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弥勒菩薩信仰など『鶏に関する伝説2』南方熊楠の十二支考

2017-01-02 08:46:46 | 文学・芸術

さて、2017年(平成二十九年)の酉年になり、南方熊楠の十二支考、『鶏に関する伝説』の2(・・・さて前回やり掛けた鶏足山の話を続ける。・・・)を紹介したい。

この中で、『・・・弥勒は鶏頭山に生まるべしとあれば、かたがたこの仏は鶏に縁厚いらしい。・・・』と鶏(鶏頭山)と弥勒菩薩(弥勒信仰)の繋がりが言及されている。

弥勒菩薩は釈迦の入滅後、『五十六億七千万年』経つと鶏頭山に出現して末世となった世を救って衆を導くという末法思想が平安中期より広がり、修験道の山伏が蔵王権現こそが、この世に現れた弥勒菩薩の化身であると煽った。その弥勒菩薩に法衣を渡す為、大迦葉が入定した地を鶏足山であるという。
鶏足山(けいそくざん、グルパギリ)は玄奘三蔵の大唐西域記に記されているお釈迦様の十大弟子のおひとり、大迦葉(だいかしょう)が、入定されたと言われる地です。また大迦葉はただ入定したのではなく、その時お釈迦様から衣と言葉を預かり、56億7千万年の後、弥勒菩薩が鶏足山に姿を現した時、それらを授けると言われています。鶏頭山は3つの険しい峰からなり頂上には、仏足石や仏塔が納められています。



 この稿を続けるに臨み啓もうし置くは、鶏の伝説は余りに多いからその一部分を「桑名徳蔵と紀州串本港の橋杭はしくい岩」と題して出し置いた。故川田甕江おうこう先生は、白石はくせきが鳩巣きゅうそうに宛あてた書翰しょかんと『折焚柴おりたくしばの記』に浪人越前某の伝を同事異文で記したのを馬遷班固の文以上に讃ほめたが、『太陽』へ出すこの文と『現代』へ寄せたかの文を併あわせ読んだら、諸君は必ずよくもまあたった一つのこの鳥について、かくまで夥しい材料を、同じ噺はなしを重出せずに斉整して同時二篇に書き分けたものだ、南方さんは恐らく人間であるまいと驚嘆さるるに相違ない。さて前に釈迦の身長を記しながら「大仏の○○の太さは書き落し」で弥勒の身長を言い忘れたが、弥勒世界の人の身長は十六丈で弥勒仏の身長は三十二丈だ(『仏祖統記』三十)、また昔弥勒と僭号せんごうした乱賊あったと記憶のまま書き置いたが、確かに見出した例を挙げると高麗王辛※[#「示+禺」、U+7991、146-7]八年五月妖民伊金を誅す、伊金は固城の民で自ら弥勒仏と称し、衆を惑わして我能く釈迦仏を呼び寄せる。およそ神祇を祀まつる者、馬牛肉を食う者、人に財を分たぬ者は必ず死ぬ、わが言を信ぜずば三月に至って日月光なし、またわれは草に青い花を咲かせ、木に穀を実みのらせ、一度種うえて二度刈り取らしめ能あたう。また山川の神をことごとく日本に送り倭賊を擒とりこにすべしなど宣言したので、愚民ども城隍じょうこう祠廟しびょうの神を撤すて去り、伊金を仏ごとく敬い福利を祈る、無頼の徒その弟子と称し相あい誑たぶらかし、至る所の州郡守令出迎えて上舎に館する者あり、清州の牧使権和、その渠首きょしゅ五人を捕斬しようやく鎮しずまったという(『東国通鑑つがん』五一)、当時高麗人日本を畏るるに乗じ、弥勒仏と詐称した偽救世主が出た。その事極めて米国を怖るる昨今大本教おおもときょうが頭を上げたと似て居るぞよ。怖れて騒ぐばかりでは何にもならぬぞよ。支那にも北魏孝荘帝の時冀き州の沙門法慶、新仏出世と称し乱を作なした(『仏祖統記』三八)。
 さて前回やり掛けた鶏足山の話を続ける。大迦葉が入定にゅうじょうして弥勒の下生げしょうを待つ所を、耆闍崛山ぎしゃくつせんとするは『涅槃経後分』に基づき、鶏足山とするは『付法蔵経』に拠る(『仏祖統紀』五)。『観弥勒菩薩下生経』に2

 この稿を続けるに臨み啓もうし置くは、鶏の伝説は余りに多いからその一部分を「桑名徳蔵と紀州串本港の橋杭はしくい岩」と題して出し置いた。故川田甕江おうこう先生は、白石はくせきが鳩巣きゅうそうに宛あてた書翰しょかんと『折焚柴おりたくしばの記』に浪人越前某の伝を同事異文で記したのを馬遷班固の文以上に讃ほめたが、『太陽』へ出すこの文と『現代』へ寄せたかの文を併あわせ読んだら、諸君は必ずよくもまあたった一つのこの鳥について、かくまで夥しい材料を、同じ噺はなしを重出せずに斉整して同時二篇に書き分けたものだ、南方さんは恐らく人間であるまいと驚嘆さるるに相違ない。さて前に釈迦の身長を記しながら「大仏の○○の太さは書き落し」で弥勒の身長を言い忘れたが、弥勒世界の人の身長は十六丈で弥勒仏の身長は三十二丈だ(『仏祖統記』三十)、また昔弥勒と僭号せんごうした乱賊あったと記憶のまま書き置いたが、確かに見出した例を挙げると高麗王辛※[#「示+禺」、U+7991、146-7]八年五月妖民伊金を誅す、伊金は固城の民で自ら弥勒仏と称し、衆を惑わして我能く釈迦仏を呼び寄せる。およそ神祇を祀まつる者、馬牛肉を食う者、人に財を分たぬ者は必ず死ぬ、わが言を信ぜずば三月に至って日月光なし、またわれは草に青い花を咲かせ、木に穀を実みのらせ、一度種うえて二度刈り取らしめ能あたう。また山川の神をことごとく日本に送り倭賊を擒とりこにすべしなど宣言したので、愚民ども城隍じょうこう祠廟しびょうの神を撤すて去り、伊金を仏ごとく敬い福利を祈る、無頼の徒その弟子と称し相あい誑たぶらかし、至る所の州郡守令出迎えて上舎に館する者あり、清州の牧使権和、その渠首きょしゅ五人を捕斬しようやく鎮しずまったという(『東国通鑑つがん』五一)、当時高麗人日本を畏るるに乗じ、弥勒仏と詐称した偽救世主が出た。その事極めて米国を怖るる昨今大本教おおもときょうが頭を上げたと似て居るぞよ。怖れて騒ぐばかりでは何にもならぬぞよ。支那にも北魏孝荘帝の時冀き州の沙門法慶、新仏出世と称し乱を作なした(『仏祖統記』三八)。
 さて前回やり掛けた鶏足山の話を続ける。大迦葉が入定にゅうじょうして弥勒の下生げしょうを待つ所を、耆闍崛山ぎしゃくつせんとするは『涅槃経後分』に基づき、鶏足山とするは『付法蔵経』に拠る(『仏祖統紀』五)。『観弥勒菩薩下生経』に弥勒は鶏頭山に生まるべしとあれば、かたがたこの仏は鶏に縁厚いらしい。支那には雲南に鶏足山あり、一頂にして三足故名づく、山頂に洞ほらあり。迦葉これに籠って仏衣を守り弥勒を俟つという(『大清一統志』三一九)。本邦でも中尊寺の鶏足洞、遠州の鶏足山正法寺など、柳田氏の『石神しゃくじん問答』に古く鶏を神とした俗より出た名のごとく書いたようだが、全く弥勒と迦葉の仏説に因った号と察する。
