聖山城址と秀吉軍の行軍ルート
閲覧数3,676件(2014.9.2~2019.10.31)


▲篠ノ丸城址より秀吉軍が本陣を置いた聖山城址を望む
聖山城址と秀吉軍の行軍ルート
秀吉軍は英賀城を落城二日前に、軍を分けて宇野氏居城長水城に指し向けた。『長水軍記』に「先勢一千騎荒木平太夫大将ニテ林田通ヨリ向フ、次ノ一軍三千騎小寺官兵衛孝高大将ニテ觜崎ヨリ向フ、次ノ一千騎神子田(みこだ)半左衛門大将ニテ同林田通りヨリ向フ、後陣ニハ秀吉自ラ木村、竹中、石見、樋口其他大勢ニテ林田通ヨリ向ヒ給フ」とある。
秀吉軍の宍粟宇野氏の城攻めは、林田川沿いの林田からと揖保川沿いの新宮からの二方面の侵入路があった。
▼秀吉軍の行軍推定マップ

林田方面では、林田町八幡の佐見(さみ)山城、林田松山城を足がかりに北上していった。『福岡文書』によれば、林田松山城には本郷宗祐(宇野政頼四男・祐清の弟)がいたが、戦わずして降伏したことを伺わせる。
新宮方面は、嘴崎(はしさき)から川を渡り、新宮の香山城を落とし、山崎町城下に向かったようであるが、渡河といくつかの難所のため大軍には不向きであったと思われる。
同軍記に、長水城主の宇野祐清が「狭戸ノ山蔭ヨリ左三巴ノ旗三流真先ニ押立テテ時ヲ作ッテカケ入ル」「秀吉ノ勢周章騒ギテ揉ミ合ケル間祐清ノ兵悉ク乱レ入ッテ未ダ目覚メズシテ起キアガルヲ起シモ立ズ切殺シケレバ秀吉ノ兵夥シク討ルル」とあり、宇野氏の緒戦の活躍ぶりが描かれている。軍記は読み物ではあるが、安富町狭戸(せばと)の山蔭より待ち受けていた宇野祐清軍は林田から行軍する秀吉軍と激戦が繰り広げられたことは、狭戸集落とその周辺(三坂・植木・瀬川)に残された数多くの五輪塔が物語っている。
▼狭戸の五輪塔群 ▼三坂の五輪塔群


▼植木野の五輪塔群 ▼新宮町香山の五輪塔群


※ 安富町の五輪塔群の案内は志水出世氏(安富町)の協力によります
▼五輪塔群位置図(姫路市安富町)

秀吉軍本陣を置いた聖山城
秀吉が四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に書いた手紙に、篠ノ丸・長水城攻めで「山峰けわしくして大河城のふもとを巻き候」「平城二ヶ所へたてこもり候、親子のもの後の山へにげり、民部大輔山城へ逃げ登る候」とあり、さらに田路・安積氏に長水城内の内偵を指示した文書が残っている。秀吉や官兵衛がこの場所にきたという確かな記録はない、しかし秀吉は一度はこの地にやってきたからこそ、このような情景描写や指示ができたのではないかと私は思っている。
歴史を感じる格別の場所


▲東出石・西出石浜の高瀬舟 絵:郷土史研究家 下村哲三氏
聖山城址からの景色は格別である。それは、篠ノ丸、長水の二城が望めることのほかに、合戦後の江戸初期池田輝澄が入封し、元和年間(1615~22)山麓の揖保川に高瀬舟の発着場ができ、網干までの水運が物流の大動脈となり浜は大いに賑わった。大正中期から昭和中期にかけて宍粟市役所周辺一帯は郡是製糸山崎工場が宍粟郡の産業の中心となった。昭和初期には農家の半数が養蚕業を営み、集荷された繭が年間四万五千貫(165トン)あり、郡内の多くの工女がこの工場で繭(まゆ)を紡いだのである。 『宍粟1952 宍粟地方事務所編』
川下には幾たびかの大洪水に耐えてきた宍粟橋が傘寿(80歳)を迎えなお健在である。
山頂からは、宍粟市山崎町の山河に生きた人々の残像がここかしこに残されているのが見えてくる。

▲大正13年 聖山からの西方面 眼下に郡是製糸山崎工場が見える

▲現在 元郡是製糸工場の跡地には宍粟市役所が建っている。(写真中央)
※山崎郷土会報123号26.8.24より一部転載(修正・加筆及び写真カラー化と追加)
●播磨屋さんより
なんとなく東の方から攻めてきたと思っていました。
こういうルートだったんですね。素晴らしい研究です。
こういうルートだったんですね。素晴らしい研究です。
●タケネットより返事
研究というほどのものではないですが、さらに詳しく五輪塔などの分布を調べると行軍ルートが絞られるようにも思いますね。五輪塔が狭戸だけでなく三坂と植木野等に散在していることがわかり、南から狭戸と東から三坂への攻撃もあったかもわかりません。
置塩城主赤松則房がこの宇野攻めに加わり先導していたなら、土地感があるため夢前川・菅生川を北上し護持を西進し三坂・安志に向かうこともありかな。
涼しくなったら行軍ルートにあたる林田の佐見山城や松山城を探索予定です。
●しんちゃんより
私の地元須賀沢では、こんな言い伝えがあります。
地図の地点、今ではちょうど中国道の真下に成りますが、殿様ヤブといいます。
此処は、秀吉軍と宇野軍との古戦場跡で、たくさんの刀や槍が埋めてあるとのこと。
ーと以前に、一度掘り出したことが有るらしいのですが、戦死者の祟りか?掘り出した家の家族が次々に原因不明の病気に、その後埋め戻し回復したとのこと。
中国道の建設時には、この話は表に出ずそのまま道路の下に今でも埋まっているようです。この付近には、たくさんの五輪さんも。
●タケネットより返事
興味ある情報ありがとう。複数の刀が発見されたというのは、山崎庄能や林田町八幡で聞いています。五輪塔は見てみたいですね。
【関連】
聖山城跡
宍粟・播磨の城郭一覧アドレス
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます