたものですからといったとある。その頃仏国でも豆は屁を催すと称えたのだ。全体この書は文句麁野そや、下筆また流暢ならず、とても及ぶべくもないが、古今名人大一座で話し合う所を筆記した体に造った点が、馬琴の『昔語質屋庫』にやや似て居る。たとえば医聖ガリアンが、ブロアの一少婦が子を産み、その子女なりと聞いて、女の子は入らぬ元の所へ戻し入れておくれといったは面白いというと、古文家ボッジュが、緬羊児を買いてその尾に山羊児の尾を接ついだというのがあって一層面白いという(ここ脱文ありと見え意義多少分らず)、アスクレピアデスは、牝鶏よく卵を生むと見せるため、その肛門に卵を入れ置いたをある女が買ったが、爾後一向卵を産まなんだと語る所がある。
西鶴の『一代男』二、「旅の出来心」の条、江尻の宿女せし者の話に「また冬の夜は寝道具を貸すようにして貸さず、庭鳥のとまり竹に湯を仕掛けて、夜深よぶかに鳴かせて夢覚さまさせて追い出し、色々つらく当りぬるその報いいかばかり、今遁のがれてのありがたさよ云々」。この湯仕掛けで鶏を早鳴はやなきせしむる法は中国書にもあったと記憶する。木曾の松本平の倉科くらしな様ちゅう長者が、都へ宝競くらべにとて、あまたの財宝を馬に積んで木曾街道を上り、妻籠つまごの宿に泊った晩、三人の強盗、途中でその宝を奪おうと企て、その中一名は宿屋に入って鶏の足を暖め、夜更よふけに時を作らせて、まだ暗い中に出立させた。長者が馬籠まごめ峠の小路に掛かり、字あざ男垂おたるという所まで来た時、三賊出でて竹槍で突き殺し、宝を奪い去った。その宝の中に黄金の鶏が一つ落ちて、川に流れて男垂の滝壺に入った。今も元旦にその鶏がここで時を作るという。長者の妻、その後のち跡を尋ね来てこの有様を見、悲憤の余りに「粟稗たたれ」と詛のろうた。そのために後日、向山という所大いに崩れ、住民困くるしんで祠ほこらを建て神に祀まつったが、今も倉科様てふ祠ある(『郷土研究』四巻九号五五六頁、林六郎氏報)。阿波の国那賀郡桑野村の富人某方へ六部来て一夜の宿をとった。主人その黄金の鶏と、一寸四方の箱に収まる蚊帳かやを持ちいると聞き、翌朝早く出掛けた六部の跡をつけ、濁りが淵で斬り殺した。鶏は飛び去ったが蚊帳は手に入った。その六部の血で今も淵の水赤く濁る。その家今もむした餅を搗つかず、搗けば必ず餅に血が雑まじるのでひき餅を搗く。蚊帳は現存す(同上一巻二号一一七頁、吉川泰人氏報)。
『甲子夜話』続一三に、ある人曰く、大槻玄沢おおつきげんたくが語りしは、奥州栗原郡三の戸畑村の中に鶏坂というあり。ここより、前さきの頃純金の鶏を掘り出だしける事あり。その故を尋ぬるに、この畑村に、昔炭焼き藤太という者居住す。その家の辺より沙金を拾い得たり。因ってついには富を重ね、故に金を以て鶏形一双を作り、山神を祭り、炭とともに土中に埋む、因ってそこを鶏坂という。これ貞享じょうきょう三年印本『藤太行状』というに載せたりと。また文化十五年四月そこの農夫、沙金を拾わんため山を穿うがちしに、岸の崩れより一双の金鶏を獲たり。重さ百銭目にして、山神の二字を彫り付けあり。この藤太は近衛院の御時の人にて、金商橘次、橘内橘王が父なりと。今もその夫婦の石塔その地にあり云々。『東鑑』〈文治二年八月十六日午の尅こく、西行上人退出す、しきりに抑留すといえども、敢あえてこれにかかわらず、二品にほん(頼朝)銀を以て猫を作り贈物に充あてらる、上人たちまちこれを拝領し、門外において放遊せる嬰児に与う云々〉。因って思うにこの頃の人はかくのごとくに金銀を以て形造の物ありしかと。