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くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

チキチキ池袋大暴走!

2007年02月25日 | くない卿見聞記
昨年暮,師走中頃。
大学以来の友達と渋谷で飲んでいた時、池袋では夜を徹した飲み会が開かれていました。
その名も「池袋チキチキ大暴走」
惟新殿が主宰のこれは、大盛り上がりだった!様を日記などで拝見し、ちょい羨望の眼差しで読んでいると、有難くも次回の「大暴走」へお誘いを下さいました。

それが、これから2週間ほど前の土曜日だったのです。

今回この場に参じられたのは...
主宰たる惟新殿に、上越以来の武茶殿,美琴殿とお友達のまつ殿。
そして、過日上野での宴席で勧誘した若に私を含めた6名が1次会の顔ぶれでした。
その待ち合わせは18時頃だったので、その前に,久しぶりの“オフ会”参加に「緊張している」らしい若と、前もって合流して向かう手筈だったのです。が...
仕事だったこの日,それがちょい長引いてしまって若との約束を事実上反故せざるを得ない状況に。
結果,若だけではなく、1次会自体にも遅参してしまいました。
ただ、幸いにも1次会場が職場から近かったので、それを最小限に食い止めることが出来た・・・と思います。

一次会は、明治通沿いにあるビルの地階に在る居酒屋。
店員に一言告げて通されたその席は、もう大盛り上がり!でした。
遅参といっても、入店(着席)は私よりも恐らく15分ほどしか違わない・・・かとは思うのですが、最初からこの高いテンションには、一瞬の戸惑いもありました(苦笑)
そして、この勢いに気圧されては為すがまま,カクテル系は“禁じ手”として封印され、その代わりに2杯目は望んもいないビール(生中)が次々と運ばれてきました(^^ゞ
一応注がれた「酒」なので、飲み干しはしましたが、流石に...
あんなに飲んだは、昨秋のサークルのOB・OG会くらいか大学以来・・・かと。
しかし、珍しく杯を重ねてよく飲んだ割には、酔い潰れなかった奇跡的でした。

ただ、幾許か悪酔い乗りはしましたが...

19時前から始まった1次会は、足掛け4時間以上!
鍋などをつつきながら、様々なネタを酒肴に,抱腹絶倒の時間でした。
この余韻覚めやらぬうちに、2次会として向かったのが池袋西口にあるダーツBar。
ビルの上階に在るここには、深夜にも関わらず多くの人がダーツに興じていました。
そこに我々は、グループと言うこともあってか、個室を宛がわれました。
それを幸いに・・・か、飲み物とおつまみをわんさかと頼み、店員さんのレクチャーを(一応)受けてから2組に分かれてダーツに興じました。
数あるダーツゲームの中で、今回選択したのは減点方式のもので、300点から0点きっちり!に減らさなければならないルール。
ダーツをするのは久しぶりだったのですが、一応,自分の中では無難な成績だったとは思うのですが...
どういう経緯だったか,今となってはもう朧気なのですが、×ゲームをする羽目に。。。
きつかった!です(苦笑)が、その内容はもう、言えません(爆)

ここでは凡そ2時間ほどか,幾分ヘトヘト感を覚えつつ、河岸を変えて入ったのは近くの居酒屋。
座敷の掘り炬燵式に落ち着いたのか、軽めの酒を一杯飲んだ後はお茶漬けやらデザートやらで暫し落ち着き、やがて・・・堕ちました。
気が付いた時にはもう、閉店ゆえに店を出なければならない時間だったのです。

朝5時の池袋は、いまだ目覚め前。
その中で、奇妙なハイテンショングループが駅に,楽しかった時の余韻を反芻しながら各々の帰路へ,別れを惜しみながら向かいました。

久しぶりのオール飲み,実に楽しかった!です。
今回のプロデューサー惟新殿に,次回への期待も籠めて感謝(/^^)

ちなみに...
この後、私は帰路の総武緩行線内でぐっすりと眠り、気付けば幕張本郷。
降りるべき船橋を3つ過ごしていたので、それへ向かうべく東行電車に乗っ戻ろうとしたのですが、気付いたら今度は2つ過ぎた下総中山駅に着いていました。
またも寝過ごしたのです。
流石に3度目は正直に,幾分寝ぼけ眼でしたが船橋で降りました(^^ゞ

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観劇の「おぼんろ」

2007年02月03日 | くない卿見聞記
昨夏,サイッコーに面白い!芝居をを観せてくれたBOSSYが、「劇団の旗揚げ興行に出る!」と聞いたので、この日の仕事帰りに立ち寄ってみました。

場所は早稲田の「早稲田ドラマ館」
久しぶりに都電に乗り、久しぶりに来た早大西早稲田キャンパスの変わり様に驚嘆し……劇場へと向かいました。

この日(夜の回に)は雪魔王とマコ殿が事前に“予約”して来ていたので、早稲田駅近くで合流してから向かったのですが......
なんと!アポ無しが仇となったか、満員札止めでキャンセル待ちをすることに。
今までも、何度かこうした舞台を観に行ったことがありますが、これは初めて。
「待てば入れる」とのことで、先に受付を済ませた2人を見送って、“待合室”にて暫し待機していましたが、今まで観に行った舞台ではそれが無かったので、少なからずの動揺が。。。
そこにはテレビがあったので、「まさか・・・ここ(テレビ)で見る事になるのかなぁ」とか思いながら、待つこと10分ほどか,やっとことさ待ち番号呼ばれて、会場へと案内されて、無事,観劇することが出来ました。

予期せぬキャンセル待ちで入れた劇場は、ドラマ館の3階。
(外観通りに)こじんまりとしていて、そこにビッシリと,凡そ100人ほどが、寸分の隙も作らぬ程に観客が座している中、私が通されたのは上段の通路側に設けられたスペース。
居場所はちょい狭かったですが、舞台全体が見渡せる,格好の位置(席)でした。
そして...
そこに着いてから5分ほどして、いよいよ開演!しました。

