【閲覧数】2,317 (2012.2.16~2019.10.31)
▼南からの鳥瞰
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中世から近世にかけて、この西にある伊部(いんべ)は焼物の産地(備前焼)としてにぎわっていました。播磨と備前を結ぶ山陽道は、国境の船坂峠を越え、三石城の城下を過ぎ、この備前の富田(とだ)松山城につづく陸路の要衝でもあり、また瀬戸内の入り江の港として焼物の船積みで活気を呈していました。
入江に東西に張り出した山(209m)に築かれた天然の要塞が富田松山城です。今から500年前は、海はもっと近く、その山ろくの西から北までの三方が海に囲まれていたといいます。
▼富田松山城 昔は三方が海に囲まれていた
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△水色の線まで海でした
備前 富田松山城跡のこと 備前市東片上(ひがしかたかみ)
この城主は、浦上国秀といわれ、浦上村宗が大物(だいもつ)崩れの戦いで戦死し、跡を継いだ幼少の政宗の後見人として、当主の代行を務めた人物ですが、その浦上一族の関係は定かではありません。
浦上村宗の没後、兄弟や国秀は互いに争い、富田松山城は、浦上宗景の天神山城が宇喜多直家に攻められ落城とともにこの城も落城したと考えられてきました。
最近黒田基樹氏の研究によると、関ケ原の戦い後、宇喜多秀家に代わって小早川秀秋が備前・美作に入封し、家臣の林丹波守長吉に「片山城」を与え、片山、伊部、福岡等7、000石を加増し、林長吉が片山城下から徴収した税を「松山運上」として主家に納めていることから、この片山城は富田松山城であると考えられ、城はこの時までは使用されていたといえます。
アクセス
▼北からの鳥瞰と登城コース
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備前市のJR片上駅から南600mほどに、グランドがあります。その近くに城の説明板があり、舟部川の小橋をわたり進みます。登山道は整備されており、案内板に従えば迷うことはありません。
▼城の説明版
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▼登山口
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しばらく歩くと鉄塔が右にあり、そこからは北方面の展望が開け、眼下に煉瓦工場の煙突が見えます。
▼鉄塔前
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▼鉄塔からの北の展望
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上を見上げると、これからいく山城が見えます。
▼この山頂を目指す
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▼歩きやすく整備
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▼あと400m
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▼右が城跡へ、左はもう一つの下山道(雨乞い跡)
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▼尾根筋を進む
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最初の高台の東出丸に到着しました。そこから見える入り江の島々は絶景です。
次は、本城の東に接した東出丸があります。ベンチがあります。ここから、本丸を見上げると、難攻の城であることが実感できます。
▼東出丸
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▼本城への道
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東に続く、岩場の道を下って、さらに上っていきます。あと100mとあります。
▼やや急な岩場の道
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▼あと100m
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上る途中に大きな堀切があります。この堀切で尾根筋からの進入を防いでいます。この上に三の丸があり、本丸の入り口裏門に至ります。 本丸の表門(虎口)は、右に周りこむように進みます。
ここまで約50分。
▼堀切
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▼三の丸
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▼本丸跡へ
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▼本丸跡入り口裏門付近
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本丸は、かなりの広さで、淵には土塁がはっきりと残されています。中世の城でこれだけ保存状態がよく残されているのは珍しく、またよく手入れもされていることを感じます。土塁・帯曲輪・犬走り・堀切などがはっきり確かめられます。
▼本丸跡
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▼広い本丸の曲輪のふちの土塁
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▼本丸の周りをとりまく大手曲輪
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▼犬走り
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本丸からの展望は格別です
▼東方面の入り江に浮かぶ大小の島々
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▼西の入り江
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▼本丸から見た東出丸
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帰りは、雨乞い跡のある下山道に変えて下りました。眼下に煉瓦工場が海沿いに見えます。
しかし、そのあとの北斜面になると、道はガレ場になり、歩くのにはあまりお薦めしません。
▼もう一つの下山道
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▼雨乞いの跡
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▼真下に炉材工場が
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▼道が荒れガレ場となっている
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雑 感
海に面した富田松山城の登城コースはやや急なところはあるが、気持ちのよい探索だった。
富田松山城は三方が海に囲まれ、奥行きがある高い山上にあり、人を寄せ付けない難攻不落の水城だといえます。
備前焼の中心地伊部は古くから賑わい、多くの中世の特有の有徳人(うとくにん)という裕福層の人が集まり町を形成していたようです。
城主浦上氏にとっては需要の高い陶器の生産地伊部からもたらされる富は、大きな収入源であったと思われます。播磨の山城跡の遺跡には必ずと言っていいほど備前焼が見られます。
参考:『日本城郭体系』、「web 富田松山城 落穂ひろい」
【関連】
備前 三石城跡
播磨 室山城跡
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