太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

〝伊吹島・西部太鼓台の幕〟よもやま話

2021年03月29日 | 研究

瀬戸内海・燧灘中央部に浮かぶ香川県観音寺市伊吹島。好漁場の島周囲から新鮮なうちに水揚げされ、讃岐うどんの出汁に必須な〝ブランドいりこ〟(カタクチイワシの煮干し)の特産地として有名となったこの島に、江戸時代から続く〝大坂・直結〟の3台の蒲団型太鼓台が今も伝承されている。島の太鼓台が誕生した順と言われている西部(旧・上若)→東部(旧・下若)→南部(旧・中若)の3台が、過疎化が進む中でも大切に守り伝えられている。そのうち、今回のテーマである西部太鼓台の水引幕は〝弁財天が龍に乗る〟図柄となっている。この〝弁財天+龍〟の水引幕については、以下のように2種類の図柄=北条氏の三鱗(みつ・うろこ)伝説、清盛の威勢をくじく=が存在しているようだ。また、他にも〝龍が老翁を乗せる〟図柄もあるが、これら〝龍と人物にまつわる周辺事情〟についても各地水引幕の画像を通して眺めてみたい。なお、本件ブログ下記「鎌倉・北条時政、江ノ島弁財天から三鱗(さんりん)を賜る」の発信に当たっては、次の方々からご教示や情報提供・ご協力をいただきました。謹んで御礼申し上げます。(新居浜市・Tanaka.K氏、坂出市・Tatara.T氏、大野原町・Situkawa.T氏、伊吹島・Miyoshi.K氏、伊吹島西部・柞田町下野・丸亀市吉岡の各地区の関係皆様)

さて、伊吹島3太鼓台の来歴等については、遺されてきた道具箱や当時の大坂商人からの見積書及び若連中伝承の「太皷寄録帳」「太皷帳」などの古記録によって客観的に明らかになっている。西部太鼓台では「太皷寄録帳」の文化5年(1808)、東部太鼓台では「蒲団枠保管箱」の文化2年(1805)、南部太鼓台では「太皷水引箱」の文政6年(1823)が、それぞれ早い時代のものとなっている。これらのうちでは東部の蒲団保管箱が最も古いが、西部では「太皷寄録帳」の冒頭の書き出しから、文化5年の新調は〝太鼓台の拵え直し〟と考えてよいことから、それよりも更に以前に太鼓台が伝えられていたものと考えられる。

1.幕の題材 「鎌倉・北条時政、江ノ島弁財天から三鱗を賜る」

   鎌倉幕府の執権・北条氏の家紋〝三つ鱗(うろこ) 〟の由来譚に題材を得た幕である。

  〝江ノ島の弁財天から、家紋となる龍の鱗3枚が時政に授けられた〟との伝説がある。

弁財天が手にする軍配は、水平に構えている。この上に〝龍の鱗〟が3枚載せられているのが、通常の姿ではないかと思う。(下絵は『新居浜史談』加地和夫氏記事より転載) 下の「安芸宮島の弁財天が真体をあらわし、平清盛の威勢をくじく」図柄の幕の軍配と比較していただきたい。下の清盛の図柄では、軍配を縦にして威勢をくじく風情を表している。この点が最も大きな違いである。

2.制作の時代と制作工房はどこか。

制作した時代については、記録されたものが遺されていないので確定できない。冒頭画像で比較して示したように同じ図柄の幕が、現在、伊吹島西部・柞田町下野・丸亀市吉岡の各太鼓台に存在する。三者を見比べると、時代的には伊吹島→柞田→吉岡の順に登場したものと想像でき、伊吹島西部の幕が最も早く誕生したものと思われる。ただ幕端の左右に「青 年」とあり、近代性を感じさせることから、痛みの割には意外と新しいのかも知れない。制作時期を強いて推測すれば、早くて明治後期、恐らくは大正時代の作ではなかろうか。

制作工房については、伊吹島の太鼓台が〝大坂・直結〟と言われており、また古い幕でもあるため、一般的には大坂に関係する工房で刺繍されたのではないかと考えるかも知れない。しかし、そうではないと思う。工房を特定することは難しいが、伊吹島幕の龍頭の後方部分、即ち角(つの)の前の上下の筋肉が繋がっていることに注目したい。この表現は、この地方の太鼓台刺繍発展の草創期に、金毘羅歌舞伎のお膝元・琴平に工房を構えていた〝松里庵・髙木工房〟の大きな特徴である。地芝居の豪華衣装の制作を主業としていた髙木家は、明治中期頃に需要の増した太鼓台刺繍制作へと本格的に移行している。同時期に、琴平から観音寺へ工房を移し、東予・西讃地方の太鼓台装飾の発展に大きく貢献している。