むせびるスモークが劇場内を覆う中、スポットに照らされた、悲しげで老いを感じさせる女性の苦悶から始まったこの劇,その内容は...
戦争から25年経ったN国。
高い失業率で浮浪者などが増大し、社会が不安に覆われる中、思い人しか剥せない“招福の赤いガムテープ”を売る宗教団体が爆発的な人気を博す。
老若男女問わず夢中になる中、この隣国の独裁的なトップ(総書記)が“御守り”として手に入れる。
しかし、この隣国とN国は反目しあう関係で、隣国はかつて「受けた傷」の報復を行うべく、強力な“アレ”なる武器を手に入れる。
この事実に、かつて“アレ”なる武器の被害にあったN国は動揺,国会では“アレ”には“アレ”を持つべき!との意見が大勢を占める中、(ここも)独裁的なトップ(大臣)はそれを拒否し続ける。
実は、最初に登場した女性の息子がこの大臣で、かつてこの国が受けた“アレ”の被害者でもあった。
その苦痛を知るがゆえに、“アレ”を持つことに反対した大臣だが、そんな事情も知らない国会などは訝り、業を煮やした隣国のトップ側近が独断で刺客を放って(交渉の末に)暗殺してしまう。
この結果、“アレ”を持つことには賛成派だった副大臣が代行となって、持つことを決断する。
一方,実は孤独で側近の傀儡と化しつつあった隣国のトップは、“アレ”を起爆させ、そのスイッチを箱にしまって“赤いガムテープ”でぐるぐる巻きにしてしまう。。。
ますます社会が不安に駆り立てられる中、“赤いガムテープ”を信奉するトップは、踊ることによってそれを解消しようと努める...。

この劇中,BOSSYは“赤いガムテープ”を信奉するトップを演じる。
「踊ることとで世の中を変える」その役は、(私的に)BOSSYにピッタリ!だと思いました。
この他...
劇中には、多くの登場人物が入替り立代りで出てきました。
その人々には、一見して共通項が思いつかない,最初の頃こそテンでバラバラだったのですが、物語が進むにつれてそれぞれの思惑や思い,思考が見えてきて、実はみんなが一つ,「戦争」(“アレ”)で繋がっており、また、これを引き離すのも
「戦争」(“アレ”)である。。。

シリアルで深みのある,その中にもコミカルな面を織り込む、中々に楽しめたお芝居でした。

観劇後,私がキャンセル待ちしていたフロアーでは、出演役者との面会が出来たので、BOSSYへの慰労とサプライズを込めてお会いしました。
芝居始めのスモークよりも煙るその空間にて暫し歓談,その中では、大臣を演じた男性とも面談しました。
小柄なその方は、劇中に出てきたチョコレートを最前列にいたマコ殿にアドリブで献じるサプライズをしたのですが、BOSSYが今回この芝居に出演する切欠にもなった方とか。
・・・・・・なんだか、身近な空気を感じつつ、舞台の大成功終演!を祈念しBOSSYに辞去して、ここを後にしました。


このあと、マコ殿は雪魔王が馴染みの飲み屋へ行ったのですが、私はこのまま,仕事帰りで時間も遅かったので、そのまま帰りました。
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萌え残る上野の夜宴

2007年01月22日 | くない卿見聞記
“時代祭仲間”(というには少々おこがましいですが...)のTatsu兄(飯綱親分)が、北方から1泊2日で上京されていたのですが、帰国前に,是非とも萌えて帰りたい!から一緒に萌えよう!と、お誘い(ご指名)を受けました。
本来ならば、取るものも取り敢えずに馳せ参じる!のですが......
この日は、日曜日にも関わらず,生憎業務上どうしても出勤しなければならず、朝5時前に起き、日の出前に家を出て、はや,朝の7時半にはもう、仕事をしていました。

泣く子も黙る飯綱親分が、メイド相手に萌えまくる・・・その、滅多に見られない貴重な“瞬間”に立ち会えない残念!無念!!でした......。
しかし、夕方以降,親分が帰る為の新幹線が走っている時間までは「上野で飲んでいる」と聞きつけ、仕事を終えた後,疲労感などなんのその!押取り刀で向かいました。

仕事を終えて職場を出たのは19時過ぎ。
一緒に出た職場の方と、駅の改札を通った後に別れてから「状況報告」をすべく、DoCoMoユーザーへ入電してみると・・・繋がらず。
夕方に(参加している)紋次郎。殿から聞いていた“居場所”は、以前行ったことのある居酒屋なのですが地下にあるので、そこでも繋がるauユーザーの方へ入電すると...
「あと、もう少ししたら店を出ますよ」という、結構衝撃的な返事が。
それでも、「一応参ります(^^ゞ」と告げ,より急いで向かいました。

Tatsu兄御一行が居たのは、上野仲町商店街にある【半兵衛】というお店。
昭和30年代が店のコンセプトなのか、何処と無くノスタルジックな店内で、ちゃぶ台のある座敷にこの日参じられた...
紋次郎。殿,わんわ殿,克さん,若,マコさんの6人が居られました。
仕事とは言え遅参,そのお詫びを込めた挨拶も束の間、“時間”となったので店を出ることに。
若の拙い計算で勘定を済ませた後、店の着いて僅か5分ほど,次の居場所を求めて暫し、上野の街を放浪していました。
なお、紋次郎。殿には「折角駆けつけたから」と、病を押してお付き合いくださりました。
有難き幸せにございますm(_ _)m

放浪の結果,上野丸井の裏側にあった【かまどか】というお店に入る事が出来ました。
皆さんは、既に一次会で散々飲み食いしたそうなので私だけ、夜食兼ねてビールと刺身などのおつまみを頂きながら...
遅れた分を取り返すべく,大いに語り、笑ってきました。

昼間のメイン,メイドカフェは大盛り上がりだったようで、聞けば聞くほど残念無念!
しかも、撮影禁止だったそうで、その場の雰囲気を知ることも出来ずに、尚,悔しかった(^^ゞです。

そんなこんなで...
私にとっては1次会は、店に入ってから2時間半ほど,親分が乗る最終列車に間に合うまで続けられました。
その話のいちいちは、とてもとても...
毎度の事ながら、書けない事だらけ!(笑)
朝も早くから仕事をした為か、テンションがナチュラルな領域だったようで、随分と喋り,笑ったようで、翌朝起きた時,咽喉がちょい痛く、声も擦れ気味でした。
ただ、テンションだけは堕ちる事無く、高水準を保っていました(^^ゞ

次の機会は是非に,親分が萌えてる瞬間を見てみたい!です。


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招福万来!七福神詣!!