 かく東洋では平等無差別の弥勒世界を心長く待つ迦葉と鶏足を縁厚しとし、したがって改造や普選の運動家はこれを徽章きしょうに旗標に用いてしかるべき鶏の足も、所変われば品しな変わるで、西洋では至って不祥な悪魔の表識とされ居るので面黒い。それは専ら中世盛んに信ぜられた妖鬼アスモデウスの話に基づき、その話はジスレリーの『文界奇観』等にしばしば繰り返され、殊にルサージュの傑作『ジアブル・ボアトー』に依って名高い。婬鬼の迷信は中古まで欧州で深く人心に浸しみ込み、碩学高僧真面目にこれを禦ふせぐ法を論ぜしもの少なからず。実体なき鬼が男女に化けて人と交わり、甚だしきは子を孕ませまた子を孕むというので、ローマの開祖ロムルスとレムス、ローマの第六王セルヴィウス・ツリウス、哲学者プラトンやアレキサンダー王、ギリシアの勇将アリストメネス、ローマの名将スキピオ・アフリカヌス、英国の術士メルリン、耶蘇ヤソ新教の創立者ルーテルなどいずれも婬鬼を父として生まれたとか(一八七九年パリ板シニストラリの『婬鬼論』五五頁)、わが邦には古く金剛山の聖人染殿そめどの后を恋い餓死して黒鬼となり、衆人の面前も憚はばからず后を※(「女+堯」、第4水準2-5-82)乱じょうらんした譚あり(『今昔物語』二十の七)、近くは一九いっくの小説『安本丹あんぽんたん』に、安本屋丹吉の幽霊が昔馴染なじみの娼妓、人の妻となり、夫に添い臥ねた所へ毎夜通い子を生まし大捫択だいもんちゃくを起す事あり。欧州にも『ベルナルズス尊者伝』にナントの一婦その夫と臥た処を毎夜鬼に犯さるるに、夫熟睡して知らず、後事こと露あらわれ夫惧おそれて妻を離縁したと載せ、スプレンゲルはある人鬼がその妻を犯すを睹み、刀を揮ふるうて斬れども更に斬れなんだと記す。ボダン説に鬼交は人交と異なるなし、ただ鬼の精冷たきを異とすと。支那でも『西遊記』に烏鶏国王を井に陥おとしいれ封じた道士がその王に化けて国を治む、王の太子母后に尋ねて父王の身三年来氷のごとく冷たしと聞き、その変化へんげの物たるを知り、唐僧師弟の助力で獅子の本身を現わさしめ、父王を再活復位せしめたとある。仏説にも男女もしくは黄門(非男非女の中性人)が売婬で財を得、不浄身もて妄みだりに施さば死後欲色餓鬼に生まれ、随意に美男美女に化けて人と交会すという(『正法念処経』一七)、一六三一年ローマ板ボルリの『交趾こうし支那伝道記』二一四頁に、その頃交趾に婬鬼多く、貴族の婦女これと通ずるを名誉とし、甚だしきはその種を宿して卵を生む者あり、しかるに貧民は婬鬼を厭うの余り天主教に帰依してこれを防いだと出いづ。宋朝以来南支那に盛んな五通神は、家畜の精が丈夫に化けて暴にわかに人家に押し入り、美婦を強辱するのだ(『聊斎志異りょうさいしい』四)。けだし婬鬼に二源あり、一は男女の精神異態より、夢うつつの間に鬼と交わると感ずる者。今一つは若干の古ローマ帝が獣皮を被って婦女を姦したごとく、特種の性癖ある者があるいは秘社を結び、あるいは単独で巧みに鬼の真似まねして実際婦女を犯したのだ。そのほかに人と通じながら世間を憚って鬼に犯されたと詐称したのもすこぶる多かろう。四十年ほど已前、紀州湯浅町の良家の若い妻が盆踊りを見に往きて海岸に※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)しょうようするところを、壮漢数輩拉らっして沖の小島へ伴れ行き輪姦せしを本人も一族も慙はじて、大亀の背に乗せて島へ運ばれたと浦島子伝の翻案を言い触らしていた。古アッカジア人既に婬鬼を攘はらう呪法を備え(一八七四年パリ板ルノルマン著『カルジアおよびアッカジア魔法篇』三六頁)、一八一七年板マーチンの『トンガ島人記』二巻一一九頁には、ホトア・ポウてふ邪神好んで悪戯して人を苦しむ。ハモア島民はこの神しばしば睡中婦女を犯し、ために孕まさるる者多し。けだし不貞を掩うによき口実だと記す。以て婬鬼の迷信がいかに古く、またいかな小島までも行われたるを知るに足る。南インドでは難産や経行中死んだ女はチュデル鬼となり、前は嬋娟せんけんたる美女と見ゆれど、後は凄愴せいそうたる骸骨で両肩なし、たまたま人に逢わば乞いてその家に伴れ行き、夜の友となりて六月内に彼を衰死せしむと信ず(エントホウエンの『グジャラット民俗記』一〇七および一五二頁)、かく諸方に多い婬鬼の中でアスモデウス最も著あらわる。あるいはいう最初の女エヴァを誘惑した蛇、すなわちこの鬼だと。ウィエルス説に、この鬼、地獄で強勢の王たり。牛と人と山羊に類せる頭三つあり。蛇の尾、鵞の足を具え、焔ほのおの息を吐き竜に乗りて左右手に旗と矛ほこを持つと(コラン・ド・ブランシー『妖怪辞彙』五板四六頁)、アラビアの古伝にいう、ソロモン王、アスモデウスの印環を奪いこれを囚とらう。一日ソロモン秘事をアに問うに、わが鎖を寛ゆるくし印環を還さば答うべしというた。ソロモン王その通りせしに、アたちまち王を嚥のみ、他に一足を駐とめて両翅を天まで伸ばし、四百里外に王を吐き飛ばすを知る者なかった。かくてこの鬼、王に化けてその位に居る。ソロモン落魄らくはくして、乞食し「説法者たるわれはかつてエルサレムでイスラエルに王たりき」と言い続く、たまたま会議中の師父輩が聞き付けて、阿房あほの言う事は時々変るに、この乞食は同じ事のみ言うから意味ありげだとあって、内臣にこの頃王しばしば汝を見るやと問うと、否いなと答えた。由って諸妃を訪うて、その房へ王来る事ありやと尋ねると、ありと答えた。そこで諸妃に注意して、王の足はどんな形かと問うた。けだし鬼の足は鶏の足のようだからだ。諸妃答えたは、王は不断半履はんぐつを穿はきて足を見せず、法に禁ぜられ居る時刻に、強いてわれわれを婬し、また母后バトシェバを犯さんとして、従わぬを怒り、ほとんど片裂せんとしたと。諸師父、さては妖怪に極きまったと急いで相集まり、印環と強勢の符※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79)ふろくを鐫えり付けた鎖を、乞食体の真王に渡し、導いて宮に入ると、今まで王位に座しいたアスモデウス大いに叫んで逃れ去り、ソロモン王位に復したと。ヘブリウの異伝には、アスモデウス身を隠してソロモン王の妃に通ぜしに、王その床辺に灰を撒布し、旦あしたに鶏足ごとき跡を印せるを見て、鬼王の所為しょいを認めたりという。この鬼の足、鵞足に似たりとも、鶏足に似たりともいう。
 ドイツの俚説に灰上に家鴨あひるや鵞の足形を印すれば、罔両もうりょうありと知るという(タイラー『原始人文篇』二板、二巻一九八頁)。東西洋ともに鬼の指を鳥の足のごとく画くは、過去地質期に人間の先祖が巨大異態の爬虫類と同時に生存して、甚いたく怪しみ、怖れた遺風であろう。知人故ウィリヤム・フォーセル・カービー氏の『エストニアの勇士篇』にも諸国蛟竜こうりゅうの誕はなしは右様の爬虫類、遠い昔に全滅したものより転訛てんかしただろうと言われた。実際鳥と爬虫とその足跡分別しがたいもの多く、『五雑俎』九の画竜三停九似の説にも、爪鷹に似るとあり。『山海経せんがいきょう』の図などに見るごとく、竜と鬼とは至って近いもの故、鬼の足、また手を鳥足ごとく想像したと見える。灰を撒いて鬼の足跡を検出する事は、拙文「幽霊に足なしという事」について見られよ。
