太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

天草下島・富岡のコッコデショ

2020年08月11日 | 掛声

はじめに

天草下島・苓北町富岡に太鼓台・コッコデショ(地元ではコッコレショとも呼ばれている)が伝承されていると知ったのは昭和50年頃で、もう45年も前のことである。地理的に近い長崎との関連からその存在を知ったわけではない。天草・島原の乱(1637年~1638)で荒廃した400年近くも前、同地方へ西国の各地から大勢の人々が半強制的に移住させられた。その中には天領・小豆島出身の人々も大勢いた。(参考https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000216469 等)若い頃、私は年代や時代背景も無頓着に、「小豆島には太鼓台がたくさんある。小豆島から移り住んだ天草や島原にも小豆島から太鼓台が伝えられたのではないか?」。そんな当てずっぽな予測をして、天草下島の苓北町役場へ問い合わせたものと思う。

ところが不思議なものである。偶然にもそれが的中したのだった。それも予想したとおりの、素朴でいかにも原初的と言うのに相応しい太鼓台であった。(勿論、それは単なる偶然でしかなかった)それ以降、見学のチャンスを何度も伺いながらも逸し続け、2002年3月の初午祭りにようやくコッコデショに会う事ができた。

富岡は江戸期を通じて天草地方統治の中心であった。天草下島の西北部から突き出た半島の先端に富岡城址がある。史跡として整備されている城跡へ登ると、眼下に富岡の町並みと天草灘の大海原が見渡せる。

古い時代、私の郷里・観音寺(西讃岐・丸亀藩)とのつながりとして、天草・島原の乱後に富岡城主となった山崎甲斐守家治は、その後に西讃岐へ転封し三代を丸亀城で統治した。現在の西讃岐地方は“太鼓台の一大宝庫”であるが、「もしかすると、富岡コッコデショとは歴史の奥深い部分で、意外にも何らかの関連があったのかも知れないぞ!」。小高い石垣の城跡に立って、そんな感慨に浸ったことが懐かしい。

祭りまでの行事

「初午奉納スケジュール」として富岡四丁目で作成した資料を、地元のK・H様からいただいた。それによると、

・2月10日<日籠もり>

・11日<小屋入り>

・24日<櫓組み(道順打ち合わせ、衣類・物品等の注文完了)>

・3月3日<布団針(婦人部)、がぶり初め(青壮年部)、総合練習始め(以降毎日練習17:30~)>

・10日<ご案内状配布>

・13日、14日<全員練習>

・15日<練習総仕上げ>

・16日<総合準備>

・17日<コッコデショ奉納>

・18日<反省会>

3月の初午祭り奉納本番までの2カ月近くに亘り、念入りなスケジュールをこなされている。昔は毎年奉納していたと聞いたが、現在ではコッコデショに限らず各町内の奉納が毎年ではなく、3年に一度(かってはそれも中止することがままあった)に変更されたのも、このスケジュール表を見ればうなづける。コッコデショを出すためには、経費もさることながら、大勢の人員の確保と長期間にわたる練習が不可欠で、何よりも地域総ぐるみの団結がなければ、本番奉納が完遂できないのだ。 

コッコデショの由来(いずれも出典・確証不十分なるも、参考として紹介する)

(1)江戸末期、天草・富岡の漁師が遭難している堺商人の船を救助して、長崎まで送り届けた。命が助かった感謝とそのお礼を兼ねて、商売の縁起直しと繁栄を祈念して、漁師を集めてパアーッと賑やかに踊りを奉納した際、「これはいけるぞ」とコッコデショを伝授してもらって帰ったのが、富岡コッコデショの始まり。

(2)長崎・樺島町コッコデショからの伝播で、当時は長崎のものより勇壮な振舞いに全町民が血を沸かせていた、と伝わる。

他地方との共通点

・乗り子の背中に祝儀の御花・祝い袋を飾りたてる風習は、堺市・開口神社の太鼓台でも同様な形態で伝承されている。(参考 https://ameblo.jp/keesukejp0926/entry-12492355300.html