元魏の朝に、南天竺優禅尼うぜんに国の王子月婆首那が訳出した『僧伽※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)そうがた経』三に、人あり、樹を種ううるに即日芽を生じ、一日にして一由旬の長さに及び、花さき、実る。王自ら種え試みるに、芽も花も生ぜず、大いに怒って諸臣をしてかの人種うえたる樹を斫きらしむるに、一樹を断てば十二樹を生じ、十二樹を切れば二十四樹を生じ、茎葉花果皆七宝なり。爾時そのとき二十四樹変じて、二十四億の鶏鳥、金の嘴、七宝の羽翼なるを生ずという。これもインドで古く金宝もて鶏の像を造る習俗があったらしい。『大清一統志』三〇五、雲南うんなんに、金馬、碧鶏二山あり。『漢書』に宣帝神爵と改元した時、あるいは言う、益州に、金馬、碧鶏の神あり。※(「酉+焦」、第4水準2-90-41)祭しょうさいして致すべしと。ここにおいて諫大夫王褒おうほうを遣わし、節を持ってこれを求めしむと。註に曰く、金形馬に似、碧形鶏に似ると。これも金で馬、碧すなわち紺青こんじょうで鶏を作り、神と崇あがめいたのであろう。本邦にも古く太陽崇拝に聯絡して黄金で鶏を作り祀りしを、後には宝として蔵する風があったらしい。十一年前、余、紀州日高郡上山路村で聞いたは、近村竜神村大字竜神は、古来温泉で著名だが、上に述べた阿波の濁りが淵同様の伝説あり。所の者は秘して語らず。昔熊野詣りの比丘尼びくに一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早もはや暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼怨うらんで永劫えいごうここの男が妻に先立って若死するようと詛のろうて絶命した。そこを比丘尼剥はぎという。その後果して竜神の家毎つねに夫は早世し、後家世帯が通例となる。その尼のために小祠を立て、斎いわい込んだが毎度火災ありて祟たたりやまずと。尼がかく詛うたは、宿主の悪謀を、その妻が諫いさめたというような事があった故であろう。かつて東牟婁郡高池町の素封家、佐藤長右衛門氏を訪たずねた時、船を用意して古座川を上り、有名な一枚岩を見せられた。十二月の厳寒に、多くの人が鳶口とびぐちで筏いかだを引いて水中を歩く辛苦を傷いたみ尋ねると、この働き、烈しく身に障さわり、真砂という地の男子ことごとく五十以下で死するが常だが、故郷離れがたくて、皆々かく渡世すと答えた。竜神に男子の早世多きも何かその理由あり。決して比丘尼の詛いに由らぬはもちろんながら、この辺、昔の熊野街道で色々土人が旅客を困らせた事あったらしく、西鶴の『本朝二十不孝』巻二「旅行の暮の僧にて候そうろう、熊野に娘優しき草の屋」の一章など、小説ながら当時しばしば聞き及んだ事実に拠よったのだろう。その譚はなしにも竜神の伝説同様、旅僧が小判多く持ったとばかり言うて、金作りの鶏と言わず、熊野の咄はなしは東北国のより新しく作られ、その頃既に金製の鶏を宝とする風なかったものか。この竜神の伝説を『現代』へ投じた後数日、『大阪毎日』紙を見ると、その大正九年十二月二十三日分に、竜神の豪家竜神家の嗣子が病名さえ分らぬ煩いで困りおる内、その夫人に催眠術を掛けると俄にわかに「私は甲州の者で、百二十年前夫に死に別れ、悲しさの余り比丘尼になり、世の中に亡夫に似た人はないかと巡礼中、この家に来り泊り、探る内、私の持った大判小判に目がくれ、竜神より上山路村を東へ越す捷径ちかみち、センブ越えを越す途上、私は途中で殺され、面皮を剥いで谷へ投げられ、金は全部取られた。