太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

ふるさとの川や海が、何か変だぞ?

2023年04月16日 | 随想

水がきれい、透明度が高い。でもふるさとの川には魚影が少なくなってしまったし、アオサもほとんど見えなくなっています。この時期楽しみにしていたアサリも全く採れないし、姿も見ることが出来なくなってしまいました。

また桜時期の瀬戸内では、おいしい珍味のシャコエビは20㎝以上にもなって赤い卵を一杯に孕み、本当に自慢のごちそうでした。今は、たまに小指ほどのものが超高価な値段で並べられているのを見るだけとなってしまい、残念でなりません。

近年のこれらの状況は、私の住むふるさと観音寺だけではなく、瀬戸内各地でも全く同様です。このことは、私たちの見ることができない自然界の何らかの大きな力によって、人間の住む環境が多分に左右されている気がしてなりません。

ふるさとの身近な川や海は、水がこんなににきれいになったのだから〝間違いなく、今まで以上に自然は豊かになっている〟と疑わずに思って来ました。

ただ、自然が本当に良い方向に環境改善されているのなら、どうして魚や貝、アオサまでもが激減してしまったのだろうか-。

そんなことを考えていると、全国の稲作で広く散布されている〝ある殺虫剤系農薬〟と環境との関わりに関する以下のようなタイトルの情報発信(YouTube)に出会いました。

一つひとつを考えながら見ていると、現実との余りもの悪い一致に、目から鱗でハッとなりました。

「ネオニコ系農薬・人への影響は」報道特集‥TBS系列のテレビ再録(約21分)

「魚はなぜ減った?~見えない真犯人を追う」‥東京大学・山室真澄教授の講演(約150分)

⑶「ネオニコチノイド+マイクロチップのリスクを、農業家はどう考えるべきか」‥農業法人トゥリーアンドノーフ、農家と農薬や細かなマイクロチップとの付き合い方につ

いての対談(約25分)

これらの情報からは、魚介類の減少や怖い人体への悪影響について、何らかの関連があると考えられている昆虫殺虫剤系農薬(煙草のニコチンに似た農薬)を、科学的根拠を基具体的・客観的に学ぶことができました。

➀1993年に販売や使用が始まったある殺虫剤系農薬によって、稲作での害虫をより簡単より効果的に駆除できるようになったが、その一方で、散布された水田や水田とつながる河川湖沼や海で、流れて来て蓄積されたと考えられる農薬使用が原因で、自然の環境変化や魚介類の激減が全国規模で広まったのではないかと取り沙汰されています。

➁全国の水田で1993年以降約30年間使われてきたこの種の農薬の蓄積が、冒頭で述べたような極端な環境変化を招いて来たのではないか。また、日本の農薬規制が外国と比較して、極めて緩いことも、専門家からは指摘されています。

➂更に、この種の農薬の広まりは、厳しい農業経営(人手不足・効率化・農薬依存など)とも無関係では無く、日本の環境問題を一層複雑にしていることが分かりました。

「効率化を執るか、自然環境を執るか」―〝私たちはどちらを選べば良いのだろうか?〟に行き着くように思います。

(終)

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ブログ・自己紹介

2022年08月05日 | 随想

①1948年観音寺市生まれ。27歳頃、松山市での勤務の折に初めて愛媛県各地の太鼓台文化に触れた。特に南予各地や島方の数多くの簡素な太鼓台に出会うこととなり、NTT勤務の傍らライフワークの太鼓台のルーツ探しが始まり、太鼓台文化の解明に取り組み始めることとなった。

②観音寺太鼓台研究グループ(参加自由型の研究グループで、呼び掛けに応じその都度参集し、県内外から毎回25名前後の参加者あり)の代表として、2011年以降、財団法人(現在は公益財団法人)福武財団から5回の助成を受け、各地の年代物太鼓台、太鼓台刺繍の先輩格である農村歌舞伎衣裳の実地調査・撮影等を実施。グループ活動では、参加者及び協力団体間での各種情報の共有、太鼓台文化圏各地及び調査実施の農村歌舞伎関係先の公立図書館等への報告書冊子を、寄贈してきた。これまでに下記の香川県下農村歌舞伎団体4カ所を実施済み。

祇園座の歌舞伎衣裳(2014調査・撮影実施、高松市香川町・農村歌舞伎祇園座保存会) ◦小海(おみ)の歌舞伎衣裳(2015調査・撮影実施、土庄町小海自治会) ◦中山の歌舞伎衣裳(2016調査・撮影実施、小豆島町中山農村歌舞伎保存会) ◦肥土山(ひとやま)の歌舞伎衣裳(2017調査・撮影実施、土庄町肥土山農村歌舞伎保存会)

③瀬戸内国際芸術祭2013(2013.7.20~9.1)に併せ開催された「太鼓台文化の歴史展」(観音寺市総合コミュニティセンタ・郷土資料館)の企画・監修を務め、説明員として常駐した。

④これまでの主な発表等。

・1990「新居浜太鼓台の周辺」‥『新居浜太鼓台』所収

・1991「太鼓台からのメッセージ」‥『ちょうさ-観音寺市の太鼓台一覧』所収

・1998「太鼓台の原風景」‥『小豆島の秋まつ・太鼓台』所収 

・2009「燧灘伊吹島・太鼓台賛歌」‥『伊吹島太鼓台資料集』所収

・2019「太鼓台文化圏と香川の太鼓台」‥『祭礼百態』所収

・2019.3 本ブログ「太鼓台文化・研究ノート」を開始、これまで(2022.7)に100件余の情報発信を行っている。

⑤以下は、福武財団助成による報告書冊子所収の内容です。 

・2012「島々の太鼓台」‥『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』所収

・2013「太鼓台・古刺繍を訪ねて」「二人の桜井縫師」‥『太鼓台文化の歴史』所収

・2015「北四国における太鼓台刺繍のターニングポイント」「太鼓台文化の共通理解を深める-蒲団構造に関する

   一考察」‥『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』所収

・2016「」太鼓台の古刺繍に、地歌舞伎・古衣裳との共通点を探る」‥『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅱ』所収

・2017「草創期太鼓台の探究-そのカタチを遡る」‥『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』所収

※福武財団・助成による報告書冊子の内容及び販売に関しては、こちらをご覧ください。

※ご参考 太鼓台文化・事始め

(以上)

