太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

〝伊吹島・西部太鼓台の幕〟よもやま話

2021年03月29日 | 研究

瀬戸内海・燧灘中央部に浮かぶ香川県観音寺市伊吹島。好漁場の島周囲から新鮮なうちに水揚げされ、讃岐うどんの出汁に必須な〝ブランドいりこ〟(カタクチイワシの煮干し)の特産地として有名となったこの島に、江戸時代から続く〝大坂・直結〟の3台の蒲団型太鼓台が今も伝承されている。島の太鼓台が誕生した順と言われている西部(旧・上若)→東部(旧・下若)→南部(旧・中若)の3台が、過疎化が進む中でも大切に守り伝えられている。そのうち、今回のテーマである西部太鼓台の水引幕は〝弁財天が龍に乗る〟図柄となっている。この〝弁財天+龍〟の水引幕については、以下のように2種類の図柄=北条氏の三鱗(みつ・うろこ)伝説、清盛の威勢をくじく=が存在しているようだ。また、他にも〝龍が老翁を乗せる〟図柄もあるが、これら〝龍と人物にまつわる周辺事情〟についても各地水引幕の画像を通して眺めてみたい。なお、本件ブログ下記「鎌倉・北条時政、江ノ島弁財天から三鱗(さんりん)を賜る」の発信に当たっては、次の方々からご教示や情報提供・ご協力をいただきました。謹んで御礼申し上げます。(新居浜市・Tanaka.K氏、坂出市・Tatara.T氏、大野原町・Situkawa.T氏、伊吹島・Miyoshi.K氏、伊吹島西部・柞田町下野・丸亀市吉岡の各地区の関係皆様)

さて、伊吹島3太鼓台の来歴等については、遺されてきた道具箱や当時の大坂商人からの見積書及び若連中伝承の「太皷寄録帳」「太皷帳」などの古記録によって客観的に明らかになっている。西部太鼓台では「太皷寄録帳」の文化5年(1808)、東部太鼓台では「蒲団枠保管箱」の文化2年(1805)、南部太鼓台では「太皷水引箱」の文政6年(1823)が、それぞれ早い時代のものとなっている。これらのうちでは東部の蒲団保管箱が最も古いが、西部では「太皷寄録帳」の冒頭の書き出しから、文化5年の新調は〝太鼓台の拵え直し〟と考えてよいことから、それよりも更に以前に太鼓台が伝えられていたものと考えられる。

1.幕の題材 「鎌倉・北条時政、江ノ島弁財天から三鱗を賜る」

   鎌倉幕府の執権・北条氏の家紋〝三つ鱗(うろこ) 〟の由来譚に題材を得た幕である。

  〝江ノ島の弁財天から、家紋となる龍の鱗3枚が時政に授けられた〟との伝説がある。

弁財天が手にする軍配は、水平に構えている。この上に〝龍の鱗〟が3枚載せられているのが、通常の姿ではないかと思う。(下絵は『新居浜史談』加地和夫氏記事より転載) 下の「安芸宮島の弁財天が真体をあらわし、平清盛の威勢をくじく」図柄の幕の軍配と比較していただきたい。下の清盛の図柄では、軍配を縦にして威勢をくじく風情を表している。この点が最も大きな違いである。

2.制作の時代と制作工房はどこか。

制作した時代については、記録されたものが遺されていないので確定できない。冒頭画像で比較して示したように同じ図柄の幕が、現在、伊吹島西部・柞田町下野・丸亀市吉岡の各太鼓台に存在する。三者を見比べると、時代的には伊吹島→柞田→吉岡の順に登場したものと想像でき、伊吹島西部の幕が最も早く誕生したものと思われる。ただ幕端の左右に「青 年」とあり、近代性を感じさせることから、痛みの割には意外と新しいのかも知れない。制作時期を強いて推測すれば、早くて明治後期、恐らくは大正時代の作ではなかろうか。

制作工房については、伊吹島の太鼓台が〝大坂・直結〟と言われており、また古い幕でもあるため、一般的には大坂に関係する工房で刺繍されたのではないかと考えるかも知れない。しかし、そうではないと思う。工房を特定することは難しいが、伊吹島幕の龍頭の後方部分、即ち角(つの)の前の上下の筋肉が繋がっていることに注目したい。この表現は、この地方の太鼓台刺繍発展の草創期に、金毘羅歌舞伎のお膝元・琴平に工房を構えていた〝松里庵・髙木工房〟の大きな特徴である。地芝居の豪華衣装の制作を主業としていた髙木家は、明治中期頃に需要の増した太鼓台刺繍制作へと本格的に移行している。同時期に、琴平から観音寺へ工房を移し、東予・西讃地方の太鼓台装飾の発展に大きく貢献している。