・乗り子の怪我防止のため、振り落とされないように高欄に縛りつけている。また、高欄部分を飾り布でぐるりと巡らすのも各地には多い。この部分が、豪華な太鼓台地方の高欄掛・高欄幕・掛蒲団など様々な刺繍ものに発展していくのだろうか。

・太鼓周りの、乗り子の足置きのロープを「止まり木」として備えているのは、四本柱型太鼓台・広島県安浦町のだんじりと同じであった。

上2枚が富岡コッコデショ、下2枚は広島県安浦町三津口のだんじり。足の指でロープを挟み、バランスを取っている。

掛声・運行の様子

・担ぎ始めは運行責任者の「アー、ヨイヨイヨイ」で始まり、乗り子がすぐさま「アー、ヨイヨイヨイ」と応答する。

・コッコデショを担いで歩行する時は、乗り子と采振り・舁夫とが「アー、ヨイヨイヨイ」と、交互に掛け合いながら進む。

・放り上げをする場所が近づくと、運行責任者・舁夫が「アー、サーキニセー」(前進指示)、乗り子が「アー、ヨイヨイ」と答え、太鼓台は前進する。

・やがて運行責任者が「アー、アートニセー」と発すると、太鼓台は前進を止め後退し、放り上げする場所で立ち止まり状態になる。乗り子は「アー、ヨイヨイヨイ」と合いの手。掛声は2~3回繰り返す。

・太鼓台が舁夫の腰の位置まで下げられると、乗り子は「シャーント、トメタヨナー」と確認の掛声。舁夫は「ヨイヤセー、ヨイヤセー」と応じ、放り上げの弾みをつける動作に入る。

・そして乗り子の発する「ヤー、コッコレショ、コッコレショー、ヤー」の掛声もろとも太鼓台は頭上高く放り上げられる。

・放り上げた舁夫は、柏手を打ち、落下してきた舁棒を両手で受け止め、差上げたままの状態となる。舁夫・采振り・乗り子が「ヨイ、ヨイ」と一斉に発声する。この時、乗り子の太鼓ブチはカチカチと打ち鳴らされ、顔の上方で交叉する。(このような乗り子の所作も、各地ではよく見られる)

・すかさず、乗り子は「ヤー、コッコレショー、トナー」と見栄を切るような掛声を発する。

・舁夫は「ヨイヤセー、ヨイヤセー」と応じ、これで一連の所作は終了する。

感じたこと

長崎では大きな病院を訪れてコッコデショの担ぎや放り上げを力強く披露していたが、天草でもコッコデショは近くの高齢者ホームや病院を訪れて一連の奉納手順を披露していた。岡山県笠岡市の神島でも、車椅子に乗った大勢の入居者が待ち構えた高齢者ホームの広場で、同様な光景を見たことがある。

苓北町の高齢者ホームでの演技披露の様子。

笠岡市神島のセンダイロク

神島の高齢者ホームでは、待ち構えていた入居者の前で演技を披露していた。

地域の人々からこぞって愛されている太鼓台は私たちの宝物である。これからますます縮小化が余儀なくされる地域社会の中では、実に光り輝く元気印そのものの存在である。2300万人超の太鼓台文化圏の中で、伝統文化・太鼓台を、私たちはどのように活用できるかを模索して行く必要がある。太鼓台文化を学ぶことを通して、私たちの住む地域や広大な太鼓台文化圏を、もっともっと活性化できるのではないかと感じた。

苓北町富岡の病院の場合、病院の玄関先には看護婦さんや入院患者さんたちが待ち受けていた。一通りの演技が終わりコッコデショが立ち去ろうとした時、今度は三階の窓からお年寄りが身を乗り出すようにして「ウオッー」と言うような叫び声を発したので見上げると、感動と興奮に浸っているのが分かった。同じ階の窓越しに見物していた他の方々は、続いて大きな拍手と流れる涙でアンコールを訴えていた。それを感じ取った運行責任者の方が、再度演技をプレゼントした。