但し、この幕の下絵が『新居浜史談会』の加地和夫氏論文から、山下家に存在していたことが判明している。それでは、〝下絵は山下家、制作は松里庵・髙木工房〟という制作図式を、どのように捉えるべきなのだろうか。

私の推理はこうである。⑴髙木工房が、山下工房より下絵を借り受けて伊吹島西部太鼓台の水引幕を制作した。⑵同じ絵師による同図柄の下絵が元々は複数存在していて、髙木工房は自らが所持する下絵を用いて伊吹島以下の水引幕を、順次アレンジして制作を続けた。

何れの場合においても、髙木工房と山下工房との関係は、縫師にとって〝下絵は、命の次に大切〟と言い放って憚らない貴重な下絵を、ある意味〝共有〟するほどの親密な関係性を保持していたということになる。これまで私は、両縫師・両工房の関係が、少なくとも1890明治23年、山下茂太郎縫師(旧姓・川人氏)の生誕地である徳島県三好市池田町西山の太鼓台制作を〝共同制作〟していることに注目し、その親密性を発信してきた。

それまで無名に近かった山下家初代の川人茂太郎(後の山下茂太郎)縫師が、郷里へ錦を飾った太鼓台新調にあたって、髙木・山下両工房のコラボによる記念すべき太鼓台の誕生であった。それは、今日の西讃~東予地方の太鼓台刺繍が大いに発展するターニングポイントとなった太鼓台でもあり、私たちの地方での位置づけは、甚だ重要なものである。(この項、2022.8.9追加投稿)

左から、伊吹島西部の幕で上下の繋がりが確認できる。中は柞田町下野の幕、右は丸亀市吉岡の幕で、両者は目尻に三角の筋肉が見られる。これらの特徴は〝松里庵・髙木工房〟の古い刺繍で数多く見ることができる。

このように、下野太鼓台や吉岡太鼓台の幕の龍頭にも、松里庵・髙木工房の特徴(手前目尻・後方の三角筋)がうかがえる。恐らくは、絵師によって描かれたこれらの幕の元絵があり、それをそれぞれの幕サイズに拡大・アレンジして制作したものと思う。三者の幕からは、各地の太鼓台刺繍が次第に華美となっていく発展過程がよく理解できる。西部・下野・吉岡の同一図柄の水引幕を並べて眺めると、長い年月を通して発展して行った近隣各地の太鼓台刺繍の過去を、具体的かつ客観的に学ぶことのできる。その意味で、西部太鼓台の幕は間違いなく貴重であり、失ってはならない大切な〝太鼓台文化圏の遺産〟である。

3.その他関連事項

(1)見間違いやすい、弁財天と龍が登場する他の幕

上記に類似する幕に、「安芸宮島の弁財天が真体をあらわし、平清盛の威勢をくじく」という幕がある。三つ鱗幕とは、龍・弁財天以外の登場人物等に大きな違いがある。注目したいのは、弁財天の持つ軍配の角度である。三つ鱗の方が、軍配の上に授かった龍の鱗を載せるため、水平にして持つのに対し、清盛の方は、清盛の威勢をたしなめてくじくため、団扇で扇ぐように立てて持っている。どちらも龍と弁財天が登場するので、間違わないように注意が必要である。

(2)龍に乗る人物の刺繍

 『平家物語』から歌舞伎に取り入れられた「牡丹平家譚」(なとりぐさ・へいけものがたり)の<重盛諫言(しげもり・かんげん)の場>をアレンジした図柄となっている。龍に乗る人物は、後白河院で左端が平清盛、その右が「(恩義のある院に)忠ならんとすれば(親の清盛に)孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず、進退已(すで)に谷(きわ)まりぬ」と、有名な科白で清盛を諫める息子の重盛である。この題材の刺繍は、近隣では宇多津・坂下西、大野原・花稲本村(下記)、観音寺・中太鼓に見られる。花稲本村の幕では、左端の人物(清盛)が省かれているのかも知れない。元々は連続した1枚幕であったと思われるが、もし最初から清盛が省略されていたのであれば、幕の本題とは大きくかけ離れた内容となってしまったと言わざるを得ない。

(終)

