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種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

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貢献する活動や情報など

NPO命・地球&RUK cafe 交流の記事と今後の講演会など

2016-06-01 04:31:45 | NPO 命・地球

立正大学経営学部の学生たちで運営されているRUK cafe&NPO「命・地球」との交流会が、4月30日(土)に鎌倉ラクカフェにて開催されました。http://rukcafe.tumblr.com/post/143748365695/npo%E3%81%A8%E3%81%AE%E4%BA%A4%E6%B5%81%E4%BC%9A

鎌倉朝日新聞
http://www.kamakura-asahi.com/
6月号第3面に「地域再生」テーマに交流
NPO「命・地球」と立正大学の学生たちで運営されています鎌倉市御成町にあるRUKcafeとの交流会が紹介されております。

RUK cafe(ラクカフェ鎌倉)の学生たちからのプレゼンは、とてもよく構成された資料をもとにしながら、その内容説明を担当者ごとに分担しながら、分かりやすく説明していただきました。
また質疑応答の中では、「地域の方々とのかかわり合い」に関して、『実際に現場に足を運び、そこで直接相手とお会いし話をしながら信頼関係を深めていく』という学生たちの姿にとても感銘を受けました。

地域に根付いている『RUK cafe』の居心地の良さと、学生たちのチームワークにより、さらに次の学生たちや次世代にも活動を継続させ、多世代や異業種の方々とつながりながら『RUK cafe』を一つの『地域交流の拠点』としながら、協力し発展させていく学生たちの意欲と熱意が感じられ、たくさんのエネルギーと未来への希望をいただきました。

初めに、NPO法人鎌倉市市民活動センター運営会議理事長である、渡邊公子さまから、鎌倉市におけるNPOの歴史からNPOの運営を含め、鎌倉駅前の生涯学習センター内の『きららカフェ 』http://iikuni-kamakura.jp/pj/IknA0000014 での交流のあり方などを分かりやすく話していただきました。
渡邊公子さまが話された、地域交流やNPOで大事なのは『いかにして創造的に人と人を結びつけ』、1+1が2ではなく3や4以上の役割を持たせるように、多種多様なNPOの人材と地域の方々を有機的につないでおられる体験を具体的に語られました。
『人と人を創造的に結びつける』ことは、立正大学のブランドビジョンである『モラリスト×エキスパート』にもまさに当てはまると思いました。

NPO「命・地球」の理事であり、日独協会員でもあるメンバーからは、NPOだけでなく、NGOの活動としてスポーツや文化芸術などを通じて国際交流や異文化理解を次世代つなぎ地域社会の若者たちへと広げている「市民国際交流協会ACS1988ジャパン」http://www.kcnnet.org/npo/646.html の体験談を通して、世界へと橋渡しをされている実践的な報告から始まり、さらにはご本人の闘病生活も話され、現在病気で苦しんでいる他の多くの患者の方々が置かれている切実な状況なども伝えていただきました。

また、NPO「命・地球」のアドバイザーからは『国際ビジネス』の視点から、企業の多様なビジネス場面において、様々なデータをもとに実際に体験してきた事例を取り上げながら、特に『英語学習の必要性や重要性』に関して具体的にお話していただきました。

また他の理事からは、養護学校の児童生徒との日々の関わり合いから、一人ひとりの生徒の個性や特徴をとらえ、実社会へと橋渡しのために企業体(事業所)とも密接に連携した進路指導と具体的な支援のあり方などを説明していただきました。

今回のNPO「命・地球」との交流会が実りあるものとなり、ラクカフェ運営(立正大学)の方々に深く感謝をしております。

今後とも、人的な相互交流や新たなる企画、例えば『食育(地産地消)と健康(命)や環境(社会問題)』などを通じて、さまざまな交流なども含め『他のNPOやNGOや協会や企業(事業所)などとのコラボレーション』が実現できますことを望んでいます。

あらためて、『RUK cafe』との交流会ができましたことをNPO「命・地球」より、 ここに心より感謝申し上げます。

P.S.
今後、NPO「命・地球」は『京都大学再生医科学研究所』の研究者(河本宏教授)と連携をしながら『市民向けの講演会』を開く予定です。
上記のような講演会の実施のためにサポート(支援)も募集中です。