その怨みでこの家へ祟るのである」と血相変えて述べおわって覚めたと出た。それに対して竜神家より正誤申込みが一月十九日分に出た、いわく、百五十年ほど前、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾あとあり云々。これを誤報附会したのでないかと。この竜神氏、当主は余の旧知で、伊達千広(陸奥宗光伯の父)の『竜神出湯日記』に、竜神一族は源三位頼政みなもとのさんみよりまさの五男、和泉守頼氏いずみのかみよりうじこの山中に落ち来てこの奥なる殿垣内とのがいとに隠れ住めり、殿といえるもその故なり。末孫、今に竜神を氏とし、名に政の字を付くと語るに、その古えさえ忍ばれて「桜花本の根ざしを尋ねずば、たゞ深山木みやまぎとみてや過ぎなむ」とあるほどの旧ふるい豪家故、比丘尼を殺し金を奪うはずなく全くの誤報らしいが、また一方にはその土地の一、二人がした悪事が年所を経ても磨滅せず、その土地一汎いっぱんの悪名となり、気の弱い者の脳底に潜在し、時に発作して、他人がした事を自家の先祖がしたごとく附会して、狂語を放つ例も変態心理学の書にしばしば見受ける。
金製の鶏でなく正物の鶏を宝とした例もある。元魏の朝に漢訳された『付法蔵因縁伝』五に、馬鳴めみょう菩薩華氏城かしじょうに遊行教化せし時、その城におよそ九億人ありて住す。月支げっし国王名は栴檀せんだん※(「罘」の「不」に代えて「厂+(炎+りっとう)」、第4水準2-84-80)昵※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)けいじった、この王、志気雄猛、勇健超世、討伐する所摧靡さいひせざるなし、すなわち四兵を厳にし、華氏城を攻めてこれを帰伏せしめ、すなわち九億金銭を索もとむ。華氏国王、すなわち馬鳴菩薩と、仏鉢ぶつばつと、一の慈心鶏を以て各三億金銭に当て、※(「罘」の「不」に代えて「厂+(炎+りっとう)」、第4水準2-84-80)昵※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)王に献じた。馬鳴菩薩は智慧殊勝で、仏鉢は如来にょらいが持った霊宝たり。かの鶏は慈心あり。虫の住む水を飲まず。ことごとく能く一切の怨敵おんてきを消滅せしむ。この縁を以て九億銭の償金代りに、この三物を出し、月支国王大いに喜んで納受したそうだ。これは実に辻褄の合わぬ噺はなしで、いわゆる慈心鶏が一切の怨敵を消滅せしむる威力あらば、平生厚く飼われた恩返しに、なぜ華氏城王のために奮発して、月支国の軍を打破消滅せしめず、おめおめと償金代りに敵国へ引き渡しを甘んじたものか。
世間の事、必ず対偶ありで西洋にも似た話あり。十三世紀にコンスタンチノプル帝、ボールドウィン二世、四方より敵に囲まれて究迫至極の時、他国へ売却した諸宝の内に大勝十字架あり、これを押し立て、軍いくさに趨おもむけば必ず大勝利を獲うというたものだが、肝心緊要の場合に間に合わさず、売ってしまったはさっぱり分らぬとジュロールの『巴里パリ記奇』に出いづ。例の支那人が口癖に誇った忠君愛国などもこの伝で、毎々他国へ売却されて他国の用を做なしたと見える。警いましめざるべけんやだ。