 鶏の霊験譚は随分あるがただ二、三を挙げよう。『諸社一覧』八に『太神宮神異記』を引いて、豊太閤の時朝鮮人来朝せしに、食用のためとて太神宮にいくらもある鶏を取り寄せ籠かごに入れてあまた上せけるに、ほどなく皆返さる。これは朝鮮人の食物に毛をむしりたる鳥、俎まないたの上にて生きて起たち上り時を作りけるに因ると。また『三国伝説』を引いて、三島の社に目め潰つぶれたる鶏あり。いつも暗ければ時ならず時を作り、朝夕を弁わきまえず。風霜に苦しみ、食に乏しく、痩やせ衰うるを愍あわれみ、ある修行者短冊を書き、鳥の頸に付くるに、たちまち目開く、その歌は「には鳥のなくねを神の聞きながら心強くも日を見せぬかな」とある。
 耶蘇教国にもややこの類の話がスペインにある。昔青年あり老父母とサンチアゴ・デ・コンポステラへ巡礼に出た。サンチアゴ(英語でセント・ジェームス、仏語でサン・ジャク)大尊者はキリストの大弟子中、ペテロに亜ついだ勢力あり。その弟、ジョアンとともにキリストの雷子と呼ばる。後のち殉教に臨みこれを訴えし者、その為人ひととなりに感動され、たちまちわれもまたキリスト教徒なりと自白し、伴い行きて刑に就く。途上尊者に向い罪を謝し、共に斬首された。この尊者かつてスペインに宣教したてふ旧伝あって、八三五年にイリアの僧正テオドミル、奇態な星に導かれてその遺体を見出してより、そこをカンポ・ステラ(星の原)、それが転じてコンポステラと呼ばれたという。コンポステラの伽藍がらんに尊者の屍を安置し霊験灼然とあって、中世諸国より巡礼日夜至って、押すな突くなの賑にぎわい劇はげしく、欧州第一の参詣場たり。因ってスペイン人は今も銀河あまのがわをエル・カミノ・デ・サンチアゴ(サンチアゴ道)と呼ぶ。これ『塩尻』巻四六に、中古吉野初瀬詣もうで衰えて熊野参り繁昌し、王公已下いか道者の往来絶えず、したがって蟻ありが一道を行きてやまざるを熊野参りに比したとあり。今も南紀の小児、蟻を見れば「蟻もダンナもよってこい、熊野参りにしょうら」と唱うるは、昔熊野参り引きも切らざりし事、蟻群の行列際限を見ざるようだったに基づく。それと等しく銀河中の星の数、言語に絶して夥しきを、サンチアゴ詣での人数に比べたのだ。そのサンチアゴ・デ・コンポステラへ老父母と伴れて参る一青年が、途上サンドミンゴ・デラ・カルザダで一泊すると、宿主の娘が、一と目三井寺焦こがるる胸を主ぬしは察して晩くれの鐘と、その閨ねやに忍んで打ち口説くどけど聞き入れざるを恨み、青年の袋の内へ銀製の名器を入れ置き、彼わが家宝を盗んだと訴え、青年捕縛されて串刺くしざしに処せられた。双親老いて若い子の冤刑えんけいに逢い、最も悲しい悲しさに涙の絶え間なしといえども、さてあるべきにあらざれば志すサンチアゴ詣でを済まし、三人伴れて出た故郷へ二人で帰る力なさ、せめて今一度亡児の跡を見収めにとサンドミンゴに立ち寄ると、確かに刑死を見届けたその子が息災で生きいた。これ全くサンチアゴ大尊者の霊験、世は澆季ぎょうきに及ぶといえどもと、お定まりの文句で衆人驚嘆せざるなし。所の監督食事中この報に接し、更に信ぜず。確かに死んだあの青年が活き居るなら、ここにある鶏の焼き鳥も動き出すはずと、言いおわらざるに、その鶏たちまち羽生え時を作り、皿より飛び出で遁にげ去った。やがて宿主の娘は刑せられ、この霊験の故に鶏を神使と崇あがめ、サンドミンゴの家々今に鶏毛もて飾らるという事じゃ(グベルナチスの『動物譚原』二巻二八三頁。参取。『大英百科全書』一五巻一三五頁。二四巻一九二頁)。
 サウシーの『随得手録』三輯記する所はやや異なるなり。いわくサンドミンゴ・デラ・カルザダで一女巡礼男に据え膳を拒まれた意趣返しに、その手荷物中に銀の什器じゅうきを入れ窃盗と誣告ぶこくす。その手荷物を検するに果して銀器あり。因って絞殺に処せられ、屍を絞架上に釣り下げ置かる。かの男の父、その子の成り行きを知らず、商いしてここへ来ると、絞台上から子が父を呼び留め、仔細を語り、直ちにその冤を奉行に報ぜしむ。奉行ちょうど膳に向い、鶏、一番ひとつがいを味わわんとするところで、この鶏復活したらそんな話も信ぜられようと言うや否や、鶏たちまち羽毛を生じて起ち上った。大騒ぎとなってかの男を絞架より卸したとあれど、そのしまいは記されず。ただしその絞架を寺の上に据え、その時復活した白い雌雄の鶏を祭壇の側に畜やしのうたが、数百年生きていたと。サウシーの『コンポステラ巡礼物語』はこれを敷衍ふえんしたものだ。件くだんのサンチアゴ大尊者は、スペイン国の守護尊として特に尊ばれ、クラヴィホその他の戦場にしばしば現われてその軍を助けたという。
 カンポステラに詣で、これを拝する者は、皆杓子貝しゃくしがいを佩おぶ。その事日本の巡礼輩らが杓子貝を帯ぶるに合うとは、多賀や宮島に詣る者、杓子を求め帰るを誤聞したものか。英国にも杓子貝を紋とする貴族二十五家まであるは、昔カンポステラ巡礼の盛大なりしを忍ばせる。
 昔この尊者の遺体を、大理石作りの船でエルサレムよりスペインへ渡す。ポルトガルの一武士の乗馬これを見、驚いて海に入ったのを救い上げて見ると、その武士の衣裳全く杓子貝に付き覆おおわれいた。霊験記念のためこの介かいを、この尊者の標章とする由。英国ではこの尊者の忌日、七月二十五日に牡蠣かきを食えば年中金乏しからずとて、価を吝おしまずこの日売り初めの牡蠣を食い、牡蠣料理店大いに忙し。店に捨てた多くの空殻あきがらを集めて小児が積み上げ、その上に蝋燭を点ともし、行人に一銭を乞いてその料とす。定めて杓子貝に近いもの故だろう(チャンバースの『ブック・オヴ・デイス』二巻一二二頁。ハズリット『諸信および俚伝』二巻三四四頁)。
 鶏に係わる因果譚や報応譚は極めて多い。今ただ二、三を掲ぐ。『新著聞集』酬恩篇に、相馬家中の富田作兵衛二階に仮寝した夢に、美女来って只今我殺さるるを助けたまわば、末々御守りとも成らんという。起きて二階を下り見れば、傍輩ども牝鶏を殺す所なり。只今かかる夢を見しこの鳥、我にと、強いて乞い受け、日比谷の神明に放つ。殿の母公聞きて優しき事と、作兵衛に樽肴を賜わる。その後のち別の奉公の品もなきに、二百五十石新恩を拝領せしは、寛文中の事とあり。またその殃禍篇おうかへんに、美濃の御嶽おんたけ村の土屋某、日来ひごろ好んで鶏卵を食いしが、いつしか頭ことごとく禿はげて、後のち鶏の産毛うぶげ一面に生じたと載す。支那でも周の武帝鶏卵を好き食い、抜彪ばつひょうなる者、御食を進め寵せらる。隋朝起ってなお文帝に事つかえ食を進む。この人死後三日に蘇よみがえり、文帝に申せしは、死して冥府めいふに至ると、冥府の王汝武帝に進めし白団はくだんいくばくぞと問う。彪、何の事か解せず。傍の人、白団とは鶏卵じゃと教えたので、武帝が食うた卵の数は知れぬと答う。しからば帝食うただけの卵を出すべしとて、牛頭ごず人身じんしんの獄卒して、鉄床かなとこ上に臥ふしたる帝を鉄梁もて圧おさえしむるに、両肩裂けて十余石ばかりの卵こぼれ出いづ。帝、彪に向い、汝娑婆しゃばに還って大隋天子に告げ、我がこの苦を免れしめよと言うたと。文帝、すなわち天下に勅し、毎人一銭を出して武帝の追福を修めたそうだ(『法苑珠林』九四)。
