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郷土の歴史と古城巡り

地名由来「神谷・矢原」

地名由来「神谷・矢原」  宍粟市山崎町

                 閲覧数2,366件(2010.1.5~2019.10.31)


山崎町河東地区

■神谷(こうだに)
揖保川中流左岸に位置する。

【近世】神谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。石作庄のうち。年月日不詳の播州国石作庄・段銭等算用状(久我家文書)に「神谷」の名主の名がみえ、河谷とも記されている。同算用状には「橘村」や「橘山田」がみえるが、現在の神谷地区に立花・山田の小字名が残り、揖保川の河岸段丘上の北側に山田、中央から南にかけて立花が位置する。慶長国絵図に村名がみえる。神社は、八岡(はちおか)神社。当村には、大庄屋栗山儀右衛門がいた。同氏宅の長屋門などが残っている。幕末栗山孫十郎によって寺子屋が開かれた。明治11年岸田村の博文小学校が当村に移転。同校で教鞭をとった当村出身栗山新は※岡山藩閑谷黌に学び林田藩儒者※河野鉄兜の門下で、山崎藩の典医もつとめた。明治22年川東村の大字となる。

※閑谷黌(しずたにこう):閑谷学校。岡山藩主池田光政(みつまさ)が創設した庶民教育のための藩営の学校。校地は特別史跡、講堂は国宝。
※河野鉄兜(こうのてっとう):文政8年(1825年)〜慶応3年(1867年)。揖東郡網干垣内に生れる。江戸時代末期の詩人、医者。林田藩の藩校の教鞭をとる。

【近代】神谷 明治22年~現在の山崎町の大字。昭和53年揖保川にさつき橋を架設。昭和55年河東小学校が三谷へ移転。昭和59年圃場整備完了。



■矢原(やばら)
揖保川中流左岸に位置する。中世は石作庄のうち。

【近世】矢原村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。年月日不詳の播磨国石作庄年貢・段銭等算用状(久保家文書)に「矢原」の名主の名がみえ、屋原とも記されている。慶長国絵図に村名が見える。天保年間隣村岸田と境界論争を起こしている。神社は、矢原神社(牛頭天王社)。同社は五社天王と呼ばれるうちの1社で、もと1社であったものが分離したという。

【近代】矢原 明治22年~現在の大学名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和55年がら圃場整備が実施され、農地の中央部を南北に農道が貫通し、同時に揖保川に堤防が造成された。


◇発見:揖保川の東地域の沃土に古代から人々が住み着いていた痕跡が数多く発見されている。
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