但し、この幕の下絵が『新居浜史談会』の加地和夫氏論文から、山下家に存在していたことが判明している。それでは、〝下絵は山下家、制作は松里庵・髙木工房〟という制作図式を、どのように捉えるべきなのだろうか。

私の推理はこうである。⑴髙木工房が、山下工房より下絵を借り受けて伊吹島西部太鼓台の水引幕を制作した。⑵同じ絵師による同図柄の下絵が元々は複数存在していて、髙木工房は自らが所持する下絵を用いて伊吹島以下の水引幕を、順次アレンジして制作を続けた。

何れの場合においても、髙木工房と山下工房との関係は、縫師にとって〝下絵は、命の次に大切〟と言い放って憚らない貴重な下絵を、ある意味〝共有〟するほどの親密な関係性を保持していたということになる。これまで私は、両縫師・両工房の関係が、少なくとも1890明治23年、山下茂太郎縫師(旧姓・川人氏)の生誕地である徳島県三好市池田町西山の太鼓台制作を〝共同制作〟していることに注目し、その親密性を発信してきた。

それまで無名に近かった山下家初代の川人茂太郎(後の山下茂太郎)縫師が、郷里へ錦を飾った太鼓台新調にあたって、髙木・山下両工房のコラボによる記念すべき太鼓台の誕生であった。それは、今日の西讃~東予地方の太鼓台刺繍が大いに発展するターニングポイントとなった太鼓台でもあり、私たちの地方での位置づけは、甚だ重要なものである。(この項、2022.8.9追加投稿)

左から、伊吹島西部の幕で上下の繋がりが確認できる。中は柞田町下野の幕、右は丸亀市吉岡の幕で、両者は目尻に三角の筋肉が見られる。これらの特徴は〝松里庵・髙木工房〟の古い刺繍で数多く見ることができる。

このように、下野太鼓台や吉岡太鼓台の幕の龍頭にも、松里庵・髙木工房の特徴(手前目尻・後方の三角筋)がうかがえる。恐らくは、絵師によって描かれたこれらの幕の元絵があり、それをそれぞれの幕サイズに拡大・アレンジして制作したものと思う。三者の幕からは、各地の太鼓台刺繍が次第に華美となっていく発展過程がよく理解できる。西部・下野・吉岡の同一図柄の水引幕を並べて眺めると、長い年月を通して発展して行った近隣各地の太鼓台刺繍の過去を、具体的かつ客観的に学ぶことのできる。その意味で、西部太鼓台の幕は間違いなく貴重であり、失ってはならない大切な〝太鼓台文化圏の遺産〟である。

3.その他関連事項

(1)見間違いやすい、弁財天と龍が登場する他の幕

上記に類似する幕に、「安芸宮島の弁財天が真体をあらわし、平清盛の威勢をくじく」という幕がある。三つ鱗幕とは、龍・弁財天以外の登場人物等に大きな違いがある。注目したいのは、弁財天の持つ軍配の角度である。三つ鱗の方が、軍配の上に授かった龍の鱗を載せるため、水平にして持つのに対し、清盛の方は、清盛の威勢をたしなめてくじくため、団扇で扇ぐように立てて持っている。どちらも龍と弁財天が登場するので、間違わないように注意が必要である。

(2)龍に乗る人物の刺繍

 『平家物語』から歌舞伎に取り入れられた「牡丹平家譚」(なとりぐさ・へいけものがたり)の<重盛諫言(しげもり・かんげん)の場>をアレンジした図柄となっている。龍に乗る人物は、後白河院で左端が平清盛、その右が「(恩義のある院に)忠ならんとすれば(親の清盛に)孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず、進退已(すで)に谷(きわ)まりぬ」と、有名な科白で清盛を諫める息子の重盛である。この題材の刺繍は、近隣では宇多津・坂下西、大野原・花稲本村(下記)、観音寺・中太鼓に見られる。花稲本村の幕では、左端の人物(清盛)が省かれているのかも知れない。元々は連続した1枚幕であったと思われるが、もし最初から清盛が省略されていたのであれば、幕の本題とは大きくかけ離れた内容となってしまったと言わざるを得ない。

(終)

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