一八九八年、ロンドン板デンネットの『フィオート民俗記』に、一羽の雌鶏が日々食を拾いに川端に之ゆく。ある日※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)わにが近付いて食おうとすると、雌鶏「オー兄弟よ、悪い事するな」と叫ぶに驚き、なぜわれを兄弟というたかと思案しながら去った。他日今度こそきっと食ってやろうと決心してやって来ると、雌鶏また前のごとく叫んだので、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)、またなぜわれを兄弟と呼ぶだろう。我は水に、彼は陸上の町に住むにと訝いぶかり考えて去った。何とも解げせぬから、ンザムビ(大皇女の義で諸動物の母)に尋ねようと歩く途上、ムバムビちゅう大蜥蜴とかげに逢い仔細を語ると、大蜥蜴がいうよう、そんな事を問いに往くと笑われる、全く以て恥暴さらしだ。貴公知らないか、鴨は水に住んで卵を産み鼈すっぽんもわれも同様に卵を産む。雌鶏も汝もまた卵を生めばなんとわれらことごとく兄弟であろうがのとやり込められて、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)は口あんぐり、それより今に至って※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)は雌鶏を食わぬ由、これは西アフリカには※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)がなぜか雌鶏を食わない地方があるので、その訳を解かんとて作られた譚と見える。アラビヤの昔話に、賢い老雄鶏が食を求めて思わず識しらず遠く野外に出で、帰途に迷うて、為なす所を知らず、呆然として立ち居るとただ看る狐一疋近づき来る。たちまち顧みると狐がとても登り得ぬ高い壁が野中に立つ、因って翅つばさを鼓してそれに飛び上り留まる。狐その下に来り上らんとしても上り得ず、種々の好辞もて挨拶すれど、鶏一向応ぜず。ただ眼を円くして遠方を眺める。その時狐が言い出たは、わが兄弟よ、獣の王たる獅子と鳥の王たる鷲わしが、青草茂れる広野に会合し、獅子より兎に至る諸獣と、鷲より鶉うずらに至る諸禽とことごとく随従して命を聴かざるなし、二王ここにおいてあまねく林野藪沢そうたくに宣伝せしめ、諸禽獣をして相融和して争闘するなからしめ、いささかも他を傷害するものあればこれを片裂すべしと命じ、皆一所に飲食歓楽せしむ。また特に余をして原野に奔走して洩もれなく諸禽獣に告げ早く来って二王に謁見しその手を吸わしむ。されば汝も速やかに壁上より下るべしと。鶏は更に聞かざるふりしてただ遠方を望むばかり故、狐大いにせき込んで何とか返事をなぜしないと責むると、老鶏始めて口を開き、狐に向い、汝の言うところは分って居るがどうも変な事になって来たという。どう変な事と問うとアレあそこに一陣の風雲とともに鷹群が舞い来ると答える。狐大いに惧れて犬も来るんじゃないか、しっかり見てくれと頼む。鶏とくと見澄ました体ていで、いよいよ犬が鮮やかに見えて来たというので、狐それでは僕は失敬すると走り出す。なぜそんなに急ぐかというと、僕は犬を懼おそれると答う。たった今鳥獣の王の使として、一切の鳥獣に平和を宣伝に来たと言うたでないか、と問うに、ウウそれはその何じゃ、獣類会議に犬はたしか出ていなかったようだ、何に致せ僕は犬を好かぬから、どんな目に逢うかも知れない、と言うたきり、跡をも見ずに逃げ行く見にくさ。鶏は謀計もて大勝利を獲、帰ってその事を群鶏に話した由(一八九四年スミツザース再板、バートンの『千一夜譚』巻十二の百頁已下)、昨今しばしば開催さるる平和会議とか何々会議とかの内には、こんなおどかし合いも少なからぬべしと参考までに訳出し置く。