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観音寺と太鼓台文化

2021年09月15日 | 随想

新型コロナウィルス禍の影響で、各地のお祭りが連続して執行できない、のっぴきならない状況となっている。日々悶々として、〝コロナ禍が沈静化したあとを見据え、何かアクションを起こせないものか〟と考えている。そのことが今回の、自分を育んでくれた〝ふるさとの過去の太鼓台祭りが、どのようなものであったか〟の一側面を深掘りすることにつながった。最も忌み嫌う我田引水を極力排除し、確かな史実に基づいた客観性を拠りどころに、より自然体で追体験してみたい。勿論、皆さんには〝それぞれの自分なりの郷里の懐かしいお祭り〟があるはずですので、そのご理解の上で、他郷である観音寺祭を知っていただけたらと思います。

1.昔の観音寺祭(琴弾八幡宮の秋季大祭)

香川県観音寺市の琴弾八幡宮に奉納されている太鼓台のうち、これまでに分かった最も古い記録は、下に記した今から210年余り前の文化6年のもので、現在の3号・酒太鼓台に相当する。同地区内には、大人用と子供用2台の〝ちょうさ太鼓〟があったことが記録から分かっている。以下にて、観音寺祭の古い歴史を眺めてみたい。(奉納太鼓台は次々と増え、長らく7台であったものが現在では9台となっている)

◎以下より以前の〝太鼓台・登場〟記録は、全く判明していない。ただ、古い太鼓台と一緒に観音寺から伝わって来たと伝承されている超・年代物の胴長太鼓が、三豊市内某所の神社の宮太鼓(※)として、今も現役で使われている。いずれ、宮太鼓の張替え時などの折、太鼓胴内の制作した年号等が明らかになれば、以下の歴史の一部が書き換えられるかも知れない。

[太鼓のサイズ] 鏡面の直径63.5㎝、胴回り283㎝、縦の長さ86.5~88㎝、最も太い胴部分で直径約90㎝位。この太鼓には〝観音寺太鼓台の歴史〟が封じ込められている予感がする。

(※2024.8.10追記)この太鼓は、豊中町上高野豊姫神社の宮太鼓‥取材した当時に宮総代を務められていた方からの聞き取りにより、福岡太鼓台が大野原町・中姫から購入した太鼓台(1910明治43年製の観音寺・本若太鼓台。この太鼓台に付属していた下記⑤の掛蒲団保管箱は、旧太鼓台の保管箱であった)に積まれていた太鼓であるとのこと。本若太鼓台の確実な歴史は、1879明治12年までは遡れる。(下記⑤参照) 観音寺・琴弾八幡への太鼓台奉納順等の祭に関する諸事情からは、明治12年よりも更に少なくとも一世代(50年前後、下記①の1809文化6年頃まで)程度は遡ることとなりそうである。それ故に、この太鼓の胴内記録が判明すれば、観音寺にとっても近隣を含む太鼓台文化圏全体にとっても、歴史の確実性が担保されてくる。因みに、観音寺本若太鼓台に関する確認できた歴史の一端を、何らかのご参考になればと念じ次に添付しました。

①1809年(文化6) ‥近年になり「ちょうさ太鼓」ができたことが記録に残る。(琴弾八幡宮への奉納太鼓台では、現時点の確実な最も古い記録。現在の奉納順3号酒太鼓=殿町太鼓台を比定している)

②1823年(文政6) ‥蒲団下の装飾材・雲板を収納した「雲板箱」が現存する。(箱の規模からして、四分割された雲板であったと思われる)

③1845年(弘化2) ‥金糸製の注連縄4本を収納していた「本金糸注連縄・四筋」保管箱が現存する。(大阪へ行き買い求めている)

④1872年(明治5)‥三郷(坂本郷・柞田郷・高屋郷)代表者の協議の結果、今後の御大祭は観音寺村氏子のみで執行することとなった。(観音寺村は坂本郷の内にあり、坂本郷は観音寺村・植田村・出柞村から成っていた)

⑤1879年(明治12)‥本若太鼓台で使われていた掛蒲団収納箱が、明治43年製の掛蒲団・蒲団〆・水引幕と一緒に、転々売先の豊中町(観音寺→大野原→豊中)で保管されていた。(箱の底に「明治拾弐年 卯旧八月吉日 本太皷 南本若」と記載)

⑥1885年(明治18)‥三架橋が三架の太鼓橋から平面橋へ架け替えられた。この頃から、太鼓台が三架橋を通り、十王堂(御旅所、神事場じんじば)への宮入及び宮出しをするようになった。それ以前は、旧暦8月15日の一日だけ、大潮の朝・夕の干潮時に、干上がった川の中を、太鼓台を担いで宮入・宮出しを行っていた。現在唄われている〝農兵節〟や特徴ある〝掛声・太鼓の叩き方〟は、古老より〝太鼓台が川を渡っていた時代の名残り〟と聞いた。(町側の川降り場所は今の裁判所の前辺りで、石畳が扇状に広がっていた。神事場への登り口は、手水舎下の海岸で、裁判所前と同様の石畳が敷かれていた。当時、煉瓦橋はまだ無かった‥下記⑪項参照‥ため、財田川を斜めに横切るように渡った)太鼓台の奉納は15日の一日だけで、14日は観音寺の町を東西に、各太鼓台は町勤めを行った。勿論この時代は、終日ゴマを付けずに太鼓台を担いで行き来していた。

下の写真は、観音寺祭の太鼓台と関連が深い三架橋の歴史を振り返った古写真群。(色々な展示の際に、ちゃっかり撮影させていただいた。著作権等の問題もあるとは思うが、どうかご容赦のほどを) 三架橋が平面橋になるまで、太鼓台は通行できなかった。現在の三架橋を進むのは、伊吹島・東部太鼓台で、観音寺市市政50周年ちょうさまつり(2005.3.27・H17)の折のもの。

下段の画像は、最初のモノクロが元禄11年(1698)頃の財田川河口付近で、現在の町並みの多くは海中にある。当然ながら、太鼓台は無かった。2枚目のカラーは、大正3年(1914)頃の商工案内図であり、煉瓦橋が大正元年(1912)に架かり、太鼓台は三架橋を通っていた。太鼓台が川渡りをしていた明治中期頃の適当な地図が見当たらなかったので、本図を参考添付した。なお、琴弾八幡・神事場への上り口の場所は、一番最初の図(大きな太鼓橋であった図)の左端下、堤防らしきが切れている箇所辺りと思われる。後日、付記 御旅所・十王堂への川からの太鼓台昇降場所については、最後の2枚の画像(1枚目・雪の三架橋、大鳥居が見えることから昭和5年~10年の間の写真)の、橋の左手に雪のなだらかな坂となっている辺り(『金毘羅参詣図会』では「梅腋(脇)ノ濱・2枚目」と書かれている)がそうではないかと思われる。この当時まで、明治18年頃の光景が見られていたのだろうか。2022.10.27追記 明治初期のものではないかと思われる財田川~琴弾公園の手書き土地利用図が出てきました。(残念ながら、いつ頃にどこが作成したものかは不明です。同時に画像が小さくて判読不明な文字等が多々あります。小さな画像で判りにくいと思いますが参考添付します)この略地図には、「梅腋(脇)ノ濱」と思われる三架橋西側の石垣の欠けた部分が描かれています。また、その浜から左斜め下へ、川中を何やら〝川中の道〟らしきものが描かれています。まさか、これが干潮時に〝太鼓台が通った道〟だとは思いませんが、いかがでしょうか?(最後の画像。どうやらこの道と思しき痕跡は、図面を貼り合わせたあとと思われます)