2007年01月04日 | くない卿見聞記
旧年中は、私的に良き事が無かったので、新年亥年を機に,招福を願って我が街にある“七福神詣”に行ってきました。

その出発は元日の朝,6時40分。
本来は大晦日より元旦まで、一睡もせずに、出遅れた各所への「新年の御礼」をするつもりだったのですが・・・気付いたら、ケータイのアラームに促されて、出発の10分前に起床。
すばやく身支度を整えて家を出、まずは自宅最寄駅へ,初日の出を拝むべく向かいました。
この東南方向は窪地になっているので、(特に)冬の日の出を見るには格好の場所。
そのテラスには、最多で2,30人が集まり、その瞬間,初日の出を今か今かと待っていました。
・・・そして、雲一つ無い晴天の中,日の出の定刻である6時53分、空を朱色に染めながら、真っ赤な「初日の出」が上がってきました。

その、凛として厳かな雰囲気に見惚れつつ、しっかりと拝んでから、いざ!七福神詣をすべく、御城下町へと向かいました。


車を、春と秋の祭で“中心”となる市駐車場(無料)に止めて、ここから400mほど東へ行った住宅街の一角に集った神様を詣でに行きました。
その、まず(一番)最初に詣でたのは、“毘沙門天”を祀る安城山甚大寺

堀田家の菩提寺であるこの寺は、羽州山形城内に建立されたものを、延享3年の転封(相模守正亮)を機にこの地へ移ってきたそうです。
今でこそ、時間と周囲の環境の所為もあってか、実にひっそりとしてはいますが、かつては城主家の菩提寺に相応しい、大伽藍を要した寺であったそうです。
誰一人居ない,さながら一番乗りの感がある(寺の)本堂へ詣でるべく近づくと、少し戸が開いていたので、ちょい中へ入ってみました。
大伽藍は明治初年に焼亡してしまいましたが、昭和36年に別寺院より移築してここにあるそうですが、比較的浅い時代は感じさせない,実に落ち着いた,凛とした雰囲気を感じました。

続いて詣でたのは、この斜向かいで“弁財天”を祀る清浄山嶺南寺

七福神を祀る寺院の目印として掲げられた幟が無かれば、由緒正しきお邸と見過ごしてしまいそうなこの寺では、秘仏の弁財天を10日まで特別に公開しているのです・・・が、それがあるであろう、本堂の戸は閉まったまま。
静かにひっそりと,その隙間から見てみましたがよく判らず、残念にも拝す事出来ず、(一応)小さく静かに弐礼弐拍手壱礼をして、ここを後にし・・・ようと思ったら、ガラガラと,古めかしい本堂の磨りガラスの戸を開きました。
中から出てきたのは、初老の女性で、(多分)ここの住持さん。
元旦というのに...
「こんな朝早くからいらしゃるとは思いませんでした」と言いながら、「準備は出来ていますから」と、本堂の戸を開け、秘仏を拝させていただきました。
これに改めて礼をし、住持さんに御礼申し上げてその向かい,“寿老人”を祀る正覚山宗圓寺へ行きました。

ここは、佐倉順天堂の創始者佐藤泰然や執政香宗我部家の墓があるそうですが...
ここは、先の2寺よりも更に人気が無く、(比較的)真新しい本堂の戸は、ピッチリと閉まっていましたが、幸い,寿老人は本堂左に祠に祀られていたので、無事,福徳円満を祈して、次,ここから南へ500mほど行った所に在る、久栄山妙隆寺へ。
“大黒天”を詣でに行きました。

複雑に入り組んだ旧城下町の路地を入ったところに在るこのお寺で、まず最初に大声で出迎えてくれたのは、立派なゴールデンレトリバー。
先の宗圓寺でもそうでしたが、これがまた咆えること咆えること。。。
私はただ、信心深く詣でているだけなのに(苦笑)...
しかも、この妙隆寺の住持あろう人も、不思議そうに私を見ていました。
一方,私には全く邪まなことは無いので、とりあえず「こんにちは」と挨拶してから普請中の境内を進んで本堂と、その近くに御座します大黒天様を詣でてから、次,我が街の総鎮守・麻賀多神社へと向かいました。
しかし...
手元の資料をよくよく見ると、西へ行く前にまだ一つ,詣でていないところがあることを確認してたので、地区図とケータイのEZナビウォークを手掛かりに、入り組んだ細道へ進んで、そこへと向かいました。

一群から少し離れたところ,“毘沙門天”を祀る玉寶山松林寺

区検察庁の隣にひっそりと佇むここには、“毘沙門天”のほかにも“聖観音”が祀られており、その配置が石版で,賽銭箱の奥に配してありました。
既にこの時本堂の戸は開いており、自然と,当たり前のように線香が置いてあったので、有難くこれを点けて参りました。

次に詣でたのは、松林寺から西へ1kmほど行ったところに在る我が街の総鎮守・麻賀多神社です。
流石にここは元旦らしく賑々としており、巫女さん達も「お参り有難うございます」と、笑顔で挨拶してくれました。
新年早々,嬉しきことで((笑))...。
さて,ここには“福禄寿”が祀られており、(まず)本殿へ詣でた後,この右脇の東参道口に御座します三峰神社(祭神は麻賀多様の祖父母神)へも詣でました。

ただ、これは後で気付いたのですが、ここには“恵比寿様”も祀られていたようですが、ここへは詣でずに、次,最後はここから南,(旧)武家屋敷の一角に在って“大黒天”と“布袋尊”を祀る大和田山大聖院へと向かいました。

先の麻賀多神社の雰囲気とは一変して、それまでと同じくまたひっそりとあるここで、「除災招福」と「笑門来福」を祈り,ここに七福神を(一応)全て詣でました。

これで今年一年,良い年!でありますように...。

∥ちなみに∥
我が街の「七福神詣」は10日まで,御朱印の受付けは10時から16時まででした。
なるほど。
だから何処もひっそりと,時には犬に咆えられ、驚かれたりするわけで(苦笑)...
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(土)夜のシブヤ

2006年12月16日 | くない卿見聞記
(仕事後)大学以来の友達と“忘年会”をすべく、久方ぶりに降りた渋谷。
学生時分は途中駅であり、サークルの飲み会などはセンター街の居酒屋をよく利用していたので、若干の土地勘と勝手は心得ているつもりでした。
しかし、それは見事に打ち砕かれました...。

待ち合わせは18時半,西口のモヤイ像前にしていたので、それまでの時間、若干猶予があったので、東急ハンズへちょっと寄るべく、北側にある(最寄の)「ハチ公口」へと出てみました。・・・が、その視界に入ってきた想像以上の光景に、冷や汗と気後れを覚えました。
そこにはもう、物凄い数の人人人人人・・・人!
駅から交差点までの、僅か数十mに集う人の量は尋常ならず,これを掻き分け除けて、何とか交差点まで出ましたが、もう、これだけで疲労困憊,相当な体力を消費した感じです。。。

