山に入る事、苦節約4時間、結果はこの通りで〜す。(まぁまぁ)(^O^)v
チシマザサ(ネガマリダケ)
道内でタケノコと呼ぶのは、このササの若芽のことです。
親指ほどの太さのタケです。
別名ネマガリダケと呼ばれ、雪の重みを逃すため茎の下の部分が一様に曲がっていることに由来しています。
5月~6月が旬で、食べますが、三杯酢、油炒め、おでんの具、味噌汁の具、タケノコ御飯など広い用途があります。
(^^)/~~~
チシマザサ(ネガマリダケ)
道内でタケノコと呼ぶのは、このササの若芽のことです。
親指ほどの太さのタケです。
別名ネマガリダケと呼ばれ、雪の重みを逃すため茎の下の部分が一様に曲がっていることに由来しています。
5月~6月が旬で、食べますが、三杯酢、油炒め、おでんの具、味噌汁の具、タケノコ御飯など広い用途があります。
(^^)/~~~
神威岬先端には、北海道で2番目に点灯した、神威岬無人灯台が立っています。
神威岬灯台は、平成15年9月に、一般公開され、話題になりました。
建てられてから43年を経過しており、老朽化が進んでいたので、灯台の主塔部を強化プラスチックで包み補強するなど、改修工事が終了しました。
神威岬には年間、約37万人の観光客が訪れる観光名所です。
そこで灯台の出入り口や灯光を発する部屋を大きくし、見学が出来る様にしました。
以来、毎日の見学は出来ませんが、灯台の定期点検に合わせて一般公開をするそうです。
神威岬の婦女通行の禁
神威岬付近は、天候の良い日でも波の高い事が多く、むかしは、少し荒れだすと、小さな船ではなかなか通ることができなかった難所で、蝦夷三険岬(茂津多岬・神威岬・雄冬岬)の1つに数えられていたところです。
松前藩時代には、この岬から北へは、女性が行くことを認めておりませんでした。
それは松前藩ではこの岬から北は、和人の定住を禁じていて、そこに女性が入るということは、定住を意味したからでした。
和人が、交通の不便な奥地に、どんどん入るようになっては、藩の力で、とても取り締まることができなくなるからです。
したがって、奥地に入るのは、ニシン漁へ行く男だけに限られていて、恋しいい人との別れを惜しむ、妻や恋人の思いが、「恨みますぞえ、お神威さまは、なぜに女の足止める」「忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」と、追分節にも歌われています。
この女人禁制の掟が解かれたのは、安政3年(1856年)、蝦夷地を幕府が直接治めるようになった翌年のことです。
宗谷へ赴任するお役人、梨本弥五郎が、初めて妻子を連れて、この岬を通過しております。
エゾカンゾウも綺麗に咲き乱れてました。
エゾカンゾウ(ユリ科)6月〜7月 多年草
エゾカンゾウは漢字では『蝦夷萱草』と書きますが、萱草とは憂いを忘れる草という意味で、食用にもされましたが食べすぎると物忘れするといわれています。
アイヌの人達は『カッコクノンノ』すなわち、カッコウの鳴く頃咲く花として親しんでいたようです。
エゾカンゾウは湿原の花として有名ですが、ダイダイ色の背が高い花を付けて群生するため季節になると非常に目立つ美しい花です。
ハマナスも沢山咲いていました。
北海道の花ハマナス
赤いバラ科の北海道の花ハマナスは、皇太子妃殿下雅子様のお印として選ばれ一躍注目されるようになりました。「潮かおる 北の浜辺の 砂山の かのハマナスよ 今年も咲けるや」石川啄木の詠んだ歌ですが、この辺りの海岸にも、6月中旬~8月頃までは、ハマナスの花が咲き、甘い香りが漂います。
ハマナスは砂丘に咲くバラ科の花で、濃いピンクの5枚の花びらを持ち、開くと、中心に黄色い雄しべが見えます。(まれに白い花もあります)バラ科の花は「香水の王様」といわれ、ハマナスは「においバラ」に属し、2500枚の花びらを集めると、天然香料が1gとれるそうです。
野生のものほど香りが強く、これに合成香料を少し加え高級香水などに利用されています。
6月中旬~8月頃まで、次々と花を咲かせますが、そのあとに残ったオレンジ色の実は、ジャムやハマナス酒に、タンニンの含まれている樹皮や根は、織物を染める時の染料などに使用されています。
また、ハマナスは昭和53年に「北海道の花」に選ばれておりますが、開発が進むにつれて減って来たのは残念な事です。
積丹町の海一部が道内唯一の海中公園に指定されておりますが、美しい島武意海岸は第二号の指定地で、その絶景を望むのに必見の場所がこの島武意トンネルを抜けた所です。
神秘的な海の色、天然の名工が刻んだ岩の芸術、海の底まで見えるほど入り江の水は青く澄み渡り、夏ともなりますとひんやりとしたトンネルをくぐり、未知の世界を冒険する様なスリル味わう事が出来ます。
この島武意海岸は明治18年(1885年)に齊藤彦三郎という人がニシン漁に「魚網」という漁網を発明して鰊場を経営していたところです。
明治28年にシマムイ漁場の斜面を登り、苦心して私財をなげうって開削したのが延長30mの程の「島武意トンネル」です。それ以来、鰊をモッコ入れて背負いながら急な坂道を上りトンネルを通行してこちら南側の干場に運びました。
元々積丹岬の北に位置する島武意の浜は断崖絶壁の続く険しい海岸線、その浜から陸にニシンを運ぶ為には、どうしても岬のどてっ腹を繰り抜かなくてはなりませんでした。
そんな必死の思いで作ったトンネルも、現在は観光客が島武意海岸の散策を楽しむ為に利用しています。
積丹町大字入舸町
入舸とはアイヌ語で「ニト・トマリ」「弁財湾・寄木の湾」の意味で、すなわち、船の入る所から「入舸」と命名したようです。
明治39年村制が施行され、昭和31年町村合併によって積丹町大字入舸町になるまで、入舸村役場の所在地でした。(現在町役場入舸支所)
積丹場所の漁場の1つであった入舸に、齊藤彦三郎という青森県人が入って漁業を営み、後この町で角網を生み出しました。
齊藤彦三郎の豪邸(鰊御殿)がこの町の港に面して建っておりましたが、惜しいことに取り壊されて今はありません。