 こんな詰まらぬ法螺談ほらばなしも、盗跖とうせきは飴あめを以て鑰かぎを開くの例で、随分有益な参考になるというのは、昨今中央政府の遣り方の無鉄砲に倣い、府県争きそうて無用の事業を起し、無用の官吏を置くに随い、遊興税から庭園税、それから何々と、税目ぜいもく日に新たなるを加うる様子だが、ややもすれば名は多少違いながら、実は同じ物から、二重三重取りになるから、色々と抗議が出る。そこで余は隋帝の故智こちに倣い、秀吉とか家康とか種々雑多の人物が国家のために殺生した業報ごっぽうで、地獄に落ちおるのを救うためと称して、毎度一人一銭ずつの追福税を厳課し、出さぬ奴の先霊もたちまち地獄へ落ちると脅おどしたら、何がさて大本教を信ぜぬと目が潰れるなど信ずる愚民の多い世の中、一廉ひとかどの実入りを収め得るに相違ない。末広一雄君の『人生百不思議』に曰く、日本人は西洋人と異なり、神を濫造し、また黜陟ちゅっちょく変更すと。既に先年合祀ごうしを強行して、いわゆる基本財産の多寡を標準とし、賄贈わいぞう請託を魂胆こんたんとし、邦家発達の次第を攷かんがうるに大必要なる古社を滅却し、一夜造りの淫祠を昇格し、その余弊今に除かれず、大いに人心蕩乱とうらん、気風壊敗を致すの本もととなった。しかし毒食らわば皿までじゃ。むしろその事、葬式、問い弔いを官営として坊主どもを乾ほし上げ、また人ごとに一銭の追福税を課し、小野篁おののたかむらなどこの世と地獄を懸け持ちで勤務した例もあり、せせこましい官吏どもに正六位の勲百等のと虚号をやったって何の役に立たず、恐敬もされぬから、大抵人民を苦しめた上は神をすら濫造黜陟する御威勢で、それぞれ地獄の官職に栄転させ、中国で貨幣を画えがき焼いて冥府へ届くるごとく、附け木へ六道銭を描いて月給に遣わすべしだ。それから今一つよい税源は、余が大正二年八月十四日の『不二新聞』へ書いた通り十四世紀のエジプト王ナーシルは、難渋な財政を救うべく、毎つねに女官をして高位の婦女の隠事を検せしめ、不貞税というやつを重く取り立てた。同世紀に文化を誇った仏国にも、ロア・デ・リボー(淫猥いんわい王)わが邦中古傀儡くぐつの様の親方が所々にあって本夫ほんぷ外の男と親しむ女人より金五片ずつの税を徴した(ミュアーの『埃及エジプト奴隷王朝史』八三頁、ジュフールの『売靨史ばいようし』四巻二四頁)。現今わが邦男女不貞の行い夥しく、生温なまぬるい訓誡や、説法ではやむべくもあらざれば、すべからくこれに禁止税を掛くるべく、うるさく附け纒まとわれて程の知れぬ口留め料を警官や新聞に取らるるより、一と思いに取ってくださる、御国のためだと思うてすれば、天井で鼠が忠と鳴くと、鼠鳴きして悦び合い、密会税何回分と纒めて前以て払い済ます事疑いなし。これほど気の利いた社会政策はちょっとなかろう。
 増訂漢魏叢書本『捜神記』巻二に地獄の官人の話あり、鶏に関係ある故ここに略説する。太原たいげんの人、王子珍、父母の勧めにより、定州の辺孝先先生に学ばんとて旅立った。辺先生は漢代高名の大儒で、孔子歿後ただ一人と称せらる。子珍、定州界内に入りて路傍の樹蔭に息やすむ所へまた一人来り憩いこい、汝は何人なんぴとで何処どこへ往くかと尋ねた。子珍事由を語ると、その人我は渤海ぼっかい郡の生まれ、李玄石と名づく、やはり辺先生の所へ学びに往く、かく道伴れとなる已上いじょうは兄弟分になろうと言い出たので、子珍も同意し、定州に至り飲酒食肉し、死生、貴賤、情皆これを一にせんと誓いおわって辺先生を訪い入門した。経業を学ぶ事三年にして玄石の才芸先生に過ぎたから、先生玄石は聖人であろうと讃めた。子珍その才の玄石に劣れるを知り、毎つねにその教授を受け師父として敬った。後のち子珍と同族で、同地生まれの王仲祥という人来合せ、まず先生に謁し、次ぎに子珍の宿に止まり、李玄石を見、翌日別れに臨み、子珍に、汝の友玄石は鬼きだ、生きた人でないと告げると、子珍、玄石はこれ上聖の聖で、経書該博ならざるなく、辺先生すらこれを推歎す、何ぞこれを人でないと言うべきと答えた。仲祥、我は才芸を論ずるでない、確かに彼を鬼と知って言うのだ。汝もし信ぜずば今夜新しい葉を席むしろの下に鋪しいて、別々に臥して見よ、明朝に至り汝の榻下とうかの葉は実するも、鬼の臥所ふしどの葉は虚むなしかるべしと言うて別れ出た。夜に及んで仲祥の言に従い試みると、暁に及び果してその通りだったから、翌日玄石に、君は鬼だという噂うわさがある、本当かと問うと、玄石、誠に我は鬼だ、この事は仲祥から聞いただろう、我冥司に挙用されて、泰山の主簿たらんとするも、学薄うして該通ならず。冥王の勧めに従い、辺先生に業を求めんとするに人間が我を懼おそるるを憚り、人に化して汝と同師に事つかえ、一年を経ずして学問既に成り、泰山主簿に任じて二年になるが、兄弟分たる汝と別るるに忍びず、眷恋けんれん相伴うて今に至った。既に実情を知られた上は久しく駐とどまるべきでないから別れよう、しかるに汝に知らさにゃならぬ一事あり、前日汝の父の冤家が、冥王庁へ汝の父にその孫や兄弟を食われたと訴え出たが、われ汝と縁厚きによりすみやかに裁断せず、冥王これを怒って我を笞むちうつ事一百、それより背が痛んでならぬ、さて只今王が汝の父を喚よび寄せ、自ら訊問し判して死籍に入れるところだから、汝急いで家に帰れ、さて父がまだ息いきしいたら救い得る故、清酒、鹿脯ろくほを供えて我を祭り、我名を三度呼べ、我必ず至るべし。もし気絶えいたら救いようがない。汝すでに学成ったから努力して立身を謀はかれ、我まさに汝を助けて齢よわいを延ばし、上帝に請いて汝に官栄を与うべし、また疾病なきを保ほせんと言って別れた。