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芸予諸島海域の太鼓台

2021年03月17日 | 見学・取材等

芸予諸島の太鼓台分布

愛媛県今治市と広島県尾道市から三原市沖にかけての芸予諸島にも、各種の太鼓台が数多く分布している。太鼓台の初期段階に登場した櫓型太鼓台は見られないものの、四本柱型・平天井型・屋根型の太鼓台は各所に見られる。その概要は以下の地図のようである。

現在しまなみ海道の架かる今治市と尾道市との間の南北の海域に散らばる大小の島々。このエリアは、遣隋使や遣唐使の時代から海賊・村上水軍の時代を経て近世・近代の帆船の時代に至るまで、常に瀬戸内大動脈の〝海の難所〟と位置付けられていた。芸予諸島と称されるこのエリアは、島と島との間隔が狭く海流が複雑に流れる環境下にあっても、海流を知り尽くした小型・無動力船を使った島同士の行き来は、自然と濃密であった。また、入り混じった島々の帰属についても現在の県境とは異なり、安芸と伊予の間では今とは支配が異なる地域もあった。そして、複雑な地形で相互に近い島々は、祭礼などの伝統文化においても、同様な共通する奉納物が多々見られる。中でも、経済活動に付随して西日本一帯に撹拌された近世の太鼓台文化が、この海域でも各所に広まっている。このエリアに住む人々の生活が互いに影響を及ぼし合ってはいるものの、太鼓台の導入時期に若干の年代的差があったのか、発展段階の異なる太鼓台(即ち、簡素・小型で祖型的なものから、かなり豪華で大型の太鼓台まで)文化を育んできた。上の略地図上に、異なる形態の太鼓台伝承地域の概要を示しておく。

この海域の太鼓台

簡素な太鼓台として、大崎下島の南に位置する斎島の櫓(尼崎から伝わると伝承あり)、少し大きくなったと聞く呉市安浦町三津口のだんじり(3枚)、今治市・大浜八幡神社の奉納絵馬(嘉永5年1852)、最後は越智大島・渦浦のやぐら

越智大島の屋根型太鼓台・やぐら。今治市吉海町(前4枚、乗り子は四本柱に縛りつけている)と同市宮窪町(後2枚、分厚い飾り蒲団を尻に敷き、四本柱に括りつけられている)

最初の2枚は今治市波止浜町・龍神社の奉納絵馬(慶応3年1867)、上島町魚島のだんじり(後方は芝居小屋)、同町上弓削のだんじり

「文政3年(1820)大坂・三井納」の道具箱が伝わる大崎下島・沖友の櫓(2枚目の絵馬は天保13年1842のもの。蒲団を下した夜間奉納時を描いている?)、3,4枚目の御手洗・櫓の始まりは、文政13(1830)年の住吉神社建立(主には大坂・鴻池の寄進)と関連するのだろうか?、5枚目は三原市幸崎町能地のふとんだんじり、最後2枚は大崎下島・大長の櫓(明治初期に新居浜から伝えられた太鼓台。装飾刺繍は後代のもの)

芸予諸島海域の各種太鼓台を眺めてみると、太鼓台先進地の大坂や装飾刺繍の豪華な四国から、時代を超えてこのエリアに集められて来たようにさえ感じる。実際には以外と狭いエリアではあるが、これほど多い種類の太鼓台の存在は、文化の研究を志す者には大変ありがたい。この地方が、西日本における〝太鼓台文化圏の縮図〟と言われる所以である。幸いなことに、各地では古い文化遺産的な品々も、まだまだ大切に伝承されている。この地方からの遺産情報を基に、客観的な太鼓台文化の解明に一層役立てたいと想う。

(終) 

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燧灘・魚島だんじり<H15.10.5見学>

2021年03月11日 | 見学・取材等

初めに

私のふるさと香川県西部・観音寺市辺の漁師は、魚島のことを”沖の島”と呼んでいる。多島海の瀬戸内でも、ゆるやかな円弧をなす四国北岸の燧灘には島が少ない。その中でも魚島はその名のとおり、かっては鯛網漁に沸いた遥か沖合いの未知の島であって、私にとっては見えてはいるが、しかし遠い島であった。私の家からは歩いて10分もすれば、魚島は伊吹島の右後方に重なるように眺められ、直線距離にして約30kmでしかない。父の代まで漁師をしていた関係で、子供の頃には漁船に乗せられて沖へも出たが、"伊吹島-円上島(マルガメ)-股島(マタ)-魚島諸島-弓削島-尾道"へと連なる"飛び石列島"は、現在に至ってもなお、私の原風景の大きな部分を占めている。伊吹島や遠くの島影が夕日に染まる光景などは、内海の"至宝"と呼ぶにふさわしい、絶景的美しさである。