ジェームス・ロング師の『トリプラ編年史』解説にいわく、この国の第九十八代の王、キサンガファーに十八子あり、そのいずれに位を伝うべきかと思案して一計を得、闘鶏係りの官人をして、闘鶏の食を断たしめ置き、王と諸王子と会食する時、相図に従って一斉に三十鶏を放たしめた。十分餓えいた鶏ども、争うて食堂に入って膳を荒した。インドの風として鶏を不吉の物とし、少しでも鶏に触れられた食物を不浄として太いたく忌むのだ。しかるに王の末子ラトナファーのみ少しも騒がず、あり合せた飯を執って投げるを、拾うて鶏が少しもその膳を穢けがさず、因って末子が一番智慧ありと知れた。王※(「歹+且」、第3水準1-86-38)そして後、諸兄これを遠ざけ外遊せしめたが、ガウルに趨おもむき回教徒の兵を仮り来て兵を起し、諸兄を殺し(一二七九年頃)、マンクの尊号を得、世襲子孫に伝えたと。
孔雀は鶏の近類故このついでに孔雀の話を一つ申そう。一八八三年サイゴンで出たエーモニエーの『柬埔※カンボジア[#「寨」の「木」に代えて「禾」、176-10]人風俗信念記』に次の話がある。ある若者、その師より戒められたは、妻を娶めとるは若い娘か後家に限り、年取った娘や、嫁入り戻りの女を娶るなかれと。その若者仔細あって師の言に背そむき、この四種の女を一度に娶った後、師の言の中あたれるや否やを験するため、謀って王の最愛の孔雀を盗み、諸妻に示した後匿かくし置き、さて、鶏雛を殺してかの孔雀を殺したと詐いつわり、諸妻に食わせた。若い娘と後家はこの事を秘したが、年取った娘と、嫁入り戻りの妻は大秘密と印した状を各母に送ってこの事を告げたので、明日たちまち市中に知れ、ついに王宮に聞えた。王怒ってその若者、および四妻を捕え刑せんとした。若者すなわちその謀を王に白もうし、匿し置いた孔雀を還したので、王感じ入って不貞の両妻を誅した。爾来じらい夫の隠し事を密告し、また夫を殺す不貞の婦女をスレイ・カンゴク・メアス(金の孔雀女)と呼ぶと。若い娘と後家が貞なる訳は後に解こう。
ウィリヤム・ホーンの『ゼ・イヤー・ブック』の三月三十一日の条にいわく、一八〇九年三月三十日、大地震ふるうてビークン丘とビーチェン崖と打ち合い、英国バス市丸潰れとなる由を、天使が一老婆に告げたという評判で、市民不安の念に駆られ、外来の客陸続ここを引き揚げたが、その事起るべきに定まった当日、正午になっても一向起らず、大騒ぎせし輩、今更軽々しく妖言を信じたを羞はじ入った。この噂の起りはこうだ。ビークン丘とビーチェン崖の近所に住める二人の有名な養鶏家あって、酒店で出会い、手飼いの鶏の強き自慢を争うた後、当日がグード・フライデイの佳節に当れるを幸い、その鶏を闘わす事に定めたが、公に知れてはチョイと来いと拘引は知れたこと故、鶏を主人の住所で呼び、当日正真の十二時に、ビークン山とビーチェン崖が打ち合うべしと定め、闘鶏家連に通知すると、いずれもその旨を心得、鶏という事を少しも洩らさず件くだんの山と崖とが打ち合うとのみ触れ廻したのを、局外の徒が洩れ聞いて、尾に羽を添えて、真に山と崖が打ち合い、市は丸潰れとなるべき予言と変わったのだ。ただし、当日定めの二鶏は、群集環視の間に闘いを演じたとあるが、勝負の委細は記さない。