予てより、サッカーの練習には格好の場所では?!と思っているスクランブル交差点を渡って、文化村通りを歩いてハンズまで向かったのですが、ここもまた、然程広くない歩道を行き交う人が多すぎ。。。
(この交差点,青になった瞬間に双方から迫り来る臨場感は、ある意味,何ともいえません...)
唯でさえ急いでいる折に、ノロノロ歩行ではストレスも溜まる!と思い、途中まで車道を堂々と,闊歩して行きました。
ただ、一方で、途中から入ったセンター街は、予想以上に人が居なかったのには拍子抜けしました。

渋谷駅から快足で、10分ほど掛けて辿り着いたハンズで目ぼしき物品を品定めしてから、再び渋谷駅の待ち合わせ場所へと踵を返しました。
この復路は、往路の経験を踏まえて、ハチ公口方面を迂回して向かえたので、回り道とは言え、自分のテンポで行けたのが良かったです。

待合せのモヤイ像前は、ハチ公口ほどではないですが結構の人。
その中で、何とか友達(2人)と合流して、店探しへと出ました。
先ほど、ハンズへ向かう道すがら、よさげな店を探しながら歩いて居たのですが、やはり、かの人出ではツライ...のと、友達2人の意向もあって、山手の内側,東急百貨店内を縫うように進んで東口へと出てから明治通りをちょい北上。
ビルの2階にある【北海道】という居酒屋へ行きました。が、1時間待ちの上に2時間制と聞いて断念し、次,ビックカメラの上にある居酒屋【えん】へと向かいました。
この店,池袋では利用したことがある、結構よさげなお店なので、混んでいないか心配だったのですが...
待たずにすんなり入れました。
ビックの上,最上階と言うのが幸いしたのかも・・・しれません。
通されたその席は、なんと,“日本庭園”に面した席。
外界の雑踏からは、凡そかけ離れた落ち着きあるその席で、(私の)終電間際まで4時間ほど,ちびちび飲み,ちびちび食べては大いに談じて暮れて行きました...。


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坂東暦:戌年霜月酉日(参之酉)

2006年11月28日 | くない卿見聞記
この日の仕事が終わり際,別棟へ用あって行く途中、直ぐ近くの神社から賑々しい雰囲気が伝わってきたので、そこへと伸びる堤燈の灯りに誘われて、ちょい、立ち寄ってきました。

そこは、都電沿いの小ぢんまりとした御社で、住宅地に囲まれているにもかかわらず、普段は人気が全く無いのですが...
この夜ばかりは、的屋が立ち並び、社務所には舞台が設えてあり、そこでは沖縄歌謡(?!)が披露されるなど賑々しく、また多くの人が境内にいました。

そんな中で、一際賑々しく活気があったのが、「熊手」の屋台...と、いうことで、この夜にこの境内で開かれていたのは“酉の市”だったのです。
朝,テレビで浅草鷲神社の有名な夜通し“酉の市”の模様が中継されていましたが、ここでは流石に夜通し・・・ではなかったようですが、一の酉,二の酉は勿論開かれていて、賑々しい雰囲気は感じていました。
なので、是非とも行きたかったのですが、近くても中々行けず、やっと、今年(霜月)最後の“酉の日”だったこの日に、ぶらりと立ち寄ってみたのです。
しかも、半ば仕事を抜け出してきたようなものですが...

(上記の通り)いつもはひっそりとある神社境内は大変に賑わっていて、熊手の屋台前では引っ切り無しに、商談成立の“手締め(三三七拍子)”が打たれていました。
折角なので、私も(ちゃっかり)その輪に混じって打ってきましたが、なんだか、気合を入れられた様で、得した感じもして面白かったです。


ただ、別棟へ行くだけだったので財布を持っておらず、美味しそうな匂いにも従えなかったのが、ちと、残念でしたが...。


今年,戌年霜月は参之酉まであったので、皆さん,火の元には十分にお気をつけ下されm(_ _)m

ちなみに...
「酉の市」は、関東地方以外(一部東海)にはない習わしのようです。

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歴史のなかの「鉄炮伝来」・・・1弾目

2006年11月05日 | くない卿見聞記
総州佐倉の国立歴史民俗博物館が、数十年の歳月を掛けて蒐集した“鉄砲”の数々と、その研究成果を観る事の出来る、貴重な今回の企画展。
その最初,第1部(3部構成)「鉄炮の受容と定着」は、まず、“実戦配備”された鉄炮が威力を発揮した各合戦の屏風(合成:レプリカ)が飾られていました。
間近で見る機会が滅多に無いものなので、じっくりと,目を凝らして見て来ましたが、いろいろな発見などあって、実に面白かったです。
そして、これに続いてあったのが、今回の“目玉”とも言うべき、宇田川先生が提唱された“新説”の論証でした。

まず...
今まで、鉄炮伝来の“根拠”となっていた『鉄炮記』という、薩摩島津家士種子島久時(種子島島主)が江戸初期に編纂した書物について...
・実のところ、「種子島へ鉄炮が伝来した」というのは、『鉄炮記』以外の史料には見られないこと。
・この書物が、“伝来”の年から60年も後に、先祖の栄徳を讃える為に編纂されたもので、信憑性に欠ける
...という、史料批判がなされていました。
また、特に西国地方で発見された鉄炮は、それぞれ造りなどが微妙に異なることも、今回解ったようです。

日本は、四方を海に囲まれた海洋国家。
更に鉄炮が伝来した頃の、特に西国近海を含む東アジア海域は、日本国内の混乱と明国の解禁政策の余波から密貿易が活発化。
これが、再度の倭寇(後期)の跳梁するところとなるが、実は、種子島に鉄炮を伝えた人物こそが、「王直(五峰)」という、明国人だが肥前平戸を本拠とした倭寇の頭目であったとも言われており、他方,防長守護大内家や豊前守護大友家などとも交流があったようで、伝来が種子島に特定する“危険性”を、今回改めて知り、目から鱗が出る思いでした。