不思議なものである。太鼓台は感動と元気を発する存在なのだ。それを受け止め、感応したい人々が大勢いるのだ。「これからの厳しい社会、太鼓台文化を活かせることで、何かできないか」。心の底から湧き上がってくる熱いものを感じた。厳しさが予想されているこれからの時代、大樹が根を張って広く地面を支えているように、古からの伝統をまとう身近な太鼓台文化も、そこに住む人々の精神的よすがと成り得るのではないか。私たち一人ひとりの最大課題、それは正に「太鼓台文化を究める、太鼓台文化の歴史を学ぶ」ことではなかろうか。

太鼓台同士の比較・検討

長崎くんちの太鼓山・椛島町「コッコデショ」、千本屋台の掛声「コッ-コデショ」に続く「コッコデショ」第3弾として、長崎に近い熊本県天草下島苓北町・富岡稲荷神社初午大祭に出る四丁目の「コッコデショ」を今回紹介した。

長崎くんちの椛島町コッコデショとの関連や比較については、第1弾において画像等を通じて若干紹介した。ここでは補足として、四丁目コッコデショの掛声について一通り述べた。

天草富岡・初午祭に奉納される各町の出し物は、数は少ないがコッコデショをはじめ龍踊り(じゃおどり)や川舟(かわぶね)と言った、長崎くんちの出し物と同じようなものが出ている。(苓北町富岡の経済や伝統文化が昔から地理的にも近い長崎から強く影響を受けていたことが、次のホームページに概略説明がされている。天草・富岡コッコデショの太鼓台文化圏における理解が深まるものと思いますので、ぜひご参考になさってください。(https://imatabi.travelnews.co.jp/west/20reihoku/202003111001593588.html)

そもそも太鼓台だけでなく、各種の祭礼奉納物は奉納する本体だけでなく、奉納時の運行手順・所作・発する掛声などの伝播は、ほとんどそれぞれの地方独自で成り立っていることはまずない。民謡が数珠つなぎ式に各地へ伝搬したように、各地相互に影響を与え合い広まっている。交流拠点であった当時の西日本の湊町を中心に、現人口2300万人の広いエリアで太鼓台文化は享受されている。それぞれの太鼓台の歴史が古い・新しいと言っても、判明している早い地方で西暦1750年代後半の記録、遅い地方でも同1850年代で、その差は100年程度となっている。(初歩的で簡素な小型の太鼓台の登場は西暦1750年よりも早いと思われるが、残念ながらそのことを証明する記録を見つけることができない)同1870年代の明治初年頃にはほぼ現在の分布に近い状況を呈することになったと思われる。太鼓台文化は、伝統文化としては間違いなくかなり後発の文化であり、先行する諸々の伝統文化からその影響を大きく受けていると見なければならない。

1799年・寛政11年初登場(寛政10年初登場とするものもある)の椛島町コッコデショの掛声や奉納の流れ等に関しても、各地の蒲団型太鼓台や長崎くんちの他の(先行登場の)奉納物との関連を比較探求する必要がある。長崎くんち各踊り町の奉納物(コッコデショをはじめ龍踊り・オランダ船・御座船・川船・唐人船・鯨潮吹き・龍船・曳段尻・段尻など)の始期やそれぞれの奉納時の一連の流れ及び掛声等を知り、奉納物相互の装飾などにおける共通点を分析して長崎くんちの全体像を学ぶ必要がある。そして、コッコデショ奉納時の掛声が他のくんち奉納物とは全く様相を異にしているのか、それともかなりの共通点が認められるのかを客観的に見極めなければならない。現在の椛島町コッコデショの掛声は、コッコデショ以外の他の出し物の影響を受けている可能性があるのか、それともコツコデショ独自のものなのか。

椛島町コッコデショに比べ天草富岡四丁目のコッコデショの場合は、諸事長崎との関係が深いことから、元々は同様な形態のものであり、その掛声は「より伝播当時の掛声の古形」を伝えていると思われる。従って、他地方から「長崎へ伝えられた当時の面影がより残っている」と推測できるのではなかろうか。そして、長崎・富岡両地の、太鼓台文化圏他地方との掛声をはじめ太鼓台の形態や運行時の所作等などの比較検討をしていく中で、各地との酷似が相当に見いだせるものと考えている。富岡コッコデショを深く理解することによって、シーボルト『日本』のスケッチ以前の、長崎へ伝えられた椛島町コッコデショ(寛政11年1799)の当時の掛声の古形も垣間見えてくるようにも思う。


