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花・昆虫との田舎暮らし暦

田舎暮らしも13年目、木々・草花・鳥・昆虫等々、自然は初めて知ることが多く楽しい。色々な経験を紹介していきたい

海津市歴史民俗資料館その2/2 高須松平家 松平容保

2013年12月13日 | 趣味

            

前回に続いて海津市歴史民俗資料館の話しである。高須城はこの資料館の位置ではなく、もう少し北にある明誠高校の近くにあったようだ。明治6年(1873年)に解体されている▼歴史資料館の3階は高須松平藩御館(城)の一部を復元している。当時の部屋構成がよくわかる。高須松平藩は尾張徳川家から分家し、3万石ながら明治維新まで13代続いている。写真1、2は展示されていた家系図である。容保(かたもり)は松平義建(よしたつ)の7男として当地ではなく江戸藩邸で生まれている。10歳の時に会津藩主の養子となり16歳の時、会津藩主になっている(1852年)▼写真3、4は高須松平家と会津松平家の家紋である。高須松平家の紋は葵のマークの周りが菊を図案化したものとなっている。写真5はよく見る松平容保の写真である。言われていることだが確かに八重の桜で演じたいた綾野剛氏に似ている。綾野剛氏が岐阜出身と言うのも不思議な縁を感じる▼これも博物館内に展示されていたものだが写真6は高須松平家の菩提寺である行基寺にある歴代の墓である。海津市南濃町にあるようだ。来年になるだろうが暖かい時期に行ってみたい▼NHKドラマ”八重の桜”も今度が最終回である。前回で松平容保の最後らしい場面があったが明治26年(1893年)12月5日に亡くなっている。享年59歳である。久しぶりに大河ドラマを1年間、見続けた。お陰で日曜日の夜は規則正しい生活となった。オンエアを見られず録画したのは3回だったような気がする、だが見たのは2回だ・・・。


海津市歴史民俗資料館その1/2 堀田 懐かしい餅つき機ともじ(魚・うなぎ採り)

2013年12月12日 | 趣味

       

昨日は一昨日のゴルフ日和から一転、朝は雨だった。農作業はお休みと散髪そして眼医者更にはその近くにある海津市の歴史資料館に行ってみようと家を8時半過ぎに出て、先ずは床屋へ出かけた。10時前に終わり時間も早いので、海津市の歴史資料館へ行くことにした▼10時20分過ぎ、到着した。八重の桜でお馴染みの松平容保の出の高須城があったことから来たかったところである。高須藩については次回、掲載する。写真1がその建物全景である。この地域は土地が低かったこともあり洪水から守るため輪中堤が築かれている。だが土地の低さから雨水なども溜まりやすく稲田は堀田(ほりた)と呼ぶ工法で水面より高くし作られていたようだ。写真2がそれである▼入り口から入ると2階になる。懐かしいものを2つ見つけた。写真3は餅つき機である。長く伸びたきのえの紐で吊るされた部分を足で踏むと杵が上がり、離すと勢い良く落ち、モチをつく。徳島の田舎住まいの中高生時分、隣の家で毎年、踏む役を手伝ったことを思い出す。正月前の年中行事だった▼写真4は魚、主に鰻を取る竹で作った筒である。右側からミミズ、魚のあら・内蔵などを入れて吊るし括る。吉野川で右を上流側として一晩、鎮めておくと、川を上る鰻が左側(下流側)から入る。、入ると出られない仕組みになっており生け捕りできる▼”うえ”あるいは”うげ”とここでは呼んでいたようだが、私が持っていたものはもっと細く”もじ”と呼び、2~3本で鰻を捕まえていた。空の時もあるが大体、大小混ぜて2~3匹の成果だった。が、1度だけ持ち上げると重く、振るといつもガサガサと言うのに何の音もしない。岸に上がり括った上部を解き、開け振るとドサッと20数匹の鰻が出てきた。驚くやら嬉しいやら、その時の鰻を追いかけた光景が今も感覚とともに蘇る。15、16歳の忘れられない思い出である。


禅蔵寺 土岐頼忠の墓 禅蔵寺への道標(石)

2013年12月04日 | 趣味

          