 

※太鼓台が川渡りをしていた旧暦8月15日は、今年は2021.9.21でした。参考までに観音寺港での潮汐表と、午後6時過ぎの写真(仲秋の満月は曇って見えませんでした)を添付します。(数日前の台風の影響で、水が濁り少し水量も多いと感じた)  

後日、付記 a.「琴弾宮旧記」(『琴弾八幡宮流記』362P)によれば、<御祭礼往古より八月十五日恒例に有之候處、明治7年(11874)より太陽暦十月六日規則となる>とあり、祭礼日の変更が為されたようである。今年の10月6日の潮時を見てみると、旧暦の8月15日とそれほど変わってはいない。(3枚目の画像) 観音寺祭の場合には、少なくとも三架橋が平面橋となる明治18年(1879)までは、染川(財田川)の川渡りで十王堂へ行ったので、果たして新暦で行ったのか、それとも旧暦をしばらく続けたのだろうか。わずか百年余り前のことが、この如く不明である。 

 

b.大正11年(1922)頃の観音寺町の航空写真(コマ撮りした画像を貼り合わせて1枚の集成写真としたもの)が、ふるさと学芸館(観音寺市大野原町・旧紀伊小学校跡)に展示されていましたので、コピーさせていただいたものを紹介します。

⑦太鼓台は祭礼の時だけでなく、紋日や祝祭日にも出されていた。特に明治天皇の時代には、かなり多く出されていた。(古老の談) そう言えば、上記の写真(伊吹島の太鼓台が三架橋を渡っている手前の昭和3年の御大典の折の写真)を拡大してみると、太鼓台の蒲団とトンボが写っているようにも見える。(手水舎の向こう側と、その左側)

⑧1890年(明治23)‥この頃、近隣太鼓台の豪華刺繍の発展に大きく寄与した琴平の縫屋工房〝松里庵・髙木家〟が、西讃・東予地方の太鼓台隆盛に伴い、海上交通の便が良い観音寺へ工房移転してきた。(これにより、更に西讃・東予地方太鼓台の豪華に拍車がかかった)

⑨1909年(明治42)‥観音寺祭で太鼓台のゴマ(台車)が初めて使われた。(当時を知る古老からの聞き取りによる) それまでは、全て人力で担ぎ、移動していた。(台車が使われ、長距離の移動を苦にしなくてよくなったため、これ以降は、太鼓台の大型化に拍車がかかる)

⑩1910年(明治43)‥上記⑤関連‥2号の本若太鼓台(本太鼓)が造り替えられた。先代明治12年製に比べ、大幅に大きく、刺繍も肉厚になった。明治43年の太鼓台は、その後、⑤のように各所へ伝えられ、昭和52年当時の太鼓台写真が遺されている。(前2枚の写真、S52.10撮影) 続く虎の蒲団〆と記念撮影の写真は昭和9年(1934)製のもので、明治43年製の太鼓台と見比べると、昭和9年の新調に立ち会った古老が語ってくれたように「前のちょうさと寸分の違いなく造られた」のがよく理解できる。(昭和9年時の蒲団〆では、虎につきものの竹は、転売時に取り除かれている)

なお件の古老からは、観音寺祭の太鼓台は、明治42年頃までは〝台車(ゴマ)を付けずに、全て肩で担いだ〟と伝えられているので、この明治43年の拵え直しの太鼓台は、それまでの小型から、大型に変化・発展した〝先駆け〟的存在であったのかも知れない。

⑪1912年(大正元)‥煉瓦会社への物資運搬のため、三架橋の下流に煉瓦橋が新たに架橋された。(小学生だった65年ほど前‥昭和32、3年1958‥頃には、まだ粘土を一杯積んだ馬車が煉瓦橋を通っていた。子供たちが、悪ふざけで後方にぶら下がり、よく叱られたのを思い出す)

⑫1913年(大正2) ‥ 神事場の造成が行われ、6台の太鼓台(酒・本・中・坂本・上若・柳)が、〝石一艘・石一舩〟を寄進した。(石碑が残る)

十王堂広場の南面石垣には、太鼓台名が彫られた石(西側から、酒・本、中、坂本・上若、柳の6台)が埋め込まれている。また、近年まで十王堂内に建っていた十王堂造成時の石碑は、現在は玉垣の外(手水舎の外側近く)に移されていて、碑文には「舟(周)旋人」「大正二年十月建之」と、神事場造成の年を記録している。これらの石碑等からは、今から百年余り前の大正2年(1913)時点では「太鼓台奉納は6台」であったことが知れる。その後、柳太皷台が消滅し(その面影の一部は残存している)、南太鼓台・上市太鼓台が奉納参加し、長らく〝七つ太鼓〟として観音寺祭を華やかにそして勇壮に彩ってきた。平成になって茂木と社家の太鼓台が新たに奉納参加し、現在は9台となっている。

⑬そ の 他     ‥ 3号・酒太鼓台で使用されていた古いゴマが現存している。(琴弾公園内の郷土資料館にて展示中)

2.四国各地の主な太鼓台記録等

①1789年(寛政元)‥[大野原]〝ちょうさ太鼓〟 [伊予三島]〝神輿太鼓〟(それぞれ、現時点では四国地方での最も古い記録)

②1795年(寛政7) ‥[徳島県美波町日和佐]〝みこしたいこ〟

③1805年(文化2) ‥[伊吹島・東部] 島の3台の太鼓台で、西部に次いで古い。「蒲団枠保管箱」が現存する。(蒲団枠は四分割型、箱には、大坂の〝永代濱〟が記載されている)

④1806年(文化3) ‥[川之江]〝神輿太鼓〟が5台、川之江八幡宮へ奉納された。

⑤1808年(文化5) ‥[伊吹島] 最初にできたと伝わる西部太鼓台の拵え直しがあった。(最初の太鼓台の誕生は、これよりも40~50年前か?)