ご関心やご質問などがございましたら、具体的な内容とご所属などを記載した上で、下記アドレスにお送り下さい。
hirokssr@jewel.ocn.ne.jp

NPO命・地球とRuk Cafe(立正大学経営学部吉田ゼミ)交流会

2016-04-23 19:58:40 | NPO 命・地球

NPO「命・地球」の主宰により、 2016年(平成28年)4月30日(土)に『鎌倉Ruk Cafe』にて交流会を開催いたします。終了しました。

テーマは「社会的企業(NPO)を起業する」という内容で、地域再生のため、市民や有志の方々がどのように連携しながら活動するかを話し合いたいと考えています。

Ruk Cafe
http://rukcafe.tumblr.com/
(立正大学サテライト・キャンパス鎌倉)

(立正大学経営学部吉田ゼミナール)http://www.ris-keiei.com/sp/seminar/semi-details/yoshida-semi.html

会場:Ruk Cafe(鎌倉)にて
アクセスhttp://rukcafe.tumblr.com/access

13:30から開始

渡邊 公子様(NPO法人鎌倉市市民活動センター運営会議理事長)をはじめとして、NPO『命・地球』側からは、3名の方々にご講演していただきます。

後半は、立正大学(吉田ゼミ生)によるプレゼン

プレゼン終了後、質疑応答などを含め、意見交流と親睦(フリートーク)をしながら、地域再生のため、学生たちと地域社会においてどのように連携(協力)しながら活動していくのか、などさまざま話し合いたいと考えています。

今後とも、地域の方々のご支援を心より希望しております。

NPO『命・地球』より感謝を込めて

杉田玄白『耄耋独語』を読みながら、生老病死の節目追想

2016-02-03 00:00:44 | NPO 命・地球
「私は享保十八年癸丑九月十三日の生まれだから、今年文化十三年(1816年)齢正月九日の節分までに、齢は八十四歳、日数で言えば二万九千九百十九日を経たことになる・・」と始まる、杉田玄白の「耄耋(ぼうてつ)独語(どくご)」という書がある。

生まれつき健実だったわけではない・・・杉田九幸翁」と続く。

新旧暦の違いが勿論あるが、敢えて、新暦の『節分』に、この耄耋独語(1816年)を取り上げることは、今年2016年(平成28年)は、刊行後200年の節目になります。二百年前の旧暦では、杉田玄白の計算によると一年は平均すれば約360日前後(閏年ではかなり日数が増える)となります。このように、己の齢を年だけでなく日数で計算するあたりも、蘭学者・医師としてのある意味で科学者としての遍歴も伺い知ることもできます。

さて、この書の紹介を通じて、季節の分かれ目だけでなく、人生の『苦楽』の分け目なども伝えられればと希望いたします。

書名は、人生を年代ごとに区分する「小、少、丁、壮、老、耄、耋」という漢字から来ている。当時の多くの知識人には漢文(漢語)の素地がある。

年齢区分には、いくつか他にも表記があり、『小』とは七歳くらいの小学校入学前ぐらいまで、『少』は十五歳くらいまで、二十歳に丁度成人し『丁』になる。初老は四十歳くらい、『壮』年は五十歳くらいまでで、『老』年は六十歳、「耄」は七十歳、「耋」は八十歳ともいわれています。

また、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」によると、次のように年齢を区分している。

童(15歳以下)、
弱(20歳、柔弱だから)、
壮(30歳、丁壮だから)、
強(40歳、堅強だから)、
艾(がい、50歳、髪の毛がもぐさのように蒼白いから)、
耆(し、60歳、仕事を指で指図するから)、
耄(70歳、頭髪が白くて耄耄としているから)、
耋(80歳、皮膚が黒くなり鉄の色のようだから)、
鮐背(たいはい、90歳、背中にふぐのようなしみができるから)。