 子珍すなわち辺先生を辞し、家に帰って父を見るに、なお息しいるので、火急に酒脯銭財を郊に致いたし、祭り、三たびその名を呼ぶと、玄石白馬に乗り、朱衣を著つけ、冠蓋かんがい前後騎従数十人、別に二人の青衣あって節を執って前引し、呵殿かでんして来り、子珍相あい見まみえて一いつに旧時のごとし。玄石、子珍に語るよう、汝眼を閉じよ、汝を伴れ去って父を見せようと。珍目を閉づるに須臾しゅゆにして閻羅えんら王所の門に至り北に向って置かる。玄石、子珍に語ったは、向さきに汝を伴れて汝の父を見せんと思いしも、汝の父、今牢獄にあって極めて見苦しければ、今更見るべきにあらず。暫くの内に汝が父の冤家がここへ来る、白衣を著き、跣足はだしで頭に紫巾を戴いただき、手に一巻の文書を把とる者がそれだ。その人は※(「日+甫」、第3水準1-85-29)くれ時にこの庁に入って証問さるるはずだ。われ汝に弓箭を与え置くから、それを取ってかの人来るを候うかがい、よくこれを射殺さば汝の父は必ず活くべきも、殺し損わば救いがたいという内に、果して右様の人がやって来た。玄石サアこれだ、我は役所に入って判決するから、汝はしっかりやれと言うて去った。いくばくならずして冤家直ちに案前あんぜんに来り、陳訴する詞ことば至って毒々し。子珍矢を放つと、その左眼に中あたり、驚いて文書を捨て置き走り出た。文書を取って読むに、子珍の父の事を論じあった。珍泣いて玄石に告げると、射殺さなんだは残念だ、眼が癒えたらますます訟うったえるに相違ない。汝宜よろしく家に帰り冤家を尋ね出して殺すべし。しかれば汝の父はきっと癒るという。珍、何人を尋ぬべきやと問うに、今汝が射たと似た者を見ば、やにわに射殺せと教えた。珍、倉皇そうこう別れ、帰って、冤家の姓名を知らねば誰と尋ぬべきにあらず。思い悩みて七日食わず。その時家人報ずらく、飼い置いた白い牡鶏が、この七日間往き所知れずと。因って一同尋ねてその白鶏が架墻かしょうの上に坐せるを見出すに、左の眼損えり。王子珍考えて、玄石が言うたところの白衣は白鶏の毛、紫巾を戴くとは鶏冠、跣足とは鶏の足、左の眼潰つぶれたるは我が射中あてたのだ。この鶏こそ我父の冤家なれと悟り、殺し烹にて汁にして父に食わすと平癒した。子珍、後に出世して太原の刺史となり、百三十八歳まで長生したは李玄石の陰祐いんゆうによる。〈故にいわく、鶏三年ならず、犬六載ならず、白鶏白犬これを食うべからず、生を害うなり〉とある。わが邦で猫を飼う初めに何年と時を定めて飼うと、期限来れば去ってまた来らず。余り久しく飼えば猫又ねこまたに化け「猫じゃ猫じゃとおっしゃりますな、アニャニャニャンノニャン」と謡い踊るというごとく、晋時支那では、鶏を三年、犬を六載以上飼わず、白い犬鶏は必ず食わぬものでこれを食えば冥罰みょうばつを受くると信じたのだ。今も白鶏は在家ざいけに過ぎたものとし、寺社に専ら飼う所あり。讃岐さぬき琴平ことひらに多く畜かう(『郷土研究』二巻三号、三浦魯一氏報)、『古語拾遺』に、白鶏、白猪、白馬もて御歳みとしの神を祭ると見え、『塩尻』四に〈『地鏡』に曰く、名山に入るには必ずまず斎すること五十日、白犬を牽き白鶏を抱き云々〉。ゴムの『歴史科学としての民俗学』三十一頁に、インドのカッボア人は、白鶏を牲にえして隠財を求むといい、コラン・ド・ブランシーの『遺宝霊像評彙』一巻六四頁には、天主教徒白鶏をクリストフ尊者に捧げて、指端の痛みを癒いやしもらう。他の色の鶏を捧ぐればますます痛むと見ゆ。熊野地方では天狗が時に白鶏に化け現わるという。支那湖南の衡州府華光寺に、昔禅師あって白鶏を養う。経を誦じゅするごとに座に登って聴く。死して寺側に埋めし上に白蓮花を生じ、花謝して泉水涌き出づ。白鶏泉と名づく(『大清一統志』二二四)。
 諸国あまねく白鶏を殊勝の物としたのだ。
(大正十年二月、『太陽』二七ノ二)支那には雲南に鶏足山あり、一頂にして三足故名づく、山頂に洞ほらあり。迦葉これに籠って仏衣を守り弥勒を俟つという(『大清一統志』三一九)。本邦でも中尊寺の鶏足洞、遠州の鶏足山正法寺など、柳田氏の『石神しゃくじん問答』に古く鶏を神とした俗より出た名のごとく書いたようだが、全く弥勒と迦葉の仏説に因った号と察する。
 かく東洋では平等無差別の弥勒世界を心長く待つ迦葉と鶏足を縁厚しとし、したがって改造や普選の運動家はこれを徽章きしょうに旗標に用いてしかるべき鶏の足も、所変われば品しな変わるで、西洋では至って不祥な悪魔の表識とされ居るので面黒い。それは専ら中世盛んに信ぜられた妖鬼アスモデウスの話に基づき、その話はジスレリーの『文界奇観』等にしばしば繰り返され、殊にルサージュの傑作『ジアブル・ボアトー』に依って名高い。婬鬼の迷信は中古まで欧州で深く人心に浸しみ込み、碩学高僧真面目にこれを禦ふせぐ法を論ぜしもの少なからず。実体なき鬼が男女に化けて人と交わり、甚だしきは子を孕ませまた子を孕むというので、ローマの開祖ロムルスとレムス、ローマの第六王セルヴィウス・ツリウス、哲学者プラトンやアレキサンダー王、ギリシアの勇将アリストメネス、ローマの名将スキピオ・アフリカヌス、英国の術士メルリン、耶蘇ヤソ新教の創立者ルーテルなどいずれも婬鬼を父として生まれたとか(一八七九年パリ板シニストラリの『婬鬼論』五五頁)、わが邦には古く金剛山の聖人染殿そめどの后を恋い餓死して黒鬼となり、衆人の面前も憚はばからず后を※(「女+堯」、第4水準2-5-82)乱じょうらんした譚あり(『今昔物語』二十の七)、近くは一九いっくの小説『安本丹あんぽんたん』に、安本屋丹吉の幽霊が昔馴染なじみの娼妓、人の妻となり、夫に添い臥ねた所へ毎夜通い子を生まし大捫択だいもんちゃくを起す事あり。欧州にも『ベルナルズス尊者伝』にナントの一婦その夫と臥た処を毎夜鬼に犯さるるに、夫熟睡して知らず、後事こと露あらわれ夫惧おそれて妻を離縁したと載せ、スプレンゲルはある人鬼がその妻を犯すを睹み、刀を揮ふるうて斬れども更に斬れなんだと記す。ボダン説に鬼交は人交と異なるなし、ただ鬼の精冷たきを異とすと。支那でも『西遊記』に烏鶏国王を井に陥おとしいれ封じた道士がその王に化けて国を治む、王の太子母后に尋ねて父王の身三年来氷のごとく冷たしと聞き、その変化へんげの物たるを知り、唐僧師弟の助力で獅子の本身を現わさしめ、父王を再活復位せしめたとある。仏説にも男女もしくは黄門(非男非女の中性人)が売婬で財を得、不浄身もて妄みだりに施さば死後欲色餓鬼に生まれ、随意に美男美女に化けて人と交会すという(『正法念処経』一七)、一六三一年ローマ板ボルリの『交趾こうし支那伝道記』二一四頁に、その頃交趾に婬鬼多く、貴族の婦女これと通ずるを名誉とし、甚だしきはその種を宿して卵を生む者あり、しかるに貧民は婬鬼を厭うの余り天主教に帰依してこれを防いだと出いづ。宋朝以来南支那に盛んな五通神は、家畜の精が丈夫に化けて暴にわかに人家に押し入り、美婦を強辱するのだ(『聊斎志異りょうさいしい』四)。けだし婬鬼に二源あり、一は男女の精神異態より、夢うつつの間に鬼と交わると感ずる者。今一つは若干の古ローマ帝が獣皮を被って婦女を姦したごとく、特種の性癖ある者があるいは秘社を結び、あるいは単独で巧みに鬼の真似まねして実際婦女を犯したのだ。そのほかに人と通じながら世間を憚って鬼に犯されたと詐称したのもすこぶる多かろう。四十年ほど已前、紀州湯浅町の良家の若い妻が盆踊りを見に往きて海岸に※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)しょうようするところを、壮漢数輩拉らっして沖の小島へ伴れ行き輪姦せしを本人も一族も慙はじて、大亀の背に乗せて島へ運ばれたと浦島子伝の翻案を言い触らしていた。