なお、日本に伝来した鉄炮は、誕生地・欧州とは異なる造りをしていることも、今回初めて知りました。
それは...
日本は頬に付けて撃つのに対し、欧州では肩付けで,時には“杖”を付けて撃つのです。
よって、銃床と呼ばれてる取っ手の部分が、日本のは小さく、また“庵”と呼ばれる膨らみがあるのに対し、欧州様は大きく、肩に付けられるように膨らみもないのです。
更には、“点火装置”にも違いがあり、日本様は火縄を挟んだ「火鋏」が、火皿へ“向っていく”のに対し、欧州様はこの逆,“向ってくる”形式なのです。
この、日本と同じ様式の鉄炮は、東南アジアにて発見されておることから、この地域から“伝来”したことは、間違いは無いであろう,とされています。
しかし、この“改造”がいつ,どの地域でなされたものであるかは、今後の研究・調査を待たねばならないそうです。
これは、初耳のネタだったので、実に新鮮で面白かったです。

ただ、様式は他国(地域)間のみならず、伝来した日本国内でも、これ以後に勃興したそれぞれの“流派(流儀)”によっても違ってきています。
それらは、(それぞれ)「秘伝書」として伝授されていくのですが、特に目を惹いたのが当代一流の鉄炮撃ち稲富一夢(祐直)が作成(監修)した「 」。
この企画展のポスターにも用いられていますが、描写が細かくて色彩は鮮やか,表装とかには金銀(金箔)も用いられていて、そこには葵御紋も設えてあり、格式も高く仕上がっていました。
なお、人の動きが一目で解る様に、描かれている人物は(全て)裸,視線なども事細かく朱書きされていました。

ちなみに。
我が贔屓とする上杉家には、丸田九左衛門盛次が開いた「霞流」を流儀としているが、これに用いられる鉄炮は上角辺の丸筒。
これが、他流派に比べて銃身がは短いが大型,[銃身と銃床とが金具で留められ、地板の形状と鉄製の大きな用心金に特徴]があるとか。

鉄炮が伝来した当時、これは狩猟や献上品として用いられており、“実戦配備”が成されるようになるのは、これより暫く後のこと。
しかし、実戦配備されると、合戦の仕方ばかりか武者の装いにも、今までは糸を編み合わせていく縅鎧が主流だったのが、一枚鉄板からない当世具足へと変化していく。
その変遷が、3領の甲冑にて紹介されていたのですが、その一つ,徳川家光公所有の当世具足(黒)には、3箇所ほどの弾痕があるのですが、これは、試撃の痕,即ち品質確認の一つ・・・のようで、距離と威力がどの程度であったかは知りませんが、具足がしっかりと鉄炮から“防御”している証が、そこには残っていました。

この他,この第1部には、戦乱によって飛躍的に発展した鉄炮の“数々”が展示されていましたが、中には、鉄炮の概念を飛び越えて、大砲(大筒)の域に達したような、1人では到底扱えない,使えば返って被害を被りそうな、大規模なものまで展示されていて、これらは実に圧巻でした。

なお、当時の感覚に於いて鉄炮は“消耗品”であり、伝来初期のそれは大変貴重なのだそうです。

<<<「構え」直す>>><<<「二弾目」へ打込む>>>

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フルーティスト

2006年11月03日 | くない卿見聞記
フルート奏者のことを、(世間では)こう呼ぶそうです(ね)。
私は、初めてこの言葉を聞いた時,(刹那)フルーツ大好きな人の事かと思いました...。
ただ、この“言葉”からイメージするにはとても、遠く似つかわしくない方々も多く居られます...が、先日,これにピッタリな、新進気鋭の“フルーティスト”と業務上お会いする機会がありました。

このお方は、私よりは(確か)3つ程年下なのですが、小さい頃から“フルーティスト”としての才能と実力を発揮。
数々のコンクールで優秀な成績を収められ、母校で教鞭(レッスン)を取る一方で、演奏会に於いても高い評価を得て世間も注目を受け、マスコミなどでも度々取り上げられるほど、有名な方・・・なそうです。
確かに、仕事終わりにサインを(何人かに)求められてましたから。。。
ただ如何せん,私は、その道にカラッキシ疎いので、全くその“価値”や“有り難味”,“実力”の程が判らなかったのですが...
その道に明るい方にとっては“超有名人”であり、間近で見ることが出来るのが、とても感動的,「しびれるくらい」に嬉しいそうです。

ただ、ある明るい人は「アカの付いていない、高島ちさ子」とも、言ってました。。。が、これはナルホド,お会いしてみて判りました。
全くオーラが感じられないのです。
これは、決して私が鈍感なのではなく、この仕事に(同じく)携った方々に共通した“実感”なのです。

何せ、約束の場所へ30分も前に着いて、未来の“フルーティスト”や“ピアニスト”とプチレッスンやら歓談やらしていたのに、担当者は誰一人,全くこれに気付かず...。
予定(約束)の時間間際になっても現れないので右往左往,方々に連絡(確認)したり、今後の協議を対応したりと大あらわ。
私も、事情知らずにのんびりと,予定の時間15分ほど前に行ってこの“騒動”に巻き込まれ、(冷)汗だくになりましたが、オチはそういうことでした(苦笑)。

そんな“騒動”の後、“無事”にお会い出来たご本人は、確かに,一見すると女子大生ですが、フルートを一度握れば、そこは,流石にプロの“フルーティスト”
音楽的素養のある職場の方たちは、その奏でる音色に甚く感動と興奮をし、感性ある未来の子達や聴衆も、拍手喝采でした。

一方、それがカラッキシ無い私でも、良く聞く未来のフルーティスト達とは全く違う,いや、比較するのもおこがましいほどに、きれいでのびやか,思わず聞き惚れてしまう、心地よい音色でした。
(お題は、プロコフィエフの「フルート・ソナタ」なる曲,結構難しいとも..)

それは正に、“フルーティスト”と聞いて直感する、とても綺麗でなんだか新鮮,爽快感溢れるものでした(笑)

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ルミネでヨシモト:閉幕

2006年10月29日 | くない卿見聞記
「インパルス」の無難なコントから始まり、「ハリガネロック」のデオチで終わったこの日の“7じ9じ”

その終了時刻は21時15分過ぎでした。

ハリガネロックの、余りにも意外なデオチとその終わり方に、12組全てのプログラムが終了したとは思えず、直ぐには席を立てませんでした(笑)

劇場を出るのが少し遅れたので、エレベーターは既に満員続き。
よって、降下には行きと同じく、階段とエスカレーターを使って行きました。

21時を幾分過ぎていたとはいえ、ここは新宿。
ヨシモトの売店含め、多くのテナントは営業中でしたが、それらには目もくれずにスルーして、新宿から中央快速に乗って帰路に着きました。

高校以来の友達が、NSCに通いつつ、数年間舞台に立っていたので、前々から知り、興味もあったルミネのヨシモト。
それが今回、思いがけずも実現できて、嬉しかったし面白かったです。
手元の、10月のプログラムには、いま大活躍の芸人なども舞台に上がっているようで、なお、興味が湧いてきます。
けど、月曜日の夜7時の回で満員だったので、チケットを取ることなど...
ましてや、今回ほどの“いい”席は、容易には取れないだろうな...と思うと、より、“貴重な体験をした!”という実感が湧いてきます。

機会あれば、また是非観に来てみたいです。

<<<「開幕前」の模様はコチラから<<<
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ルミネでヨシモト:開幕!