”武家”について考えてみる。馴染みがあると言うのは変だが知っているのは戦国時代から江戸中期徳川吉宗の時代の間だろうか。1550年から1750年ぐらいの200年間ぐらいについては興味を惹かれることも多い。その前について言えば、記録にないこともあるだろうがあまり知らない▼先日、霞間ヶ渓公園の紅葉を見に行く時に禅蔵寺を訪れた、と言うよりちょこっと寄ってみた。写真1は霞間ヶ渓公園から北へ2~3kmのところにある禅蔵寺の史跡案内である。駐車場もなく車を脇に停めて階段を上がってみる▼階段を上がるまでもなく直ぐ右側にこれがある。”土岐頼忠及び一族の墓”である。囲いがあり入れない。写真2は階段とは反対側から撮したものである。そして写真3は禅蔵寺の本堂である。美濃土岐氏は美濃土岐郡(今の土岐市、多治見市辺り)に土着していたようである。土岐頼忠は鎌倉から南北朝時代の人で美濃守護大名の兄を支え、美濃池田郡を拠点にしていたようである。室町時代の1397年に没している。土岐一族としてはその後も続いているようである。因みに家紋は桔梗で旧土岐郡地域の土岐市、多治見市及び瑞浪市の市の花になっている。▼写真4は土岐一族の墓がある禅蔵寺のある方角を示す道標である(池田町宮地)。先日、役場の人から聞いた話では同じようなものが赤坂にもあるとのことである。当時の禅蔵寺の隆盛を思わせる。


池田町の文化遺産4/4 市橋港跡 明和義民の碑

2013年11月21日 | 趣味

      

町を歩いていると”これは何?”と思うことが時々ある。今回の池田町役場主催の”歴史講座 文化財めぐり”は大変、楽しみだった。今回は2点を紹介したい▼写真1は池田町市橋にある市橋港跡である。陸送が容易ではなかった時代、水路を利用した運送は重要だった。揖斐川に合流する杭瀬川は江戸時代より貨物輸送で重要だったようだ。市橋港は比較的新しく明治25年頃に開設されている。積み荷は地元特産の石灰の他、木炭、柿渋などが多かったようだ▼写真2は直ぐ傍に見える石灰が採集されている山である。山の頂きまでダンプカーが通れる道がついている。ところで、この市橋港、住宅街の中にあり、少々、疑問を覚えた。聞いてみるとその頃は杭瀬川が蛇行してここを流れていたとのことである▼写真3、4は以前にも紹介したが大津谷にある明和義民の碑である。まだ、町でも文化財指定にはなっていないとのことである。新たに知ったのは碑の文字、大垣藩主戸田氏の子孫氏直氏の書かれたものである。明和義民騒動は1766年、250年を経ての和解(?)である▼写真1の写真に戻るが市橋港のこの灯台、本当にこんなものがあった?何か不自然に感じた。同じように思う人が多いか直後に説明があった。モニュメントとして海岸で使用していたものを持ってきたもののようだ、納得。


池田町の文化遺産3/4 閻魔堂十王群像

2013年11月19日 | 趣味

      

池田町六之井にある閻魔堂である。正道寺の山門の脇にある。普段は扉が閉じられているようで見過ごしてしまいそうなところにある(写真1)。代々六之井村の庄屋を務めていた五十川家の加藤次定政が江戸から持ち帰ったものと伝えられている▼像容、技法などから寛文年間(1661~1673年)頃と考えられている。写真2は開扉された閻魔堂の十王像群である。地蔵十王経に基づく冥界の姿を具体的に現したものである。写真3は閻魔大王である。冥界の王として死者の生前の罪を裁く神とされている▼面白いと言っては何だが写真4は初めて見聞きすものである。左側は鏡であるが顔を映すと生前の行いが見えると言われる。そして右に見えるのは秤で生前の行いの悪さがわかるようだ。どちらもチャレンジはしたくない▼子供の頃、”嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる”と親から教えられた。ある時、悪友との会話で”今まだ、舌はあるので嘘をつかなかった”と言うと、”二枚舌どころではなく、何枚も舌が持っているんだ”と返された。う~ん、悔しいが妙に納得の言葉である。