中国語では、

古人紀年...
孩提之童襁褓提攜:幼兒、嬰兒
周晬:1
垂髫、總角:童年
始齔:7或8
幼學之年:10
束髮、志學(男)及笄(女):15
弱冠:20
而立、壯歲、壯室之年:30
不惑、強仕之年:40
知天命、半百:50
耳順、耆年、花甲:60
古稀、從心之年、致事之年:70
耄耋之年: 80或90
黃髮、鮐背:90

とも表記するようだ。

いずれにせよ、晩年にこの難しい漢字の「耄・耋」という言葉を、「解体新書」を著した杉田玄白がまさに、84歳(数え年で85歳で亡くなった)の時に、自らの耄耋について『耄耋独語(ぼうてつどくご)』を著しています。
中央公論社の「日本の名著22」には----老いぼれの独り言----とあり、『長寿であれば良いのではない』と呟いている。

「玄白が世の人々がみだりに長寿を得ようとして心を労することは無益なことであり」さらに「年をとるにつれて身体全体が次第に弱るので、こうした老いの身のつらさはとは、お目出度くはない」と書いている。
 老いの苦悩には限りがなく、例えば「手・足・腰の不自由になり、精神の悩み、もの忘れが酷く、老の身の寂しさ、老いの辛さがある、だが人々は単に長寿を願っている」とも書いている。

 83歳では有名な「蘭学事始」を書き、さらにその翌年84歳の玄白は、この「耄耋(ぼうてつ)独語」を書いたのである。そこには亡くなる1年前まで実生活を赤裸々に表し、玄白がその心境(老いの境地)を述べたものとして特に意味深長である。
 つまり老いとは、誰にも避けられず、まさに玄白のひとり言とは、われわれの「老いの鏡」でもある。

耄耋(ぼうてつ)独語の最後には、「老境のみじめさを知らない人びとのためにと思って、この身に経験したことどもを、いま八十にあまる老いの手で、書きとどめてみたしだいである。」とある。
『八十五翁九幸老人』として、多くの門弟に看取られ、四月十七日に数えで85歳に亡くなられた生涯でありました。戒名は「九幸院仁誉義真玄白居士」

「百たらず 八十路に余る 五とせの いつも替わらぬ 春に逢いにけり」

治療、医療と養生に『苦悩』しながら、*『九幸』も味わい、「医事は自然に如かず」と遺した、まさに偉人なのである。

*『九幸』とは、杉田玄白の雅号である。その『九つの幸』とは、以下のようなものである。

一.平和な世に生まれたこと
二.都で育ったこと
三.上下に交わったこと
四.長寿に恵まれたこと
五.俸禄を得ていること
六.貧乏しなかったこと
七.名声を得たこと
八.子孫の多いこと
九.老いてなお壮健であること

なお、来年平成29年(2017年)は、杉田玄白の没後、「二百年の節目」になるのを念頭においていただき、杉田玄白を懐古し顕彰することが、私たちが『十幸(回顧されること)』を重ねることを心から念じながら。


『病家須知』 日本初の看護医療書について

2016-01-31 10:27:55 | NPO 命・地球
看護というと、まずフローレンス・ナイチンゲールの名前や「看護覚え書」を思い出す方が多いのではないかと思います。
ナイチンゲールの『看護覚え書』は1860年に書かれました。その著作を通じて、家族の健康を守りながら病気からも回復するための看護のありかたを世界的に広げました。
このナイチンゲールの著作よりもかなり28年前の1832年(天保3年)に出された『病家須知』という日本初の看護医療書がある。このように考えれば、世界初の看護医療書とも考えられる。

その『病家須知(びょうかすち)』という言葉の意味は、「病人のいる家において、ぜひとも知っておくべきこと」の意味である。
例えれば、今でいう『家庭の医学』のようなものであるが、家庭での介護医療書の古典としてのあまり知られていない金字塔である。

 原本としては、国会図書館に、

http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000007312598-00

タイトル:病家須知 8巻

著者:平野重誠
8冊 (合4冊) ; 26cm
出版年月日等: 天保3・6刊

と蔵書があります。

現代語訳も刊行されており、農文協
http://www.ruralnet.or.jp/zensyu/byokasuchi/ にその解説などがあります。

繰り返しになりますが『病家須知』は江戸時代における日本初の家庭の医学であり、特に看護や介護書であり予防医学において当時の最先端であった。

内容は、詳細に看護法などを述べている。

第1巻 養生総論
第2巻 食養生
第3巻 小児養育
第4巻 婦人養生
第5巻 伝染病
第6巻 中毒救急
第7,8巻 産科に関すること
『坐婆必研』(とりあげばば心得草)上・下巻