2006年10月28日 | くない卿見聞記
初めて観に来た「ルミネ」の“ヨシモト”。

19時開演の少し前,前説が登場。
コンビの芸人で、名前は・・・忘れました。けど、無難な前説だったことは確かで...
いつの日か、メジャーになった時に改めて。

前説が下がった後、会場内の照明が落ちると、舞台左右のモニターで(アニメーションを交えながら)登場芸人が紹介されました。
その、一番手は...
インパルス”でした。
チケットと一緒に頂いたパンフには、一番最初に名前が挙がってはいましたが、まさか、その通りになるとは思いもよらず、(私も含め)大盛り上がりの会場。
その中で登場した、2人,板倉はスーツで、堤下は気色悪いほどの女装。
この装いで展開するコントは、“潰れかけの芸能プロダクション”。
翌日に迫った堤下のオーディションに向けて、社長の板倉が“特訓”を施すというものでしたが、中々面白かったです。
特に、板倉が堤下の欠点を、間髪入れずにボケツッコムところが。
(後日、「エンタの神様」にてこのコントを見かけました...)

ただ...
この会にはこの他、休憩後の“フットボールアワー”,トリに“ハリガネロック”という(そこそこ)メジャー級が出ていましたが、何れも精彩欠く漫才(コント)。
フットボールアワーは、岩尾の登場に際してのデオチがあっただけで、後は、意味不明な漫才を展開。
正直、笑えなかった。。。
トリのハリガネロックも同じ。
インパルスと同じ、オーディションのネタを披露したが、ユウキロックが白塗りの“スクリーム”の様な装いで登場。
けど、これもやはりデオチ気味で、客席の反応が鈍いことを感じたユウキガ、ウソかマコトかキレだす始末。
あまり後味は良く無かったです。
そんな中で、この日,この会中一番面白かった!のが、先日,エアギター世界一に輝いたオオチと、大谷がコンビを組む「ダイノジ」。
大阪風コテコテな、ドデカク虎がデザインされた揃いのセーターで現れた二人の漫才は、とってもテンポがよく、(私も含め)観客席は大笑いでした!
最初は謙虚にか、「僕らの話はつまらないですよ」とか、「持ち時間8分なんて多すぎ」なんて言ってたのですが、いざ始まってみればもう、あっという間。
短すぎるくらいでした。

その最初、「ダイノジ」がツカミのネタとして持ち出したのが、この前に登場した「ニブンゴ!」という3人組のコント。
深夜の暇なコンビニで働くバイト2人が、「客を笑わせる」ことを勝負しようとしているところに入ってきた強盗とを巡る、掛け合い。
血眼な強盗を、いろいろと、あの手この手で笑わせようとするその掛け合いが、なんとも珍妙で、実に面白かったです。

この日は、この他にも7(組)の芸人が登場しました。
例えば、「浅越ゴエ」
ピン芸人の彼は、ニュースキャスターにに扮し、ニュース調にコントを展開するのですが、これが中々,小技で笑わしてくれるところが、私的には好きでした。
次に、「サカイスト」
“酒井”兄弟による漫才は、無難に面白かったです。
2幕終幕近くには、「井上マー」が登場していました。
白塗りのビジュアル系で登場した彼は、一瞬観客席を引かせるも、立て続けに繰り出すバカバカしいショートコントに、徐々に(私含めて)客席のテンションも復帰。
それを感じ取ってか、マーも「今日は調子がいい」という始末...でした。
これには、隣に座っていた女の子たちも納得したみてたみたいで、小声で「今日は面白いね」って、言ってました。
私的には、一歩引いて観て笑ってました。

こうして、面白かった芸人がいる一方で...
例えば、1幕の最後の方に出た、急遽出場の「COWCOW」
深夜の強盗に押し入る設定で、(警備員の照らす)照明に合わせてモノマネをするというもの。
ネタがほぼ同じで、これが枯渇するのは時間の問題,数年の命もなさそうだな...と、感じました。
また、2幕の最後の方に登場した「じゃんぴょん」
ダンス教室のインストラクターと新人生徒と言う設定でしたが、ピチピチのタイツがリアルに気持ち悪く、つまらなかった印象だけが強いです。

この他、「トータルテンボス」「アームストロング」が出演していましたが、もう、記憶・・・というか、印象が全く残ってないです。

>>>「閉幕」後はコチラから>>>
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ルミネでよしもと:開幕前

2006年10月27日 | くない卿見聞記
今から10日程前,16日(月)の朝,出勤直後のこと。

席に着いてボーっとしていたら、隣席の同僚さんから唐突に「夕方空いてますか?」と訊ねられました。
私は、てっきり業務上のことかと思って「ええ」と答えたら、「これ、行けないのでどうぞ。」と、「ルミネ de ヨシモト 7じ9じ」のチケットを頂きました。

一体全体何故?!かと思ったら、実はこの方も、朝,出勤したら、机の上に置手紙と一緒に置いてあったそうですが、都合(実は体調)が悪くて行く事が出来ず、ならば私に,と渡ってきました。
ちなみに、その提供者は職場の別科の方。
一体全体どうして?!かと思ったら、置手紙によると、やっとの思いで取得したのか麒麟のライブとブッキングしてしまったがゆえの処置・・・だったようです。
そういえば、土曜日に出勤した折,机の上にあるのを見かけていたのですが、それはてっきり、仕事上の書類かと思っていたのですが...。
その起因は、以前,大阪出身の同僚さんとこの方が、吉本ネタで話をしたことのようです・・・が、その唐突な思わぬ提供に驚きつつも、折角の機会と、有難く頂いて行ってきました。

