郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「下野田・上野田・能倉・東河内」

2019-11-21 07:57:02 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「下野田・上野田・能倉・東河内」

【閲覧数】5,433 件(2010年02月04日~2019.10.31)


染河内地区内

■野田(のだ)
河内川下流域。染河内川流域。地名は、河川によって堆積した土砂からなる原野を開発して耕地化したことによると思われる。

【近世】野田村 江戸期の村名。播磨国宍粟郡のうち。「正保郷帳」では野尻村、「天保郷帳」では「古ハ野尻村と申し候」と肩書きされて見える。明治期になると上野田村・下野田村に分村して把握されるようになる。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄10年(1697)幕府・三日月藩領の相給、享保元年(1716)からは三日月藩・安志藩の相給。元禄10年(1697)三日月藩成立時に幕府領分を野田村、のち安志藩成立により、上野田村と称するようになったと思われる。

 寺院は、天正元年(1573年)年浄蔵法印開基と伝える真言宗松寿山西林寺。また同寺が管理する虚空菩薩に平安末期の作という木造虚空蔵菩薩像がある。明治初年上野田・下野田になる。

【近代】上野田・下野田 両村とも明治22年~現在の大字名。はじめ染河内村、昭和31年からは一宮町の大字。




■能倉(よくら)
染河内川中流域に位置している。枝村としてかな山がある(宝永5年(1708)「宍粟郡誌」)。地名は、谷間の奥まった洪積土壌の小盆地である地形に由来する。中世には染河内庄に含まれ、四蔵と記された。
 貞治元年(1362)12月22日の政秀神領林沢田預り状(伊和神社文書)に「在所四蔵」の林沢田三段がみえる。これは一宮社(伊和神社)の神領で、大井祝の管理下にあった。
 永享6年(1434)10月20日の四郎三郎神田等預り状(同文書)からは、かな山四郎三郎の領地が「染河内四蔵内」にあったことが知られる。政秀とかな山四郎三郎はともに抱分(給分地)として土地を預けられていた。明応4年(1495)6月9日の九郎衛門田地買状(同文書)によれば、「かな山」にある一宮社の神田を購入した染河内の藤村九郎右衛門が年貢500文を懈怠(けたい)なく納めると大井祝に約束しており、かな山は江戸時代の枝村かな山をさすのであろう。

【近世】能倉村 江戸期~明治22年の村名。慶長国絵図に「横倉村」と見える。播磨国宍粟郡のうち。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716)からは安志藩領。農作物に害をなす猪や鹿などの野獣防護策として鉄砲の保有が許され、正徳4年(1714)の猟師鉄砲御改め差出状によれば、幕府代官後藤覚右衛門が鉄砲5挺の使用許可を当村の5人に与えている(一宮町史)。
 産土神の庭田神社は、「延喜式」神名帳にみえる宍粟郡七座のうちの「庭田神社」に比定される。社伝は成務天皇甲申年の鎮座とするが、資料的根拠はない。庭田神社は染河内谷全域の産土神としても祀られてきた。また同社の近くに湧き出る泉は「宮居の泉」として親しまれている。明治22年染河内村の大字となる。

【近代】能倉 明治22年~現在の大字名。はじめ染河内村、昭和31年からは一宮町の大字。




■東河内(ひがしごうち)
染河内川の本流本谷川およびその支流中坪川・山田川筋に沿って開けた集落。地名の河内は、山中の川が作り出した小さな平野・平地をさし、この地形が生み出したものと考えられる。

【近世】東河内村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。東川内村とも書いた。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716)からは安志藩領。
 天保12年(1841)の救済請書によれば飢饉のため当村の36軒・88人が飢人・極難渋人として藩から救済を受けている。

 当村の製茶は特記すべき生業で、染河内谷での製茶は宍粟の経済事項を集めて作られた山崎往来(中村家文書)のなかで「染河内茶」として取上げられている。宝永5年(1708)の「宍粟郡誌」に「其の味は染河内谷美なり」と記される。
 産土神は能倉の庭田神社。山神社がある。寺院は、寛文11年(1671)石賢法印開基と伝える真言宗慈光山観音寺。ほかに、地内中坪に観音堂、本谷に薬師堂がある。明治22年染河内村の大字になる。