衣服や寝具の清潔、養生の心得、病人看護の心得、食生活の指針、妊産婦への対応、助産法、小児養育の心得、当時の伝染病の考え方・処置対策、急病と怪我の救急法、終末医療の心得から、さらには医師の選び方などと全般にわたっている。
一般の庶民向けとして、家庭での看護医療書として日本初なのである。

『病家須知』は、医学史・看護史の一部の専門家には知られていた。しかし、現代語訳される以前は、名前すらほとんどの人たちに知られてはいなかった。
この現代語訳により、養生や家庭での看護介護の歴史を知ることができる。

『養生訓』が世に出てからの数多くの健康の指南書出された。そうして江戸時代からも「医」は「仁術(人助け)」から「算術(金儲け」へ堕落した時期がある。いつしか人々にも病気は金で医者に直してもらうものとなった。
 
しかしながら、その堕落に抗いながら、生涯町医者として日常の基本的な養生や看護の方法をまとめながら『病家須知』を出したのである。

 一.
およそ病気というものは、皆自分の不摂生や不注意が招くわざわいであること。
 
 二.
摂養を怠らず、療薬を軽んじてはならないこと。
 
 
 三.
病人の回復は看病人の良し悪しで大きく変えられる。

上記のような、「医者三分、看病七分」考えを広げました。

平野重誠(1790~1867)は武士出身であり、医学館督事(幕府の医学校校長)や御匙(将軍の主治医)である多紀元簡に学んだエリートだが、上級の官職としては敢えて仕えず、生涯町医者として庶民の治療に専心した。
この平野重誠が四十を過ぎて著した本作が『病家須知』なのである。

「常に勉強している先生(医者)を選ばなければならない」
 平野重誠(ひらのじゅうせい)

養生訓(貝原益軒と杉田玄白の顰に倣いて)

2016-01-21 07:42:40 | NPO 命・地球
健康維持に関しての古くからの養生訓といえば、「医は仁術なり」の言葉で有名な貝原益軒の「養生訓(ようじょうくん)(1712年)」を思い出す方も多いと思われる。いずれにしろ、歴史の教科書で貝原益軒の名前だけとか杉田玄白の「解体新書」などの著作の名前を覚えている方は多いのでないでしょうか。
貝原益軒は85歳まで長生きしましたが、その「養生訓」は、なんと83歳の時に出した著作です。本人の生きていた江戸時代においては相当な長寿であり、その実体験に基づいて書かている。また、長生きをするための「身(体)」の養生の方法だけではなく、「心」のもちかたも説明している点は、杉田玄白(1733年~1817年)の「養生七不可(1771年)」にも当てはまり、当然ながらこの貝原益軒の著作の影響も杉田玄白にはあると言える。
かつては、かなり多くの方々に読まれていた「養生訓」は、最近ではあまり名前すらも聞かなくなったが、来年2017年は杉田玄白の没後200年の節目あたる。
この御二方の著作の内容に触れ、比較や共通点などを考慮しながら、「命」をつないでいく「健康」とは何であるのかを現代的な視点からも考えていくことは大変興味深いのではないでしょうか。

まず、貝原益軒の養生訓(ようじょうくん)は八巻からなり、日常生活の様々な生活様式を細かく捉えながら、養生(健康)法を説明しています。
しかしながら養生の為に、「~するな」というような「禁止や節制」ばかりではありません。健康でありながら、生活そのものを晩年まで楽しむための健康の維持管理や心のありかたの養生訓なのです。