かってのコッコデショの舁棒は短い「井桁」、現在は「四本平行」の組み方に変化している。乗り子は3人。

(終)

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「長崎諏訪神社祭禮に関する覚え書」コピー・転載

2020年08月03日 | 紹介図書・冊子等

紹介する論文は、昭和4年(1929)に発刊された『民俗芸術』第2巻11号にて本山桂川(もとやま けいせん、長崎市出島出身・民俗学者、1888.9-1974.10)により発表されている。既に90年余りが経過し、私たちの目に触れることも甚だ困難であると思われるので、太鼓台文化研究のため引用・紹介させていただいた。

長崎くんちでは、太鼓山・コッコデショに限らず、各奉納踊りの山車等に蒲団を用いていることが掲載写真からもうかがうことができる。このことからも、太鼓台の蒲団に関しては決して太鼓台独自の特殊な飾りではなく、太鼓台発展のある時期より、高貴・高尚な祭礼道具として広く用いられていたのではないかと想像することができる。

なお、椛島町太鼓山・コッコデショの蒲団部構造については、残念ながら私は未だ何ら知り得ていない。もしご存知の方がおられたら、ぜひご教示いただきたい。文化圏各地の蒲団型太鼓台との類似点や異なる部分等を知り、太鼓台の蒲団部発展のパターンを客観的に理解できるものと考えている。

(終)

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旧・新宮町千本の屋台(現・兵庫県たつの市)

2020年08月02日 | 掛声

長崎・椛島(かばしま)町コッコデショが「こっこで、しょー」と発して太鼓山(太鼓台のこと。太鼓打ちの乗子を「太鼓山」と呼ぶこともある)を頭上高く放り上げる様子については、2018長崎くんち・椛島町コッコデショのYouTubeなどで数多く参考して見ることができる。椛島町コッコデショの場合、その意味合いは「ここで、しよう」(太鼓山を、クライマックスの今、この場所・タイミングで放り上げ、立派に奉納しよう!)であった。この掛声「こっこでしょう」に極めて似ている文化圏内の地方は、果たしてあるのだろうか。確認数は少ないが、屋台(太鼓台)舁きに使用されている地方として、標記の千本屋台がある。但し、運行時における掛声「こっこでしょ」の意味合いは全く異なっている。

双方の掛声の酷似や千本屋台の掛声について説明する前に、千本屋台の特徴や太鼓台文化圏における位置づけ・存在感などについて、2001年3月に旧・新宮町から発行された『町史点描・新宮物語』(筆者の寄稿文)で振り返ってみたい。

①千本屋台=「太鼓台-分岐・発展へ(4)」で紹介した画像

②小宅神社の絵馬(おやけ神社、たつの市、部分。明治期?年代不詳)-上の2台の神輿屋根型屋台と一緒に描かれた丸天井の蒲団型と思われる屋台。

③林田八幡神社の絵馬(明治14年1881)=「各地の絵画史料に描かれた太鼓台」(2019.4付)の画像

町史点描・新宮物語』では、①蒲団天部に丸い膨らみ構造があること。その内部構造を現地取材し、同様構造を持つ太鼓台文化圏内の他地方の太鼓台等についてもその関連を述べている。②荒々しい「エンヤサー」と呼ばれる担ぎ方について、西日本で普遍的に船のことを言う「エンヤ」(瀬戸内では大型の船・小型の舟を意味する)との関連を推論している。また、③千本屋台の来歴については近隣地区から大正期に伝えられたことから、担ぎの所作や運行の様子等の広がりが千本屋台のみに特化したものでないことが伺えると思う。

※蒲団型の太鼓台は各種太鼓台の中でも分布の数も多く、小型・簡素なものから大型・豪華なものまで種類も多い。太鼓台発展の歴史は、蒲団型の太鼓台が大型・豪華に発展していくことと密接な関連性があると確信している。このため、「太鼓台‥発生から、分岐・発展へ(1~5)」(2019.3~4)にて具体的な形態や発展の様子を画像付きで詳報している。今後的にも、現行の蒲団型太鼓台のスタンダード形態である「蒲団枠型」への変化・発展過程を更に探求していきたいと考えている。なお蒲団部構造に興味ある方は、「太鼓台の共通理解を深める・蒲団構造に関する一考察」として、既刊『地歌舞伎衣装と太鼓台文化』(2015.3.31)72-107Pにおいて詳しく論及しているのでご参考いただけるものと考えている。