1枚目は魚島の展望台から、江の島(無人島)や、その後方・伊吹島から香川県西部を望む。2枚目は1枚目の逆方向から望む。即ち、香川県西部から伊吹島と伊吹島の後方に重なる魚島や弓削島方面を望む。3枚目は、四国側から見る燧灘の日の入り。

魚島への交通は、今治港から弓削島まで船で行き、そこで魚島村(現在は愛媛県越智郡上島町魚島)営の高速船に乗り換える方法と、因島市土生(ハブ)港始発の、同じ高速船に乗る方法がある。今回私は、四国側から"しまなみ海道"を因島土生港まで行き、午前8時発の便に乗った。四国・香川県からは燧灘をぐるりと半周したことになる。乗船時間は約1時間、約4時間の片道行程であった。

魚島の太鼓台"だんじり"

昭和50年頃に太鼓台の分布調査を行った際、「伊吹島に太鼓台があるのだから、その向こうの魚島にも太鼓台があるのではないか」-まず、そのように思い立った。その後、つたない問い合わせに、当時の教育長さんからご丁寧な返信をいただき、頑丈な3畳色違いの蒲団型太鼓台"だんじり"の存在を知った。(結果として、燧灘・飛び石列島の伊吹島、魚島、弓削島には太鼓台が伝承されていた)その折にいただいた「広報うおしま・第18号」(S53.11.20)の冒頭ページには、<老人パワー爆発新調のダンジリに張切る明治青年>と題して、港の造成地において練られている写真が掲載されていた。以降、私にとって魚島だんじりは、是非とも見学したい太鼓台の一つになった。過疎の小さな島の太鼓台、瀬戸内孤島の太鼓台、人々とだんじりとの関わり、その歴史等々、ある一種の懐かしさをイメージしながら、どれをとっても興味の尽きることはなかった。

亀居八幡神社

港に着き、人家が密集する急な坂道を上り詰めると亀居八幡神社に着く。現在は島を循環する県道を通れば、神社の鳥居まで車で容易に訪れることもできる。「安永7戊戌八月」(1778)と刻まれた鳥居が、循環道路と社叢とを分けている。境内は思いのほか広い。鳥居から拝殿までは、直線で優に100mはある。島の頂上付近に位置する境内は、島一番の立地条件の良さであった。島民こぞって神域を大切にしてきたことが窺い知れる。

拝殿向かって左側に神社再建記念碑が建てられている。元禄6年(1693)とあるから創建は更に古いことが偲ばれ、瀬戸内のこの地域において、かっては魚島が重要な位置を占めていたことが想像できる。なお、本殿・拝殿の他、神殿・神馬舎・舞台(芝居小屋)・御手洗舎・だんじり小屋・絵馬堂等が建てられており、その他に石燈篭や構築物も数多くある。それらの奉納した時期を示すと、鳥居の安永7年以外では、享和三亥(1803)・文化十一戌(1814)・文政七申(1824)・文政九戌(1826)・文政十三庚寅(1830)・天保二辛卯(1831)・天保四癸巳(1834)・天保十二(1841)・弘化三丙(1846)・弘化四未(1847)・嘉永三酉(1850)・安政三(1856)などとあり、18~19世紀の幕末期に集中している。

上記写真は魚島だんじりの概要-長い参道を曳かれていくだんじりと、だんじりに奉仕する人々及び"横倒し"の様子。担ぎ手の若者は、本当に少ない。蒲団部の構造とだんじり本体。

だんじりの規模は、蒲団上端から台足(台車含まず)までが約275cm、舁棒の長さは前後で約5m強、横棒が約3.5mであった。舁棒は井形に組む。台車と太鼓台は固定されていて、長老の方にお尋ねしても「台から外したことはない」と言っていた。 だんじりの構造や地理的・経済的関係から、広島県福山市の鞆浦にある"ちょうさい"(太鼓台、下の写真3枚)と、何らかの関連があるのではないか、と私は考えている。なお最後の写真は、上島町弓削島・上弓削地区のだんじりである。