古アッカジア人既に婬鬼を攘はらう呪法を備え(一八七四年パリ板ルノルマン著『カルジアおよびアッカジア魔法篇』三六頁)、一八一七年板マーチンの『トンガ島人記』二巻一一九頁には、ホトア・ポウてふ邪神好んで悪戯して人を苦しむ。ハモア島民はこの神しばしば睡中婦女を犯し、ために孕まさるる者多し。けだし不貞を掩うによき口実だと記す。以て婬鬼の迷信がいかに古く、またいかな小島までも行われたるを知るに足る。南インドでは難産や経行中死んだ女はチュデル鬼となり、前は嬋娟せんけんたる美女と見ゆれど、後は凄愴せいそうたる骸骨で両肩なし、たまたま人に逢わば乞いてその家に伴れ行き、夜の友となりて六月内に彼を衰死せしむと信ず(エントホウエンの『グジャラット民俗記』一〇七および一五二頁)、かく諸方に多い婬鬼の中でアスモデウス最も著あらわる。あるいはいう最初の女エヴァを誘惑した蛇、すなわちこの鬼だと。ウィエルス説に、この鬼、地獄で強勢の王たり。牛と人と山羊に類せる頭三つあり。蛇の尾、鵞の足を具え、焔ほのおの息を吐き竜に乗りて左右手に旗と矛ほこを持つと(コラン・ド・ブランシー『妖怪辞彙』五板四六頁)、アラビアの古伝にいう、ソロモン王、アスモデウスの印環を奪いこれを囚とらう。一日ソロモン秘事をアに問うに、わが鎖を寛ゆるくし印環を還さば答うべしというた。ソロモン王その通りせしに、アたちまち王を嚥のみ、他に一足を駐とめて両翅を天まで伸ばし、四百里外に王を吐き飛ばすを知る者なかった。かくてこの鬼、王に化けてその位に居る。ソロモン落魄らくはくして、乞食し「説法者たるわれはかつてエルサレムでイスラエルに王たりき」と言い続く、たまたま会議中の師父輩が聞き付けて、阿房あほの言う事は時々変るに、この乞食は同じ事のみ言うから意味ありげだとあって、内臣にこの頃王しばしば汝を見るやと問うと、否いなと答えた。由って諸妃を訪うて、その房へ王来る事ありやと尋ねると、ありと答えた。そこで諸妃に注意して、王の足はどんな形かと問うた。けだし鬼の足は鶏の足のようだからだ。諸妃答えたは、王は不断半履はんぐつを穿はきて足を見せず、法に禁ぜられ居る時刻に、強いてわれわれを婬し、また母后バトシェバを犯さんとして、従わぬを怒り、ほとんど片裂せんとしたと。諸師父、さては妖怪に極きまったと急いで相集まり、印環と強勢の符※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79)ふろくを鐫えり付けた鎖を、乞食体の真王に渡し、導いて宮に入ると、今まで王位に座しいたアスモデウス大いに叫んで逃れ去り、ソロモン王位に復したと。ヘブリウの異伝には、アスモデウス身を隠してソロモン王の妃に通ぜしに、王その床辺に灰を撒布し、旦あしたに鶏足ごとき跡を印せるを見て、鬼王の所為しょいを認めたりという。この鬼の足、鵞足に似たりとも、鶏足に似たりともいう。
 ドイツの俚説に灰上に家鴨あひるや鵞の足形を印すれば、罔両もうりょうありと知るという(タイラー『原始人文篇』二板、二巻一九八頁)。東西洋ともに鬼の指を鳥の足のごとく画くは、過去地質期に人間の先祖が巨大異態の爬虫類と同時に生存して、甚いたく怪しみ、怖れた遺風であろう。知人故ウィリヤム・フォーセル・カービー氏の『エストニアの勇士篇』にも諸国蛟竜こうりゅうの誕はなしは右様の爬虫類、遠い昔に全滅したものより転訛てんかしただろうと言われた。実際鳥と爬虫とその足跡分別しがたいもの多く、『五雑俎』九の画竜三停九似の説にも、爪鷹に似るとあり。『山海経せんがいきょう』の図などに見るごとく、竜と鬼とは至って近いもの故、鬼の足、また手を鳥足ごとく想像したと見える。灰を撒いて鬼の足跡を検出する事は、拙文「幽霊に足なしという事」について見られよ。
 鶏の霊験譚は随分あるがただ二、三を挙げよう。『諸社一覧』八に『太神宮神異記』を引いて、豊太閤の時朝鮮人来朝せしに、食用のためとて太神宮にいくらもある鶏を取り寄せ籠かごに入れてあまた上せけるに、ほどなく皆返さる。これは朝鮮人の食物に毛をむしりたる鳥、俎まないたの上にて生きて起たち上り時を作りけるに因ると。また『三国伝説』を引いて、三島の社に目め潰つぶれたる鶏あり。いつも暗ければ時ならず時を作り、朝夕を弁わきまえず。風霜に苦しみ、食に乏しく、痩やせ衰うるを愍あわれみ、ある修行者短冊を書き、鳥の頸に付くるに、たちまち目開く、その歌は「には鳥のなくねを神の聞きながら心強くも日を見せぬかな」とある。
 耶蘇教国にもややこの類の話がスペインにある。昔青年あり老父母とサンチアゴ・デ・コンポステラへ巡礼に出た。サンチアゴ(英語でセント・ジェームス、仏語でサン・ジャク)大尊者はキリストの大弟子中、ペテロに亜ついだ勢力あり。その弟、ジョアンとともにキリストの雷子と呼ばる。後のち殉教に臨みこれを訴えし者、その為人ひととなりに感動され、たちまちわれもまたキリスト教徒なりと自白し、伴い行きて刑に就く。途上尊者に向い罪を謝し、共に斬首された。この尊者かつてスペインに宣教したてふ旧伝あって、八三五年にイリアの僧正テオドミル、奇態な星に導かれてその遺体を見出してより、そこをカンポ・ステラ(星の原)、それが転じてコンポステラと呼ばれたという。コンポステラの伽藍がらんに尊者の屍を安置し霊験灼然とあって、中世諸国より巡礼日夜至って、押すな突くなの賑にぎわい劇はげしく、欧州第一の参詣場たり。因ってスペイン人は今も銀河あまのがわをエル・カミノ・デ・サンチアゴ(サンチアゴ道)と呼ぶ。これ『塩尻』巻四六に、中古吉野初瀬詣もうで衰えて熊野参り繁昌し、王公已下いか道者の往来絶えず、したがって蟻ありが一道を行きてやまざるを熊野参りに比したとあり。今も南紀の小児、蟻を見れば「蟻もダンナもよってこい、熊野参りにしょうら」と唱うるは、昔熊野参り引きも切らざりし事、蟻群の行列際限を見ざるようだったに基づく。それと等しく銀河中の星の数、言語に絶して夥しきを、サンチアゴ詣での人数に比べたのだ。そのサンチアゴ・デ・コンポステラへ老父母と伴れて参る一青年が、途上サンドミンゴ・デラ・カルザダで一泊すると、宿主の娘が、一と目三井寺焦こがるる胸を主ぬしは察して晩くれの鐘と、その閨ねやに忍んで打ち口説くどけど聞き入れざるを恨み、青年の袋の内へ銀製の名器を入れ置き、彼わが家宝を盗んだと訴え、青年捕縛されて串刺くしざしに処せられた。双親老いて若い子の冤刑えんけいに逢い、最も悲しい悲しさに涙の絶え間なしといえども、さてあるべきにあらざれば志すサンチアゴ詣でを済まし、三人伴れて出た故郷へ二人で帰る力なさ、せめて今一度亡児の跡を見収めにとサンドミンゴに立ち寄ると、確かに刑死を見届けたその子が息災で生きいた。これ全くサンチアゴ大尊者の霊験、世は澆季ぎょうきに及ぶといえどもと、お定まりの文句で衆人驚嘆せざるなし。所の監督食事中この報に接し、更に信ぜず。確かに死んだあの青年が活き居るなら、ここにある鶏の焼き鳥も動き出すはずと、言いおわらざるに、その鶏たちまち羽生え時を作り、皿より飛び出で遁にげ去った。やがて宿主の娘は刑せられ、この霊験の故に鶏を神使と崇あがめ、サンドミンゴの家々今に鶏毛もて飾らるという事じゃ(グベルナチスの『動物譚原』二巻二八三頁。参取。『大英百科全書』一五巻一三五頁。二四巻一九二頁)。