鶏に名を付くる事諸国にありて、晋の祝鶏翁は洛陽の人、山東の尸郷北山下におり、鶏を養うて千余頭に至る。皆名字あり、名を呼べばすなわち種別して至る。後のち呉山に之ゆき終る所を知るなしとある(『大清一統志』一二四)。バートンの『東阿非利加アフリカ初入記』五章にエーサ人の牛畜各名あり。斑ぶち、麦の粉などいう。その名を呼ぶに随い、乳搾られに来るとあれば、鶏にもそれほどの事は行われそうだ。『古今著聞集』承安二年五月二日東山仙洞で鶏合せされし記事に、無名丸、千与丸などいう鶏の名あり、その頃は美童や、牛、鷹同様、主として丸字を附けたらしい。また、銀鴨一羽取りて(兼ねて鳥屋とや内に置く)参進して葉柯ようかに附くとあり。これは銀製の鴨を余興に進まいらせたと見ゆ。上に述べた金作りの鶏や、銀作りの猫も、かかる動物共進会の節用いられた事もあろう。それを倉科長者の伝説などに田舎人は宝競べに郡へ登るなど言ったであろう。『男色大鑑』八の二に、峰の小ざらしてふ芝居若衆、しゃむの鶏を集めて会を始めける、八尺四方に方屋を定め、これにも行司あって、この勝負を正しけるに、よき見物ものなり。左右に双ならびし大鶏の名をきくに、鉄石丸、火花丸、川ばた韋駝天いだてん、しゃまのねじ助、八重のしゃつら、磯松大風、伏見のりこん、中の島無類、前の鬼丸、後の鬼丸(これは大和の前鬼後鬼より採った名か)、天満てんまの力蔵、今日の命知らず、今宮の早鐘、脇見ずの山桜、夢の黒船、髭の樊※(「口+會」、第3水準1-15-25)はんかい、神鳴なるかみの孫助、さざ波金碇かねいかり、くれないの竜田、今不二の山、京の地車、平野の岸崩し、寺島のしだり柳、綿屋の喧嘩母衣けんかぼろ、座摩の前の首、白尾なし公平、このほか名鳥限りなく、その座にして強きを求めてあたら小判を何ほどか捨てけると出いづ。その頃までも丸の字を鶏の名に付けたが、また丸の字なしに侠客や喧嘩がかった名をも附け、今不二の山と岸崩しが上出英国のビークン山とビーチェン崖に偶然似ているも面白い。
吉田巌君説(『郷土研究』一巻十一号六七二頁)に、国造神が国土を創成するとき、鶏は土を踏み固め、鶺鴒せきれいは尾で土を叩いて手伝った。そこで鶏は今も土を踏みしめて歩き、鶺鴒は土を叩くように尾を打ち振るのだとアイヌ人は言い伝うと。鶏は昔はアイヌに飼われなかったから、天災地妖の前兆などの対象物としては何らの迷信もきかぬ。星や、日、月、雲などについて種々の卜占法の口伝があるように、鳥類のある物たとえば烏などについては特殊の口碑があって、その啼なき音に吉凶の意味ある物と考えられて居るが、鶏のみはこの種の口伝を持たぬとあって、あるアイヌ人が鶏の宵啼きや、牝鶏の時を作るを忌むを不審した由を記された。日本人は古く鶏を畜かい、殊に柳田氏が言われた通り、奥羽に鶏を崇拝した痕跡多きに、その直隣りのアイヌ人がかくまで鶏に無頓著むとんじゃくだったは奇態だが、これすなわちアイヌ人が多く雑居した奥羽地方で、鶏を神異の物と怪しんで崇拝した理由であるまいか。西半球にはもと鶏がなかったから、その伝説に鶏の事乏しきは言うを俟またず。
前に鶏足の事を説いた時に言い忘れたからここに述べるは、ビルマのカレン人の伝説に、昔神あり、水牛皮に宗旨と法律を書き付けてこの民を利せんとし一人に授く、その人これを小木上に留め流れを渡る。暫くありて帰り見れば犬その巻物を銜くわえて走る。これを追うと犬巻物を落す。その人拾いにゆく間に鶏来って足で掻き散らし、字が読めなくなった。神書に触れたもの故とあって、カレン人は鶏の足を尊べど、その身を食うを何とも思わぬ。戸の上また寝床の上に鶏足を置いて、土中と空中に棲む悪鬼シンナを辟さくと(一八五〇年シンガポール発行『印度群島および東亜雑誌』四巻八号四一五頁、ロー氏説)、支那では蒼頡そうけつが鳥の足跡を見て文字を創はじめたというに、この民は神が書いた字を鶏が足で掻き消したと説くのだ。
(大正十年三月、『太陽』二七ノ三)