お祭りの現状と課題

昭和40年頃まで魚島の秋祭りは、旧暦の8月14~16日の3日間であった。現在は10月上旬の金・土・日曜日になっている。第1日目が宵宮で、午後7時から、舞台で芝居やカラオケ大会などがある。以前は、この晩には島民全員が"おこもり(参篭)"を行っていた。2日目の午前10時頃から神輿の宮出しがある。だんじりは最終の日曜日に出している。

魚島村は、役場のある魚島と、高井神島(先祖は塩飽諸島の高見島から移住してきたらしい)、江ノ島(無人島で、島周囲の漁場は"吉田磯"と呼ばれ、鯛網の好漁場として名高い)及びいくつかの小属島からなっている。1992年(昭和53年10月)当時、村全体で人口が535人、200世帯であった。2004年10月1日に、当時の弓削町・生名村・岩城村と合併して「上島町」となったが、旧・魚島村人口は334人、世帯数は177戸と大幅に減少している。 訪問した2004年(H15)当時、有人島の高井神島を除くと、魚島には260人位しか住んでいなかった。わずか260人の島が、3日間にもわたるお祭りを執行していたことを、私には想像できなかった。

私は、3日目の朝からダンジリ奉納が終わる夕方までを、見学させていただいた。まず青年団員の少ないこと、若い人が少ないこと、高齢化が進行していることが特徴的だった。後で聞けば"島の若者はほとんどいない"のが現状らしかった。漁業で生きる島なので、若い後継者が大勢いるかと思ったのだが、そうではなかった。若い時に島から出て、彼の地に生活の根を下ろすと、なかなかUターンもままならないのが現状。確かに漁業は島の基幹産業ではあるが、従事者は高齢化している。従って、当日のだんじり運行に参加したのは、学校の先生・駐在さん・役場の職員・漁師さん・村会議員の皆さんの10名余りであり、他は年配者や女性や子供たちであった。高校生が2人そばにいたが、残念ながら見ているだけであった。

運行の様子をスナップした写真でもお分かりのように、確かに少人数での運行を余儀なくされている。頑丈で立派なだんじりが伝承されているのだから、もう少し何とかならないものかと考えてしまった。ある祭典関係者が、「お祭り期間を3日間に設定しているのは、神輿とダンジリを同日運行できないから」と話されていた。参加者数を数えてみて、私もそう思わざるを得なかった。お祭りをわずか島民260名が行うのは、既に人的限度を超えていると思った。島に住み、島を守る人々と、島外に出て生活している人々との"共同作業"が、必要不可欠と感じた。

そのような観点が許されるのなら、「お祭り3日間が、長いかどうか」も、再考してもよいのではないか。金・土・日曜開催というのは、当時としてはよくよく考え抜いた設定だったと思う。しかし、新しい観点の場合、金曜日に仕事や学校が終わってから船便を利用してまでは、遠い魚島までは帰れないと思う。折角、家族・親戚が一緒になって楽しめる工夫の芝居やカラオケ大会があるのだから、少しもったいない気持ちがする。これらを土曜日の晩に設定できるのなら、少なくとも子供たちは帰省しやすいと思う。そして最終の日曜は神輿とダンジリを一緒に運行し、島内外の子供たちや出身者に協力してもらい、思い切り神輿やダンジリに取り掛からせたらどうだろうか。気ぜわしく生活する子供たちや出身者にとっても、何物にも変えがたい体験と達成感が得られると思うのだが。

現状は残念ながら、「帰省客はほとんどいない」と聞いた。最終日、帰りの船便で弓削港で降りたのは、女子高生らしき2人と今治から来ていた写真屋さん1人で、終着の因島土生港まで乗っていたのは、釣り客3人と私たち2人だけであった。汗ばむほどの上天気だったし、さわやかな一日であったのに、帰省客の少ないことがとても不可解でならなかった。

"島からの情報発信を"= 島の出身者は渇望している

わずか260人に減少してしまった(現在は更に過疎化が進行している)故郷・魚島を活性化できるのは、恐らく島外に住む島出身者・関係者かも知れない。それら人々とのコンタクトを、島全体としてどうとるか、ということが今後ますます重要になってくると思う。一言でいえば、「島からは、タイミングよく新鮮な情報を発信する。島出身者・関係者は、その情報を漏らすことなく素早くキャッチする(できる)」ということに尽きる。登録制・会員制など、どのような方法があるのか。魚島に住む人々と、島出身者及び家族とを固く結びつける情報ラインの整備が、本当に重要だと思う。

掛声"伊勢音頭”