 サウシーの『随得手録』三輯記する所はやや異なるなり。いわくサンドミンゴ・デラ・カルザダで一女巡礼男に据え膳を拒まれた意趣返しに、その手荷物中に銀の什器じゅうきを入れ窃盗と誣告ぶこくす。その手荷物を検するに果して銀器あり。因って絞殺に処せられ、屍を絞架上に釣り下げ置かる。かの男の父、その子の成り行きを知らず、商いしてここへ来ると、絞台上から子が父を呼び留め、仔細を語り、直ちにその冤を奉行に報ぜしむ。奉行ちょうど膳に向い、鶏、一番ひとつがいを味わわんとするところで、この鶏復活したらそんな話も信ぜられようと言うや否や、鶏たちまち羽毛を生じて起ち上った。大騒ぎとなってかの男を絞架より卸したとあれど、そのしまいは記されず。ただしその絞架を寺の上に据え、その時復活した白い雌雄の鶏を祭壇の側に畜やしのうたが、数百年生きていたと。サウシーの『コンポステラ巡礼物語』はこれを敷衍ふえんしたものだ。件くだんのサンチアゴ大尊者は、スペイン国の守護尊として特に尊ばれ、クラヴィホその他の戦場にしばしば現われてその軍を助けたという。
 カンポステラに詣で、これを拝する者は、皆杓子貝しゃくしがいを佩おぶ。その事日本の巡礼輩らが杓子貝を帯ぶるに合うとは、多賀や宮島に詣る者、杓子を求め帰るを誤聞したものか。英国にも杓子貝を紋とする貴族二十五家まであるは、昔カンポステラ巡礼の盛大なりしを忍ばせる。
 昔この尊者の遺体を、大理石作りの船でエルサレムよりスペインへ渡す。ポルトガルの一武士の乗馬これを見、驚いて海に入ったのを救い上げて見ると、その武士の衣裳全く杓子貝に付き覆おおわれいた。霊験記念のためこの介かいを、この尊者の標章とする由。英国ではこの尊者の忌日、七月二十五日に牡蠣かきを食えば年中金乏しからずとて、価を吝おしまずこの日売り初めの牡蠣を食い、牡蠣料理店大いに忙し。店に捨てた多くの空殻あきがらを集めて小児が積み上げ、その上に蝋燭を点ともし、行人に一銭を乞いてその料とす。定めて杓子貝に近いもの故だろう(チャンバースの『ブック・オヴ・デイス』二巻一二二頁。ハズリット『諸信および俚伝』二巻三四四頁)。
 鶏に係わる因果譚や報応譚は極めて多い。今ただ二、三を掲ぐ。『新著聞集』酬恩篇に、相馬家中の富田作兵衛二階に仮寝した夢に、美女来って只今我殺さるるを助けたまわば、末々御守りとも成らんという。起きて二階を下り見れば、傍輩ども牝鶏を殺す所なり。只今かかる夢を見しこの鳥、我にと、強いて乞い受け、日比谷の神明に放つ。殿の母公聞きて優しき事と、作兵衛に樽肴を賜わる。その後のち別の奉公の品もなきに、二百五十石新恩を拝領せしは、寛文中の事とあり。またその殃禍篇おうかへんに、美濃の御嶽おんたけ村の土屋某、日来ひごろ好んで鶏卵を食いしが、いつしか頭ことごとく禿はげて、後のち鶏の産毛うぶげ一面に生じたと載す。支那でも周の武帝鶏卵を好き食い、抜彪ばつひょうなる者、御食を進め寵せらる。隋朝起ってなお文帝に事つかえ食を進む。この人死後三日に蘇よみがえり、文帝に申せしは、死して冥府めいふに至ると、冥府の王汝武帝に進めし白団はくだんいくばくぞと問う。彪、何の事か解せず。傍の人、白団とは鶏卵じゃと教えたので、武帝が食うた卵の数は知れぬと答う。しからば帝食うただけの卵を出すべしとて、牛頭ごず人身じんしんの獄卒して、鉄床かなとこ上に臥ふしたる帝を鉄梁もて圧おさえしむるに、両肩裂けて十余石ばかりの卵こぼれ出いづ。帝、彪に向い、汝娑婆しゃばに還って大隋天子に告げ、我がこの苦を免れしめよと言うたと。文帝、すなわち天下に勅し、毎人一銭を出して武帝の追福を修めたそうだ(『法苑珠林』九四)。
 こんな詰まらぬ法螺談ほらばなしも、盗跖とうせきは飴あめを以て鑰かぎを開くの例で、随分有益な参考になるというのは、昨今中央政府の遣り方の無鉄砲に倣い、府県争きそうて無用の事業を起し、無用の官吏を置くに随い、遊興税から庭園税、それから何々と、税目ぜいもく日に新たなるを加うる様子だが、ややもすれば名は多少違いながら、実は同じ物から、二重三重取りになるから、色々と抗議が出る。そこで余は隋帝の故智こちに倣い、秀吉とか家康とか種々雑多の人物が国家のために殺生した業報ごっぽうで、地獄に落ちおるのを救うためと称して、毎度一人一銭ずつの追福税を厳課し、出さぬ奴の先霊もたちまち地獄へ落ちると脅おどしたら、何がさて大本教を信ぜぬと目が潰れるなど信ずる愚民の多い世の中、一廉ひとかどの実入りを収め得るに相違ない。末広一雄君の『人生百不思議』に曰く、日本人は西洋人と異なり、神を濫造し、また黜陟ちゅっちょく変更すと。既に先年合祀ごうしを強行して、いわゆる基本財産の多寡を標準とし、賄贈わいぞう請託を魂胆こんたんとし、邦家発達の次第を攷かんがうるに大必要なる古社を滅却し、一夜造りの淫祠を昇格し、その余弊今に除かれず、大いに人心蕩乱とうらん、気風壊敗を致すの本もととなった。しかし毒食らわば皿までじゃ。むしろその事、葬式、問い弔いを官営として坊主どもを乾ほし上げ、また人ごとに一銭の追福税を課し、小野篁おののたかむらなどこの世と地獄を懸け持ちで勤務した例もあり、せせこましい官吏どもに正六位の勲百等のと虚号をやったって何の役に立たず、恐敬もされぬから、大抵人民を苦しめた上は神をすら濫造黜陟する御威勢で、それぞれ地獄の官職に栄転させ、中国で貨幣を画えがき焼いて冥府へ届くるごとく、附け木へ六道銭を描いて月給に遣わすべしだ。それから今一つよい税源は、余が大正二年八月十四日の『不二新聞』へ書いた通り十四世紀のエジプト王ナーシルは、難渋な財政を救うべく、毎つねに女官をして高位の婦女の隠事を検せしめ、不貞税というやつを重く取り立てた。同世紀に文化を誇った仏国にも、ロア・デ・リボー(淫猥いんわい王)わが邦中古傀儡くぐつの様の親方が所々にあって本夫ほんぷ外の男と親しむ女人より金五片ずつの税を徴した(ミュアーの『埃及エジプト奴隷王朝史』八三頁、ジュフールの『売靨史ばいようし』四巻二四頁)。現今わが邦男女不貞の行い夥しく、生温なまぬるい訓誡や、説法ではやむべくもあらざれば、すべからくこれに禁止税を掛くるべく、うるさく附け纒まとわれて程の知れぬ口留め料を警官や新聞に取らるるより、一と思いに取ってくださる、御国のためだと思うてすれば、天井で鼠が忠と鳴くと、鼠鳴きして悦び合い、密会税何回分と纒めて前以て払い済ます事疑いなし。これほど気の利いた社会政策はちょっとなかろう。