今回頂いたチケットは、文字通り“7時から9時まで”のライブ(舞台)。
その開演は18時半からだったのですが、入場は、これから15分後の45分頃。
入口では、協賛の大塚製薬からか、オロナミンCが配られたので、ありがたく頂いて、指定の席へと向いました。

会場内は全席指定で、私の(頂いた)チケットには“A列11番”とありました。
頂いたその時には深く考えなかったのですが、会場に入り、アルファベットを追う毎に近づいてくる舞台に、「まさか」とは思ったのですが、それは「やっぱり・・・」に代わりました。
指定の席は舞台際の一番最前列,しかも中央の左から2番目の席。
東京ドームでは実現できなかった“カブリツキ”な席(--ゞ...
ど真ん中では無く安心しましたが、それでも一番前の列,なぜか私が緊張の面持ちで、その幕が開けるのを、今か今かと待っていました。


>>>「開幕」後はコチラから>>>
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勇壮!佐倉の秋祭り:第三幕(終幕)

2006年10月25日 | くない卿見聞記
佐倉と縁を持ってから、初めて観に来た秋祭り。
前々から、気にはなっていたのですが、今年観に行った切欠は、仕事で観に行けなかった川越祭の模様を拝見してから。
・・・それともう一つ、是非観てみたものがあったからです。
それは、現在(佐倉で)巡行可能な山車2台の内の一つ、仲町の山車。
これには、三国志好きには黙っていられない?!
江戸後期,文政年間に作られた、「関羽」の人形が(山車に)飾ってあるというのです。

麻賀多神社の御神輿を、思いがけずに観た後は、この山車を探すこととしました。

祭礼本部には、今現在,山車(御神酒所)が何処を巡行しているかが一目で判るパネルがあったので、それを頼りに、その示す方向(東)へと向かっていきました。
ただ、進めば進むほど祭礼区中心からは離れて行き、賑わいも人通りも疎らに。
ホントにこの先あるのか、疑問を感じつつ進むも、一行に見つからず。。。
ここへ、陽も暮れてきてしまい、軽装な身には堪える気候になってきた,しかも、笑点の時間も差し迫ってきたので、ここで無念にも捜索を断念!
致し方なく、車を止めた印旛支庁へと向かうこととしました。

ただその途中、佐倉厚生園経由で向かうつもりだったのですが、久しぶりの御城下,入るべき道をちと間違えて、疑心暗鬼に進んでいると、東側からお囃子が!
(来た道を戻って)その方へ向かって行くと、幸運にも・・か、目的地,佐倉厚生園に繋がる路地に入れました。
ここへと導いてくれた、ありがたいこのお囃子は、一台の御神酒所を引き袋町の衆でした。
一番最初,麻賀多神社近くの新町交差点近くで観た御神酒所と仲町の石橋「山車」とは、規模も迫力も小さいですが、賑やかさは勝るとも劣らぬもの。
住宅街の路地なので、行く手を阻むように,道一杯に悠々と進む御神酒所と袋町の衆に、暫し付いて行きました。

能面の「」に似た面相の人形が設えてある、袋町の御神酒所。
それが、お囃子の調子に合わせて操られていましたが、それが、妙にコミカルで面白かったです。
一方驚いたのが、御神酒所の機能。
これは、実は新町での御神酒所と山車とのすれ違いの折にも目撃したのですが、御神酒所の上部が、左右に回転出来るのです!
途中,これを間近で目撃する機会があったのですが、これを合図にか、その向く方へ、一斉に,賑々しく囃していました。

こじんまりとした、この袋町衆に最後まで付いて行こうと思ったのですが、陽も暮れてきて寒さがちと身に堪えだし、笑点の時間も迫っていたので、残念ながら、先を越して、車を止めてある印旛支庁へと向かいました。

車内の暖かさに小さな感動を得つつ、帰路へとつきました。
お蔭で、笑点は間に合いました!


佐倉と縁を持つようになって15年以上,初めて観に行った秋祭り。
それが、斯程に賑々しく勇壮な祭だとは思いもよらず。。。
今まで観に行かなかったことを後悔しつつ、もう、今からですが(^^ゞ...
来年の秋祭りが待ち遠しくなってきました!

私が今回観たのは、祭のホンの触り程度。
来年は、出来れば最後,夜までじっくりと観て見たいです。


<<<<<<<秋祭りを最初から!◇◇◇
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勇壮!佐倉の秋祭り:第二幕

2006年10月24日 | くない卿見聞記
毎年神無月の中葉,佐倉御城下で執り行われる御例祭。
佐倉の鎮守・麻賀多神社のほか、御城下新町の氏神・神明神社弥勒町の八幡神社,田町の愛宕神社の御例祭も合わせて執り行われるそうです。
この始まりは江戸中期,今から280年以上も昔に遡ります。

時は、紀伊徳川家から徳川宗家を継ぎ将軍職に就いた、8代将軍吉宗公の治世の享保年間。
この時の佐倉城主は、大給家松平左近将監乗邑
吉宗公の右腕として、享保の改革の断行に尽力し、老中首座までに昇った人物です。
ただ、将軍継嗣争いに事実上敗れて、羽州山形へ減封の上、左遷されてしまいます。
(ちなみに、大河「八代将軍吉宗」では阿部寛演じていました。)
ただこれは、文献上確認出来る起源であって、麻賀多社も、他の二社も、遥か以前からこの佐倉に鎮座ましましていたので、実は、もっともっと古く,歴史ある祭なのかもしれません。。。
そこのところは、申し訳ありません,不勉強でよくよく判りませんが(^^ゞ...。

麻賀多神社近く,新町交差点付近で、思いがけずも新町の「御神酒所」と横町の「石橋の山車」の出合いを見てから、祭礼区中心へと向かいました。
中心区を東西に結ぶ新町通りには、屋台が所狭しと軒を連ね、多くの人でごった返していました。
特に、自力で餅を搗いている店には、一段と多くの人が集まっていました。
それは、初夏の時代祭ほどではありませんが...。
祭礼本部はその中,印旛支庁跡地(佐倉市駐車場)に設けられていますが、そこで、意外なものを発見しました。それは...