だんじりを運行する時の掛声は、「ヤレ、ヤレ」か「カヤセー」くらいであった。「チョウサ」の掛声は神輿を担ぐ時には使うが、だんじりでは使用しないらしい。以下の伊勢音頭と言われているだんじり運行時の音頭も、「くどき」をする者がいないため、かろうじてメモを見ながらの唄となっていた。以下に特徴的なものを記す。

◎ めでためでたが三つ重なりて、一昨年(おととし)や、下(しも)にて金もうけ、去年は南に蔵を建て、

 今年はせがれに嫁もろて、嫁をもろたるお祝いに、犬と猿とが舞を舞う、

 いぬまい、さるまい、いなすまい

◎ 娘十七・八は嫁入り盛り、たんす長持挟(はさ)み箱、これほど仕立てやるからにゃ、二度と戻ると思うなよ、

 父さん母さん、そりゃ無理よ、もののたとえにあるとおり、

 東が曇れば雨とやら、西が曇れば風とやら、北が曇れば雪とやら、たとえ南がすいたとて、

 千石積んだる船でさえ、港出る時やまんまとも、出て行く沖の模様次第、風が変れば後戻る、

 そういう私も同じこと、殿に縁なきゃ後戻る

◎一かけ、二かけ、三かけて、四かけて、五かけて、橋架けて、橋の欄干(らんかん)に腰かけて、

 はるか向こうを眺むれば、白いかもめが三つ連れて、三つ三つ連れて六つ連れて、

 あれ見やしゃんせ、かかさんよ、池や小川の小鳥さえ、

 夫婦仲良く暮らすのに、なぜに私は一人者(旅)

◎今度この丁(ちょう)に、豆腐屋ができて、そのまた豆腐が申すには、わしほど因果なものはない  

 朝は早よから起こされて、水攻め火攻めに遭わされて、水攻め火攻めはいとわねど、四角箱にと詰められて、

 一丁二丁の切り売りや、後に残りしおからまで、一銭二銭のつまみ売り、

 汁まで瓶に詰められて、牛の乳やのかわりなし、

 親はどこじゃと聞いたなら、親は畑でまめでおる

◎これのお家をちょいと褒めましょか、

 表は黄金(こがね)の門がまえ、裏に廻りて眺むれば、七巻半の姫小松、

 一の枝には金や銀、二のまた枝には鈴がもり、三の枝には短冊を、

 上から鶴が舞い下り、下から亀がはい上る、末は鶴亀五葉の松

◎ゆうべ夢見た目出度い夢を、

 いざなぎ山の楠で、新造つくりて今朝おろし、

 帆柱金の延べがねで、帆は法華経(ほっけきょう)の八の巻、

 帆縄や手縄は琴の糸、斜(はす)や両帆は三味の糸、

 艫(とも)の真向こに松植えて、松のあらせを帆に受けて、

 宝ヶ島へと乗り込んで、よろずの宝を積みこんで、

 七福神が舵(かじ)を取り、この家さして走りこむ

◎ちょいとボタモチよ、おさえてこねて、

 小豆や黄な粉のべべを着て、楊子箸(ようじはし)をば杖につき、

 口の番所や歯の関所、奥歯の茶屋にて腰をかけ、のどの細道お茶で越す、

 お腹に一夜の宿をとり、明日はお立ちか下くだり

◎そこらあたりの姉(あね)さんよ、私の言うこと聞いてくれ、二度とは頼まぬ一度だけ、

 三千世界の星の数、お山で木の数、萱(かや)の数、

 神戸兵庫の船の数、七里ヶ浜の砂の数、

 これほどこまごま頼むのに、姉さナ、くまがい、ふたごころ

◎伊勢は豊久野、銭影松よ、今は枯木で、朽ちかかる

◎伊勢は萱葺(かやぶ)き、春日は桧皮(ひかわ)、八幡はちまん、こけら葺き

◎新造つくりて、浮かべて見れば、沖のカモメの、浮くごとく

◎わしとお前は、卵の仲よ、わしが白味で、黄身を抱く

◎伊勢へ伊勢へと、萱(かや)の穂はなびく、伊勢は萱葺き、こけら葺き

◎新造つくりて、なに積みなさる、鯛を積みます、めでたいを

◎新造つくりて、なに積みなさる、昆布を積みます、よろこぶを

◎ちょいと出します、藪から笹を、つけておくれよ、短冊を

◎娘十七・八は新造の船よ、人が見たがる、乗りたがる

◎わしとお前は将棋の駒よ、飛車飛車王手(ひしゃびしゃおうて)、今日までも、

 なんの桂馬や、歩(ぶ)あいさつ、金銀つこうて下さるな

 私が女房の角なれば、盤の上にて王手指す

(終)