【近代】東河内 明治22年~現在の大字名。はじめ染河内村、昭和31年からは一宮町の大字。昭和30年真言宗観音寺に一農民が私財を投じ※三国各霊塔を立てた。昭和7年※日城神社を築造。同59年観音堂の木造聖観音菩薩立像と室町初期の作である薬師堂の木造薬師如来立像が町文化財に指定された。

 



◇今回の発見
・難解の読みの能倉。四蔵、横倉とも書かれていたことがあるという。
・染河内地区には平安末期以降の古い三体の菩薩・如来像(市指定文化財)が補修を受けながら大事に保存されてきた。
・東河内では、天保時代、飢饉で餓死者が出ている。天保の飢饉は1833年から39年の6年の長期にわたり東日本を中心に大飢饉をもたらしたとあり、飢饉が収まったあと2年後の1841年に救済を受けていることになるが、なんとかならなかったのだろうか。播磨地方の飢饉の状況はどうだったのだろう。

地名由来「島田・安黒」

2019-11-21 07:43:55 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「島田・安黒」     宍粟市一宮町
  
【閲覧数】4,092 件2010年01月29日 ~2019.10.31)


神戸村内

■島田(しまだ)

揖保川と同川の支流岡城(おかじろ)川の合流点東西に位置する。
【近世】島田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。州田村とも記されたようで、明治6年(1873)開設の簡易小学校名は州田小学校であった(兵庫県庁所蔵文書)。安黒村庄屋覚書(安黒区有文書)や神戸郷諸事覚書(糺家文書)によると、寛文3年(1663)普請奉行内田加兵衛や代官神部小右衛門らの立会いのもとに神戸村から分村したというが、すでに正保郷帳では田高56 石余・畠方41石余となっている。旧高旧領取調帳には神戸村と見える。分村の有無は判然としないが、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄10年(1697)からは三日月藩領となり幕末に至る。

神社は播州宍粟郡中手録によれば宝暦4年(1754)に早玉大明神・天神・岩宮大明神・荒神・山神があり、播州乃井野領神社帳では、文化8年(1811)には七社荒神(現七社神社)・山神・大将軍があった。なお、貞享2年(1685)の記録では「七所ノ御神宮」と称する1社があったという。七社荒神は社殿・境内他ともに広大で、弘化3年(1846)頃神部(かんべ)大明神として世に知られたという(播磨古図)。寺院は、慶長8年(1603)玄好開基と伝える浄土真宗月照山光明寺。
明治22年神戸村の大字になる

【近代】嶋田 明治22年~現在の大字。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。

■安黒(あぐろ)
 
揖保川の左岸に位置し、同川の支流岡城川が形成した堆積地と揖保川の沖積地からなる。地名は、享禄2年(1529)安黒氏を名乗る豪族が居住しており(伊和神社文書)、また戦国末期安黒構と呼ぶ安黒氏の居館があったことなどに由来すると思われる(宍粟郡城跡)。

【近世】安黒村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと神戸村の一部、寛永19年(1642)山崎藩主松平康映の時に神戸村は須行名を分村し、さらに神戸村は伊和村と安黒村に分かれたと伝える(伊和神社文書)。元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、明和6年(1769)からは摂津国尼崎藩領。当村には山崎藩主池田恒元が須行名村にある播磨国一宮伊和神社に寄進した黒印領地20石余りがあったという。
山間地での揖保川清流に恵まれた一宮町域では農業の副業として紙漉き、製茶・養蚕などが盛んであった。これらの原料は村内全域で生産された。
産土神は須行名の伊和神社。東方山麓の字湯郷に秋葉神社がある。明治22年神戸村の大字になる。

【近代】安黒 明治22年~現在の大字。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。







◇今回の発見:安黒の地名の由来は人名からということ。島田・安黒地域には、島田湯ノ郷、※一つ山古墳、安黒御山(みやま)古墳、などの古墳群がある。