⑥1809年(文化6) ‥[観音寺] 近年に登場していた〝ちょうさ太鼓〟が、子供ちょうさと共に初めて記録された。

⑦1812年(文化9) ‥[小豆島・池田祭] 奉納絵馬が伝えられている。色違いの薄い3畳蒲団の太鼓台が5台描かれている。

⑧1813年(文化10)‥[琴平]〝輿太鼓〟4台が奉納されている。

⑨1822年(文政5) ‥[新居浜]での、初めての太鼓台記録。

⑩1839年(天保4) ‥[新居大島]中之町太鼓台「太鼓入用帳」 [伊吹島]南部太鼓台「太鼓帳」、共に太鼓台新調の記録。

⑪1858年(安政5) ‥[三好市山城町]大月太鼓台の蒲団の最上部に雲形紋の刺繍があり、その裏に年号が記載されている。

⑫1835年(天保6頃)‥[西条] 西条祭を描いた絵巻物2巻が伝承されている。みこし4台(蒲団を積んだただんじり)と、だんじり等が多数描かれている。

⑬1875年(明治8) ‥[詫間]〝明治期の基準太鼓台〟と目される箱浦屋台(太鼓台)が、完全なカタチで県立ミュージアムへ寄贈されている。

3.小さかった〝昔の太鼓台〟

江戸時代後期から明治前期(1790年頃~1890年頃)にかけて、この地方の太鼓台は、現在の太鼓台と比べると高さで約1m以上も低く、かき棒も細く短かったため、当然重量も軽いものであった。明治10年(1877)前後に、新居浜から広島県大崎下島の大長へ伝えられた2台の太鼓台は、幕末から明治初期に四国で造られた太鼓台。(そこで用いられた刺繍は、縫工房〝松里庵・髙木家〟の技法に酷似していた。松里庵3代目の髙木一彦師は、大長へは昭和53年に同道にて調査され、能地の古刺繍は後日実見された) 後年、その内の1台が、三原市幸崎町能地へ転売されたが、〝能地で飾られていた龍の古い蒲団〆は、大正末期頃に和田先(和田or和田浜のことで、現在の観音寺市豊浜町に相当する)で使われなくなっていた古物であった〟と、能地・地元の『豊田郡佐江崎村誌』に書かれている。2台(能地と大長)の太鼓台の高さは3m弱で、西讃・東予地方の〝明治期の基準太鼓台〟といわれる明治8年の詫間町・箱浦屋台で約3.2mであった。全高4m(トンボを除く)を超す現在と比べると、一回り以上小さく、当然のことながら軽量であった。(写真は、造られた時代の早い順に、左から三原市幸崎町能地の〝ふとんだんじり〟・呉市豊町大長の〝櫓〟・詫間町箱浦の〝屋台〟)

観音寺祭でも、太鼓台が三架橋が通行できなくて財田川を渡っていた明治18年以前には、恐らくこれらと同様規模の太鼓台であったと思われる。箱浦屋台の中央の舁棒で、現在のこの地方一般の13.5mに比べ、約9mしかなく、近年の太鼓台大型化までは、どの太鼓台の舁棒ともかなり細かったので、総重量は現在に比べ、半分にも満たなかったのではないかと思う。(現在の大型の太鼓台重量≒2.8t~3.2t)

4.太鼓台の広がりと、太鼓台の種類及び発展について

「どのような太鼓台が、どこに、どのように分布しているのか」については、近年までほとんど知られていなかった。その理由は、太鼓台文化に関する情報量の絶対的な不足や、研究者の少なかったこと等が挙げられる。①太鼓台にはさまざまなカタチがあり、②地方毎に呼び名が異なり(ちょうさ・だんじり・やっさ・せんだいろく・四つ太鼓・やぐら・こっこでしょ等)、③各地それぞれが〝自地区の太鼓台が一番〟との排他性を持つことが多く、その結果として④太鼓台文化は〝各地が関連し合う一括りの同じ文化〟との理解や共通の認識が得られず、残念ながら、伝統文化・太鼓台全体としての歴史解明が遅れたものと考えられる。

太鼓台文化に関するこれまでの状況がこのようであったため、太鼓台にはどのようなカタチや種類があるのか、また各地同士の関連や、太鼓台が時代と共に発展してきた状況等に関しても、よく分からず、なかなか文化の全体像が理解できなかった。上図の分布概要や発展想定図は、私自身が各地の太鼓台を実見したり問い合わせする中でまとめたもので、決して我田引水とならないよう、特に客観性と公平性には留意して作成している。

5.人口減少・超高齢化社会の厳しい現実に、〝伝統文化・太鼓台は、立ち向かう〟ことができるのか

新調すれば1台が数千万円もする太鼓台を、120台近くも有している地方都市は、太鼓台文化圏の中でも観音寺市しかない。厳しい人口減少や超高齢化社会到来が間近に迫るこの時代に、私たちは、困難とも言える「地域社会の存続」と「伝統文化の継承・発展」の両方に立ち向かい、ふるさとを奮起させ、乗り越えて行く必要に迫られている。子供や若者が減り高齢者主体のコミュニティーとなっても、大切な地域と太鼓台文化とを、見事に後世へ申し送りたいと思う。その方策はあるのか、一緒に考えていかなければならない。

先人から受け継いできた太鼓台文化に誇りを持ち、この文化を通じて地域を活性化し、住みやすいコミュニティ作りを成し遂げること。他方で、広大な太鼓台文化圏のトップランナーとして、社会や文化圏全域に積極的な関わりや貢献をし、各地から多くのリピーターを得て、好感を寄せていただける観音寺市となること。このような広角的とも言える、内と外からの思考目線は、常に身近にあり誇りとしている伝統文化・太鼓台を抜きにしては、到底考えることはできない。

私たちの身近には、「いつも、太鼓台がある」のです。その意味するところは、太鼓台を支えている市内全域の多くの人々にとっては、〝太鼓台につながる努力や苦労であれば、少々困難が伴っても力を合わせ、案外容易に取り組むことができ、パワーも発揮できる〟という日常茶飯の体験を日頃から有し、太鼓台文化をきっかけにするのであれば、取り掛かり易いということを意味しています。即ち、太鼓台を通じてならば〝コミュニティを活性化することも可能であり、好感や尊敬が寄せられる観音寺に変身することも可能である〟という、私たちがこれまで殆ど気付かなかった〝伝統文化・太鼓台の活用〟を通して、「身近な太鼓台文化の効用」を、大きく感じることができるのです。(この間の具体的活用例については、[太鼓台文化を仲立ちとした、「貢献・信頼・交流」のキャッチボールを!]をご参照ください)