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種子島・鉄砲祭の〝太鼓山〟

2021年03月10日 | 見学・取材等

初めに

種子島へは平成 13(2001)年、真夏の鉄砲祭で訪れた。地元への事前聞き取りでご教示いただいた、掛声に郷里四国瀬戸内の太鼓台の掛声と同様な〝ちょうさ〟(よく聞くと、現地では「チョッサー」と言っている)を用いていたことがまず一つ。それと、四本柱上部の格天井の上に、紅白の大きな〝輪〟を積むカタチ(この形態は珍しい)であったこと。この大きな輪は、一体何を意味するのだろうか。ぜひとも実見しなければならない。西之表市西町で明治初年から奉納が続いている太鼓山。この〝ちょうさ&輪〟を通じ、遠く離れた南の太鼓台が、西日本の文化圏各地と〝どのように繋がるのか〟が知りたかった。種子島の太鼓台〝太鼓山〟(又はちょうさ、ちょっさーと呼称)は、今に至るまで日本最南端の太鼓台である。

関連画像の紹介

下画像は左から、太鼓山の全容・海と川からの上陸風景(Webから)、太鼓山の骨組み、椎の木や杉の枝及び竹笹(常緑の木々)・日の丸の旗を飾る太鼓山、大きな輪と詰められた藁縄の様子。(輪の凡そのサイズは、全体の直径が180cm・輪断面の直径が21cm、その一回りは70~75cm)。太鼓山の規模に関しては訪問時に「近年になり全体が一回り大型になった」と聞いた。なお当時の聞き取りメモには、輪は「毎年新しく作り替え、使用後は廃棄する。その理由は、海水や打ち水で長期の保存ができないから。一時期、大きなタイヤ・チューブを代用していたこともあったが、元の藁巻きに戻した」とあった。

運行所作の共通性について‥各地の関連画像紹介

種子島の太鼓山と文化圏各地の太鼓台との大きな共通点は、〝横倒しの所作であると思う。種子島では「180度を行なう」と称して、横棒の端を地面につけて、太鼓山を左右に倒す。種子島とほぼ同じ所作を行なう太鼓台は、各地を歩いていると、意外にも多いことが判った。以下の画像で紹介するように、簡素・小型の太鼓台から豪華・大型の太鼓台まで、各地に万遍なく広まっている。この荒々しい所作の共通性こそが、太鼓台が各地へ伝播されて行った当時の、「共通する太鼓台の担ぎ方・奉納所作の名残り」ではないか、と強く感じた。以下に各地の横倒し画像を紹介しながら、所作面からの文化圏の共通性を眺めたい。

最初は種子島・太鼓山の横倒し〝180度の様子。続いて簡素と思われる太鼓台の順に、隠岐島・西郷のだんじり舞→高松市女木島・太鼓→大阪天神祭・催し太鼓(枕太鼓、寝屋川市のF・S氏提供)→吹田市千里佐井寺・太鼓→尼崎・辰巳太鼓→淡路島・遣いだんじり(2ケ所)→丹後半島・此代のだんじり→倉敷・児島の千載楽→呉市倉橋島・鹿老渡のだんじり→さぬき市志度の太鼓→呉市大崎下島・御手洗の櫓(昼と夜、2枚)→同・沖友の櫓→愛媛県上島町・魚島のだんじり→小豆島・内海の太鼓→同・池田祭の絵馬(文化9年1812、画面右下で“返し”を行っている。既にこの時代に、太鼓台の横倒しは行われていた)。最後の2枚は、太鼓台の分布概要図と発展の想定図。

掛声〝チョッサー〟等について

種子島・太鼓山の掛声については、明治初期頃の伝播当時から多少の変遷があったものと思うが、訪問時点では、「チョウサ・チョッサ-・ヨイヨイ・サセ・トウザイナ、トウザイナ」が確認できた。このうち、「トウザイナ、トウザイナ」に関しては、太鼓山が祭の行列の先頭を行くことから、「東西・東西」と〝露払い的に発しているものと思われる。また「ヨイヨイ」は、各地の太鼓台でごく普通に使われている掛声である。勿論「チョウサ・チョッサ-」は、最も数多く発せられる太鼓台文化圏の代表的な掛声である。