平成10年(1998)の旧・新宮町での見学当時、私の探求点は長崎コッコデショとの掛声の酷似点よりも、蒲団型太鼓台の蒲団部構造及び太鼓台と船・舟(私の地元では船のことを〝エンヤ〟と称すとの関係について理解を深めたかった。そのため、その後の『町史点描・新宮物語』では、千本屋台の掛声の詳細については触れることはなかった。(参考/長崎コッコデショの見学=1990.10、千本屋台の見学=1998.10、『町史点描・新宮物語』寄稿=2001.3)

今回改めて千本屋台の運行時における掛声を以下に示し、長崎コッコデショとの関連や酷似点を探ってみたい。

(指揮者)コッーコデショ  (舁夫)ソコジャイ

       コッ-コデショ       ソコジャイ‥舁棒から肩を抜く

                   コッコデ、コッコデ、ヨイトセ‥屋台を下して地面に据える。

掛声「コッコデショ」に関しては、長崎が奉納のクライマックスである放り上げ時の勇壮な掛声であるのに対し、千本では奉納一段落時の鎮めの場所決めの掛声であった。同じ文言であるにも関わらず、方や太鼓台の呼称にまでなった長崎に対し、千本では運行時の最後の地味な掛声として存在している。

千本屋台の神社奉納時の一連の掛声としては以下のものが確認された。

 サーシマショ‥舁き始めの掛声。一気に頭上高く屋台を差し上げる。

 エンヤサ、エンヤサ‥台足を地面に下さず、大波に翻弄されるように、屋台をシ-ソ-のように大きく揺さぶる。

 サーシマショ‥再度差し上げる

 マワセ‥台足に取り付いた舁夫は肩に入れて台舁きをする。他の舁夫は、力一杯舁棒を回転さす。

なお、神社拝殿で拝礼を済ませた屋台は、近くの奉納場所まで一気に走る。その場所で「サ-シマショ」「エンヤサ」「サ-シマショ」「マワセ」の順で奉納する。そして奉納の終わりに前述の「コッ-コデショ」で屋台を所定の据え場に鎮めていた。

興味深い〝乗子の反り返る所作

興味深いのは乗子の反り返る所作である。当時の取材ノートには「手を交互に斜め上方に振り上げる、或いは両手を広げてのけ反(ぞ)るように後方へ反(そ)り返る」とある。長崎椛島町コッコデショも同様な所作をしている。千本に近い兵庫県下の屋台乗子の所作にも同様な反り返りがごく一般的に見られる。またこれまでに見学した太鼓台文化圏各地でも、同様な所作を数多く見ている。太鼓台が伝播していく過程で、掛声や所作が太鼓台と一緒に伝えられたことが偲ばれる一例だと考えている。

この小論の終わりに、最も簡素・素朴な形態の太鼓台を紹介したい。勿論紹介する太鼓台は、本論の千本屋台や長崎コッコデショとも随所に関連が偲ばれる太鼓台である。(各地の太鼓台は船をなぞらえた存在で、そのため荒々しい担ぎ方もするし、乗子の反り返り所作等も知らず知らずの内に太鼓台と共に伝えられている)

島根県隠岐の島「旧・西郷町宇屋のだんじり(舞)‥2002.7.28見学

上から、御崎神社境内での左右に振る荒々しい奉納。だんじりの形状は江戸期の大井川・輦台風で、画面左にはこのだんじりの台が見える。次は、乗子が太鼓を叩いた後に2本の太鼓ブチを揃え、左右の斜め後方へ振り上げる(反り返り)所作をしているところ。勿論、事故防止のため乗子は勾欄部に縛り付けられている。下は、西郷港で一休止のだんじり。この舁棒1本に8人ずつ計16人が取り掛かる。他に音頭取りが1人、だんじりの運行を取り仕切る。

(終)

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