 増訂漢魏叢書本『捜神記』巻二に地獄の官人の話あり、鶏に関係ある故ここに略説する。太原たいげんの人、王子珍、父母の勧めにより、定州の辺孝先先生に学ばんとて旅立った。辺先生は漢代高名の大儒で、孔子歿後ただ一人と称せらる。子珍、定州界内に入りて路傍の樹蔭に息やすむ所へまた一人来り憩いこい、汝は何人なんぴとで何処どこへ往くかと尋ねた。子珍事由を語ると、その人我は渤海ぼっかい郡の生まれ、李玄石と名づく、やはり辺先生の所へ学びに往く、かく道伴れとなる已上いじょうは兄弟分になろうと言い出たので、子珍も同意し、定州に至り飲酒食肉し、死生、貴賤、情皆これを一にせんと誓いおわって辺先生を訪い入門した。経業を学ぶ事三年にして玄石の才芸先生に過ぎたから、先生玄石は聖人であろうと讃めた。子珍その才の玄石に劣れるを知り、毎つねにその教授を受け師父として敬った。後のち子珍と同族で、同地生まれの王仲祥という人来合せ、まず先生に謁し、次ぎに子珍の宿に止まり、李玄石を見、翌日別れに臨み、子珍に、汝の友玄石は鬼きだ、生きた人でないと告げると、子珍、玄石はこれ上聖の聖で、経書該博ならざるなく、辺先生すらこれを推歎す、何ぞこれを人でないと言うべきと答えた。仲祥、我は才芸を論ずるでない、確かに彼を鬼と知って言うのだ。汝もし信ぜずば今夜新しい葉を席むしろの下に鋪しいて、別々に臥して見よ、明朝に至り汝の榻下とうかの葉は実するも、鬼の臥所ふしどの葉は虚むなしかるべしと言うて別れ出た。夜に及んで仲祥の言に従い試みると、暁に及び果してその通りだったから、翌日玄石に、君は鬼だという噂うわさがある、本当かと問うと、玄石、誠に我は鬼だ、この事は仲祥から聞いただろう、我冥司に挙用されて、泰山の主簿たらんとするも、学薄うして該通ならず。冥王の勧めに従い、辺先生に業を求めんとするに人間が我を懼おそるるを憚り、人に化して汝と同師に事つかえ、一年を経ずして学問既に成り、泰山主簿に任じて二年になるが、兄弟分たる汝と別るるに忍びず、眷恋けんれん相伴うて今に至った。既に実情を知られた上は久しく駐とどまるべきでないから別れよう、しかるに汝に知らさにゃならぬ一事あり、前日汝の父の冤家が、冥王庁へ汝の父にその孫や兄弟を食われたと訴え出たが、われ汝と縁厚きによりすみやかに裁断せず、冥王これを怒って我を笞むちうつ事一百、それより背が痛んでならぬ、さて只今王が汝の父を喚よび寄せ、自ら訊問し判して死籍に入れるところだから、汝急いで家に帰れ、さて父がまだ息いきしいたら救い得る故、清酒、鹿脯ろくほを供えて我を祭り、我名を三度呼べ、我必ず至るべし。もし気絶えいたら救いようがない。汝すでに学成ったから努力して立身を謀はかれ、我まさに汝を助けて齢よわいを延ばし、上帝に請いて汝に官栄を与うべし、また疾病なきを保ほせんと言って別れた。
 子珍すなわち辺先生を辞し、家に帰って父を見るに、なお息しいるので、火急に酒脯銭財を郊に致いたし、祭り、三たびその名を呼ぶと、玄石白馬に乗り、朱衣を著つけ、冠蓋かんがい前後騎従数十人、別に二人の青衣あって節を執って前引し、呵殿かでんして来り、子珍相あい見まみえて一いつに旧時のごとし。玄石、子珍に語るよう、汝眼を閉じよ、汝を伴れ去って父を見せようと。珍目を閉づるに須臾しゅゆにして閻羅えんら王所の門に至り北に向って置かる。玄石、子珍に語ったは、向さきに汝を伴れて汝の父を見せんと思いしも、汝の父、今牢獄にあって極めて見苦しければ、今更見るべきにあらず。暫くの内に汝が父の冤家がここへ来る、白衣を著き、跣足はだしで頭に紫巾を戴いただき、手に一巻の文書を把とる者がそれだ。その人は※(「日+甫」、第3水準1-85-29)くれ時にこの庁に入って証問さるるはずだ。われ汝に弓箭を与え置くから、それを取ってかの人来るを候うかがい、よくこれを射殺さば汝の父は必ず活くべきも、殺し損わば救いがたいという内に、果して右様の人がやって来た。玄石サアこれだ、我は役所に入って判決するから、汝はしっかりやれと言うて去った。いくばくならずして冤家直ちに案前あんぜんに来り、陳訴する詞ことば至って毒々し。子珍矢を放つと、その左眼に中あたり、驚いて文書を捨て置き走り出た。文書を取って読むに、子珍の父の事を論じあった。珍泣いて玄石に告げると、射殺さなんだは残念だ、眼が癒えたらますます訟うったえるに相違ない。汝宜よろしく家に帰り冤家を尋ね出して殺すべし。しかれば汝の父はきっと癒るという。珍、何人を尋ぬべきやと問うに、今汝が射たと似た者を見ば、やにわに射殺せと教えた。珍、倉皇そうこう別れ、帰って、冤家の姓名を知らねば誰と尋ぬべきにあらず。思い悩みて七日食わず。その時家人報ずらく、飼い置いた白い牡鶏が、この七日間往き所知れずと。因って一同尋ねてその白鶏が架墻かしょうの上に坐せるを見出すに、左の眼損えり。王子珍考えて、玄石が言うたところの白衣は白鶏の毛、紫巾を戴くとは鶏冠、跣足とは鶏の足、左の眼潰つぶれたるは我が射中あてたのだ。この鶏こそ我父の冤家なれと悟り、殺し烹にて汁にして父に食わすと平癒した。子珍、後に出世して太原の刺史となり、百三十八歳まで長生したは李玄石の陰祐いんゆうによる。〈故にいわく、鶏三年ならず、犬六載ならず、白鶏白犬これを食うべからず、生を害うなり〉とある。わが邦で猫を飼う初めに何年と時を定めて飼うと、期限来れば去ってまた来らず。余り久しく飼えば猫又ねこまたに化け「猫じゃ猫じゃとおっしゃりますな、アニャニャニャンノニャン」と謡い踊るというごとく、晋時支那では、鶏を三年、犬を六載以上飼わず、白い犬鶏は必ず食わぬものでこれを食えば冥罰みょうばつを受くると信じたのだ。今も白鶏は在家ざいけに過ぎたものとし、寺社に専ら飼う所あり。讃岐さぬき琴平ことひらに多く畜かう(『郷土研究』二巻三号、三浦魯一氏報)、『古語拾遺』に、白鶏、白猪、白馬もて御歳みとしの神を祭ると見え、『塩尻』四に〈『地鏡』に曰く、名山に入るには必ずまず斎すること五十日、白犬を牽き白鶏を抱き云々〉。ゴムの『歴史科学としての民俗学』三十一頁に、インドのカッボア人は、白鶏を牲にえして隠財を求むといい、コラン・ド・ブランシーの『遺宝霊像評彙』一巻六四頁には、天主教徒白鶏をクリストフ尊者に捧げて、指端の痛みを癒いやしもらう。他の色の鶏を捧ぐればますます痛むと見ゆ。熊野地方では天狗が時に白鶏に化け現わるという。支那湖南の衡州府華光寺に、昔禅師あって白鶏を養う。経を誦じゅするごとに座に登って聴く。死して寺側に埋めし上に白蓮花を生じ、花謝して泉水涌き出づ。白鶏泉と名づく(『大清一統志』二二四)。
 諸国あまねく白鶏を殊勝の物としたのだ。

青空文庫↓より
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(大正十年二月、『太陽』二七ノ二)