今年で8回目を数えるこの祭。
以前は、石和参陣時と重なっていた為、自分の体を割かない限り、無理だったのですが、3,4年前に、ゴールデンウィーク中の日曜日に移動してきて、漸く、観に行ける様になりました。
そして今年。
歴史祭の“先駆者”克殿と左馬之助殿,立烏帽子兜の虎之助殿のほか、ほにゃじ殿,鈴木繁友殿,サプライズで河村真就殿,そして、総州へ転居為された惟新殿が、此度御参陣為られました。
※ほにゃじ殿は、非公式参加です。
半月前の石和と違って、地元で、しかも私は参陣せずに従軍するだけなので、伸びきった髪をさっぱり切って、今年は電車で向かいました。
京成佐倉に着いたのは、12時過ぎ。
今年は、行列出発地が去年と逆転して、市立美術館駐車場(印旛支庁跡地)から旧堀田邸へと向かうもので、時間も13時と聞いていたので、まずは、この時期に秘宝を公開する、佐倉の総鎮守・麻賀多神社へ行ってきました。
すると、(予想通り)今年は、祭礼時,御城下を引廻した“日本武尊”の山車が展示されていました。
これは、嘉永3年,ペリーが来航する3年前の作られ、昭和11年まで活躍したものとか。
なんだか、なんだかのっぺりとした面持ちが、奇妙に恐怖心を湧かせるのですが...。
そう思うのは、私だけ・・・かもしれませんね(^^ゞ
麻賀多神社の秘宝を見た後、“屯所”へ向かおうとするも、はや12時半頃だったのでそれを取り止め、特設茶屋にてお抹茶(菓子付き)を頂いてから、出発地にて、皆さんが来られるのを暫し待っておりました。
すると、何処からとも無く、安岡力也と、奥さんと義母らしき人が旧堀田邸方面へ歩いていきました。
力也は、まるで的屋の元締めみたいで、ただ単におっかないだけ。
奥さんらしき人は、力也と同じくらいの背丈でしたが、スタイルは良かったです。
すると、甲冑を身に纏った皆さんが、ぞくぞくとやって参りました。
・・・が、このとき織部正様から入電が!
もしや、飛び入り参加されたのか?!と、ドキドキして電話に出てみると、なんと!「観覧に来たけど、会場が判らない・・・」とのことで、独り普段着だった私が、お迎えにあがりました。
会場へ繋がる道の入口で踊り狂うソーラン節(に群がる人)を掻き分け掻き分け、途中、これを視察に向かう左馬之助殿にご挨拶をしてから、出陣地へと向かいました。
以前は、石和参陣時と重なっていた為、自分の体を割かない限り、無理だったのですが、3,4年前に、ゴールデンウィーク中の日曜日に移動してきて、漸く、観に行ける様になりました。
そして今年。
歴史祭の“先駆者”克殿と左馬之助殿,立烏帽子兜の虎之助殿のほか、ほにゃじ殿,鈴木繁友殿,サプライズで河村真就殿,そして、総州へ転居為された惟新殿が、此度御参陣為られました。
※ほにゃじ殿は、非公式参加です。
半月前の石和と違って、地元で、しかも私は参陣せずに従軍するだけなので、伸びきった髪をさっぱり切って、今年は電車で向かいました。
京成佐倉に着いたのは、12時過ぎ。
今年は、行列出発地が去年と逆転して、市立美術館駐車場(印旛支庁跡地)から旧堀田邸へと向かうもので、時間も13時と聞いていたので、まずは、この時期に秘宝を公開する、佐倉の総鎮守・麻賀多神社へ行ってきました。
すると、(予想通り)今年は、祭礼時,御城下を引廻した“日本武尊”の山車が展示されていました。
これは、嘉永3年,ペリーが来航する3年前の作られ、昭和11年まで活躍したものとか。
なんだか、なんだかのっぺりとした面持ちが、奇妙に恐怖心を湧かせるのですが...。
そう思うのは、私だけ・・・かもしれませんね(^^ゞ
麻賀多神社の秘宝を見た後、“屯所”へ向かおうとするも、はや12時半頃だったのでそれを取り止め、特設茶屋にてお抹茶(菓子付き)を頂いてから、出発地にて、皆さんが来られるのを暫し待っておりました。
すると、何処からとも無く、安岡力也と、奥さんと義母らしき人が旧堀田邸方面へ歩いていきました。
力也は、まるで的屋の元締めみたいで、ただ単におっかないだけ。
奥さんらしき人は、力也と同じくらいの背丈でしたが、スタイルは良かったです。
すると、甲冑を身に纏った皆さんが、ぞくぞくとやって参りました。
・・・が、このとき織部正様から入電が!
もしや、飛び入り参加されたのか?!と、ドキドキして電話に出てみると、なんと!「観覧に来たけど、会場が判らない・・・」とのことで、独り普段着だった私が、お迎えにあがりました。
会場へ繋がる道の入口で踊り狂うソーラン節(に群がる人)を掻き分け掻き分け、途中、これを視察に向かう左馬之助殿にご挨拶をしてから、出陣地へと向かいました。
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