麻賀多神社の御神輿です。

享保年間に、今の金額に換算すると“7000万円”もの大金(300両)を投じて造られた神輿は、県内では比類無き程の大きさと聞いたのですが、実際にそれを見て、流石・・・と、圧倒されました。
その大きさ,煌びやかさに。

時は、日没迫る16時半頃。

ここに設けられた御仮屋に鎮座まします御神輿は、麻賀多神社から渡御した後、市中を練り歩く前,担ぎ手の白丁たちによって入念な準備が為されていました。
そしてその先,御神輿が通られる“道”の沿道には、羽織袴に黒帽子という、一風変わった装いの“氏子”衆が、衣冠束帯姿の麻賀多神社宮司や、時代祭にも参られる堀田家御当主様と共に、それを見守っていました。

そして、御仮屋間近で出発を待つこと15分ほど,16時45分頃。
遂に御神輿は御仮屋を、宮司や堀田家御当主,世話役の先導の下,出発しました!

その時の会場一帯はもう、大歓声!

その渦中に飛び込んだ御神輿は、新町交差点方向へと曲がって行きましたが、観衆の多さも手伝ってか、一瞬大きく傾いたのです!
その時は、大きな悲鳴にも似た歓声が上がったのですが、それも直ぐに持ち直し、威勢のいい掛け声を上げながら、西へ西へと向かいました。
ちなみに、佐倉の御神輿は「明神祭,さらば久し」という掛け声を上げます。
これは、「神様お久しぶりです。」と言った意味があるようです。
(これは、地元民なら誰でも踊れる?!“佐倉音頭”の一節にも、確かありました。てっきり、「さだまさし」って言っているものだとばかり思ってましたが...。)


◇◇◇秋祭りの第三幕(終幕)へ >>>>>>
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勇壮!佐倉の秋祭り:第一幕

2006年10月23日 | くない卿見聞記
毎年,神無月の中葉。
我が街佐倉の鎮守・麻賀多神社御祭神稚参霊命(和久産巣日神:わかむすびのみこと)の御生誕日を祝して、盛大に執り行われる御例祭
これを今年、佐倉に縁を持つ様になって初めて観に行ってきました。

例祭区の南に在る印旛支庁に車を停めて、まずは麻賀多神社へ向かいました。
その途中、思いがけずも御神輿の列に遭遇!
小振りながらも、老若男女幾十人かに担がれ、先払いの先導で威勢良く練り歩いていました。
それにすっかり威勢をつけられて、通行止めになった県道の坂道を、急いで上って向かいました。

この日の昼間は、10月にしては・・・か、少し汗ばむ陽気だったのですが、時は日暮れ近くの16時頃。
一応、近所で車で行ったので、半袖短パンに草履な装いだったのですが、周りを見れば温かそうな装い。
一昔前の、元気な小学生ルックがちょい無謀だったのか、幾分肌(だけではない?!)寒さを感じながら(^^ゞ、印旛支庁から10分ほど掛けて麻賀多社へ到着しました。

御例祭を観る前にまず、鎮守様へ参詣しようと思い着た麻賀多神社。
御祭神の御祭ゆえ、てっきり大盛り上がりしている!のかと思ったら、至って普通。
参詣人は引っ切り無しでしたが、それも、小人数。
外では、賑々しく鳴り響く祭囃子や歓声もありましたが、それも別世界の如く,蒼々と茂る鎮守の杜に掻き消されてか、とても静かでした。。。
周りには、幟など掲げられて、雰囲気は存分あるのですが。
なんだか拍子抜けな感でしたが、それはそれ,礼に則って詣でて後、祭礼区中心へと向かいました。

麻賀多神社へ詣でて後、社外へ出て祭礼区中心へ向かおうとした所、次第に近付いてくる祭囃子が耳に入ってきました。
その方へ、誘われるかのようにして向かってみると、祭礼区中心(東)からこちら,新町交差点へ向かってくる一台の山車がありました。
本町の山車です。

ただ、これは正確に言うと踊り屋台で、(ここ佐倉では)御神酒所と呼んでいるそうですが、その迫力たるや凄いです。
特に、交差点を直角に(進行方向)右折する際。
その間際にいた私の目の前を、大きな御神酒所を引き手が巧みに操作して曲がって行く姿はもう、「圧巻」の一言です。
(その最中も)お囃子頭がマイクで!?音頭を採りながら、御神酒所や引き手,先払い衆が威勢良く囃しつつ、市役所方面へと進んで行きました。
すると、向こう(市役所方面)から一群が。
それは横町の、巡行が可能な数少ない、「石橋(しゃっきょう)の“山車”」でした。

けど、それが斯程貴重なものとは、この時は無念...全く知らず。
新町衆と横町衆とがすれ違う際、お互い,お囃子の調子に合わせて踊り合うのを、少し離れたところから、ただ観ていただけでした,残念。


◇◇◇秋祭りの「第二幕」へ>>>>>>>
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勇壮!佐倉の秋祭り:序幕

2006年10月22日 | くない卿見聞記
前日夜,浦和で堪能した【ジンギスカン】。
(実は)この先立つ昼に、みなゆうさんや紋次郎。殿方々は、川越に行っておられました。
ここではこの日、国の重要無形民俗文化財に指定されている「川越祭」が厳かに,かつ、盛大に執り行われていました。
その模様は、みなゆうさんが撮り貯めた画像より拝見しましたが、その勇壮さ,盛大さと、楽しそうな皆様を見て、仕事とはいえ、行けなかったのが至極残念!な思いがしました。。。

ところが。
我が街佐倉御城下でも毎年この時季,神輿や山車が繰り出す盛大勇壮なお祭が挙行されています。
それが今年は(先週)13日の金曜日から日曜日に掛けての3日間執り行われていたので、折角の機会,初めて観に行って来ました。

我が家から御城下までは数キロ,自転車だと40分ほど、山あり谷ありのきつい高低を自力で行かねばならず、電車も面倒だったので、広報誌(PDF)や秋祭り公式のサイトなどで祭区域や交通規制,駐車場などを確認して出発しました。
交通規制南端(佐倉警察署付近・鏑木町交差点)は、常日頃渋滞している上、このお蔭でより混んでいるのでは?!と思ったのですが、意外に普通。
交通量は大目でしたが流れていたのでイライラする事無く交差点を通過。
駐車場は、佐倉城大手門(県立佐倉東高校)付近に設けられていたのを確認していったのですが、満車時のことを考えてそこへ行くのは止め、鏑木町交差点近くの「いなげや」に停めると便利,と考えたのですが、ここがほぼ満車。
それを見て、また、駐車場入口には指定駐車場の案内もあったのでより気が引けたので、その先,指定駐車場の一つ、印旛支庁(北総県民センター印旛合同庁舎)に停め、まずは祭区域西端に鎮座します佐倉の鎮守・麻賀多神社へと向かいました。

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