遠藤周作の『沈黙』がM.スコセッシ監督により映画化されたことが、最近では大変話題になっている。
信仰を貫くこと、『棄教』とは、『転ぶ』とは??
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A9ウィキペディアより
遠藤周作の『沈黙』の登場人物であるクリストヴァン・フェレイラ(Cristóvão Ferreira, 1580年(天正8年)頃 - 1650年11月4日(慶安3年10月11日))は、ポルトガル出身のカトリック宣教師。イエズス会士であったが、日本において拷問によって棄教し、沢野忠庵(さわの ちゅうあん、忠安とも)を名乗ってキリシタン弾圧に協力した。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとなった。クリストファン・フェレイラと表記されることもある。
ポルトガル・ジブレイラ(ポルトガル語版)出身のイエズス会司祭フェレイラが来日したのは、すでにキリスト教の布教が困難を極めていた1609年(慶長14年)であった。日本語にすぐれ、日本のイエズス会の中心となって働いていたが、日本管区の管区長代理を務めていた1633年(寛永10年)に長崎で捕縛された。
寛永10年9月17日(1633年10月18日)、長崎において中浦ジュリアン神父らとともに穴吊りの刑に処せられた。この刑は、過酷な苦痛をもたらすが事前になかなか死なないように処置をされ、しかし棄教の意思表示は自由にできるようにされるため、耐え抜くのは困難であった。その中でも他の者はすべて殉教したが、5時間後にフェレイラのみが耐え切れず棄教した。
棄教したフェレイラは沢野忠庵を名乗り、日本人妻を娶った。以後は他の棄教した聖職者、いわゆる転びバテレンとともにキリシタン取締りに当たった。1644年(正保元年)にはキリスト教を攻撃する『顕疑録』を出版した。これとは別に、天文学書『天文備用』や医学書『南蛮流外科秘伝』などにより、西洋科学を日本に伝えている。
管区長代理であったフェレイラの棄教は、イエズス会とヨーロッパのカトリック教会に衝撃を与え、多くの宣教師が日本潜入を志願した。実際に潜入した宣教師たちは、捕縛され、ある者は殉教し、ある者は棄教した。棄教した司祭の中に、フェレイラとともに遠藤周作の『沈黙』のモデルとなったジュゼッペ・キアラがいる。
イエズス会宣教師の*ルイス・フロイスには、『二十六聖人の殉教』が書かれている。
*ルイス・フロイス 『日本二十六聖人殉教記』
結城了悟 訳、聖母の騎士社〈聖母文庫
1997年8月。ISBN 4-88216-154-0。
著作の説明
26聖人の殉教のわずか5ヶ月後、長崎で亡くなったフロイス神父が、最後の力を振り絞って書き上げ送った公式の殉教報告。ルイス・フロイスは「日本史」の著者として知られている。生来文筆の才能に恵まれていたことから来日以来、布教報告書の執筆者として重用されたが、 1583年に「日本史」の編述を命じられた、以来、長崎の地を拠点にフロイスは全力を尽くしてその執筆を続け、 1597年7月8日の死によって擱筆した。 (長崎純心大学学長・片岡千鶴子) 著者等紹介 結城了悟 ユウキリョウゴ 元 長崎・日本26聖人記念館館長、カトリック司祭 1922年10月、スペイン・セビリア生まれ。 1939年9月、イエズス会に入会。 1948年、来日。1954年12月、司祭叙階。 1963年、日本26聖人記念館館長に就任。 1978年、帰化する。 2008年11月、帰天。 著書に「長崎への道」、「長崎の天主堂」、「九州の古城とキリシタン」、 「新史料 天正少年使節」ほか多数がある。
個人的には、メキシコのクエルナバカで気の利いたタクシードライバーに、この壁画のある教会を案内された。遠藤周作の『侍』も読み、アカプルコで、**支倉常長の像を探したものだ。何度か像の場所が移転したようで見つけ出すのにかなり難儀した。
詳しい移設の推移は、以下のウィキペディアより
メキシコ:ゲレーロ州アカプルコ日本広場
1973年(昭和48年)11月設置。
仙台市との姉妹都市締結記念。
当初は、オルノスビーチ近くの太平洋を望む州立公園において、常長像の視線を仙台の方向に向けて建立された。しかし、1990年代初めに西に300m移動され、さらに1997年(平成9年)にアカプルコ湾に沿って走る「コステラ・ミゲル・アレマン」という大通りの中央緑地帯に移転された。この中央緑地帯にはマハトマ・ガンディーなど世界の著名な偉人の像が並べられており、常長もそのような偉人の1人としてアカプルコ市が扱ったことになるが、当初の建立地から数km離れ、海を望めない状態になった。この情況を憂えたメキシコの宮城県人会「メキシコ宮城青葉会」の会長(気仙沼市出身)が日本に帰郷した際に訴えたため、2008年(平成20年)1月25日に石巻市の慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)を訪れた駐日メキシコ大使に同館館長が伝えると、大使は善処を約束した。2010年(平成22年)6月16日に常長像は、日墨交流400周年を記念してカラバリビーチに開設する日本広場へ移設され、同年7月5日に日本広場開所式と共に支倉常長像移転式が開催された。これにより再び常長像の視線は、太平洋の先の仙台の方向に向けられた。
**支倉 常長(はせくら つねなが)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E5%80%89%E5%B8%B8%E9%95%B7
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
クエルナバカ (Cuernavaca) カテドラルは1529年にコルテスの命を受け建造されたもので,アメリカ大陸最古の教会の一つとも言われている。殉教者の中にメキシコ人の宣教師(***フエリッペ・デ・フェスス)がいたことが、深く関係する。
***メキシコ最初の聖人フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス)メキシコ人、24歳で殉教、フランシスコ会修道士。
日本人・外国人宣教師の処刑は豊臣秀吉の命により、クエルナバカ (Cuernavaca) カテドラルの壁画にスペイン語で"EMPERADOR TAYCOSAMA MANDO MARTIRIZAR POR......."
「……で皇帝太閤さまは殉教を命じた。」 とある。
メキシコ人初の聖人とされた宣教師フェリペ・デ・ヘススFelipe de Jesus)は、18歳の時、両親にマニラに送られた。ごく普通の若者だったが、後に召命を感じてフランシスコ会に入会し、1596年司祭に叙階されるため船でメキシコへむかっている途中に台風で座礁し、高知県の桂浜に漂着し、これを契機に大阪、京都で布教活動を行う。がしかし、当時豊臣秀吉の時代で『キリスト教が禁止』されており、追放令がでていました、秀吉はこの追放令を逮捕令に変え、フェリペ・デ・ヘススは、京都にて捕えられた、日本人を含む合計24名は堀川一条の橋の上で左耳たぶを切り落とされ、その後、市中引き回しにされ、1597年長崎の西坂の丘にてはりつけにされ両脇から槍を2本入れ処刑されました。この様子がカテドラル内の壁画に描かれています。
今から320年前の歴史的な出来事の壁画を見つめながら、三百年以上前の出来事であるのだが、異国の地メキシコで心苦しさを感じた。
日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。
この出来事を「二十六聖人の殉教」という。
26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。
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