文化遺産として、先祖から大切に受け継がれている120台近くの太鼓台に対し、私たちは真剣に向き合っていくことが必要だと思います。コミュニティやふるさとの存続が〝どうにもならなくなってしまってからでは、遅い〟のです。お互いが、〝太鼓台とならば、私たちはここまで出来るのだ〟ということを信じあい、「私たちと太鼓台文化との関わり方のあるべき姿」に、もっともっと楽しく真剣に向き合いたいものです。

最後に、近隣各地の太鼓台分布状況を示しておきます。このグラフは、〝1台の大人用太鼓台を、男女を問わず赤ちゃんからお年寄りまで、何人が関わって維持・運営しているか〟を示しています。市域全体の平均では、1台の太鼓台を500人足らずで守り伝えていることになり、これは驚くべき数字です。以前から叫ばれている〝元気印の太鼓台(文化)を活性化の中心〟据え、今一度太鼓台文化を見直し、人口減少や超高齢化社会の厳しい時代到来の、市やコミュニティの活性化に、市民総出で取り組みたいものです。

(終)   

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太鼓台文化、事始め

2021年09月04日 | 随想

最初は‥

1948年(昭23)生まれの私は、子供の頃から豪華な〝蒲団型太鼓台〟の中で育った。1973年(昭48)に転勤で郷里・観音寺から離れて、隣県の愛媛県松山市に移り住んだ。そこで初めて他地方の〝太鼓台たち〟を、あるイベント(1975.10愛媛のまつり)で見たことが、太鼓台文化と関わることにつながった。見た太鼓台たちとは、佐田岬半島・突端の西宇和郡三崎町の屋根型太鼓台・四つ太鼓、伊予灘に面した北宇和郡長浜町櫛生(くしゅう)の蒲団型太鼓台・四つ太鼓、燧灘の工業都市である新居浜市の蒲団型太鼓台・ちょうさの3台であった。新居浜のちょうさは、大きさといい豪華さといい、故郷・観音寺のちょうさとよく似ていた。三崎町の四つ太鼓と櫛生の四つ太鼓は、共に初めて目にするカタチであり、見慣れない簡素な外観に、強烈なカルチャーショックを受けたことを、今も鮮烈に思い出す。

〝これが、太鼓台なのか〟太鼓台と言っても、参加していた各地は三様で、台(中央の櫓組部分)に垂直に積み込まれた大きな長胴太鼓は三者同様であったが、その他は素人目にも規模や装飾の面で明らかに差があり異なっていた。イベントでは、最も大きく華やかだった新居浜のちょうさにはほとんど見向きもせず、簡素で小型の2台の四つ太鼓にくぎ付けとなり、その後ろを歩く羽目となった。その折の〝なぜ? これらが、太鼓台の仲間?〟という気持ちが、その後の「太鼓台のルーツを知りたい、自分たちの文化を深く理解したい」との、今に続くライフワークにつながったと思う。意のままに進まないことや幾度ものスランプも経験したが、ささやかにではあるが、何とか今日までこの道を継続することができた。

幸いなことに、愛媛県立図書館が勤め先の近くにあり、太鼓台に関する情報集めには〝最適〟であった。実は〝最適であった、はず〟の表現が最も的を得ていた。イベント見学後、憑りつかれたように愛媛県下の太鼓台に関する情報集めを試みたが、当時では、各市町村の民俗誌や郷土誌等を調べても、太鼓台に関する記述や写真等を、ほとんど目にすることは出来なかった。辛うじて目に留まった小さな記事に出会うと、すぐに電話や書面での問い合わせを行い、徐々に調査の手を広げて行った。最初は愛媛県下の情報集めから、それが四国の他の3県や中国・九州・近畿地方など、西日本・瀬戸内一円に広まって行った。

写真との縁

写真はイベント見学後に、初めて我流で始めた。それまではカメラや写真とは全く縁がなかった。上述の情報集めをする中で、〝これだけアンテナを張って太鼓台の写真を探したが、満足のいく写真には出会えなかった〟ことが、遅咲きの写真との関り理由であった。これからは〝視覚で伝える〟ことを、絶対に重視しなければならない。写真術の習得は、そのための自分に課せられた責務であると心に決め、取り組んで来たように思う。時代の流れで、写真はフィルムからデジタルへと完全に様変わりした。かってのように試行錯誤して現像をすることもなく、長時間暗室に籠っての引き延ばし作業も、A4までの小さな写真ならパソコン印刷がやってくれるようになった。若い頃には、いっぱしのカメラマンらしく、重い機材を大きなバックに詰め込んで出歩いたものだった。今は、軽量の小型デジカメがメインの取材カメラとなった。ただ、得たい瞬間を切り撮るスチール写真に思い入れが強く、動画撮影や近年のスマホでの撮影は自分の性に合わないのか、未だに未体験のままである。

見学した先々

各地太鼓台の実地見学は、イベントのあった75年頃からスタートした。最初は愛媛県下が主であった。宇和島から南の南予地方へは大いに通った。島嶼部にもよく通った。愛媛県下には実にさまざまな種類や規模の異なる太鼓台が伝承されていて、一通りの太鼓台分類(櫓型・四本柱型・平天井型・屋根型・蒲団型の太鼓台分類)が、自分の中で理解できるようになった。このことは後の各地見学の際にも大いに役立ち、〝分類の基準を持っている〟という自信めいたものが、各地見学の際にも物おじせず、〝より、深く探求したい〟姿勢を後押ししてくれたように思う。

太鼓台文化探求の分岐点となった太鼓台見学は、何カ所かある。これまでの自分の探求姿勢としては、簡素・素朴な太鼓台中心の〝数珠つなぎ的見学〟であったと思う。〝太鼓台分類の基準を持っている〟という小さな自信が、土地不慣れな見学地でも、不思議と平常心で接することができた。後の各地太鼓台に対しても、このささやかな太鼓台分類を通して〝各地の太鼓台は、その根っこは同じ。だから、同じ仲間同士〟へと変わっていった。太鼓台文化圏の各地同士が、単独ではなくそれぞれ関連しあって、近隣各地で影響し合い、広まり、発展していったことが確かな実感となっていった。次々と数珠つなぎ的に関連し合う太鼓台が待ち受けていたように思う。

