平成二十七年(2015年)、とうとう大晦日となりました。
年内、様々な方々からご指導ご鞭撻を賜りましたこと、ここに心より御礼申し上げます。
深夜には、除夜の鐘が鳴らされ、その数は人間の『百八の煩悩の数』だと、よく言われています。
百八の煩悩とは、人間を悩まし迷わせる煩悩でありますが、とにかく数の多いことを百八としているようです。
しかしながら、数(計算)的にもなぜ『百八』になるのかは、誰しも気になるところです。
そこで、諸説あるようですが、百八の分かりやすい計算としての説明は、まず「眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のそれぞれに悩みが六つあり、かけると三十六になる。また、この三十六を過去・現在・未来で三倍すると百八となる。」
いかがでしょうか、「なんとなくしっくり」しましたか?
いずれにせよ煩悩は、このように数多くあり、他にも数え方には、煩悩には、主に二種あり、一つは三界の見惑八十八使と三界の修惑十使にさらに十纏(じゆうてん)を加えたもの。もう一方は眼・耳・鼻・舌・身・意の六根にそれぞれ六つの煩悩があって三十六になる。過去・未来・現在の三倍で、やはり百八となる。
なんだか、数の説明だけでは、むしろ難しく感じますね。
繰り返しになりますが、おそらく数そのものよりも、人間界に、あまたなる『心の迷い』があり、それを年末にできるだけ清算(御祓みそぎ)しようとしているのですね。
未年が終わり、申年を迎えつつある。できるだけ心静かに、己のあまたなる『煩悩』を僅かながらでも打ち消しながら、明るい展望のある新年を迎えたいものです。
話しはいくぶん変りますが、祖国(日本)には国語(日本語)があり、述べたように、その国語は、様々な海外との折衝(相互交流)からなっている、少し例示すれば、仏教思想や梵語や中国語(漢字)などなど・・・現実には、浮遊しているカタカナ表記などの外来語でも溢れている・・・
祖国(母国)とは、やはり文化的な遠近法的な解釈であり、1度は(出来れば複数回)祖国を離れて遠近両方、また鳥瞰図的に、祖国(母国)を
俯瞰したいものです。
申年の『サル』とは、ある意味で、
人間の『鏡』であり、水面に写る『月影』は人間界の『煩悩』とも思われます。そこで、まさに『申年』を迎えるに辺り、『猿猴取月(えんこうしゅげつ)』という四字熟語を年末の最後の主題として取り上げたいと思います。
その四文字熟語は『猿猴捉月(えんこうそくげつ)』や『猿猴探月(えんこうたんげつ)』さらに猿猴捕月(えんこうほげつ)とも表現される。
仏典の『摩訶僧祇律』(まかそうぎりつ)にある話だそうで、意味としては、『自身の能力などを過信しすぎ、欲をさらに出して身を滅ぼす』という喩え話です。
まさに、自分自身(己)を猿(猿猴)と見なしながら、自戒もしております。
おそらく、多くの方々が、それと知らずに絵画表現としての『猿猴捉月(捕月)図』は目にしているのではと思われるます。その表現の元になる話(逸話)は、以下のようなものである。
猿猴(えんこう=猿たち)が井戸の中の水に映っている月に気づき、その月影を取ろうする。
猿が木の枝につかまり、さらにあまたなる(五百匹もの)猿が手と尾を結んで連がって井戸(水面)へと降りいく。
当然、多くのサルたちの重さに耐えきらずに枝が折れ、ついに水中に落ちて、死んでしまう。
上記の漢文としては、『摩訶僧祇律』の第七に、以下のようにある。
「佛告諸比丘。過去世時。有城名波羅奈。國名伽尸。於空閑處有五百獼猴。遊行林中。到一尼倶律樹。樹下有井。井中有月影現。時獼猴主見是月影。語諸伴言。月今日死落在井中。當共出之。莫令世間長夜闇冥。共作議言。云何能出。時獼猴主言。我知出法。我捉樹枝。汝捉我尾。展轉相連。乃可出之。時諸獼猴即如主語。展轉相捉。小未至水。連獼猴重。樹弱枝折一切獼猴墮井水中。」
この大晦日に、いくら筆舌(ことば)に尽くしても、百八の煩悩はいつまでも打ち消せずに、『煩悩即菩提』の境地は、あの涅槃に『幻想』としてただ留まるだけなのか?
しかしながら、悲観的に過去(過ぎ去った月日)を回想(後悔)するのではなく、与えられた『命』と『生きられる時間』をいかにして有意義に送ることができるか、それは『生死即涅槃』であり、まさに、NPO 「命・地球」や地域活動を初めとして、さらにはNGO 活動の橋渡しを有志の方々と伴に心を砕きながら行動したい。
『この泥あればこそ咲け蓮の華』
而二不二