古代中国で発達した儒教思想から来ているこの「養生観」は、心身のバランスを保って健康を保つ方法論であり、それは「気」を通じて、「命と天地の一体化」を図るというものです。そしてまさに、この「気」を通じて「天地」と「同化した身体」になるという思想である。
 故に、この「養生訓」でも強調されているのは、「身を動かし、気を巡らす」ということです。さらに、「心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、休め過ぎるべからず」というような考え方は、現代のリラクゼーション(ストレス発散方法)にも相当します。
儒者でもあった貝原益軒にとっては人の健康の根本は「気」そのものであり、その「気」が病むとまさに「病気」となるのです。「元気」ということは、「元の気」に戻す(戻る)ことが元気となります。

さて、ここから、貝原益軒の「養生訓」と杉田玄白の「養生七不可」を比較しながら考えてみましょう。

貝原益軒は、養生という視点を孟子の君子の「三楽」をもとにして、人間の内面にある欲である「四欲」とのバランスを取ることを提示している。後でも説明しますが、「三楽」たす「四欲」で「七」となり、こじつけのようですが、杉田玄白の「養生七不可」の「七」になります。いずれにせよ、後者は、七不可(すべきでないこと)の「七」つです。

貝原益軒の「三楽」とは、
一 道を行い、善を積むことを楽しむ
二 病にかかることのないのを快く楽しむ
三 長寿を全うすることを楽しむ

四欲は、
一 あれこれと食べてみたいという食欲
二 色欲
三 むやみに眠りたがる欲
四 徒らに喋りたがる欲

上記のことに加えて、四季(季節)に応じた体調管理もすることが長寿につながることを説き、実践したそうです。その結果、貝原益軒は晩年までも、妻と遠方の旅行などもして楽しく過ごしたと言われています。

次に、「解体新書」で有名な杉田玄白が二百年以上も前に書いた、「養生七不可」の骨子を取り上げたいと思います。

一 昨日の非は恨悔すべからず(過ぎてしまったことを後悔しない)

二 明日の是は慮念すべからず(これから先のことをあまり思い煩わない)

三 飲と食とは度を過すべからず(暴飲・暴食をしない)

四 正物に非ざれば苟も食すべからず(出所の分かった食べ物以外は食べない)

五 事なき時は薬を服すべからず(病気でなければ、薬は飲まない)

六 壮実を頼んで房を過すべからず(元気だからといって、欲情に流されない)

七 動作を勤めて安を好むべからず(適度に体を動かして、だらだらしない)

杉田玄白も、江戸時代において80歳過ぎまで生きた医学者であり、「蘭学事始め」の著者で蘭学者でもある。その著作である「養生七不可」も偉大な「養生」の教えの一つであり、お二方の養生訓はこの現代社会において「健康管理」に関して重要で有効ですらあると言える。

 これらを比較しながら、二つの養生訓をあえて現代風に7つに「統合」してみると・・・

1 未来向きに善いことをして、過去をくよくよしない

2 今の健康を楽しみながら、あれこれ思い悩まない

3 長生きのために、暴飲暴食しない

4 慣れない変わった食べ物をあれこれと食べない

5 健康なのに薬を飲み過ぎない

6 元気だからといって感情の赴くままに行動しない

7 適当な運動を心掛け、だらだら寝たり、喋ったり、怠け心がいけない

どうでしょうか。このように統合することで類似点が、さらに感じられるのではと思います。

御二方とも齢八十を過ぎまでの長寿を全うしました。

貝原益軒の辞世は、「越し方は一夜ばかりの心地して八十路あまりの夢を見しかな」であり、杉田玄白の晩年の一首には、「過ぎし世も来る世も同じ夢なればけふの今こそ楽しかりけれ」とあります。

この二人の偉人の人生(命)とは、ある意味で具現化された「夢」としても共通していると考えると、まさに感慨深いものがあります。

また『医の倫理』については、西洋の「ヒポクラテスの誓い」が有名だが、緒方洪庵の「扶氏醫戒之略」、貝原益軒の「醫箴」、杉田玄白の「形影夜話」などは、現代でも十分あてはまる医療においてあるべき倫理的な姿勢も述べられている。さらにその源として、現存する日本最古の医学全書である『医心方』にまで千年の月日を遡ることができる。

まさに、温故知新である。

医事不如自然(杉田玄白)

命不如夢