分岐点となった見学太鼓台の例を挙げると、①南予地方の四つ太鼓ややぐら(様々なカタチに面食らった) ②佐田岬半島域の四つ太鼓(屋根型よりも蒲団型に出会ったことが大きかった) ③丹後半島域のだんじり ④種子島の太鼓山(鉢巻=蒲団?) ⑤隠岐の島のだんじり舞(ここにもあった!) ⑥紀伊半島・三重県熊野市のヨイヤ(枠蒲団型のルーツ?) ⑦長崎くんちのコッコデショ(間違いなく日本一!)、などが浮かんでくる。南予地方は、太鼓台文化探求のスタート点。佐田岬半島域は、鉢巻蒲団型太鼓台の宝庫。丹後半島域は日本海側分布の北限で、遠く佐田岬半島の太鼓台ともつながっている。種子島では、蒲団型太鼓台のルーツとも言える大きな鉢巻に接することができた。隠岐の島・宇屋のだんじり舞は、太鼓台の中でも簡素・素朴の最右翼で、太鼓台の誕生時を彷彿とさせてくれた。太鼓台文化圏の本州南端にある熊野市では、比較的発展した太鼓台でありながら、構造の面から各地との関連を大いに偲ぶことができた。椛島町コッコデショに接したときは、身震いするほどの感動に襲われた。伝統といい、担ぎといい、現時点では間違いなく〝太鼓台文化圏ナンバーワン〟の存在である。

太鼓台文化の現在位置

2枚目と3枚目の「太鼓台の発展概要図」の違いは、私自身の最近の見直しによるものであり、現在では3枚目の考え方へと移行している。即ち、従来は「平天井型」から、一つは「蒲団型」へ、もう一方は「屋根型」へ、ストレートに移行したものと考えていた。しかし、「平天井型」の次の段階には、平天井の上に〝布地よりも厚い、薄い座蒲団状〟を載せている太鼓台(1畳蒲団型)や、〝丸い鉢巻状の飾り〟を載せている太鼓台(1本鉢巻型)があり、これらの形態は、平天井型とも蒲団型とも分類できない中間的な形態で、次の「蒲団型へ発展する過渡期的形態ではないかと考えるに至った。そのため、「平天井型」と「蒲団型」との間に「前期蒲団型」として区分を設けたものである。(この項、2022.8.11追記)

〝体験人口2,300万人、分布地は西日本一円〟というのが、太鼓台と共に暮らす私たちの現在位置である。体験人口とは、太鼓台運行や見物する人々、更には各メディアからの情報を容易に得ることのできる〝太鼓台所在地の近隣又は同一府県〟を含んでいる。分布地の西日本一円というのは、その名の通り分布の濃淡はあるけれども、西日本の滋賀県~三重県を結ぶライン以西の西日本に分布している。(近代になって西日本の太鼓台が中部地方や北海道へ伝えられた例も、一・二例ある)

上記の広範囲な分布・体験状況に反し、我が国における太鼓台文化に対する認知度は、残念ながら甚だ低いと言わざるを得ない。各地の太鼓台文化を徐々に理解していく過程で、この文化には〝中央の研究者が少ない〟ことも朧げに分かってきた。伝統文化・太鼓台は、残念ながら単一の伝統文化としては〝認知されにくかった〟ことも、種類の多さ・太鼓台発展の幅の大きさ・分布域の広大さなどから、致し方が無かったのかな、とも思う。ただ文化圏の各地には、地道に研究や活動を続けられている多くの方々がいる。太鼓台文化の研究を一元的に集約し、その進展の道筋を客観的・合理的に指し示し、外に向かって発信していく〝太鼓台文化学会〟的な組織の必要性を、強く感じている。

上表は、私自身のこれまでの太鼓台文化遍歴を、➀研究スタート当初の目標 ➁その次の装飾刺繍の発展を学ぶこと 更に➂これからのしくなる時代を見据えた〝太鼓台文化と、どう向き合い、付き合っていくべきかを整理したものである。(この項、2022.8.13追記)

(終)

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太鼓台文化を仲立ちとした、「貢献・信頼・交流」のキャッチボールを!

2021年01月26日 | 随想

以下の画像は、2020.11.1「讃岐獅子舞シンポジウム」のパネリストとして発表した際のプロジェクタ画像です。

①㌻から㉓㌻まで23枚あります。順を追って眺めていただければ、表題に掲げた〝太鼓台文化を仲立ちとした、「貢献・信頼・交流」のキャッチボールを〟の意味合いがご理解いただけるものと思います。なお、主なページの概要を下記に付記いたしますので、ご参考ください。

②③→近未来における〝厳しい人口減少の予測〟の中、伝統文化(太鼓台)でコミュニティーや郷土を活性化できないか。 ⑤~⑦→太鼓台分布の現状理解と発展過程 ⑧~⑰→大型・豪華太鼓台の地方として、歴史を追体験できる発展途上の貴重な太鼓台を数例紹介している。 ⑱→太鼓台の二極化について、発展過程の表を用いて、その分岐点を示した。 ⑲→「貢献・信頼・交流」のキャッチボールを図式化した。 ⑳→文化圏と郷土に対する課題点を洗い出す。 ㉑→太鼓台を活かす「積極的思考」を、<地域>と<行政>の双方から熟考してみた。

 

これらの中から、㉑㌻の画像が当日発表のキモとなっていますので、若干の補足説明をさせていただきます。

地域の全ての老若男女に愛されてやまない「伝統文化・太鼓台」を、もっともっと身近な存在として〝郷土の活性化〟に活かすことができないか。二百年も続けてこれた文化であるからには、私たちの太鼓台への想いは、深く心の奥に刻み込まれているはず。しかし、じっと座して待っているだけでは、太鼓台の方から〝活性化エキス〟を持って訪れてはくれない。人間の私たちの側から〝行動力と積極的思考〟を巡らせて、実際の行動を我慢強く継続していかなければならないと思う。その〝積極的思考〟の例示が、㉑㌻である。

まず私たちの地域において人的にも面的にもとてつもなく広大に存在している太鼓台文化の〝郷土活性化・エキス〟は、黒枠で囲んだ「地域一丸運営」と「行政サイドの積極的な関り」の両輪に潜んでいると私は見ている。例示した両輪の各項目を、ブルーの矢印に沿って左から右、右から左へと検討を進めて行き、中央の赤枠文字の「貢献・信頼・交流のサイクルを回す」に帰結させ、私たちはそのサイクルを連続して回していく。私たちの郷土が、何がしかの「時間と工夫とお金」を投資してこれらの活動を継続していけば、広大な太鼓台文化圏各地との〝貢献・信頼・交流〟のサイクルが順調な軌道に乗るのではなかろうか。郷土と文化圏各地との関係は、歴史豊かな〝太鼓台文化〟によって固いきずなで結ばれる。太鼓台文化に内包する〝活性化エキス〟は、「郷土を含む太鼓台文化圏へ分け隔てなく、あまねく降り注ぐのではなかろうか」というのが、このページの本旨である。

