郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「島田・安黒」

2019-11-21 07:43:55 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「島田・安黒」     宍粟市一宮町
  
【閲覧数】4,092 件2010年01月29日 ~2019.10.31)


神戸村内

■島田(しまだ)

揖保川と同川の支流岡城(おかじろ)川の合流点東西に位置する。
【近世】島田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。州田村とも記されたようで、明治6年(1873)開設の簡易小学校名は州田小学校であった(兵庫県庁所蔵文書)。安黒村庄屋覚書(安黒区有文書)や神戸郷諸事覚書(糺家文書)によると、寛文3年(1663)普請奉行内田加兵衛や代官神部小右衛門らの立会いのもとに神戸村から分村したというが、すでに正保郷帳では田高56 石余・畠方41石余となっている。旧高旧領取調帳には神戸村と見える。分村の有無は判然としないが、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄10年(1697)からは三日月藩領となり幕末に至る。

神社は播州宍粟郡中手録によれば宝暦4年(1754)に早玉大明神・天神・岩宮大明神・荒神・山神があり、播州乃井野領神社帳では、文化8年(1811)には七社荒神(現七社神社)・山神・大将軍があった。なお、貞享2年(1685)の記録では「七所ノ御神宮」と称する1社があったという。七社荒神は社殿・境内他ともに広大で、弘化3年(1846)頃神部(かんべ)大明神として世に知られたという(播磨古図)。寺院は、慶長8年(1603)玄好開基と伝える浄土真宗月照山光明寺。
明治22年神戸村の大字になる

【近代】嶋田 明治22年~現在の大字。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。

■安黒(あぐろ)
 
揖保川の左岸に位置し、同川の支流岡城川が形成した堆積地と揖保川の沖積地からなる。地名は、享禄2年(1529)安黒氏を名乗る豪族が居住しており(伊和神社文書)、また戦国末期安黒構と呼ぶ安黒氏の居館があったことなどに由来すると思われる(宍粟郡城跡)。

【近世】安黒村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと神戸村の一部、寛永19年(1642)山崎藩主松平康映の時に神戸村は須行名を分村し、さらに神戸村は伊和村と安黒村に分かれたと伝える(伊和神社文書)。元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、明和6年(1769)からは摂津国尼崎藩領。当村には山崎藩主池田恒元が須行名村にある播磨国一宮伊和神社に寄進した黒印領地20石余りがあったという。
山間地での揖保川清流に恵まれた一宮町域では農業の副業として紙漉き、製茶・養蚕などが盛んであった。これらの原料は村内全域で生産された。
産土神は須行名の伊和神社。東方山麓の字湯郷に秋葉神社がある。明治22年神戸村の大字になる。

【近代】安黒 明治22年~現在の大字。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。







◇今回の発見:安黒の地名の由来は人名からということ。島田・安黒地域には、島田湯ノ郷、※一つ山古墳、安黒御山(みやま)古墳、などの古墳群がある。




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