太鼓台の蒲団部は、どのように誕生・変化・発展してきたか

太鼓山に用いられている掛声については、各地太鼓台との共通性が強く確認できた。更には、太鼓台を〝横倒し〟する所作も、各地の太鼓台と共通し、種子島が各地と強く結ばれていることが想像できた。ならば、太鼓山・形態の最大特徴とも言える天井部分に積む大きな輪についても、各地と関連し、太鼓台文化の客観的解明につながるヒントが秘められているのではないか、と私は考えた。果たして、この大きな藁巻きの輪は、一体何を意味し、どう各地の太鼓台へと繋がっていくのだろうか。以下に示した図は、蒲団型太鼓台の範疇において、「蒲団部が、どのような経緯で今日のポピュラーな姿になったのか」を、誕生から現在の大型且つ豪華となった蒲団部について、私感を交え想定したものである。下図は、上掲末尾画像の「太鼓台発展の想定図」の「蒲団型」部分の、〝変化・発展〟の具体的解明である。

太鼓山に積まれた大きな藁巻きの輪は、太鼓台発展想定図における〝鉢巻型太鼓台〟の鉢巻である。太鼓台の蒲団部は、最初は下の①の1枚物の薄い毛布のような〝1畳蒲団であったが、その改良型として、枚数を増やした同②の〝3畳蒲団となり、或いは1本型や3~5本型の鉢巻型〟に変化・発展していく。平らな本物蒲団型から鉢巻蒲団型へと改良されていくのは、外観の見立てであって、即ち真横から眺めた場合、本物蒲団も鉢巻も同じように〝厚みと外縁の丸み〟が満たされれば、より簡便で美しい形態へと変化・改良されていくのはごく自然の成り行きではないか。それが、本物蒲団型から鉢巻蒲団型へと変化した改良理由であったと思う。種子島の外で鉢巻蒲団型太鼓台に改良された太鼓台が、明治初期頃に種子島へもたらされる。導入された太鼓山の〝鉢巻〟をはじめカタチそのものも、少なくとも、かっては今よりも小規模であり、それが段々と大きくなり、今日の規模に発展したものと思う。種子島の場合には、近くに影響を与え合う太鼓台がないことから、導入した明治初期頃以降、島独自の〝大型化〟を繰り返してきたものと想う。

関連画像の一部紹介(左から)

上表①の毛布状の1枚蒲団を積む南予各地の太鼓台(愛南町柏・日振島・宇和島市小倉の各四つ太鼓) 上表④の、本物蒲団を3畳積む愛南町深浦の四つ太鼓 同じく本物3畳蒲団の沖友・櫓 同じく上表④関連、最上部の蒲団が本物の変形型・鉢巻蒲団となっている熊野市のよいや(2枚) 最後の2枚は、山口県周南市須々万の揉み山(2枚) 元々は、上表③の種子島・太鼓山のように一本の輪・鉢巻状であったが、組立の容易さ優先から、現在では四辺に分割して飾っていた。(本件は、地元古老からの聞き取りで判明した)

2022.10.15追記)

鉢巻型蒲団型太鼓台の外観と、変化・発展を繰り返して今日の枠蒲団型となった太鼓台との決定的相違点は、一体どこにあるのだろうか。それは、鉢巻蒲団型の外観が「円形」であるのに対し、枠蒲団型の外観が四角の「方形」をしていることではなかろうか。この相違点について、私的には「鉢巻蒲団=円形=円座=座る」であり、「枠蒲団=方形=大蒲団(掛蒲団)=寝る」であると考えている。(両者とも外枠だけが存在し、座り或いは寝る中央部は空洞)即ち、太鼓台への蒲団部の採用目的が❶「座るか、寝る」の用途目的の違いにあり、それは➋「蒲団」という語の使用用途が「座るから寝るに変化していった」ことと深く関連している。即ち➌「寝る蒲団よりも、座る蒲団が古い時代から在った」からではないか、と考えている。この間の考察に関しては「フトン(型)太鼓台の「フトン」表記は、「蒲団」なのか、それとも「布団」なのか」(2019.7.11)や、「蒲団型太鼓台の〝蒲団部誕生〟について考える‥(2)」(2022.2.11)で示した〝寝具の「蒲団」と「蒲団型太鼓台」との関連〟表や、森岡貴志氏論文<「蒲団」の研究—漢語の「蒲団」と寝具の「蒲団」>を参照していただきたい。

(終)

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