それでは、左方の“今まで以上に「地域一丸運営」を推進するの取組み例に関して、左端から順に理解を深めます。

◦地域の中で、太鼓台ほど“年齢・性別・社会的及び経済的な階層を超越しているものは見当たらないように思う。太鼓台運営を、近未来の縮小社会を見据え〝現在の若者中心の運営から、老若男女の全ての世代が太鼓台の運営に関われるよう変革していく〟必要がありはしないか。これまでの時代のように、有り余る潤沢な人力や経済力は、もはや期待することが出来なくなるのではないか。

◦地域の中に、現役世代のパワーとお年寄りの活力を共存さすことが肝要である。お年寄りを大切にすることと、太鼓台文化を後世に伝承していくことは、全く別次元の話ではない。お年寄りたちはそれぞれのコミュニティーの大先輩である。お祭りの太鼓台を見つめる目の輝きを、私たちはよく知っている。太鼓台には“人を若返らせ、やる気を喚起するパワーが秘められている。お年寄りの活力は、文化伝承者である若者や子どもたちの、男女を問わない存在同様、地域にとっては大切な宝物である。

◦次代の後継者は子供たちである。太鼓台を若者たちだけの〝おもちゃ〟(私たちの文化圏では、「ちょうさは、大人のおもちゃ」などと揶揄してよく言われた)に貶めてはならない。全ての世代が地域の発展のため、伝統文化・太鼓台を後世へ守り伝えていくために、一致協力できる体制を子どもの頃から育んでいく必要がありはしないか。

◦自治会やそれを束ねる公民館エリアの65歳以上の高齢化率は、40%を超えている所が多くなってきた。人口も激減しつつある。特に本市のような小さな地方都市では、若者たちのコミュニティー離れが半端ではない。いつまでも高齢の方々たちだけにコミュニティーを任せきりにして、果たしてそれでよいのだろうか。太鼓台運営に力を発揮している若者たちの〝若い、斬新な活力〟が、地域にとっては喉から手が出るほど必要なのが、ちょうど今の変革の時代」ではなかろうか。組織的ほころびの見える地域のコミュニティー活動に、伝統文化継承に力を発揮できる若者たちの活力あるパワーを注ぎ込むことが出来たならば、地域は飛躍的に変わってくる。言うまでもなく、太鼓台を伝承していくことと地域の活性化は、このように深くつながっている。

◦これほど人々から愛着を込めて親しまれている太鼓台でありながら、その文化の中で暮らす私たちは、余りにも〝太鼓台のことを、知らなさ過ぎる〟のではないか。なぜ、自らが誇りとする文化に対して、分からないことを克服し、真理を探究し、そのことを周りの人々と共有しようとしないのか。伝統文化の継承に最も大切なものの一つとして、何事にも片寄ることのない客観性の高い〝太鼓台文化の歴史を理解すること〟が挙げられるのではなかろうか。ふるさと近郷のように、夥しい数の太鼓台が各地区に在り、なお且つ普遍的存在の文化であるからこそ、「地域総がかりでの、太鼓台文化に対する正確な知識の掘り起こしが、極めて大切である」と確信している。

◦他地域太鼓台と自地区太鼓台との良好な関係性を育んでいくことも、超高齢化社会が迫り来る今後は、ますます重要になってくる。現在においても、祭礼日の異なる地区同士の〝舁き夫の貸し・借り〟等は、既に各地区間で見受けられることながら、古くは江戸時代の古文書にも同様の地区間協力のことが書かれていて、近郷各地区の太鼓台運営には、さまざまな工夫のあったことが知られている。太鼓台文化を継承していく土地同士は、相互に助け合う協力体制を大切に維持していくことが肝要である。

次に、右方の行政サイドの「積極的な関り」を推進する”に関して、右端から眺めていきます。

◦ふるさと近郷の太鼓台文化エリアは、自他共に認める絢爛豪華を代表する地域である。そのような地域の中で、文化圏を代表して舵を取るべき行政は、一体どこなのか。その判断基準は人により異なるとは思うが、私は〝太鼓台を飾る豪華刺繍の故郷〟と位置付けられる市や町であるべきと考えている。なぜなら、中讃・西讃・東予及び西阿の太鼓台は、全国的な大局的観点から眺めても、飾られた刺繍に最大特徴があり、別名〝刺繍太鼓台〟と言っても過言ではないからである。また、〝太鼓台保有密度の高さも大きな理由である。勿論それらだけではなく、そこに住む市民には太鼓台文化に対する〝熱い思い入れ〟が求められると思う。該当する市や町の行政当局には、広大な文化圏のリーダーとしての気概を持ち、幾世代を経てもなお継承が続く自エリアの太鼓台文化(地域の象徴であり、宝物)を通じ、この文化圏の旗頭や調整役を買って出てもらいたい。

◦左方の〝地域一丸の運営〟の項でも触れているが、歴史豊かな太鼓台文化を大切なものとして伝承していくためには、地域の努力だけではなく、フォローやバックアップに努めるべき行政との密接な協力関係が欠かせない。未だに「太鼓台は祭祀に関係するから、行政は立ち入らない」と言うのであれば、地域崩壊が進行しつつある近未来、全くもってナンセンスのそしりを受け兼ねない。伝統文化を大切に守り伝えていくことこそ、文化行政の本旨ではなかろうか。

◦当該行政自らが〝太鼓台文化圏のリーダー〟としての立場を強く認識し、その活動を本気で取り組もうとするならば、先ずは太鼓台文化を比較的容易に発信しやすい事象から、果敢に取り組んでいくべきである。費用もそれほど掛からないインターネットでの情報発信を行っていくのがよいと思う。その際に注意すべき点は、発信する情報が、自らのエリアの太鼓台に都合の良い我田引水に用いるのではなく、各地が等距離となるような〝公正で客観的な視点〟に徹するという点である。より公正さと客観性が高く、より〝真理〟に近いネット発信は、これから先の各地との信頼関係構築に必須である。これは、太鼓台間で優劣をつけない、差別化しない、仲間意識を強固に発展していくための「基本姿勢」である。文化圏各地からの好感・期待感・信頼感等が得られないならば、文化圏全体としてのみならず、そこに住む私たち自身も〝前進〟することは期待できず、それまでもそれ以降も、全ての取り組みは水泡に帰す。

◦広大な文化圏各地を眺めても、〝そこへ行けば、一通りの太鼓台文化を学べる〟といった集中して学べる環境が、どこにもない。これはもう、〝太鼓台専門図書館〟の出番以外にないでしょう。「あの町の、あの場所へ行けば、太鼓台文化を学べる」場所の提供こそが、文化圏各地の人々には、魅力ある場所(聖地?)となるのではないでしょうか。関係図書の集積や、希少書籍等のコピー収集等についても、当該行政が実施すれば、信用度や責任の所在の高さからしても、私たち個人が行うよりも容易に進められる。

◦太鼓台文化解明に資する研究論文等を毎年継続して募集し、その成果をまとめ〝データーベース化していただきたい。これまでの文化圏では、一部に製本化した論及等もあるにはあったが、いずれも継続したものではなく、単発的・無系統の体裁に終わっている。太鼓台文化の客観的・継続的解明に関して、ここが他の伝統文化と比較すると、立場的に極めて弱いと思う。個々の研究者の論考を、若い研究者に提供することも、文化圏のリーダーとしての責務である。

◦ボランティア活動の計画・実施に関しては、私には強い思い入れがある。幸いなことに、私たちの近郷では〝太鼓台の廃絶や休止〟となる状況は、今のところ殆どない。しかし文化圏を見渡してみると、若者の減少や地域の高齢化など、或いは限界集落化などで伝統が途絶え、やむなく多くの太鼓台が消滅していった。その大部分の地域に伝えられていた太鼓台は、比較的中規模以下の大きさや簡素なたたずまいの太鼓台たちで、これらの太鼓台は、間違いなく巨大・豪華に発達した私たち近郷太鼓台の〝先輩格の太鼓台たち〟であった。残念にも私たちは、先輩格の太鼓台から〝客観的に学ぶことのできた多くの情報〟を失ってしまった。私たちが、もし消滅していった太鼓台たちを、この目で確かめ手で触れることが出来ていたとすれば、太鼓台文化の解明にも大いに役立てることが出来たかも知れない。廃絶や休止の危機にある太鼓台たちを救うため、もう少し早い時代にボランティア活動が出来ていたなら、と悔やまれて仕方ない。文化圏の舵取り役となる行政は、文化圏全域に目配りのできる〝太鼓台文化圏のリーダー〟であって欲しいと願う。

◦年代物の太鼓台文化遺産を定期的に展示して鑑賞できることは、大変意義深く大切なことだと思う。展示スペースや展示する品々は、例え狭く小さな小規模のものでも良いと思う。近郷のエリアに、どのような遺産が大切に伝えられているかを知ることだけでも、過去を知らないこのエリアの人々には、自分たちの太鼓台文化の移り変わりが理解でき、現在しか知らない若者たちにとっては、文化継承の大切さや再発見が感じられるものとなる。

◦貴重な文化遺産の散逸を防ぐため、エリア内の年代物の太鼓台文化遺産の収集・管理に努めて欲しい。遺してくれていれさえすれば、後の時代にも判明することが多々ある。無くなってしまえば、自エリアだけでなく、文化圏全体にとっても大きな損失であり、歴史や文化の解明はそこで止まってしまう。難しい問題だと思うが、その受け皿設置をぜひ模索し構築していただきたい。

◦他の伝統文化等との協力やコラボレーションも絶対に必要である。太鼓台同様、獅子舞やだんじりなどの伝統文化も、伝承や運営に危機感を持っている現状があるからだ。太鼓台文化とそれらの伝統文化の間の橋渡し役・調整役を意識することも、行政には大きな役割である。双方の伝統文化の間に立ち、連携して問題解決を推進していかなければならないと思う。

最後に、表・中央の“「貢献・信頼・交流」のサイクルを回す”の真意について、理解を深めていきます。

ここでの貢献とは、文化圏の各地から〝文化の先進地・舵取り役〟とみなされている私たちのエリアから、文化圏各地の太鼓台や人々に対して行う、さまざまな支援的行動を指している。それは、立ちいかなくなった太鼓台の復活支援であったり、専用図書館の開設などの学術的支援、年代物の文化遺産を紹介・展示すること等であったりの〝対価を求めないリーダーシップ〟を発揮する活動である。決して無理強いして押し付けたりするのではなく、それぞれ互いの行政の立場を尊重し、指導や調整を、文化圏全体が望ましい方向となるよう、貢献していくべきである。このような調整役は、〝太鼓台文化先進地の行政と、多数の太鼓台保有地域のコラボ〟でしか、務まらないと思う。

信頼とは、貢献する私たちのエリアに対して寄せられる、文化圏他地域からの期待を伴う良好な好意的感情である。但し、信頼を得ようとして、あからさまに貢献がましく振る舞うべきではない。自然体の貢献にこそ、地域間の良好な関係が構築でき、自然な信頼が生まれてくるものと思う。

そして、交流についてであるが、私たちの行政と私たちのコミュニティー及び文化圏各地をも巻き込んだ、「ごく自然体の貢献する姿勢」に対し、広大な文化圏の各地から、感謝を含む期待感や好感と共に、熱い信頼感が寄せられることだろう。私たちエリアからの地道な文化圏各地への継続した貢献姿勢に対し、各地からの私たちのエリアに対する期待感は飛躍的に高まり、ここに「貢献⇔信頼⇔交流」のループ的レールが構築され、そのサイクルが次から次へと廻っていく。文化圏各地からは、私たちのエリアを〝太鼓台文化のふるさと〟として、また、同じ太鼓台文化の仲間の住むエリアとして、親近感を抱く〝リピーター〟になっていただけるものと想像する。

このような飛躍したと思われ兼ねない「思考」は、決して絵空事のものではない。本表のごとく、太鼓台文化の先進地を自認する私たちの地域と行政が一丸となって、太鼓台文化圏各地と真剣にタイアップしていけば、人口減少・超少子後継かという厳しい近未来においても、地域コミュニティと伝統文化の双方・活性化が継承可能となるものと思われる。同時に、本表に見る左右それぞれからの〝飛躍的思考・大いなる挑戦〟は、私たちが永い間に培ってきた太鼓台文化(文化的地域資源)を通して、文化圏各地へ貢献できる〝またとないチャンス〟となるのではなかろうか。

私たちの地域が、その持てる「地域資源」を駆使して、厳しい今後を切り開いていける道筋は限られており、今がその時ではないかと推測している。地域全ての人々が一丸となれる「地域資源」の在る有難さを、私たちは実感し、果敢にこれからの厳しい時代を乗り越えて行かなければならない。

(終)

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